空が、一点のくすみもなく晴れている。道の両側に鬱蒼と生える竹の葉は風によって揺れ、踏み慣らされた道に複雑な模様を形作っている。
 そんな竹道を、呉羽(くれは)は駆け足で通り過ぎていく。(よわい)十六歳の少女。ぱっと目が覚めるような白髪は、膝まで緩やかに波打っている。瞳は左右不揃いで、右目は薄花色(うすはないろ)、左目は薄桃色に染まっていて美しいが、微かな光と共に、妙な虚さを(たた)えている。桔梗麻の葉紋様の小袖は薄汚れていて、薄橙色の(しびら)を腰布で固定するという、現代では古風な装いである。
 呉羽が走った先に、見えてきたのは、こじんまりとした屋敷だった。古ぼけた竹塀で囲まれた屋敷は、手入れはされているようだが、時と共に劣化した部分は隠しきれておらず、半廃屋(はいおく)のような状態であった。だが、庭は美しく保たれており、池を囲むように梅が枝を伸ばしている。
 呉羽はごくりとつばを飲んで、屋敷の敷地内へ足を踏み入れる。そして、左右をしっかりと確認する。人っ子一人いやしない。本当に人が住んでいるのかすらも怪しいほど静かだ。
 呉羽はもの音をたてぬようにして、そっと、それでいて早足で、部屋の方へ向かう。部屋は向かって左側にある。足がもつれて転びそうになったが、気にしている場合ではない。
 ——あと少し、あと少し。
 そして縁側の踏み板に足をかけた、その時。
 不意に後ろで、烏の鳴き声が聞こえ、呉羽は足を滑らせた。
「わあっ!?」
 とっさにそばの柱を掴み、外側に移りかけていた重心を部屋の方に戻す。
「も、もうっ、なんなの?」早鐘を打つ鼓動を抑えつつ、呉羽は鳴き声がした方を見る。そこには、小柄な烏が一羽、梅の木にとまっていた。特に何の変哲もない烏だが、呉羽はそれが普通の烏ではないことがすぐにわかった。
 呉羽の友達の烏、慈鳥(じちょう)だった。
「じ、慈鳥……もうっ、あなたってば本当に悪戯好きの烏ね!」
「飼い主に似たんだろう。なあ、呉羽」
 背後から聞こえてきた声に、呉羽は肩をびくりと震わせる。おそるおそる後ろを振り返ると、そこには呉羽の予想通りの、そしていま一番会いたくなかった人がいた。
「は、博士……」
 呉羽は震える声で彼の名を呼んだ。齢十三歳ごろ。上半身には、呉羽と同じ桔梗麻の葉模様の直垂(ひたたれ)を着て、下半身には丈の短い、裾絞りの小袴(こばかま)を履いている。ざんばらんに切られた色素の薄い髪と表情からは、どこかこましゃくれた雰囲気が感じられるものの、同時に貫録までもがにじみ出ている。その瞳はどこかうつろで、冷たい。呉羽を見ているはずなのに、どこかもっと遠くを見ているような気がした。
 博士は、呉羽を一瞥(いちべつ)して、ため息をつく。
「呉羽、お前また市の方に行っていただろう。駄目だと何度言ったらわかるんだ。昔と比べてましにはなったとはいえ、いまだに『永夜(えいや)の民』は『有夜(ゆうや)の民』に厳しいからな。もし見つかりでもしたら——」
「ああ、もう! 分かってるよ!」呉羽は〝老人〟特有の長話が始まる前に話を早々に切り上げた。第一その話も、呉羽が物心ついた時から絶えずに聞かされてきた話だった。「『見つかりでもしたら、他の『永夜の民』に処刑されるかもしれない。『永夜の民』は自分たちをさんざん迫害してきた『有夜の民』への恨みを募らせているから』でしょう。分かってるわよ!」
「分かってるならなぜやるんだ、お前は……」
 博士の表情は変わらないが、声色からはかすかな呆れが垣間見えた。
「でも退屈だよ! ずっとずっと屋敷の中と、夜に山菜採りだけしかできないだなんて! 慈鳥もずっと一緒にいてくれるわけじゃないし、博士だって、ずっと籠って仕事ばっかりだし! このままじゃ(かび)が生えちゃうよ!」
「……仕方がないんだ。『有夜の民』であるお前には、こうやって生きてもらうしかないんだ」
 淡々と語る博士の表情には、何もない。ただただ"無"だった。だが、その声音は、沈痛ともいえるような空気を孕んでいた。呉羽は自分よりも頭ひとつ小さな博士に、何も言い返せなかった。
 そこに、先ほどまではなかった雲が、ふたりに黒い影を落とした。


 書斎で仕事をすると言って、博士は奥に引っ込んでしまった。
 ——悪いことしたなあ。
 呉羽は知っているのだ。博士が呉羽のことを想っていること、『永夜の民』——永遠の命を持つ者の規則を破りながら、『有夜の民』——永遠の命を持たない自分を世話してくれていることを。
 博士だけが、この世界で唯一自分を気にかけてくれる存在だということを。『有夜の民』だからと、蔑まないことを。
『永夜の民』は、もともとは『月の民』、つまりは月に住んでいた(あやかし)だ。それがいまから二千年ほど前に、地上に流刑されたらしい。都で『有夜の民』から迫害を受けて逃げて来ただとか、時の帝によって追放されただとか、いろいろな話があるが、結局のところ、誰も覚えてない。もしかしたら気まぐれにやってきて、住み着いただけかもしれない。
