絃葉との交流は、その後何日も続いていた。
 毎日とまではいかないけれど、暇さえあれば絃葉の顔を見に行った。冬休みになると時間があるので昼間から彼女に会いに行く。冬休み四日目、不意打ちで昼間の時間に病室を訪ねると、彼女は「え、もう?」と声をあげて、ささっと髪の毛を梳かしてみせた。女の子の事情を何も考えずに訪ねてしまったのは申し訳ないが、焦る彼女もまた可愛らしかった。

「ねえ、今冬休みなんでしょ? 何か思い出作りにいこうよ」

 彼女の口からそんな提案が出てきたので、俺は「え?」と驚く。

「いいじゃん、減るもんじゃないし!」

「そのセリフは使いどころがちごうとる気がするんやけど」

「細かいことは気にしなーい! てか察してよ、今日はクリスマスイブなの!」

「クリスマスイブ……?」

 いったいどこの世界に、クリスマスイブの存在を忘れる男子高校生がいるだろうか。
 我ながら、呆れそうになる。 
 自分の将来のことや不思議な糸のこと、絃葉の病気のことなんかを考えていたから、クリスマスを楽しもうなんていう気がさらさらなかったのだ。それに、絃葉は入院してるから、デートなんてもってのほかだろうし……。

「外出許可はもう取ってあるんだよ」

 彼女には読心術でもあるのか、えへんと胸をそらしながらにんまりと笑った。

「……えらい仕事が早いな」

「まあね。だって、もしかしたら、紡くんと過ごせる最後の……いや、なんでもない」

 意味深なことを途中まで言いかけて、ぶんぶんと首を横に振る絃葉。
 俺はそんな彼女と、今日二人で外に出られるのだと実感して、胸が熱くなった。
 絃葉と、初めてのデートができる。
 その事実が、突如胸に迫ってきてバクバクと早鐘を打つように鳴った。

「どこか、行きたいところややりたいことはある?」

「うん! もちろん! えっとね、映画でしょ、カラオケでしょ、それからイルミネーション! 海辺の公園がすごく綺麗なんだって」

 瞳を輝かせて語る絃葉の「やりたいこと」は、どれも普通の女子高生が当たり前のようにしていることで、ちょっぴり胸が痛かった。

「分かった。全部行こう。俺も、今までそういうことあんまりせえへんかったし」

 本当は映画もカラオケも、友達と何回も行ったことがある。海辺の公園のイルミネーションは、まだ行ったことがないけれど。

「ありがとう!」

 ひまわりが咲くように笑う絃葉が愛しくて、俺は今日お見舞いに来て正解だったと思う。だって、彼女のこんなに透き通った笑顔を独り占めにできるなんて。
 絃葉は僕とのアポイントが取れたと分かると、すぐに外出の支度を始めた。「え、今から?」と驚く僕をよそに、彼女は「クリスマスイブは待ってくれないもの!」とすぐさま返事をする。その声に、どこかワクワクとした響きが宿っていた。

「紡くんも急いで!」

「男には準備するもの、ないねん」

「え〜でもほら、心の準備とかあるでしょ!?」

「心の準備……」

 そうか。確かに、絃葉みたいな可憐な女の子とクリスマスにデートするとなれば、それなりに俺のほうからリードしなくちゃいけない。優柔不断な男は嫌われるに決まってるし……。
 そんなことを考えているうちに、ちゃんと絃葉をエスコートできるのかというプレッシャーで身体中の汗が止まらなくなっていた。
 途中、絃葉が着替えてくると行って一度病室を出て行った。トイレにでも行ったんだろう。戻ってきた絃葉は、チェックの赤いスカートに、白いニットを着ていた。白い肌に、白色のニットがとてもよく似合っている。ほんのりとメイクを施した顔が、いつも以上に綺麗で息が止まりそうだった。
 なんだこれ、めちゃくちゃ可愛い——。

「ほら、早く行こう」

 俺が固まっている理由なんて考えもしていない様子の彼女が、威勢よく病室から飛び出した。



 彼女をエスコートすり方法を悶々と考えていた俺だったが、すべて無駄だった。
 なにせ絃葉は、とても意気揚々とやってきたバスに乗り、映画館のそばのバス停で降りた後、軽快な足取りで映画館へと踏み込んだからだ。
 なんの映画を見る? なんて会話も一切なくて、

「私、あの映画が見たい!」

 と、映画館で一番大きく堂々と飾られたポスターを指差した。

「青春系の映画?」

 ポスターには『感涙必至! 残り少ない命を前に、愛する人とつながれますか?』というキャッチコピーがどんと書かれている。
 背景の写真は、今をときめく女優・俳優の二人が唇を重ねているシーンだ。
 なんとなく、主人公やヒロインが病気か何かで余命宣告される映画なのだということが想像できた。

