帝都は、帝の住まう宮殿を中心に、華やかで豪奢な都会の風景が広がっている。社会の中心が、権力者の住まう場所である点は、『永夜の民』が住む都と大差ないように思える。
時の帝は、刹那女王という、約一千年ぶりの女帝で、まだ成人して間もない方だ。しかし、高い政治手腕を持つ、敏腕な帝だ。そのうえ人を思いやる気持ちもある、人としてもよくできた女性であった。
女性の帝など、少し前までは考えられなかったというのが嘘のように、人々は彼女に心酔していた。一千年もたてば、人間の気持ちも変わるものなのだろうか。
——この数十年で、人間は本当に様変わりした。
セキはつくづく思う。西欧諸国が開国を迫ったかと思えば、次の瞬間には、暦が変わり、建物が変わり、さらには衣食や文化まで、すべてが早変わりした。街にはガス灯が数多く設置され、道には路面電車や、自動車が通る。少し前まで、牛車で移動していたのが嘘のようだ。人間の変化の速さには、永遠についていけないのだろうと、セキは感じていた。
——まあ、追いつく気なんて、さらさらありませんが。
だが、こうも長い間生きていると、急速な政変なんかにもいずれ適応できるようになるのだ。無論、その〝急速〟というのも、『永夜の民』である、セキの感覚だが。
——ですが、呉羽さんは違います。
彼女は『有夜の民』だ。急激に変わった世界に、困惑することは目に見えている。そうなったとき、なんとかするのが自分の役目でもある。
——彼女には、絶対に幸せになってほしい。
そう思う。それも、自分の隣で。我ながら、傲慢な考えである。
だが、そんなセキの懸念は、すべて杞憂に終わることになる。
♢
「わああ! すごい! すごいよセキ!」
呉羽は瞳を輝かせながら、落ち着きのない様子であたりを見渡す。そんな呉羽を、人々は奇異の目で見ている。
「呉羽さん、落ち着いてください」
こんな時でも落ち着いているセキの声も、いまの呉羽には届かない。
「見て! あの女の人が来ている装束、とっても華やかで素敵! あ! あの男の人の帽子、とっても格好いいわ!」
呉羽はたまらず走り出し、近くの甘味処へと走る。しかし、店内外を仕切る窓に、透明な何かがあって、入ることができない。
「セキ、何か見えない壁みたいなのがあるよ。これは何?」
「ああ、玻璃ですよ。最近はガラスと言いますが」
セキが説明する。
「へえ! ここの人たちは、玻璃——ガラスを窓にはめてるんだね。うん、確かにそっちの方がおしゃれだね」
くすりと笑って、呉羽は言う。セキも、つられてわずかに微笑んだ。
「ねえ、まずはどこに行くの? ここ? この建物?」
「いえ、まずは服の調達ですかね」
呉羽は、そこで初めて、自身が寝間着姿であることを思い出した。ようやく我に返った呉羽は、顔を真っ赤にして、両手で覆い隠した。
セキに連れられ、やってきたのは『ききょう』と書かれた看板を掲げた仕立て屋だった。呉羽の住んでいた屋敷ほどではないが、帝都の中ではそれなりに大きな建物で、まとう雰囲気からして、老舗という言葉が似合う。そんな佇まいだ。
店に入ると、嗅ぎなれない爽やかな植物の香りが、呉羽を優しく抱き込む。衣桁には、見たことないほど華やかな装飾がなされた着物がかけられ、奥の棚には、華やかさを抑えた色合いの反物が重ねられていて、呉羽の心が躍る。
「わかってるからね、セキ。ちゃんと静かにするから」
セキに言われるよりも先に言うと、
「……まだ何も言っていませんが」
と呆れたような声音で返される。
「んん? なんや、セキやん」
急に声をかけられ、呉羽は咄嗟にセキの背後に身を隠した。
声をかけてきたのは、うら若い女性だった。すらりと背が高く、右胸には、緑色の飾りがついている。後頭部で束ねられた腰まで伸びる髪は、動くたびにゆるやかに揺れる。完成されたばかりの彫刻のような美しい顔立ちは、声を聞かなければ、男性と間違えてしまうほど中性的な美しさを湛えている。涼しげな目もとに、生気が感じられない瞳。——『永夜の民』……?