 なぜ、『永夜の民』が、『有夜の民』を忌み嫌っているのかは、呉羽もよくわからない。博士は、そのことについて口を割らなかったからだ。博士が教えてくれたのは、ばれたら殺される。ただそれだけだった。
 呉羽は自室の文机(ふづくえ)に突っ伏す。屋敷に軟禁されている呉羽が暇つぶしにできることは、写本(しゃほん)を作るか、博士の部屋から書物をくすねて読むぐらいだ。呉羽の知識は、博士からの言葉と彼の持つ書物だった。都の外では、呉羽のように寿命を持つ人間たちが、ここでは考えられないほど、素晴らしい文明を築いているらしいが、これもまた、博士が話していたことだ。
 ちなみに、慈鳥は、庭の池で水浴びをしている。最近は寒くなってきたというのに、風邪をひかないのだろうか。
「……烏はいいね。なーんにも考えることがなさそうで」
 呉羽の悪態を聞いていたのか否か、慈鳥は呉羽の方を一瞥して、どこかへ飛び立っていった。この烏は、嵐のように現れて、嵐のように去っていくのだ。もしかしたら呉羽のことを、餌をくれる人だと解釈しているのかもしれない。
 ふて寝でもしようかと、瞳を閉じた。その時だった。
「呉羽ちゃーん!」
 玄関口の方から聞こえてきた少女の声に、陰鬱に沈んでいた呉羽は弾かれたように顔を上げ、立ち上がった。
「こっちだよーっ! おいで」
 そう叫ぶと、ととと……と軽やかな足取りで、ひとりの少女が走ってきた。
 七歳ぐらいの丸い輪郭に、のっぺりとした顔立ちをした少女で、後ろで束ねられたところからほつれた髪に泥だらけの顔が、逆に可愛らしい。藍染(あいぞ)めの小袖を着た溌溂(はつらつ)とした子だった。
「春ちゃん、また遊びに来たの? お仕事は?」
 春は、呉羽がつけた名前だ。『永夜の民』は基本的に名前を持たないので、呼びやすいように呉羽が名前を付けたのだ。ちなみに博士にも名前はない。本人が『博士』と呼んでほしいと言われたので、そう呼んでいるのだ。
「ううん、いいの! とと(・・)かか(・・)も休憩してるから」
 春の家は野菜を作っていると、前に本人から聞いた。
「でも、それなら他の子と遊んだ方がいいんじゃない? こんな辺鄙(へんぴ)な場所に来なくても」
「ううん、あたしは呉羽ちゃんといたいの。きっと、老いが止まったら、こんな風に話すこともなくなるんだろうし、いまのうちにいっぱい話して、遊んでいたいの」
「‥‥‥」春の言葉に、呉羽は返す言葉が見つからず、黙り込む。
『永夜の民』は、生まれてある程度育ったら身体の老いが止まる。ちなみに博士は十三歳の時に老いが止まって以降、あの姿のままらしい。
 老いが止まる年齢は千差万別で、博士のように幼くして止まることもあるし、三十路(みそじ)になって止まる者、老人になってやっと止まるものなど、個人差がある。だからこそ、呉羽も『有夜の民』であることを隠せているのだが。
 老いが止まると、そこからはどんどん感情というものがなくなっていく。喜怒哀楽はもちろん、痛みや味覚も鈍くなっていって、最後にはなくなってしまうらしい。
 そもそも、痛みは生き物が死を回避するためにあるものなのだから、死ぬことがない『永夜の民』には必要のないものだ。
 その証拠か、春はどこか無表情で、声音と表情が噛み合っていない。老いは止まっていないとはいえ、彼女もまた、『永夜の民』なのだ。
 胸がどんどん冷たくなっていく。永遠を生きられない自分と、これから永遠を生きていく春とでは、何もかもが違うのだと。
 分かっているつもりなのに、いざ突きつけられると心にくるものがある。
「……そ、そうだ、呉羽ちゃん。あたし、またあのお話が聞きたいな」
 呉羽を気遣ったのか、話題をそらす春に、呉羽は内心安心した。
「いつもの月のお話?」
「そう! むかし月にいた、女の子のお話」
 春は目を輝かせた。春は、呉羽の話す月の物語が大好きで、春がこの屋敷に来るのも、物語をねだるためなのだ。
「ずっと同じお話ばかりで飽きない?」
「ううん! あの女の子のお話がいいの!」
 春は早く話してと言わんばかりに、呉羽の膝にしがみついてきた。「はーやーくー!」
「わかったわかった、いいよ」呉羽はいつも通り、話を始める。春は途端に静かになって、愛らしい瞳でこちらをのぞき込んでくる。
「——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話です。あるところに、孤独な少女がいました。少女は、先帝の血を引き、今上帝(きんじょうてい)の双子の姉でしたが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていました——」