薄暗い部屋の中、大殿油(おおたなぶら)の光だけが、その部屋を温かく照らし、机の上の書物の文字を、鮮烈に浮かび上がらせている。
 呉羽は書物を読みふけりながら、舟をこいでいた。といっても、夢と現実の間を、ぼんやりとたゆたっていただけだが。
「呉羽」
 御簾(みす)越しに聞こえてきたその声に、呉羽はまどろみから覚めた。無論、博士の声だ。口元を拭って、返事をする。「は、はい。どうぞ」
 御簾を上げ、博士が入ってくる。普段は像のように表情を変えない彼が、今日はどこか疲れたような顔をしている。——何かあったのかな。
「お前、また市の方へ行っただろう。あれだけ行くなと言っているのに」
 あいかわらず、ばれていた。呉羽はただ、「ごめんなさい」とだけ言った。それと同時に、セキからの誘いを思い出した。
 ——博士に、話すべきだよね、きっと……。
 だが、『永夜の民』とはいえ、都の外から来たという男に、そうやすやすと呉羽を任せるだろうか。そう思うと、なかなか言い出せない。
「もうすぐ『月下祭』が始まる。『月下祭』には、都に住むすべての『永夜の民』が参加する。つまりそれだけ市の方には人も増えるんだ。これまでは大丈夫だったかもしれないが、人が多ければ、お前が『有夜の民』だと勘づく者もいるかもわからない。だから近づくな」
「……はい、博士」呉羽は、渋々といった様子で了承する。「というか、博士がお出かけして、一日中帰ってこなかったのって、『月下祭』に行ってたからだったんだね。知らなかった」
「……なぜ拗ねるように言うんだお前は。仕方がないだろう、『永夜の民』は、有無を言わさず強制参加なのだから」
 心底嫌そうだと、呉羽は感じた。感情なんて、とっくのむかしに無くなっているだろうに。
 ——わたしはむしろ、興味があるけれど。
 口に出そうものなら、本当に外に出られなくなりそうなので、心の中でとどめておく。
「……ああそうだ、これからしばらくは屋敷を出るな。山菜採りにもな」
「なっ、なんで! どうして……!」呉羽は立ち上がり、博士を問い詰める。市に行くなと言うのは、守るかどうかは置いておいて、理解できる。だが、山菜採りまで禁止するとは。これでは、ほとんど監禁だ。
「……ツキモノが出たらしい。最近は聞かなかったのに」
 ツキモノ。呉羽は、昼間見たあの靄と、セキの言葉を思い出し、自然と表情がこわばった。
 ——セキは、ツキモノを祓うと言っていた。
「ツキモノ……月の遺物」
 セキが教えてくれたことを、復唱する。結局、月の遺物が何なのか、未だによくわからない。
 博士は、目を見張る。
「なぜ、それを知っている?」
「……」呉羽はむっつりと押し黙る。黙ることしかできなかった。話すとしたら、セキからの誘いの話もしなければならなくなるからだ。
「まあ、あえて詮索はしないでおく。とにかく屋敷を出るな、大人しく写本でもしておけ」
「……そんなの、わたしには無理だよ」
 呉羽は、ついにそう言った。十六年間、ずっと思い続けてきたことだった。
「これ以上屋敷に籠ってたら、本当に黴が生えちゃうよ! なんでわたしは外に出たらいけないの。わたしが『有夜の民』だから?」
「知ったところでどうするんだ。お前が『有夜の民』である以上、虐げられて、蔑まれることには変わりないんだ。なぜわざわざ蔑まれに行くんだ。傷つきに行くんだ」
「感情のない博士には分からないんだよ! 博士はきっと、私が何回生まれ変わっても足りないぐらい、長い時を生きているんだろうし、これからも生き続けるんだろうけど、わたしにはこの瞬間しかないの! この数十年の時間しかないの! だから、自分らしく生きたいって、そう思うの!」
 目頭が熱くなって、何かを吐き出したくなるような衝動に任せて、呉羽は訴える。
「わたしはっ……分かり合えるって、信じているのよ……! どれだけ蔑まれても、いじめられても!」
 激しい口論、否、呉羽の一方的な告白の末、呉羽は裸足のまま、屋敷を飛び出した。博士からかけられる言葉は、ついになかった。



 月明かりがわずかしか届かない竹道を、呉羽は駆けていく。