だが、先ほどの声音と言い、表情と言い、『永夜の民』らしくないと思った。
「あんた、仕事ですとかなんやゆうて、一週間帰ってこんかったやん。どこ行ってたん?」
女性は、セキに詰め寄ってくる。
「あなたには理解できないほど、難解なこと、ですかね」と、セキが曖昧に返すと、女性は深くため息をついた。呆れてものも言えないような様子だった。
「いつまでもうちを子ども扱いすんなや。うちももう三百歳のいい大人なんやけん」
「さ、三百……」
やはり、この女性も『永夜の民』のようだ。都の外にも、『永夜の民』が普通に暮らしているとは驚きだった。
「時にセキ、さっきから後ろに隠れとるんは誰や?」
急に矛先が向いて、呉羽はびくりと身体を震わせる。
——もしまた、自分が『有夜の民』と言われたら……。
寿命を持つ者が大半を占める帝都で暮らしている『永夜の民』である以上、いらぬ心配だとわかってはいる。だが、ついこの前の迫害の恐怖が、呉羽の中に深く根を張っており、身体が震えてしまう。
「呉羽さん」肩越しに、セキは呉羽の顔を覗き込む。「大丈夫です。彼女は……リョクは、あいつらのように、あなたを虐げるようなことはしませんから」
リョク。それがこの女性の名前らしい。なるほどたしかに、彼女にはリョクという名が似合う。呉羽は、おそるおそるセキの背中から離れ、リョクの前に立つ。目の前に立ってみて、改めて彼女の背の高さに驚く。おそらく、男性のセキよりも頭ひとつ分ほど大きい。都には、リョクほど背の高い女性はいなかったので、呉羽はたじろいだ。
「ちょっと! なんでこの時期にそんな薄着なんよ! しかも裸足やし! セキ、あんたには女子に対してすべき配慮ってもんがないんか!」
呉羽を見るなり、リョクは血相を変えて声を荒らげる。あまりの声の大きさに、呉羽は頭が痛くなった。いまはちょうどお昼時で、店内に客が少ないのが幸いだった。
「……だから、着物を見繕いに来たのですが」
「頼んだその日に出来上がる訳ないやん! なんで長生きやのにそういうことには無知なんよ!」
リョクの言い分はもっともだが、早急にこの言い争いをやめさせた方がよいと、呉羽は感じていた。事実、店主らしき女性が困惑した様子でこちらを見ている。背中を覆い隠すほど長い髪が美しい、二十歳前後の娘だ。右目にガラスがはめられた飾りをつけており、その奥にある瞳には、呉羽が見たことないほどの色が溢れていた。
——この人は、わたしと同じ……。
おそらく、寿命を持つ人間だ。初めて間近で見る人間に、呉羽の心は温かい何かで満たされていく。ここではもう、『有夜の民』だからと蔑まれることはないのだ。
「……まあええわ。今日引き取る予定やった着物を貸したるけん、それを着せたらええわ」
そんなことを考えていると、ようやく落ち着いたのか、リョクはそうつぶやいた。
「宿舎になら、あんたのサイズに合ったものもあるやろうし、それでええな」
「さいず……?」
呉羽の言葉に、リョクは訝しむように見つめてくる。呉羽は、思わず後退する。
「……セキ、話はあとで聞かせてもらうで」と言い残し、リョクは店主を伴って店の奥へ入っていった。
残されたふたりは、その場に立ち尽くしていた。
ただ一言、セキが、
「はあ、何年たっても、彼女は変わりませんねえ……」
とつぶやいた。
リョクが荷物を受け取った後、呉羽たちは足早にリョクの住む宿舎へと向かった。貸してもらった着物は、菊の花があしらわれた落ち着いた色合いのものだったが、やはり、小柄な呉羽には少し大きかったのだ。
ほどなくして、呉羽たちがたどり着いたのは、宮殿の近くに設置された、大きな建物だった。宮殿の近くと言っても、ここは自然豊かな場所で、緑が生い茂っている。建物は、この辺りに多くある洋館と同じ造りで、これまでずっと都で生きてきた呉羽には、目が飛び出るほどの華やかさを纏っていた。
「わああ! とっても綺麗な建物ね! 都では見たことないわ」
「まあ、そうでしょうね」と、セキは答える。「宿舎は、この裏手にありますよ」
「あんたが言わんでもええやろ。あんたは住んでないんやけん」
唇を尖らせながら、リョクはため息をつく。彼女は、呉羽と同様、子どもっぽい性分らしい。