「うん! この間テレビでCMやってるの見て知ってさ〜。ずっと見たかったんだけど、一人で見るのも寂しくて。紡くんと外出できたから、今しかないって思って」

「分かった。それなら見よう。チケット買うてくるわ」

「ありがとう」

 正直、病気系の映画は好きじゃない……というか、大病を患っているはずの彼女と一緒に、そういった映画を見るのはどうかと思ったんだけれど。
 当の本人が乗り気だから、まあいいか、と俺は彼女の願いを聞き入れた。
 だが、それがいけなかった。

「ううっ……やばい、やばいよ……。泣きすぎて顔が腫れてるっ。メイクもぐちゃぐちゃだよ……! せっかく頑張って、初めて化粧したのにっ」

 映画を見終わった後、近くのカフェで休憩をしながら、絃葉がまだとめどなく溢れる涙をハンカチで拭っていた。普通、映画館で泣いても、出てきたら自然と涙は収まるものじゃないか。でもこれだけ長い間泣けるくらい、映画のストーリーが絃葉の胸に沁みたんだろう。
 確かに、あの映画はよかった。
 ヒロインが不治の病を患っており、余命三ヶ月という残酷な宣告をされてしまう。ヒロインに恋した主人公には特殊能力があって、未来が見える。ヒロインは自分の余命がいくばくもないことを必死に主人公に隠している。だけど、主人公にはヒロインの命がもうすぐ尽きることがわかっていて——。
 あらすじだけを見ても、泣ける要素がたくさんある。俺は、隣で鼻を啜る彼女の吐息を感じながら、必死に涙を噛み殺していた。

「化粧、初めてやったん?」

 あえて映画の内容には触れず、俺は気になったことを聞いた。

「う、うん。だって、憧れだった紡くんとの、初めてのデートだもん」

 ドクン、と心臓が一回跳ねる。今日の俺はおかしい。彼女が泣いたり笑ったりする顔が、愛しくてたまらない。

「そうか……それはなんというか、嬉しいよ。ありがとう」

 素直な気持ちを口にしている自分が、自分でも不思議だった。

「あー、私もあんな恋がしたい。あんなふうに、誰かをまっすぐに愛することができたら、とっても幸せだろうね」

 涙を拭いて、瞳を真っ赤にした彼女が、俺の目をまっすぐに見つめて微笑んだ。
 誰かをまっすぐに愛することができたら。
 俺は、たぶん絃葉のことが——。
 このまま、口にしてしまいそうだと思った俺は、はっと我に返って口を噤む。さすがに、今この場で正直な気持ちを打ち明けることはできない。
 デートはまだまだ残ってる。
 もう少し、彼女と二人きりの時間を楽しもう。


 それから俺たちはカラオケに行き、二時間二人きりで歌い続けた。
 俺はあんまり人前で歌うのは好きじゃないのだが、絃葉はずっとハイテンションで最近流行りの曲を歌っていた。しかも、その歌声はやっぱり透き通るほど綺麗で、俺は自分が歌うよりも、絃葉の歌を聞く方が心地よかった。
 このままずっと彼女の歌声を聞いていたい。
 そんな願望と共に、絃葉の声を目ではなく、耳に焼き付けた。

「あー楽しかった!」

 カラオケ店を出ると、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。夕陽が西の空に沈んでいく。

「絃葉があんなに歌が上手だとは思わへんかったよ」

「そりゃ、病院でずっと暇してるから。こっそり練習してたんだ。いつか、誰かとカラオケに行きたいなって思ってたから」

 得意げに胸をそらす絃葉だが、言葉尻には切なさが滲んでいる。
 絃葉にとっては、こうして友達とカラオケに行くことさえ、特別なことだったのだ。
 そう思うとやっぱり胸がツンとした。でも、そんな彼女の願いを叶えてあげられたのかと思うと、少し誇らしい気分だった。

「さ、もう暗くなったし、最後はイルミネーションだね」

 絃葉の声は依然として弾んでいる。今日のイベントを、最後まで思い切り楽しもうとしているのがよく伝わってきた。

「ああ。楽しみやな」

 俺も、彼女と過ごすこの時間を、大切にしたいと思う。
 いつか、もしも二人が両想いになったら、今日のこの日のことを思い出して幸せな気持ちになるんだ、と希望を胸に抱いて。


 海辺の公園までたどり着くと、芝生や周りの木がイルミネーションが施されているのがすぐにわかった。

「わ、すごい!」

 キラキラとした光を見て瞳を輝かせる絃葉。ぱっと明るくなった表情に、正直イルミネーションよりも見惚れてしまう。

「あんまり走ったらダメやで」

「うん!」

 俺が注意しているのも聞かず、光の幻想的な空間の中へ、駆けていく彼女。絃葉の病気のことはよく知らないが、走ったりして大丈夫なのだろうか。ハラハラしながら、彼女が振り返って手をこまねく様子を見ていた。

