その日は快晴だった。モダンな煉瓦造りの建物が並び、文明開化を謳歌する人々を守るようにそびえる。
 そんな街の隅で、ひとりの少女が澄んだ声で宣伝をしていた。
「シベリアですよーっ! おいしいおいしいシベリアはどうですかーっ! 出来立てほやほやですよ!」
 少女の声に惹かれ、道行く人々は、物珍しそうに、視線を向ける。
 故郷では、見向きもされないどころか、蔑んで目で見られ、陰口をたたかれていたのに、ここにはそんな人いない。皆、自分を差別しないのだ。それだけで、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「さあさあ皆さん! 出来立てが食べられるのはいまだけですよーっ! いかがですかーっ!」
 少女は声を張り上げ、人々に呼びかける。その感覚は、まるで、自分もこの社会の一員として認められたような、そんな感覚だった。

 
 時計の針が空高く蒼穹(そうきゅう)を指し示す頃、
「もし、もし、お嬢さん。そのお菓子、わたしにひとつ、買わせてくれませんか?」
 女性の声に、呉羽はそちらを振り返る。声をかけてきたのは二十歳前後の女性で、背中を覆い隠すほど長い髪に、右目にガラスがはめられた飾り。
「あれ? もしかしてあなた……」
 途端に、女性はぱっと表情を明るくする。
「覚えてくれていましたか? この前、わたしのお店に来ていましたよね、覚えていますか?」
 帝都に来た最初の日、リョクと出会った仕立て屋にいた人だ。もちろん覚えている。帝都に来て初めて、人間だと認識した人なのだから。呉羽は「もちろん」と答えた。
「わたしのことも、覚えててくれてうれしいよ。ありがとう」
「いえ、とっても可愛らしい方だったので、覚えていただけです。それに——」
 女性は少し言い淀んで、
「『永夜の民』と一緒にいる人は珍しいので、つい」
「……」
 女性の言葉に、呉羽は内心動揺する。
 ——そういうものなの……?
 たしかに、『永夜の民』は人との絆や関わりを重視しない。いまの言葉も、そういう意味なのだろうか。
「……それよりも、そのシベリアはいくらなの?」
 沈んだ空気を振り払うように女性が尋ねる。金額を教えると、女性は巾着から代金を取り出し、呉羽に握らせる。
「はい、どうぞ」と、呉羽はシベリアを手渡した。お礼を言って受け取ると、女性はそれを(かじ)る。
 味わうように何度も咀嚼した後、女性は微笑んで、
「とってもおいしいわ」
 そう言った。
 その瞬間、女性の言葉で、呉羽の心は溢れ、目頭がかっと熱くなる。こぼれそうな涙をこらえ、呉羽は笑顔で「ありがとう!」と答えた。
 女性は目をしばたたかせた後、彼女によく似合う、ふっと微笑むような表情を見せた。
 女性は、華世(かよ)という名で、三百年近く続く、仕立て屋、『ききょう』の十二代目の店主だと言った。
 華世の好意で、仕立て屋に上がらせてもらった呉羽は、奥の部屋に通された。煎茶を出してもらい、それと一緒に、シベリアをいただく。食べながら、「本当は売り物だけど、まあいいよね」と言うと、華世はくすりと笑った。
「あ、そうだわ」
 何かを思い出したように、華世は後ろの棚を漁る。——なんだろう。
「これを見て」と、華世は呉羽の横に、一枚の単衣を広げた。桜色と、空色が境界線でうまく溶け合った、美しい色合いのもので、四季草花の柄がとっても華やかだ。
「わああ! とっても可愛いね。これ、華世ちゃんが仕立てたものなの?」
「ええ、もちろん」
 自信満々に答える。実際、それほど出来が良かった。
「これがどうかしたの?」
「これ、呉羽ちゃんに似合うと思って仕立てたの。よかったら貰ってくれない?」
「そんな……! こんな素敵なもの、受け取れないよ」
「あら、そう?」
「当たり前でしょ!」
 こんな人だったのか、この華世という人物は。あの常識がない言動は、『永夜の民』特有と言うわけではなかったのか? 呉羽は困惑する。
「まあ、冗談は置いておいて。それなら、呉羽ちゃんにお願いがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」



「みなさーん! 美味しいシベリアはいかがですかーっ!」
 澄んだ呉羽の声が、仕立て屋『ききょう』周辺に響く。ここは、これまでの場所よりも人通りが多い。
「何だいお嬢ちゃん。菓子売りかい?」
 店の前を通った中年の男性が、呉羽に声をかけた。背広姿が映える長身の男性だった。
