「友達なら名前で呼ぶのが普通です。私も、先輩のこと“紡先輩”って呼びます!」
白い壁に白い天井、すべてが色のない白で囲まれた病室で放課後に彼女と会うのが、俺の日課になっていた。
絃葉は俺が1日だけ入院した京丹後総合病院に長いこと入院しているようだった。俺がいたのはA棟で、彼女が入院しているのはB棟。主に、重病患者が入院する場所なのだと訊いて、俺は背筋が震えた。
絃葉も、重い病気なのだ。
それはウィッグを被った頭を見てなんとなく予想していたことだけれど、いざその事実を目の前にすると、俺は彼女に気の利いた言葉を何もかけてやれなかった。
「ねえ、聞いてますかー?」
彼女の身の上について考え込んでいたら、絃葉は俺の耳元で声を上げた。
「うわ、ちょ、耳元で大きな声出すなや」
「だって、先輩が私の話を聞いてくれないんだもん」
ぷい、とむくれた顔の絃葉が愛らしくて、俺は思わず吹き出した。
絃葉は重病患者なのに、どうしてこんなに明るいんだろうか。俺の方が根暗で陰気なやつじゃないか。きっと彼女が教室にいたら、さぞかし友達にも、異性にも、モテまくるんだろうな——……。
「ごめんって。で、なんの話だっけ?」
「だーかーらー、名前の話です! 友達なら、“向井さん”はやめませんか?」
「ああ、その話か。俺はいいけど……それを言うなら、敬語もやめへん?」
「ええ!?」
絃葉が身を乗り出して大袈裟に驚く。
「なんや、そない驚くこと? 絃葉は今、錦山高校の生徒やないんやし、俺たちは先輩後輩やないやん」
「そ、そうですけどぉ」
俺がさらりと「絃葉」と名前で呼んだことに、彼女はほっと顔を赤くした。分かりやすくて可愛らしい。コロコロと表情を変える彼女に、俺はすっかり魅了されていた。
「……分かりました。じゃあ今から敬語やめま——やめる。そして私も、紡くんって呼ぶ」
小悪魔ぽく笑ってみせる絃葉は、やっぱり初対面で俺の心を掴んだだけのことはある。恥ずかしさと、喜びを、全面に追い出し、恋する少女みたいにはにかんでいた。
ああ、綺麗だ。
俺の脳髄に、彼女の笑顔が染み込んでいくような心地がする。
病気と闘っていてしんどいはずなのに、どうしてこうも、彼女は明るくいられるんだろうか。きっと、生まれもった性格が前向きで、何があってもへこたれない強い心を持っているんだろう。日々淡々と、無感動に生きている俺とは違う。彼女は日常で感じられる小さな喜びを、すべて掬っている。だからこんなにも、美しいのか。
「私、紡くんと出会えて良かったなあ。ずっと病室でさ、話し相手は時々来てくれる両親と、看護師さんぐらいでね。もう飽きちゃったよ。友達と、楽しいおしゃべりがしたかったから」
親と会話するのに「飽きちゃった」はないだろうとつっこみたくなったが、彼女の切実な想いは否定したくなかった。
「そっか。俺の方こそ良かったよ。学校ではこんなふうに人と喋ることないし。家ではずっと機織機の音がうるさいし。落ち着くところがないんや」
「機織って、あの文化祭の時に作ってた着物だよね?」
絃葉は興味津々な様子で前のめりになって訊いた。
「ああ、そうや。この辺じゃそんなに珍しくもないけど、家が織物屋でさ。クラスに3人も、同業者がいて。それで文化祭の出し物では着物を展示しようってことになったんや。この絹糸も、仕事場から借りてきた」
俺は先日彼女とぶつかった時に落とした糸を、この日もポケットに忍ばせていた。
「なるほど、そうだったんだ。それでその糸の謎は解けたの?」
「いや、まったく。というか、検証すらしてへんかった」
俺は絃葉と出会ってから、糸のことよりも絃葉のことが頭の中を占めていることに気づかされる。
「えーもったいない! そんなに不思議な糸なのに、糸の正体を解明しない手はないよ!」
「そ、そうかな」
最初は俺の方がこの糸の異質さに気になっていたはずなのに、俺の方に身体をぐっと寄せる絃葉の勢いにけおされて、椅子から後ろへと転げ落ちそうになった。
「うん。あー気になる。気になる! ねえ、何か分かったら私にも教えて」
きらきらと透明に光るようなまなざしが、僕の胸を熱くしたのは間違いない。
「ああ、分かった」
この糸が、色を変えて煌めき、絃葉が持った時にだけ透明になる理由。
俺は彼女のために、この謎を解明することを誓ったのだった。