お昼前、雲母に身支度を整えてもらう。
 行燈袴(あんどんばかま)穿()くことは決めていたが、単衣をどれにするかで、雲母は頭を悩ませていた。
「呉羽ちゃんには、きっと淡い色が似合いますよね。昨日の南天柄の単衣も素敵だったけど」
 かれこれ四半時以上これなので、呉羽はいい加減飽きてきた。時間も迫ってきているのに、これでは間に合わない。
「この薄桃色の単衣がいいんじゃない? 可愛いよ」
 しびれを切らして呉羽が言うと、雲母は手を打った。
「それがいいですね! じゃあ、それに合わせて袴はこの赤いのにしましょう」
 そう言って雲母が取り出したのは、深紅色の行燈袴だった。
「素敵な色だね」
「呉羽ちゃんが着れば、もっと素敵に見えるはずですよ。ささ、早く着替えてしまいましょう。足袋も出しますね」
 ささっと足袋を取り出し、それを呉羽に履かせる。単衣に腕を通させ、袴を穿かせれば完成だ。髪は、最近はやっているという半上げにしてもらって、レースのついたリボンをつけてもらった。
「はい。これで完成です」
 鏡台の前には、昨日見たハイカラな女学生さながらの少女が立っていた。
「わああ……! 素敵! とっても素敵だよ。ありがとう、雲母ちゃん」
「喜んでもらえてうれしいです。もうすぐ、リョク様が迎えに来ますからね」
 しばらくして、リョクが訪ねてきた。
 昨日の軍服とは違い、深緑の無地の着物に、茶色い帯を締めた姿でやってきた。すらりとした体形と、涼やかなその容姿も相まって、昨日以上に美しさが増しているように思えた。
「おお、似合っとるやん。ほな行こか」
「うん!」
 溌溂と返事をすると、リョクもつられて少し微笑んだ。


 帝都までの道中、呉羽は、
「……昨日、結局セキは帰ってこなかったの」
 と漏らした。
「帰ってくると思って遅くまで起きてたんだけど、全然帰ってこなくって……結局寝落ちしちゃったの」
 リョクは、何も答えなかった。少しばつの悪そうな顔をして、うつむいていた。
「セキは昨日、屯所——昨日行ったとこやな——に泊まり込んどったで。帰ってくるん、結構遅かったけん」
「そっかあ……」呉羽は、宙を仰ぐ。「なら、しょうがないね」
「帰る前に、一回屯所に寄ってみる? 喜ぶかどうかは知らんけど」
 屯所は、軍の駐在所の事らしい。対怪異小隊の場合は、そこが本拠地らしいが。
「軍の屯所なんて、わたしが行っていいの?」
「隊員のうちが許可しとるし、ええやろ」
 からりと笑うリョクを、運転していた黒曜が少しだけ視線を向け、睨みつける。今日も彼は、帽子を深くかぶっている。どうやら、耳を隠すためらしい。
「そんなことよりや! 今日は目いっぱい楽しもな。これまで辛かった分、ぱーっと楽しんだらええわ」
 自動車を走らせ、最初にやってきたのは喫茶店というところだ。リョクいわく、茶屋のようなものだと言われたが、永夜の都にもなかったものなので、結局よくわからなかった。
 店内は客で賑わっており、談笑する声がそこらかしこから聞こえてくる。
 ふたりは店の隅で、窓際の席に通された。リョクはソーダ水を、呉羽はシベリアと煎茶を注文し、ほどなくして、それらが運ばれてきた。
 シベリアは、羊羹(ようかん)をカステラという和菓子に挟み込んだ菓子だ。しっとりとした生地に、舌触りが良い羊羹が違和感なく合わさって、絶品である。
「ほんま、美味しそうに食べるなあ。うちまで幸せになってまうわ」
 ソーダ水を飲みながら、リョクは満足そうな笑みを浮かべる。ソーダ水は本来夏の飲み物のようだが、リョクは年中飲んでいるらしい。
「……」口に残ったシベリアの余韻を、しっかりと憶える。甘く、しっとりとした舌触り。甘さは、カステラも羊羹も控えめで、重くない。だからこそ、何個でも食べられそうな気がする。
「呉羽ちゃん?」
「これ、作れないかな」
「え?」
 リョクが、きょとんとした表情で見つめてくる。「どういうことや?」
「あ、ごめんね」呉羽は匙を置き、リョクに向き直る。「このシベリアを、わたしも作れないかなと思ったの」
「ほう?」