 屋敷を飛び出した呉羽は、霜月の寒さも忘れて、ただただ走った。行き先がある訳でもない。何かに追いかけられているわけでもない。何が自身の原動力なのかもわからず、一心不乱に走り続ける。
 北風を切って、口のからこぼれる白い息も、空に浮かぶ、かつての故郷でさえも、すべて置き去りにする。坦々と続く竹林の景色も、吸い込まれるように後ろへと流れていく。
 暗い道を走り続けていると、自身の身体が、ゆっくりと夜の闇に溶け込み、透明になっていくような感覚になってゆく。この感覚は、市に行ったときに、蔑んだ言葉をかけられた時と似ている。誰にも自分の声や気持ちが届かない。まるで泡沫のように空気に溶けて、透明になったみたいに。
 いまのわたしは、きっとあの時と同じ感覚なんだ。呉羽はそう確信した。どうしたらいいのか分からない、心にぽっかりと穴が開いて、空っぽになってしまったような感覚。誰にも干渉されない代わりに、永遠の孤独感に苛まれる気持ち——
 その時、足がもつれた呉羽は、激しく転倒した。身体中を地面に擦り付けるようにして、その場に倒れこむ。しかし、呉羽はそれでも走るのをやめなかった。脇腹が激しく痛んでも、走らずにはいられなかった。
 ——しばらく走って、やっと開けた場所に出た。竹林内の、月明かりがよく入る場所だった。呉羽の目に入ったのは、大きな泉。その水は不思議な色をしていて、岸に近いところは空色だが、泉の中心部に近づくにつれ、夜空のような、とろみを帯びた深い紺色になっている。
 そこにたどり着いたとき、呉羽は胸が痺れるようだった。
 ——わあ、こんなに綺麗なところがあったなんて。
 その泉に、ゆっくりと近づく。そして、その水面に手を入れる。濡れているはずなのに、全く水に触れている感覚がない。不思議な水だった。
「……ああ、擦り傷だらけだ」
 月明かりに照らされたその場所で、呉羽はやっと自身の身体の容態に気づけた。膝や肘をはじめとする、身体のいたるところに、擦り傷ができており、血が滲んでいる。
 呉羽は泉に近づき、その水で傷口を洗う。濡れている感覚こそないが、血はしっかりと落ちているのだから、不思議なものだ。
 ——この水、飲めるのかな?
 呉羽は泉の水を凝視する。正直、気乗りしないが、冬の乾燥した空気の中を走った後なので、喉がからからだった。水を両手ですくいあげて、一気に飲み干した。触れても、濡れる感覚がないその水は、間違いなく呉羽の喉を潤した。
 呉羽は、白い息を吐く。走っていれば気にならなかったが、この時期の夜は、もう寒い。このまま凍えてしまいそうだ。
 その時、不意に烏の鳴き声とともに、黒い何かが呉羽の頭上高くを通過する。慈鳥だった。あんなに虐められた後だというのに、呉羽の頭上を悠々自適に飛んでいる。
「こんなところにまで‥‥‥」
 いま思えば、慈鳥は、いつでも呉羽のいるところに現れた。まるで、監視するように。
「なんでこんなところにいるのよっ!」
 慈鳥から視線を少し外すと、夜空に浮かぶ、月が浮かぶ。細い三日月。明日には新月になるだろう。
「月、綺麗‥‥‥」
 『永夜の民』の故郷、月。その光を悠然と浴び、呉羽の白髪は美しく輝いていた。
 呉羽は、力なくその場に膝をつき、ゆっくりと横になる。だんだんと、瞼が重くなっていく。肌に触れる空気は寒くて、凍えそうだというのに、否応なしに瞼は下がって、それと同時に、身体は地面に沈み込んでいくような気がする。そしてついには、泥のように眠りに落ちるのだった。



 満たされた月が、漆黒の空に鎮座している。だからだろうか、今夜はやけに明るい。
 博士は、竹林に通った道を歩きながら、空を見上げていた。
 ——あそこを離れて、いったいどのぐらいたつのだったか。
 少なくとも、二千年はたっているのだろう。時の流れというのは、恐ろしいほど速く進む。きっと、外の世界は、むかしよりもずっと様変わりしているだろう。——私たち『永夜の民』を置いて。
 もう少しで目的地が見えてくるという時だった。