「ちなみに、この建物が、うちらが働いとる対怪異小隊の本部な。ここに所属しとるもんは、大体があっちの宿舎で暮らしとる。といっても、あんまり人はおらんけどな」
「へえ」
呉羽は相槌を打つが、建物に気を取られており、大して聞いていなさそうである。
「……人の話を聞いとらんところ、セキにそっくりやな」
悪意がないだけましやけどな。そう吐き捨てて、リョクはセキを睨みつける。
セキは、あっけらかんとしていて、リョクの嫌味に何も感じていないように見える。——いや、『永夜の民』なのだから、普通なのだが。
リョクが、『永夜の民』らしくないので、混乱してしまいそうだ。
「着いたで」と言って、リョクは立ち止まる。
目の前の宿舎は、先ほどの洋館とは違い、木造建築だった。屋根は薄花色、壁は白く塗られ、しゃれた雰囲気を醸し出す、美しい建物だった。
「わああ……!」
「あんた、さっきからそればっかりやな」
リョクの指摘に、呉羽は苦笑した。
宿舎は二階建てで、一階が隊員の部屋として使われているらしい。セキとは宿舎の前でいったん別れ、リョクの部屋へと向かう。リョクの部屋は、隅の方にあった。室内は呉羽の局の二倍ほどの大きさがあり、小綺麗に片付いていた。ガラスの窓からは日が差し込み、明るい雰囲気があった。
「ちょっと待っとき。いま、使っとらん単衣とか引っ張り出すけん」
リョクに促され、呉羽は寝台に腰かけた。感じたことないほど柔らかい布団に、呉羽は疲労感も相まって眠ってしまいそうだ。
「……」呉羽はそのまま横になる。そうすると、否応なしに、まぶたが重くなってくる。
——寝ちゃいけないのに……。
そう思っても、まぶたはどんどん重くなる。やがて、抵抗する力もなくなって、呉羽はまぶたを閉じた。
目を覚ますと、呉羽の身体には、上着がかけられていた。リョクが着ていたものだ。気を遣って、かけてくれたのだろう。部屋には誰もいない。日が傾いているのか、部屋は少し薄暗い。——どのくらい寝ていたんだろう。
呉羽は上着を手に、部屋を出た。廊下にも誰もおらず、呉羽は胃のあたりが冷たくなった。
「りょ、リョク……?」
呉羽はそのまま外に出る。その瞬間、冷たい風が、呉羽の身体に吹きつけた。その風に身震いしながら、呉羽はリョクを探す。
「リョクーっ! どこにいるのー……」
不意に、背後から、がさがさと物音がした。はっとして、そちらを振り返る。
「だ、誰……? リョク? それとも——」
言い切るよりも先に、それは姿を現した。どろどろとした、汚泥のような靄。
「——ツキモノ」
ツキモノは、じわじわと呉羽に距離を詰めてくる。だが、前と違って、呉羽に恐怖心はなかった。
——これは、悲しい存在だから。
人として生きることも、死ぬことさえも許されない。『永夜の民』の成れの果て。
「……あなたは、誰だったの?」
呉羽は、ツキモノに触れる。もちろん、実体がないので、霧に手を突っ込むような感覚だが。やはり、ツキモノは温かい。実体がないのに、そう感じる。
そしてまた、呉羽の意識は遠のいていく。
♢
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
そんなことを、隣で横になっていた青年は問う。彼の青い目は、赤く腫れていた。泣いていたのかもしれない。
その問いの返事に、困ってしまった。そんな資格がないと思ったからだ。
『わたしは、罪を犯したから』
かろうじて、それだけ言えた。
『私は、何年先でも、何十年先でも……いえ、何億年先でも、何十億年も、あなたと一緒にいたいです』
青年は言う。『このまま、この時が永遠になればいいのに』とも言った。
『それは無理だよ。だって、みんないつか死ぬもの。わたしも、あなたも』
そう答えると、青年は悲しそうな顔をして『そう、なんですかね』とつぶやいた。
その顔が、あまりにも辛そうだったので、胸が苦しくなった。
その後も、ふたりで寝ころんだまま、空を見続けた。
♢
「危ない!」
その声で、呉羽は我に返った。リョクの声だった。リョクは剣を抜き、ツキモノに襲い掛かる。
「だ、だめ! 切らないで!」
