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ガシャン、ガシャン、と一定のリズムで聞こえてくる織機の音を聞きながら、俺は期末テストの結果が書かれた用紙を握りしめていた。学年10位という、自分の中ではなんとも中途半端な順位に、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
本当は、もっと上を目指さないとダメだ。
10位なら上出来だ、と言われてしまえばそうなのかもしれない。実際、親や友達から、俺は「勉強ができる子」だともてはやされている。親から勉強をしなさいと怒られたことはないし、熱中しているゲーム機を取り上げられたこともない。ただ、自分で納得がいかないだけ。俺は、日本でも有名な難関国立大学への進学を目指しているのだから。
良い大学に入り、良い企業に就職する。
誰もが「良い」と言われる場所に身を置きたい。ただそれだけのために勉強をした。それだけしか、俺には夢も目標もないから。
成績が返ってきたら、まず母親に見せるのが我が家のルールだ。俺は、機織の音が響く工場に立ち入り、母の姿を探す。
「母さん」
いた。母は、腕組みをしながら棚から機織で使う糸を選んでいる最中だった。
京都府北部に位置する京丹後市の海沿いにある町で暮らす我が家は、創業五十年の株式会社つむぎという会社で絹織物業を営んでいる。社長は父親だ。絹織物業はこの辺りで盛んな産業で、江戸時代から300年以上もの歴史が紡がれている。“丹後ちりめん”と言えば、誰もが一度は耳にしたことがあるのかもしれない。我が家も生糸を使い、手作業で主に着物をつくっているのだ。
残念ながら、ご近所の同業者は後継者不足で廃業を余儀なくされており、我が家はなんとか持ち堪えているものの、今後いつ何が起こるか分からない状況だ。俺が、「つむぎ」を継げば、問題は解決されるのだろうれど、鍵となる俺の心は今、機織の仕事からは遠く離れていた。
「あら、おかえり紡」
俺の存在に気づいた母さんが、絹糸を選ぶ手を止めて、俺の方を一瞥する。京都訛りの口調は俺よりも何倍も癖が強い。いつのまにか、目尻の皺が増えたな。母さんは若い頃、周囲から美人と誉めそやされていて、そのため母さんの形質を受け継いだ俺も、学校では“イケメンくん”と女子から噂されているのを知っている。でも俺は、人を見た目で判断すること自体あんまり好きじゃないので、噂話は聞こえないフリをしているのだ。
「期末テストの成績もろてきた。前回と、あんまり変わらへんよ」
母さんが俺の手から成績用紙を受け取ると、一つずつの項目に目を通していった。2年生220人中10位という順位を見て、母さんがほっと息を吐いたのが分かった。
「よかったやない。この調子やないの。私は勉強なんててんでダメやったから、お父さんの遺伝が勝ってほんまによかったわあ」
昭和のアイドルみたいな喋り方をする母さんは、実際この辺ではアイドル的な存在だったのだ。
「それ、なに?」
母親から成績用紙を返してもらった俺は、ふと棚の一番端にある糸が目に飛び込んできた。他の色とりどりの糸に埋もれて、少しだけしか顔を覗かせていない糸が、きらりと光っているように見えたのだ。きらきらとした光沢のある糸もあるので何も不思議でもないのかもしれないけれど、その糸は明らかに、他の糸とは違っていた。
ぱっと見、白のような銀のような、はたまた金色のようにも見える。
だけど違う。俺は角度を変えて、その糸を眺めた。すると、煌めく糸が、突然青色になったような気がして「わっ」と声を上げる。
「どないしたん?」
様子がおかしい俺に、母が尋ねる。その間も、部屋では機織をしている従業員たちが、黙々と着物の生地を作っている。
「これ、なんかいろんな色に光って見えへん?」
恐る恐る、件の糸を手に取って母親の目の前にかざして見せる俺。
「え、そう? ただの白い糸やないの」
「白……」
どういうことだろう。
俺には、「普通の白い糸」には見えない。だって、見る角度によって、今も銀色や金色に煌めいて見えるのだから。それとも、最近試験勉強に根詰めすぎて、俺の目がおかしくなってしまったんだろうか。
「この糸、ちょっと借りてもいい?」
俺は咄嗟に、母親にそう尋ねていた。
「借りる? ええ、まあ白糸は他にもあるからええけど。ちゃんと返してな」
「分かった」
俺は糸巻きに巻かれたままのその糸ごと持って、自分の部屋へと戻る。途中、作業をしている従業員とすれ違い、「こんにちは」と軽く会釈をする。うちで働いてくれている人たちは俺のことをもちろん知っていて、小さい頃は一緒に遊んでくれることもあった。最近はどの人ともめっきり会話をすることもなくなったが、すれ違ったら挨拶くらいはする。
「紡くん、今日もまたテスト勉強かい?」
中でも父親の一番弟子である白川さんが、俺によく目をかけてくれていた。父とほとんど変わらない年齢で、白髪混じりの頭が、俺が彼と出会って過ぎていった年月を思い知らせてくる。
「テストは終わったので、今日はブレイクタイムです」
俺は先ほど拝借した煌めく糸を後ろ手にさっと隠し、彼に笑顔で答えた。
「そうかい。学生も大変やなあ。ゆっくり休めよ」
「はい、ありがとうございます」
白川さんの優しい気遣いを受けて、俺は自室へと戻った。
部屋の中で明かりに照らしてみると、やっぱり不思議な色をしたその糸は、俺の心を鷲掴みにした。金でも銀でも青でもない。ぱっと見は確かに白い糸なのに、なんだろう。特別な糸。俺にしか分からないこの煌めき。そんな非日常な事実が、俺の心をときめかせた。
俺は、糸を十分に観察し終えたあと、そっと通学カバンにしまった。この糸を誰かに見せたら、何か分るかもしれない。久々に湧き出した探索心が、俺を明日へと導いていく。