 遠くから、叫び声のようなものが聞こえてきた。
「……いや、泣き声か?」
 また、俗世の人間が、赤ん坊を竹林に捨てたのだろうか。しかし、そんな考えはすぐに消え失せた。ここで赤ん坊の泣き声が聞こえるなんて、相当近くに——都の内部に近いところで捨てられただろう。俗世の人間が、わざわざここまで赤ん坊を捨てに来るとは考えづらかった。——じゃあ、いったいこの泣き声は……。
 不意に、頭上に一羽の鳥が現れ、そのまま旋回する。烏だった。
 博士は、一瞬たじろぐ。
 ——なぜ、こんな真夜中に烏が……。
 烏を凝視していると、急に方向を変え、赤ん坊の泣き声がする方へと飛んでいく。
「なっ、待て!」博士は、飛んでゆく烏を追いかけ走る。見失うかと思ったが、烏はこちらをちらちらと見ながら、博士に気を遣うように飛んでいる。
 ——導かれているのか? あの烏に。
 博士は烏を見失うまいと、道を走り抜け、ようやく、泣き声がする場所までたどり着いた。竹林内の、開けた場所。月明かりがよく入ってくるその場所に、大きな泉が鎮座している。
 その岸に、生まれたままの、衣類を全く身に着けていない状態の赤ん坊が捨てられていた。月の光のように輝く純白の髪が、銀糸のように輝く、美しい女子(おなご)だった。赤ん坊は、その小さな顔をめいっぱい歪ませて、大声で泣いていた。
 ——聞き間違えではなかったのか。
 博士は赤ん坊に近づき、その場にしゃがみ込む。赤ん坊は、未だに泣き止む気配を見せない。
 ——こいつは、いったいどこから来たんだ。
『永夜の民』が、ここまで来て捨てたのだろうか。いや、こんなところに捨てずとも、他に良い場所はいくらでもあろう。わざわざこんな都の外れまでくる理由がない。
 考えている最中も、赤ん坊は容赦なく泣きわめいている。
「……」いい加減、うるさくなってきた。博士は薄汚れた直垂(ひたたれ)を脱いで、それで赤ん坊をくるみ、かいなに抱いた。「寒かったのだろう。頼む、これで泣き止んでくれ」
 博士の願いがかなったのか、赤ん坊はぴたりと泣き止み、その双眸(そうぼう)を見せた。
 戦慄した。あまりの衝撃に、赤ん坊を落っことしそうになり、慌てて重心を腕の中に戻した。動悸が激しくなり、息苦しさが増してくる。
 ——まさか、まさか、こいつは‥‥‥!
 右目は薄花色、左目は薄桃色の、左右不揃いの瞳。
 それを見て思い当たる人物は、たったひとりだった。もう二千年もたつというのに、色褪せることのなく、博士の記憶に焼き付く、あの少女。
「お前、まさか……」
 博士の、信じられないもの見たような顔を見て、赤ん坊は一瞬きょとんとしたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、彼の顔に手を伸ばし、声を上げて笑っている。
 博士は、何かの糸が切れたように、深く息を吐いた。
「……私は——俺は、何をしているのだか」腕の中の赤ん坊を抱きなおして、慣れない手つきであやしてみる。赤ん坊はさらに笑う。
「そんなに笑って、私の顔に何かついているのか? しかし、よく見てみると、赤ん坊のくせに別嬪だな」
 ——まあ、言っても伝わらないか。
 やがて、泣き疲れたのか、赤ん坊の動きがしだいに鈍くなり、まぶたを閉じた。笑ったり泣いたり、そして次の瞬間には、眠って——本当に賑やかな赤ん坊だ。
「……帰るか」
 腕に抱かれた赤ん坊の寝息を聞きながら、博士はもと来た道を歩き出す。ここに来た本来の目的は、頭の片隅に多いやられ、もとの場所に戻ることはなかった。
 そんなふたりの頭上を、先ほどの烏が旋回していた。



 朝霧が漂う中、呉羽は目を覚ました。硬い地面で眠っていたが、不思議と身体は痛くなかった。
 昨晩、何があったのか。思い起こしてみて、やっと思い出した。
 ——そうだ、昨日博士と喧嘩して、それで……。
 呉羽は、泉に目を向ける。ここの水を飲んだ途端、急に眠気が襲ってきて、そのまま眠ったのだった。そして、妙に現実味のある夢を見て——そこからは思い出せない。