呉羽の必死の訴えに、リョクの動きがぴたりと止まる。その隙に、ツキモノは素早い動きで逃げて行った。
安堵する呉羽を、リョクは、
「あんた、一体何者や……?」
とつぶやき、信じられないものを見るような目で見た。
「ツキモノに触れても、何にもならんなんて……」
その目には、これまで向けられ続けてきた蔑んだ色はなく、果てしなく純粋な、困惑があるのみだった。
時の帝は、刹那女王という、約一千年ぶりの女帝で、まだ成人して間もない方だ。しかし、高い政治手腕を持つ、敏腕な帝だ。そのうえ人を思いやる気持ちもある、人としてもよくできた女性であった。
女性の帝など、少し前までは考えられなかったというのが嘘のように、人々は彼女に心酔していた。一千年もたてば、人間の気持ちも変わるものなのだろうか。
——この数十年で、人間は本当に様変わりした。
セキはつくづく思う。西欧諸国が開国を迫ったかと思えば、次の瞬間には、暦が変わり、建物が変わり、さらには衣食や文化まで、すべてが早変わりした。街にはガス灯が数多く設置され、道には路面電車や、自動車が通る。少し前まで、牛車で移動していたのが嘘のようだ。人間の変化の速さには、永遠についていけないのだろうと、セキは感じていた。
——まあ、追いつく気なんて、さらさらありませんが。
だが、こうも長い間生きていると、急速な政変なんかにもいずれ適応できるようになるのだ。無論、その〝急速〟というのも、『永夜の民』である、セキの感覚だが。
——ですが、呉羽さんは違います。
彼女は『有夜の民』だ。急激に変わった世界に、困惑することは目に見えている。そうなったとき、なんとかするのが自分の役目でもある。
——彼女には、絶対に幸せになってほしい。
そう思う。それも、自分の隣で。我ながら、傲慢な考えである。
だが、そんなセキの懸念は、すべて杞憂に終わることになる。
♢
「わああ! すごい! すごいよセキ!」
呉羽は瞳を輝かせながら、落ち着きのない様子であたりを見渡す。そんな呉羽を、人々は奇異の目で見ている。
「呉羽さん、落ち着いてください」
こんな時でも落ち着いているセキの声も、いまの呉羽には届かない。
「見て! あの女の人が来ている装束、とっても華やかで素敵! あ! あの男の人の帽子、とっても格好いいわ!」
呉羽はたまらず走り出し、近くの甘味処へと走る。しかし、店内外を仕切る窓に、透明な何かがあって、入ることができない。
「セキ、何か見えない壁みたいなのがあるよ。これは何?」
「ああ、玻璃ですよ。最近はガラスと言いますが」
セキが説明する。
「へえ! ここの人たちは、玻璃——ガラスを窓にはめてるんだね。うん、確かにそっちの方がおしゃれだね」
くすりと笑って、呉羽は言う。セキも、つられてわずかに微笑んだ。
「ねえ、まずはどこに行くの? ここ? この建物?」
「いえ、まずは服の調達ですかね」
呉羽は、そこで初めて、自身が寝間着姿であることを思い出した。ようやく我に返った呉羽は、顔を真っ赤にして、両手で覆い隠した。
セキに連れられ、やってきたのは『ききょう』と書かれた看板を掲げた仕立て屋だった。呉羽の住んでいた屋敷ほどではないが、帝都の中ではそれなりに大きな建物で、まとう雰囲気からして、老舗という言葉が似合う。そんな佇まいだ。
店に入ると、嗅ぎなれない爽やかな植物の香りが、呉羽を優しく抱き込む。衣桁には、見たことないほど華やかな装飾がなされた着物がかけられ、奥の棚には、華やかさを抑えた色合いの反物が重ねられていて、呉羽の心が躍る。
「わかってるからね、セキ。ちゃんと静かにするから」
セキに言われるよりも先に言うと、
「……まだ何も言っていませんが」
と呆れたような声音で返される。
「んん? なんや、セキやん」
急に声をかけられ、呉羽は咄嗟にセキの背後に身を隠した。
声をかけてきたのは、うら若い女性だった。すらりと背が高く、右胸には、緑色の飾りがついている。後頭部で束ねられた腰まで伸びる髪は、動くたびにゆるやかに揺れる。完成されたばかりの彫刻のような美しい顔立ちは、声を聞かなければ、男性と間違えてしまうほど中性的な美しさを湛えている。涼しげな目もとに、生気が感じられない瞳。——『永夜の民』……?