 リョクは身を乗り出し、呉羽に迫る。思わず、「ち、近いよ!」と口走る。指摘されたリョクは、「ああ、ごめんなあ」と言いながら、席に座り直した。あまり反省しているようには見えない。
「あんた、菓子作りの趣味があるんやな」
「うん。都でも、市に行って、お菓子をよく売ってたんだよ」
 その言葉に、リョクは目を見張る。
「……それ、大丈夫やったん?」
 心配されている。すぐにそう感じられる声音だった。
「……」
「うちは、永夜の都に行ったことがないけん、何も言えんけど、そんなことして、他の『永夜の民』は、何も言わんかったん?」
 呉羽は、しばしの沈黙ののち、「ううん、蔑まれたし、いやな思いも、いっぱいしたよ」と告白した。
「陰口は当たり前、石を投げられたことだってあるもん。ほら」
 呉羽は袖をまくって、腕を見せる。そこには、最近できたのであろう傷が、白い肌に痛々しく残っていた。
 リョクは、眉をひそめる。
「それでも、いつか分かり合えるんだって、信じてたの。『永夜の民』も、『有夜の民』も……みんな一緒に」
 でも、だめだったの。呉羽は続ける。
「わたしに石を投げて、暴言を吐いて……もう耐えられなくて、消えたくなった時、助けてくれたのが、セキだったの」
「セキが……?」
 リョクは、驚いたような顔をしている。
「セキが、わたしに手を差し出してくれて、〝ともだち〟だって、言ってくれて……それが、すごくうれしかったの。わたしを、『有夜の民』であるわたしを、ともだちだって思ってくれる人がいるんだって……」
 言葉にすると、あの時の感情があふれだし、目頭が熱くなる。あの時の感情を、きっと一生忘れることはない。そう断言できるほど、あの時の言葉は、呉羽の心を救ったのだ。
「……まさか、セキがそんなことをするなんてなあ」
 リョクは、ソーダ水をストローでかき混ぜながら、しみじみとした様子でつぶやく。「うちのなかのあいつは、自分以外の生き物に興味がない、ある意味猟奇的な奴やと思っててんけど」
「え?」
 今度は、呉羽がぽかんとする。人としての常識を疑う点はいくつもあったが、猟奇的だとか、そういったことを見受けられなかった。
「やっぱり、セキにとってあんたは、とくべつな存在なんやな。あいつの笑った顔、人生で一度も見たことなかったわ」
 そう語るリョクの表情は柔らかい。次いで、「話してくれたんやし、うちもちょっと話そっかな」と言った。
「話すって、リョクのこと?」
「そうや。……不思議に思たやろ? 『永夜の民』のくせに、感情が豊かやけん」
 それは、確かにその通りだ。呉羽の中の『永夜の民』は、いつだって、氷のように冷たい顔と、うつろな瞳をしている。だが、リョクはどうだ。瞳こそうつろだが、その表情は、『有夜の民』と大差ないではないか。
「うちな、母親は『永夜の民』やったんやけど、父親は——『有夜の民』やったんや」
 呉羽は、息を呑んだ。
「父親言うても、顔は知らんで? あの人、口を割らんかったし」
「……お母さんは、どうなったの?」
「ツキモノになったわ。ほんで、いまもどっかで彷徨(さまよ)っとる」
 あっけらかんと答えるが、顔は全く笑っていない。
「それでも、隊のみんなは何にも言わへん。うちを、ひとりの人として見てくれとる」
 やから好きやねん、あそこが。リョクの言葉からは、その真意が読み取れる。
 ——わたしにとっての博士が、リョクにとっては隊のみんななんだ。
 そう思うと、リョクにとって、隊員たちがどれだけ大切な存在なのかが分かる。
「……湿っぽい空気にして、ごめんなあ。そや、これが終わったら屯所に行って、帰りに菓子のことが載っとる本でも買うたらええわ」
「それはいい考えだね。いまから楽しみだなあ」
「できたらうちにも食べさせてな。辛口評価したるけん」
 冗談っぽく言うリョクは、たしかに『永夜の民』とは思えない。だが、どんな彼女であろうと、呉羽の対応や気持ちが変わることはない。
 ——ここでは、『永夜の民』も『有夜の民』も、一緒に暮らしていけるんだ。
 それが無性に嬉しくて、呉羽はいますぐにでも走り出したい気分だった。