その日の亥の刻(午後九時から午後十一時)頃、朝美は信長と共に『新緑の間』にいた。
 障子戸向こうから入ってくる風は爽やかだが、季節柄冷たい。

「主はん、うちちょっと出てきてもええ?」
 そう尋ねたのは凛だった。理由を聞くと、笑いながら「野暮用や、野暮用」とだけ答えて、障子戸から出て行った。
「どこへ行ったんでしょうか、凛さん」顎に手を添えて、信長は独り言ちる。
「小夜啼鳥は夜を象徴するような生き物ですからね。夜中になるとよく外へ出ますよ」
「へえ、そうなんですね」と信長は興味深そうに頷く。まあ、彼がちゃんと理解しているのかは、いささか疑問ではあるが。
「それはそうと、今日の旦那様は格好良かったですね」
 揶揄(からか)うように言ってみると、信長はまんざらでもないのか、照れ臭そうに笑って「ありがとうございます」と言った。
「……朝美さんは、ずっとあの人から、あんな扱いを受けていたんですか?」
 おずおずと問うてきた信長に、朝美はためらいもなく「はい」と答えた。
「実を言うと、わたしは嫁入り前に、叔母からあなたのことを聞かされていたんですよ。『命乞いする敵を問答無用で切り捨てた』だとか、『冷酷無慈悲』だとか……まあ好き放題と」
 信長の表情がこわばる。「……そう、なんですね」
「まあ、今日の叔母様への態度を見ていれば、彼女の言ってたことも少し納得できますね」
 そう言って、朝美は鼻で笑う。自分でも何が面白いのか、自分でもよくわからない。
「……何も、思わなかったのですか?」
「何も……とは?」
 聞き返してみると、「えっと、その」と信長は口ごもった。
「確かに、そんな風に言われることはあります。味方にこそ甘いが、いざ敵を前にすると冷酷無慈悲だって……。結婚相手がそんな人物だと知って、朝美さんは何も思わなかったんですか?」
 ああ、そのことか、と思った。「ええ、何も。むしろ、それを聞いて、わたしは安心しましたよ」
「え……?」
 信長はぽかんとして、こちらを見た。「安心した……? なんで……」
「そんなの、敵に情けをかけるような意気地なしなど、剣士ではないからに決まっています。どうやら叔母は、剣士は敵に慈悲をかけてしまうものだと思っているようですが、敵に対し、冷酷無慈悲であることは、剣士にとっては当たり前のことです。そんな当たり前のことができないような男など、こっちから願い下げです。わたしはそんな方に、一生をかけて仕えたくありません」
 きっぱりと言うと、信長はきょとんとしていた。しかし、急に噴き出して笑い出した。
 少し困惑していると、信長が話し出す。
「そんなこと言ってくれる人、徳ノ宮、いや四ノ神島中を探してもいませんよ」
「……そうでしょうか。当然のことでは?」
「朝美さんは大仰なんですよ。それに、妻は夫の従者ではありません……家族でしょう」
「家族……」朝美は呟く。「そう、ですよね」
 しばらく、沈黙の帳が下りる。不思議と気まずさは感じなかった。
 少しして、信長は呟く。
「……何だか今日は、朝美さんに惚れ直した気がします」
「え……」
 朝美はかあっと顔が熱くなった。
——惚れ直したのは、わたしの方だ。 
 信長と出会ってからこんなことばかりで、朝美はずっと困惑している。彼の優しい声は、いつでも朝美の心に深く溶け込んで、胸中に切なく苦しい熱を作る。
 そして、どうしようもないくらいに、自身の心が、信長に堕ちていくのだ。
——わたしは、どうしてしまったのだろうか。
 おどおどとしていると、信長がゆるりと近づいてくる。そして、そのまま朝美に口吸いをした。朝美も信長に身体を預け、腕の中に納まる。信長は朝美の顔にかかる髪を耳にかけ、また朝美に口吸いをした。
 離れがたい、朝美はそう思った。
 あの時、あの社で出会った時からそうだ。彼の仕草が、声が、笑顔が、朝美の心を揺れ動かして、かき乱していく。
——これは……一体何なのだろうか。
 もうずっと高鳴り続けている鼓動も、熱をもった頬も、この感情と関係があるというのか。
「朝美さん」
 信長に声をかけられ、我に返った朝美は信長の顔を見る。信長はふっと微笑み、朝美の波打つ髪を一房すくってその髪に接吻する。
「俺は昨日、あなたを傷つけたくないといいました。だから離婚したいとも」
「‥‥‥ええ、そうおっしゃっていましたね」
 自分でも驚くほど冷静に返した。
「でも……何故でしょう。俺はあなたと、離れたく……ありません」
 昨日と同じ、儚い瞳で語る。でも今日は、昨日と違って今にも泣きだしそうな、弱々しい声色だった。
 朝美は信長の胸に顔を沈める。
——彼は今、どんな気持ちなのだろう。
 呪いによって、周りの人間との縁を切っていくということは、きっと想像し得ないほど辛く、孤独な事だ。
 どうしようもない熱が、朝美の胸中で渦巻いていく。
 その渦巻いた熱は、信長の胸の中で、涙となってこぼれ落ちる。
「……どうして泣いているんですか?」
 鼻声になりながら尋ねてくる信長に、朝美は、
「……人は、嬉しくても、悲しくても泣くのです」
 消え入りそうな声で、ぼそりと呟いた。
 しかし、信長には聞こえていなかったようで、「え、今何て……?」と聞き返してきた。
 朝美は身をすっと乗り出して、信長に触れるように接吻をした。そして、「何でもありません」と微笑み、褥にもぐりこんだ。 