だが、先ほどの声音と言い、表情と言い、『永夜の民』らしくないと思った。
「あんた、仕事ですとかなんやゆうて、一週間帰ってこんかったやん。どこ行ってたん?」
女性は、セキに詰め寄ってくる。
「あなたには理解できないほど、難解なこと、ですかね」と、セキが曖昧に返すと、女性は深くため息をついた。呆れてものも言えないような様子だった。
「いつまでもうちを子ども扱いすんなや。うちももう三百歳のいい大人なんやけん」
「さ、三百……」
やはり、この女性も『永夜の民』のようだ。都の外にも、『永夜の民』が普通に暮らしているとは驚きだった。
「時にセキ、さっきから後ろに隠れとるんは誰や?」
急に矛先が向いて、呉羽はびくりと身体を震わせる。
——もしまた、自分が『有夜の民』と言われたら……。
寿命を持つ者が大半を占める帝都で暮らしている『永夜の民』である以上、いらぬ心配だとわかってはいる。だが、ついこの前の迫害の恐怖が、呉羽の中に深く根を張っており、身体が震えてしまう。
「呉羽さん」肩越しに、セキは呉羽の顔を覗き込む。「大丈夫です。彼女は……リョクは、あいつらのように、あなたを虐げるようなことはしませんから」
リョク。それがこの女性の名前らしい。なるほどたしかに、彼女にはリョクという名が似合う。呉羽は、おそるおそるセキの背中から離れ、リョクの前に立つ。目の前に立ってみて、改めて彼女の背の高さに驚く。おそらく、男性のセキよりも頭ひとつ分ほど大きい。都には、リョクほど背の高い女性はいなかったので、呉羽はたじろいだ。
「ちょっと! なんでこの時期にそんな薄着なんよ! しかも裸足やし! セキ、あんたには女子に対してすべき配慮ってもんがないんか!」
呉羽を見るなり、リョクは血相を変えて声を荒らげる。あまりの声の大きさに、呉羽は頭が痛くなった。いまはちょうどお昼時で、店内に客が少ないのが幸いだった。
「……だから、着物を見繕いに来たのですが」
「頼んだその日に出来上がる訳ないやん! なんで長生きやのにそういうことには無知なんよ!」
リョクの言い分はもっともだが、早急にこの言い争いをやめさせた方がよいと、呉羽は感じていた。事実、店主らしき女性が困惑した様子でこちらを見ている。背中を覆い隠すほど長い髪が美しい、二十歳前後の娘だ。右目にガラスがはめられた飾りをつけており、その奥にある瞳には、呉羽が見たことないほどの色が溢れていた。
——この人は、わたしと同じ……。
おそらく、寿命を持つ人間だ。初めて間近で見る人間に、呉羽の心は温かい何かで満たされていく。ここではもう、『有夜の民』だからと蔑まれることはないのだ。
「……まあええわ。今日引き取る予定やった着物を貸したるけん、それを着せたらええわ」
そんなことを考えていると、ようやく落ち着いたのか、リョクはそうつぶやいた。
「宿舎になら、あんたのサイズに合ったものもあるやろうし、それでええな」
「さいず……?」
呉羽の言葉に、リョクは訝しむように見つめてくる。呉羽は、思わず後退する。
「……セキ、話はあとで聞かせてもらうで」と言い残し、リョクは店主を伴って店の奥へ入っていった。
残されたふたりは、その場に立ち尽くしていた。
ただ一言、セキが、
「はあ、何年たっても、彼女は変わりませんねえ……」
とつぶやいた。
リョクが荷物を受け取った後、呉羽たちは足早にリョクの住む宿舎へと向かった。貸してもらった着物は、菊の花があしらわれた落ち着いた色合いのものだったが、やはり、小柄な呉羽には少し大きかったのだ。
ほどなくして、呉羽たちがたどり着いたのは、宮殿の近くに設置された、大きな建物だった。宮殿の近くと言っても、ここは自然豊かな場所で、緑が生い茂っている。建物は、この辺りに多くある洋館と同じ造りで、これまでずっと都で生きてきた呉羽には、目が飛び出るほどの華やかさを纏っていた。
「わああ! とっても綺麗な建物ね! 都では見たことないわ」
「まあ、そうでしょうね」と、セキは答える。「宿舎は、この裏手にありますよ」
「あんたが言わんでもええやろ。あんたは住んでないんやけん」
唇を尖らせながら、リョクはため息をつく。彼女は、呉羽と同様、子どもっぽい性分らしい。
「ちなみに、この建物が、うちらが働いとる対怪異小隊の本部な。ここに所属しとるもんは、大体があっちの宿舎で暮らしとる。といっても、あんまり人はおらんけどな」