「はい! 店主さんのご厚意で、売らせてもらって、ます!」
「ほう、そうかね。売っているのはシベリアかい? 妻の好物だ。どれ、味見してみよう。いくらだい?」
「わあ! ありがとうございます」
 代金を受け取り、シベリアをひと切れ差し出す。
「おお、うまいじゃないか! 文句なしだ」
 男性の賛辞に、呉羽は花が綻ぶような笑みを浮かべる。「本当ですか! ありがとう、ございます!」
「妻の分も買って帰りたい。あとふたつ買わせてもらうよ」
「はーい」
 こみあげてくる笑みを堪えながら、準備をする。
「時に、君の来ている着物は美しいね。もしかして、この仕立て屋のものかい?」
「は、はい、そうなんです! 店主さんの仕立てる着物は、どんな着物よりも素敵だし、ずっと着ることができますよ」
「ほう」
「だから、今度はぜひ、奥さんと一緒に来てくださいね」
 呉羽がそう伝えると、男性はにやりと笑う。
「なるほど、それが目的か。これはやられてしまったな」
「え、い、いやあ……そ、そんなことありませんよ! わたしはただ、すごいんだぞーってことを伝えたかっただけで……」
 あいかわらず下手な誤魔化し方だと、自分を卑下したくなった。男性はその様子を見て、面白そうに笑い声をあげた。
「君の望み通り、今度は妻と一緒に来よう。ありがとう」
 呉羽からシベリアを受け取り、男性はその場を後にした。

 
 華世が提示した条件は、店の客寄せをしてもらうというものだった。
 呉羽には、華世が仕立てた着物を着てもらい、店の目の前で、菓子を売ってもらう。そうすれば、自然と客の目が、仕立て屋にも向く。
「呉羽ちゃんは美人だし、良く通る声をしてるから、自然と人の目を惹きつけるの。だからお願いね」
 そう語った華世は、呉羽に最低限の敬語と、立ち振舞いを叩き込んだ。もともと容量がいい呉羽は、たった一日でこれらを習得した。まれに言葉遣いに迷うこともあるが、誤差の範囲内だと言っていた。
 ——意味をはき違えているような気がするけれど……。
 とやかく問い詰めたら拗らせそうなので、あえて口にしたりはしないが。
 始めてから一週間がたつ頃には、呉羽に声をかけてくれるような人も増え、客足も増えだした。いまとなっては、みんなに愛される看板娘だ。
「呉羽ちゃんのおかげで、仕事がたくさん入って嬉しいわ。その分忙しくなるけれど」
「わたしも、そろそろ作れるお菓子を増やさないと」
 ここでは、多くの人が呉羽を認めてくれる。もともとこの店の常連だったという人も、呉羽の作った菓子を買ってくれるようになったし、毎日新顔の客もやってくる。そして、客はみんな、呉羽に笑顔を向けてくれる。「おいしい」「また買いに来る」と。
 どれも、永夜の都ではありえなかった光景だ。
「呉羽ちゃんは、みんなに愛されているわ」優し気な声色で、華世は言う。「常連さんも、みんな呉羽ちゃんを慕っているのよ」
「そうなの? 嬉しいなあ……」
 自分なんて、死んでしまった方がいいと、あの時は思った。でも、それは間違いだったのだ。ここなら、たくさんの人が、呉羽を受け入れてくれる。愛してくれるのだ。
 その多幸感に酔いしれながら、宙を仰ぐ。その時、
「おうおう、やっとるなあ、呉羽ちゃん」と、陽気に声をかけてきたのは、リョクである。見回りついでに寄ったのだという。
「うん! 大盛況だよ!」
 満面の笑みで答えると、リョクは目を細めて、「そりゃよかったわ」と笑う。ふたりきりが良いと思ったのか、華世は店に戻った。
「それより、とんでもない量やなあ……」
 とんでもない量。呉羽は、横に置いていたシベリアに目をやる。今日は、昨日の倍ほどの量を準備していた。
「しかしこの量は……本気で売らなあかんのちゃうか?」
「ううん、大丈夫だよ! 昨日だって、お昼ごろには全部売れたんだから!」
「おお、ほんまに大盛況やんけ」リョクは、しみじみといった様子で言う。「呉羽ちゃん、愛されてるんやなあ」
「えへへ、さっき華世ちゃんにも言われたの」
 上機嫌で話していると、店から出てきた夫人が、明らかに嫌そうな顔をして、こちらをねめつけてきた。
「やだ、なんで『永夜の民』がいるのよ」
 明らかな侮蔑を含んだその言葉に、リョクの顔から、表情が剥がれ落ちる。呉羽は、意味が分からず困惑する。その夫人は、よく呉羽に声をかけてくれる、気さくな女性だったからだ。