 翌日の昼前ごろ、信長の帰還を聞きつけて、礼子がやってきた。
 礼子は信長を見つけるや否や、目に涙を浮かべながら信長に駆け寄り、手を強く握り、「よかった、よかった……」と言っていた。

 感動の再会が終わった後、朝美は礼子に話があるといい、二人だけの席を設けた。
 菜々子が茶を出し、部屋から出て行った後、礼子から話し出す。
「朝美さん。今回のことはありがとうございます」礼子は頭を深々と下げた。「あなたが信長の呪いを浄化したと聞きました。そして、浄化せねば命が危なかったとも」
「ありがとうございました」と何度も平身低頭で言ってきたので、朝美は顔を上げるように言う。これでは居心地が悪い。
「本当、律儀なものですね。旦那様の律儀さは、お義母様譲りなのかもしれません」
 少し微笑んで言う。
「……確かに彼の呪いを、わたしは浄化しました。しかし、祓えたわけではありません。あのままでは、またあの時のようになってしまうでしょう。そして、そのまま呪いに蝕まれ‥‥‥早死にします」
 礼子の表情が暗くなる。気の毒だとは思うが、呪いは彼女が思うよりも凶悪なのだ。
 茶を一口すすり、礼子は切り替える。
「……ところで、信長から離婚の話は聞きましたか?」
「ええ、一昨日聞きました」
 ——やはり、この話になるか。
 朝美は俯き、組まれた手を見る。
「……わたしは、旦那様から本心を聞きました。わたしを傷つけたくないと……だから離婚しようと思ったと」
 礼子は目を見張った。きっと、離婚理由について、体裁的な理由だけを伝えていたのかもしれない。
「わたしは前、旦那様から離婚の意思を聞くまで離婚しないと言いましたが……意思をしっかりと聞けたので、旦那様とは離婚しようと思います」
「……そう」礼子は静かに呟き、息を吐いた。「少し、残念だわ。私はあなたを好ましく思っていたから」
 礼子は、容姿のせいで一見、冷たそうな女性に見える。だが、言葉の節々から、芯の温かい人だと読み取れた。
——本当は、よくできた人間だ。
「ありがたいお言葉です。……実は、お義母様に相談があるのです」
 礼子は不思議そうな顔をする。その顔が少し信長に似ていて、朝美は思わず笑みがこぼれた。
「昨日、旦那様の本心を聞いて考えました。——」
 朝美の話を聞いた礼子は、驚きを隠せないといった表情をしていた。しかし、最後には目に涙を浮かべながら、その話を受け入れた。