「へえ」
呉羽は相槌を打つが、建物に気を取られており、大して聞いていなさそうである。
「……人の話を聞いとらんところ、セキにそっくりやな」
悪意がないだけましやけどな。そう吐き捨てて、リョクはセキを睨みつける。
セキは、あっけらかんとしていて、リョクの嫌味に何も感じていないように見える。——いや、『永夜の民』なのだから、普通なのだが。
リョクが、『永夜の民』らしくないので、混乱してしまいそうだ。
「着いたで」と言って、リョクは立ち止まる。
目の前の宿舎は、先ほどの洋館とは違い、木造建築だった。屋根は薄花色、壁は白く塗られ、しゃれた雰囲気を醸し出す、美しい建物だった。
「わああ……!」
「あんた、さっきからそればっかりやな」
リョクの指摘に、呉羽は苦笑した。
宿舎は二階建てで、一階が隊員の部屋として使われているらしい。セキとは宿舎の前でいったん別れ、リョクの部屋へと向かう。リョクの部屋は、隅の方にあった。室内は呉羽の局の二倍ほどの大きさがあり、小綺麗に片付いていた。ガラスの窓からは日が差し込み、明るい雰囲気があった。
「ちょっと待っとき。いま、使っとらん単衣とか引っ張り出すけん」
リョクに促され、呉羽は寝台に腰かけた。感じたことないほど柔らかい布団に、呉羽は疲労感も相まって眠ってしまいそうだ。
「……」呉羽はそのまま横になる。そうすると、否応なしに、まぶたが重くなってくる。
——寝ちゃいけないのに……。
そう思っても、まぶたはどんどん重くなる。やがて、抵抗する力もなくなって、呉羽はまぶたを閉じた。
目を覚ますと、呉羽の身体には、上着がかけられていた。リョクが着ていたものだ。気を遣って、かけてくれたのだろう。部屋には誰もいない。日が傾いているのか、部屋は少し薄暗い。——どのくらい寝ていたんだろう。
呉羽は上着を手に、部屋を出た。廊下にも誰もおらず、呉羽は胃のあたりが冷たくなった。
「りょ、リョク……?」
呉羽はそのまま外に出る。その瞬間、冷たい風が、呉羽の身体に吹きつけた。その風に身震いしながら、呉羽はリョクを探す。
「リョクーっ! どこにいるのー……」
不意に、背後から、がさがさと物音がした。はっとして、そちらを振り返る。
「だ、誰……? リョク? それとも——」
言い切るよりも先に、それは姿を現した。どろどろとした、汚泥のような靄。
「——ツキモノ」
ツキモノは、じわじわと呉羽に距離を詰めてくる。だが、前と違って、呉羽に恐怖心はなかった。
——これは、悲しい存在だから。
人として生きることも、死ぬことさえも許されない。『永夜の民』の成れの果て。
「……あなたは、誰だったの?」
呉羽は、ツキモノに触れる。もちろん、実体がないので、霧に手を突っ込むような感覚だが。やはり、ツキモノは温かい。実体がないのに、そう感じる。
そしてまた、呉羽の意識は遠のいていく。
♢
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
そんなことを、隣で横になっていた青年は問う。彼の青い目は、赤く腫れていた。泣いていたのかもしれない。
その問いの返事に、困ってしまった。そんな資格がないと思ったからだ。
『わたしは、罪を犯したから』
かろうじて、それだけ言えた。
『私は、何年先でも、何十年先でも……いえ、何億年先でも、何十億年も、あなたと一緒にいたいです』
青年は言う。『このまま、この時が永遠になればいいのに』とも言った。
『それは無理だよ。だって、みんないつか死ぬもの。わたしも、あなたも』
そう答えると、青年は悲しそうな顔をして『そう、なんですかね』とつぶやいた。
その顔が、あまりにも辛そうだったので、胸が苦しくなった。
その後も、ふたりで寝ころんだまま、空を見続けた。
♢
「危ない!」
その声で、呉羽は我に返った。リョクの声だった。リョクは剣を抜き、ツキモノに襲い掛かる。
「だ、だめ! 切らないで!」
呉羽の必死の訴えに、リョクの動きがぴたりと止まる。その隙に、ツキモノは素早い動きで逃げて行った。
安堵する呉羽を、リョクは、
「あんた、一体何者や……?」
とつぶやき、信じられないものを見るような目で見た。
「ツキモノに触れても、何にもならんなんて……」
その目には、これまで向けられ続けてきた蔑んだ色はなく、果てしなく純粋な、困惑があるのみだった。