「……」リョクは、黙ったまま、夫人を見つめ続ける。その瞳は、呉羽が都で見てきた『永夜の民』と全く同じ、冷え切った瞳だった。
「ただでさえ不気味だというのに、まさかこんなところにも現れるだなんて……。気分が悪いわ」
 夫人の表情が、人を蔑む醜悪な表情に変わってゆく。この光景、呉羽には見覚えがある。永夜の都で、『永夜の民』に蔑まれた時だ。あの時の人々は、心底呉羽を蔑み、虐げた。それと、まったく同じだ。
 ——なんで、なんで……。
 そんな思いが、呉羽の胸中を渦巻く。
「……はあ、人に助けられとる身分で、よう言うなあ、華族サマ」
「ふん、自分たちの責務も全うできず、毎日のようにツキモノによる被害を出しているというのに、よく言えましたわね」
 耐えきれなくなって、呉羽は視線をそらす。そこで、気づいた。周りにいた人々も、皆リョクに視線を向けていたこと。そして、そのまなざしには、夫人と同じ、侮蔑と軽蔑が含まれていることに。それに気づいた呉羽は、戦慄した。いままで大切だと、愛したいと思っていたすべての人々が、醜悪で、とてつもなく卑劣なものに思えたから。
 夫人は、扇で口許を覆い、リョクを睨みつけ、
「永遠を生きる化け物。とっととこの帝都からいなくなりなさい」
 と吐き捨てた。呉羽は、苦しくて苦しくて仕方がなかった。夫人の発する言葉全てが、都にいたころの迫害を思い出すものばかりだからだ。
「……そうか、ならいい。消えてやるわ」
 リョクは立ち上がり、「ごめんなあ、呉羽ちゃん」と謝罪し、その場から立ち去った。
「ああ、呉羽さん。お可哀想に、あのような下賤な『永夜の民』に無理やり会話に付き合わされていただなんて……」
 夫人の声は、いまの呉羽には届かない。ただ、彼女の香水の強い香りに、強烈な吐き気を催した。
 その日の店じまいの準備中、華世が話を切り出した。
「……ねえ、呉羽ちゃん。ひとつ訊きたいことがあるんだけど」
 どくりと、鼓動が嫌な音を立てる。「な、何?」
「今日、呉羽ちゃんのところに来てたのって、『永夜の民』よね。彼女だけじゃない。初めてこの店に来た時に、一緒にいた彼もよ」
 セキのことだ。呉羽はうなずく。
「最初にこの店に一緒に来てた人は、『永夜の民』だったわよね? 呉羽ちゃんと彼は、どんな関係なの?」
「どういうって……」
 セキと呉羽は〝ともだち〟だ。それ以上でも、以下でもない。だが、うまく言葉にできない。
「……。……た、助けてもらったの。だから、いっしょに」
 やっとのことで、それだけ絞りだした。それについて華世は大して言及はせず、「そう」とだけ答えた。
 ——なんで、答えられなかったんだろう。
 その答えが見つかる訳もなく、呉羽はうつむいた。
 その光景を、見ている人物がいるとも知らずに。



 その日の夜、セキのために残しておいたシベリアを手に、彼の部屋へと向かう。
 セキにも食べさせたかったのだが、ここ数日、彼も忙しかったようで、ゆっくりと会える時間がなかったのだ。
 ——セキ、喜んでくれるといいな。
 どんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか。いや、食事には興味がないと、文句を言うかもしれない。だが、そうは言いつつも、呉羽が作ったものならと、最後には食べてくれそうである。
 期待で高鳴る鼓動を抑えつつ、呉羽はセキの部屋の前まで来て、声をかける。
「セキ、いる? 入っていい?」
「……呉羽さんですか。少し待っていてください」
 ほどなくして、戸が開けられ、セキが顔を出す。どこか、やつれているように見えた。
「……大丈夫? 疲れてない?」
「はい。大丈夫です」
 本人はそう言うが、大丈夫ではなさそうである。心配になって、呉羽は「そうは見えないよ。やつれて見える」と食い下がった。
「私は『永夜の民』です。疲れることはありませんよ」
 セキの眉間に、しわが寄る。だが、いまのセキの状態を、気のせいだと片づけられるほど、呉羽は鈍感ではない。
「なんで、辛いならそう言えばいいのに。なんで言ってくれないの? わたしたちは〝ともだち〟なのに……」
 その瞬間、セキの顔が歪んで、泣き出しそうな顔になる。その顔に、呉羽は息を呑んだ。そんな表情を、『永夜の民』である彼が作れるとは、到底思えなかったからだ。
「……じゃあ、あの時は何で、私を〝ともだち〟だって、言ってくれなかったんですか……っ!」
「え、あ……」
 あの時。きっと、昼間の華世との会話だ。
 ——見られてたの……?