「紡くんも早く来て!」

 絃葉が俺の名前を呼ぶ。
 俺も、余計なことは考えずに絃葉の元へ駆ける。

「ねえ、めちゃくちゃいいね、ここ。私初めて来たけど、最高じゃん。海が目の前にあって、こんなに綺麗な光に包まれて。それに、人も少ないし」

 確かに彼女の言う通り、クリスマスイブにしてはそれほど混んでいない。海のそばだから、寒くてみんなここまで足を伸ばさないのかも、とふとぼんやり考えた。

「そやな。絃葉とゆっくりイルミネーションが見られて、よかったよ」

「それってどういう……」

 絃葉の瞳が、驚きに揺れているのが分かった。
 いっそのこと、言ってしまおうか。
 自分の気持ち、ここで正直に話してしまいたい。
 でも、そう思うと同時に、もし振られた時に二度と彼女に会えなくなるかもしれないということが、怖かった。

「写真、撮ろう」

 絃葉がスマホでカメラをオンにする。インカメラにすると、イルミネーションの光越しにパシャリと写真を撮った。暗くて顔はあんまり映っていないけれど、それもいい思い出になりそうだ。

「紡くん。私、紡くんに出会えて本当によかった。今言うことなのか分からないけど……。もしかしたら、明日には言えなくなっちゃうかもしれないから、伝えておくね。出会ってくれてありがとう」

「……俺だって、絃葉に会えてよかったと思てる。俺、学校では勉強のことか将来のこととか、つまらないことばっか考えっとって。こういう青春っぽいこと、全然せえへんかったから」

 だから、絃葉の隣にいられるだけで、幸せなんや。
 そんな恥ずかしい言葉は、口にすることができなかった。
 公園の芝生の上に二人で座り込むと、波の音がシャアララ、ザアア、と耳に響いてきた。イルミネーションの景色に心を奪われていて、今まで波の音を気にしていなかった。とても心地よい音だ。俺が、この町で生まれてからずっと、聞いていた音。
 絃葉が、目を閉じて俺の肩に頭をもたげる。緊張して、心臓の音が早くなる。絃葉の体温が、俺の身体をどんどん熱くする。

「嬉しい……本当に、ありがとう」

 絃葉の言葉のひとつひとつに、彼女の願いがこもっているような気がする。
 俺は、今だけは、今この瞬間だけは彼女を独り占めにしたいという欲に駆られていた。
 だって、気を抜けば彼女が俺の隣からいなくなってしまうような気がしたから。
 彼女をこの場に繋ぎ止めることができるなら、なんだってしたい。
 絃葉の頭を自分の方に抱き寄せるようにして、俺はもっと、絃葉と心の距離を縮めようした。

「紡くん?」

「何も言わんで。でも嫌やったら言うて」

 いつもより強引な台詞に、絃葉がごくりと息をのんだのが分かった。

「嫌じゃ、ないよ」

 たった一言、それだけ言うと、絃葉は俺に頭を抱き抱えられたまま、そっと目を閉じる。
 俺もつられて、両目を閉じた。
 波の音がよりくっきりと響き、イルミネーションの光の珠が瞼の裏でチカチカと明滅した。どちらも心地が良くて、叶うならずっと絃葉の隣で、こうしていたいと思う。
 今日は人生で一番最高のクリスマスイブだった。



 絃葉の母親と鉢合わせたのは、大晦日のことだ。

「あなたが、紡くん。いつもありがとうね」

 絃葉の母親は絵に描いたような優しそうな人で、俺は慌てて頭を下げた。

「どうか最後まで、あの子のそばにいてくれたら嬉しいです」

 母親は、絃葉がトイレに行っている間に、そんなことを言って俺の前から去っていく。
「最後まで」という言葉が、俺の胸に不安の塊を押し付けていった。

「紡くん、どうしたの」

 トイレから戻ってきた絃葉が、ぼうっとしている俺に尋ねた。

「なあ、絃葉——」

 俺は今まで、絃葉から病気について、詳しい話を聞いたことがなかった。頭の病気ということだけさらっと聞いていたが、どれぐらい悪いのか、どんな治療をしているのか、ということは何も知らない。
 絃葉に病気のことを思いきって聞いてみようかと思い、彼女に声をかけた時だ。
 俺のスマホの着信音が鳴った。

「ちょっとごめん」

 絃葉に断りを入れてから、俺はスマホの画面を見る。電話は母親からだ。仕事中に一体どうしたのだろうかと訝しく思いながら通話ボタンを押した。

「もしもし、俺やけど、どないしたん」

 俺がそう最初の一声を紡いだ瞬間、母さんの焦ったような声が、スマホの向こうから聞こえた。

『紡! 大変なの、おばあちゃんが……!』

「え?」

 切羽詰まった様子の母さんが、俺に事情を告げると、俺はその場でしばらく立ち尽くしてしまう。

『とにかく早う帰ってきて!』

 母さんの言葉にせき立てられて、俺はスマホの通話を切った。

「絃葉、ごめん、俺ちょっと用事が……ばあちゃんが、死にそうやって——」

 混乱した頭のまま絃葉に母さんから聞いた電話の内容をそのまま伝える。
 絃葉は目を丸くして、それからゆっくりと息を吸った。

「早く行ってあげて」