「……。……え?」
 ——都を出るって……。
 呉羽の解釈が間違っていなければ、駆け落ちしようと言っているようなものだ。出会って、まだ四半刻も経っていないというのに。
 セキの瞳は、こんな状況でもうつろで、何を考えているのか分からない。それこそ、木彫りの人形のように不動で、ある意味、神のようだと思える。でも、そこには、これまで会ってきた『永夜の民』とは違う、純粋さを感じる。
「……そんなに悩むことですか?」
 しばしの沈黙を破ったのは、セキのある意味非常識な一言だった。
「……はい?」
「だって、いやなら〝いや〟と言えばいいですし、いやではないのなら〝はい〟と答えればよいだけの話です。なのになぜ、そんなにも悩む必要があるのと……」
 セキの身勝手な言葉にかっとなり、呉羽は彼を力一杯押す。しかし、体幹がしっかりしているのか、セキはびくともしなかった。
「な、悩むに決まっているでしょう!? 出会ってまだ、一日もたってないのに……そんな重要なこと、決められないよ」
 そんなに急に都を出るなど。『永夜の民』ならともかく、呉羽は感情や思いのある『有夜の民』だ。
 それに、彼が『永夜の民』だとか、呉羽が『有夜の民』だとか関係なく。どこか胡乱(うろん)なこの男を、呉羽はまだ信用しきれていなかった。まあ、現状かなり難しいだろうが。
 しかし、セキはさらに分からないといったような顔をして、
「……重要って、別に夫婦(めおと)になるってわけでもないのに‥‥‥あっ、それも悪くありませんね」
 しん、とふたりの間に沈黙が下りる。しかし次の瞬間には、呉羽の真っ白な頬が一気に朱に染まる。
「そ、そういう問題じゃないもん! もうっ! やっぱりわかっていないじゃない!」
 と口走った。
 呉羽は息を吐いて、心を落ち着かせる。もしセキに、呉羽が『有夜の民』だということがばれてしまえば、どうなるか分からない。
 落ち着いて、ぼろを出さないようにしなければならない。といっても、もう手遅れかもしれないが。
「ふむ……確かに私は、何も分かっていないかもしれませんね。感受性豊かな人間に囲まれて生きてきましたが、しょせん私も『永夜の民』ですから。〝普通の〟の感覚は持ち合わせていません」
「セキ……」呉羽は、セキの手を取る。その手は異様に冷たい。やはり、『永夜の民』はまなざしだけではなく、身体まで冷たいのか。
 ——どうしてみんな、こうなってまで〝永遠〟を望むんだろう。
 そして、誰がそんな彼らを救うのだろうか。
 きっとこう考えてしまうのも、呉羽が、永遠を生きられない『有夜の民』ゆえなのだろう。
「……あなたの手は、私と違って温かいですねえ」
 セキは呉羽の手を握り返す。その力強さが、呉羽の心の底に幕を張っていた薄氷(はくひょう)を溶かし、雪解け水となって、呉羽の心から流れ出していく。
「ね、ねえ、セキ」
「はい、なんでしょう」
「……ど、どうしてわたしと都を出たいの? なんでわざわざこんなところまで来たの?」
 まずそこだった。なぜわざわざ人里離れたこんなところに、その帝都とやらから軍人が来るのか。この都は、周りは竹林に覆われている。ここに徒人(ただびと)が近づくのは、口減らしのために赤ん坊や老人を捨てる時ぐらいである。
「どうして、ですか……それはね——」
 セキの言葉を遮るように、ひとりの少女が大声を上げて駆け寄ってくるのが見えた。春だ。
「おっと、では、私はここで」
「ええっ!? ちょっ、ちょっと!」
 重要なことを離さずにここから去るつもりか。戸惑う呉羽に、セキは告げる。
「安心してください。あなたと都を出る意思は変わっていません」
 セキの青くうつろで純粋な瞳が、呉羽の左右不揃いの瞳をとらえる。
「また、会いましょうね。呉羽さん」
 それだけ言い残して、セキは家々の隙間に入り消えていった。それと入れ違うように、春が駆け寄ってきた。
 はあはあと肩で息をしつつ、
「呉羽ちゃん、さっき話してた人って誰?」
 と訊いてきた。