 ふと、腹のあたりにぬくもりを感じて、そちらに視線を向ける。呉羽の腹にもたれかかるようにして、慈鳥が羽休めをしていた。
「……」呉羽は、慈鳥を凝視する。昨晩、ここに来た時も慈鳥がいた。そもそも、慈鳥は、呉羽が物心つく前からずっと一緒にいたというし、夢の中にも出てきた。夢の中の烏、あれも慈鳥で間違いない。呉羽にはそんな確信があった。
「慈鳥。あなた、何者なの……?」
 慈鳥の黒瑪瑙のような瞳を、じっと見つめ続ける。もちろん、慈鳥からの返答はない。同じように見つめ返されるだけだった。それだけなのに、懐かしいような気持になるのはなぜだろうか。
 しばらくの間——実際は短い時間だったが——、お互いの瞳を見つめ続ける。
「おや、こんなところに座り込んで、何をしているんですか?」
 沈黙を破ったのは、ねっとりとした声音だった。慈鳥は、驚いたのか何なのか、その場から飛び去って行った。呉羽もびくりと体を震わせ、声がした方を見る。
「セ、セキ?」
 案の定と言うべきか、そこにはセキが立っていた。足音も、気配も全くなかった。本当に声をかけられるまで、その存在に気づけなかった。
 セキは呉羽に駆け寄ってきて、目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「くふふ、まさかこんな場所があるだなんて、知りませんでした」
 とっても美しい場所ですね、とセキは笑う。
「な、なんでこんなところにセキがいるの?」
「……さあ? しいて言うなら、昨日見逃したツキモノ探し、という名目の散歩ですね」セキは、存外あっけらかんと答えた。「この都には、帝都には無いものが——いえ、失われたものが数多くありますからね」
「へえ……」呉羽は興味深そうに答える。「何だか面白そうね」
 そこで、ぷつりと会話が途切れる。——間がもたない。何か話さなければ。
「あっ、そうだ!」沈黙を破ったのは呉羽だった。「今日から『月下祭』が始まるんだったわ。セキも一緒に行きましょうよ」
「『月下祭』? なんですか、それは」
 そうか、セキは都の外から来たのだったか。それなら知らなくて当然だ。
「四年に一度の『月の女神』のお祭りだよ! セキは運がいいね。四年に一度しかないお祭りがある日に都に来れたなんて」
「はあ、そうなのですか」
 セキの反応は、案外鈍い。やはり、『永夜の民』だからだろうか。それとも、博士のように、『月の女神』への信仰心が篤くないのか。
「もちろんセキも行くでしょう?」
 呉羽が期待を孕んだ視線を向けると、セキは目をしばたたかせる。「別にかまいませんが、なぜ行く前提なのですか?」
「なんでって……」呉羽は困惑する。「だって、『永夜の民』は強制参加なんだよ? ならセキも参加しないと」
「ほう」
 セキは、興味深そうにうなずく。
「とっても賑やかなお祭りよ! せっかくだし、セキも一緒に回りましょう。わたしの友達も紹介したいもの」
「友達……ですか」
「あっ……」呉羽は、思わず口をつぐむ。友達だなんて、『永夜の民』はそうそう使わない。
 ——いまの、『有夜の民』っぽかったかな……。
 不安になったが、セキは特に気にすることなく、「もし会えたら紹介してください」と言った。
「じゃあ、行ってくれるの?」
「はい。断る理由もありませんしね」
「やったあ!」
 呉羽は、嬉しさのあまり、勢い良く立ち上がった。セキは不思議そうな視線を向けていた。
「くふふ……、あなたはやはり不思議な人ですね」
 セキの小さな独り言は、嬉しさで浮かれている呉羽の耳には届かなかった。



『月下大社』の奥にある、御簾を垂らした先の局に、ひとりの女性がうつむいて座っている。
 長い黒髪を垂らしたまま、うつむく女性は、何を思っているのか、何かをぶつぶつとつぶやき続けている。
「『有夜の民』、『有夜の民』……一体どこにいるのだ」
 不意に、女性の顔にかかる影が濃くなる。
「早く探しださねばならぬ。手遅れになる前に……」
 女性は、つと立ち上がり、局の明かりを消していく。
 最後の明かりが消える直前、女性は不気味に微笑んでいた。