 総身が冷える思いがした。
「……私は、もう必要ありませんか?」
 セキの瞳が、哀しげに揺れる。呉羽は、胸が(やり)でえぐられるような苦しさを覚えた。
「あなたは、私とは違います。ここでなら、あなたはその優しい声と笑顔で、誰からも愛されます。でも、私は、私は……!」
「セキ……」
「私は、あなたが幸せならそれでいいんです。ねえ、呉羽さん」
 いまにも泣きだしそうな顔をしながら、セキは呉羽の瞳を見る。どろりとした、汚泥のような光を宿した目だった。
「あなたは、幸せですか……?」
「……わたしは」
 ——幸せなわけがない。
 先ほどまでの多幸感が、砂城のように崩れていく。セキがこんなにも苦しそうなのに、幸せなわけがないだろう。なぜそんなことも分からないのだ。
「……なんで、なんでそんなこと言うの?」
 崩れ去った多幸感の代わりに、辛くて悲しい、複雑な感情が、呉羽の心に根を張る。
「やっぱり何にもわかってないじゃない! 出会ってからいままで、何にもよ! わたしはみんなに幸せになってほしいって思っているのに、セキがそんなので、わたしが本当に幸せだと、本気で思ってるの?」
 その複雑な感情が、呉羽の熱を、目頭に集める。それを見て、セキがはっとした顔をする。
「あっ……、違います。私は、私は……」
「もういい。わかってくれるまで、セキにはお菓子を食べさせないから! ちゃんと自分の頭で考えて!」
 言いたいだけ言って、呉羽は部屋の前から走り去る。
「あ、いやだ! 呉羽さん……!」後ろから席が呼び止めてきたが、呉羽が振り返ることはついになかった。



 深夜、久方ぶりの睡眠は、その身を蝕む闇によって終わりを告げた。
 布団から芋虫のように這いずり出て、力を振り絞って立ち上がる。『永夜の民』であるセキは、普通よりも夜目が利く。それと、今日は月がよく見えるので、明かりはいらなかった。
 何とか姿見の前までたどり着いたセキは、帯を解き、夜着を脱ぐ。彼の、白皙(はくせき)で、細くしなやかな身体が露わになる。
 しかし、その白い肌は、黒い靄に侵食されていた。左胸を中心に、左腕から腹までもが、もはや人としての原形を留めていなかった。無事なところも、いつ使い物にならなくなることか。考えるだけで恐ろしい。
 ——なりかけているのだ。ツキモノに。
 当たり前だ。セキとてもう、二千年以上の時を生きているのだ。『有夜の民』だったころの限界なんて、とうのむかしに越えていたのだ。こうなってしまっては、いつツキモノになってもおかしくない。
 ——私でこれとは、なら、あいつはもっと……。
「うっ、ああ……!」そうする間にも、靄はセキの身体を蝕み続ける。それと同時に、かつては感じていた感情も、蘇る。
 何がきっかけだったか。——ああ、そうだ。
「呉羽さんと、〝再会〟して……彼女を、助けて……」
 あの瞬間、セキの中に、新しい何かが生まれた——いや違う。セキの中で眠っていたものが、蝶のように羽化したのだ。それと同時に、物憂げで、色褪せたこの世界も、鮮やかな色を持ったのだ。——それなのに。
「私は、呉羽さんを怒らせてしまった。嫌われたかも、しれない……」
 その間も、セキの身体は、靄に犯されてゆく。その浸食は、耐え難い悲しみと苦しみが伴う。
 ——この苦しみは、私への……僕への罰ですね。
 そう思えば、この感情に正当性がつくような気がして、いくらか気分が楽になった。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
 我が身を蝕む永遠の〝呪い〟を、セキはただ、じっと見つめることしかできなかった。