 その言葉に、呉羽は口ごもる。先ほどの男に「都の外に出よう」誘われていたとは、口が裂けても言えない。
「さ、さあ……? だ、誰だったんだろうなあ……」
 結局、誤魔化すことを選んだ呉羽だったが、あいかわらず曖昧な誤魔化し方だった。
「ふうん、呉羽ちゃんも知らない人かあ……」と、春は頭の後ろで手を組んで、どこかつまらなさそうな声色でしゃべる。『永夜の民』にしては、やはり彼女は、感受性が豊かだ。
「それよりも、なんでこんなところにいるの? 呉羽ちゃんの家ってこの辺りじゃないよね。迷子?」
「う、うん! ま、迷子なの! だ、だから、ここから道に出るまでの道を教えてほしいなって……」
 ——我ながら、いま回はうまく誤魔化せた。
 と、呉羽は思い、自画自賛した。
 春は呉羽の手をとって、
「わかった! じゃあ、一緒に行こっか」
 と言った。
「はーい、いいよ」
 呉羽の言葉に、春はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。普段、教えてもらってばかりの春が、呉羽にものを教えられるのが嬉しいのだろう。
 道中で、呉羽は春に訊ねる。
「ねえねえ春ちゃん。最近、市の方がすごくにぎやか何だけど、何か知ってる?」
 しばし考え込んだ後、春は「ああ、そういえば、ととが明日から『月下祭(げっかさい)』があるって言ってたなあ」と思い出したように言った。
「げっかさい……?」
 呉羽は首をかしげる。そんなもの、去年はあっただろうか。
「何かね、四年に一回あるお祭りなんだって。しかも、この都に住んでいる『永夜の民』は毎回強制参加らしいの。呉羽ちゃんは知ってるでしょう? あたしは全然覚えてないけど」
「あー……」呉羽は分かりやすく視線を逸らす。なにせ呉羽があの屋敷から抜け出し、市の方まで行くようになったのは、一年前なのだ。なので、その『月下祭』のことは露ほども知らない。
「何か、そんなのもあったような……無かったような」
 やはり、自分は誤魔化すのが壊滅的に下手だと、呉羽は改めて痛感した。本当に、この一年間、よく『有夜の民』だとばれなかったものだ。
「うーん……。まあ、四年に一回しかないもんね。忘れてもしょうがないか」
 春は、どうやら納得したらしい。
「ほら、あたしたちはまだましだけど、老いが止まった『永夜の民』って、時間の感覚もなくなるじゃない? だからこうやって、定期的にあたしたち『永夜の民』を集めて、『永夜の民』が『月の女神』に服従していることを示すんだって」
「ふ、服従……」呉羽はその言葉が引っ掛かった。それではまるで、『永夜の民』が『月の女神』の奴隷のようではないか。
「だから! この時期の『永夜の民』は、楽しそうに〝振る舞う〟んだってー!」
「……」呉羽は言葉が出なかった。——楽しそうに振る舞うって……。
 結局のところ、『永夜の民』は普通の感情など持ち合わせない、生きた屍なのだろう。そんなの、哀れ以外の何物でもない。この世界は、胸が高鳴るものであふれているというのに、それにすら心を動かされない、そもそも気づくことすらできないだなんて。
「……ねえ、呉羽ちゃん、聞いてるの?」
 ハッとして春の顔を見ると、どこか不満そうな顔をしていた。まあ、と言いつつも、『永夜の民』なので、大きく変化しているわけではないのだが。
「ご、ごめんね。ちょっと考えごとしてて」
「ふうん……まあいいや。もしお祭りで見かけたら、声かけるからね!」
「う、うん!」
 そうこう話すうちに、ふたりは元の道に戻っていた。
「ここまででいいよ。ありがとう」
「うん! じゃあ今度はお祭りの時ねーっ!」
 春は大きく手を振ってもと来た道に戻っていった。
 ——『月下祭』か。
 『永夜の民』が強制参加ならば、きっとセキも参加するだろう。きっと、そこでまた、彼に会える。
『……ねえ、私と一緒に都を出ましょう』
 先ほどのセキの言葉とねっとりとした声が、脳裏に張り付いて忘れられない。
 ——会えるのかなあ。
 口許を緩ませつつ、呉羽は帰路へ着いた。