『その子がいなくなってからずっと、私の人生も止まってるような感覚なの』
 浅羽の過去を聞いて、今まで浅羽がずっとどこか遠い目をしている理由のひとつを知った。
 誰かに積極的に深入りしようとせず、一歩引いて世界を見ているような浅羽は、クラス内では浮きも目立ちもしていなかった。
 委員長の冴島有里とは唯一仲がいいみたいだったけど、完全に自分を曝けだしていないようにも見えた。
 人との間に壁を作っているのかと思っていたけれど、そうではない。
 浅羽はずっと過去に囚われ、現実とは違う時間軸に置いてけぼりになっていたんだ。
 『映は、別人になりたい?』
 浅羽からのあの問いかけに、上手く答えることができなかった。
 別人になりたいなんて、そんな当たり前のこと、今更どう口にしたらいいのか、分からなかったから。
 『薬の混入から、一週間が過ぎました。 私たちは生徒たちの様子を取材し……』ニュースを見ると、実感する。記憶喪失までのタイムリミットを。
 この一週間、報道番組は集団記憶喪失事件の話題で持ち切りだ。
 どれもが非現実的で、俺はパラレルワールドにでも飛ばされてしまったのかと思う。
 「起きてたのか。映」
 朝、リビングに降りると、スーツ姿の父親と顔を合わせた。母親はキッチンで忙しなく料理の後片付けをしている。
 ダイニングテーブルにはいつも通り小さな小鉢がいくつも並んでいて、父親はほとんど手をつけていない。
 俺は斜め向かいの席に黙って座ると、まだ温かいみそ汁を口に運んだ。
 「記憶の方はどうだ? 学習能力に差し支えはないんだろうな」 ……知るかよ。興味がないなら話しかけるな。
 父親がテレビで放つ言葉はすべて台本のようで、いつも感情がない。国民にどう思われるかということだけを考えて、発言しているからだろう。
 「そうだ、四月から住むお前の家は手配しといた」
 「……え?」
 父親の発言とほとんど同じタイミングで、ガシャーン!と皿が割れる音がキッチンから聞こえた。
 母親は必死に破片をかき集めて、「すみません」と謝っている。相当動揺しているのだろう。
 父親はそんな母親を見て、「朝から騒がしいな」とあからさまに苛立っている。マンションって……、新幹線で通えとこの前まで言っていたのに。
 「記憶喪失後は近所からも好奇心の目があるかも知れないし、お前も東京に出て自立したほうがいい」
 もちろん、家を出ていいなんて、俺にとっては願ってもないことだ。
 だけど、母親の反応が不安すぎる。恐ろしくて、視線をキッチンに移すことができない。
 「家で母さんのことを頼むって言ってた話は……」
 「奈緒子ならもう体調も安定しただろう。階段から落ちたのも三年前の話だ」
 母親はまだ精神安定剤を飲んでいるし、手の痺れの後遺症は治っていないし、額の傷は残っている。父親は本当に、母親のことなどなにも見ていないのだろう。
 「それに、もうすぐ優が戻ってくる。心配することはない」
 長男の優は、都内の大学を卒業し、地元で父親の秘書になるため来週戻ってくる予定だ。機械のように勉強だけしていた兄のことは、兄弟でもよく分かっていない。
 ひとり暮らしの話など俺に対しては一度も出たことがなかったから、地元に拘束され続けるものだと思っていた。
 「奈緒子。そういうことだから、分かったな」
 「はい……」
 父親が、割れたお皿を片付けている母親に圧をかけた。
 母親は一切顔色を変えずに、か細い声で返事をしている。まるで家政婦のように。
 「お前もいい加減、これを機に子離れした方がいい」
 母親が俺に依存していることは確かだ。異常だと自分でも思う。
 けれど、その根本的な原因は父親にある。奴隷のように母親を扱い、見下し、話を聞こうともしない。その結果、母親は心労で三年前に倒れたのだ。
 でも――、倒れたきっかけを作ってしまったのは、完全に自分だった。
 母親が気力だけで繋ぎ止めていたものを、俺は言葉で簡単にプツッと切ってしまったのだ。
 「じゃあ行ってくる」
 母親が見送りを終え、ドアが閉まり父親がいなくなると、地獄のように重たい空気が辺りに充満していた。
 抑えていたものが一気に溢れだした母親は、リビングに戻るなり激しく髪の毛を掻きむしった。
 「なんでっ、なんであの人は映まで私から引き離そうとするの……⁉」ほとんど叫びに近い声で、母親は父親への怒りを爆発させる。
 「なんでよ、映がいなくなったら私、生きていけない……。こんな広いだけの家にひとりでいたら、頭がおかしくなる……」
 「……優が来る」
 「いやよ! あの子、憲文さんにそっくりなんだもの。怖い……!」
 母親が俺に依存している理由は、俺が父親に期待されている人間ではないからだ。
 父親や優と立場が違う俺は、唯一の拠り所に感じるのだろう。
 自分の味方になってくれるはず……と。
 「映、お母さんのこと置いていかないよね……?」恐ろしいほどの力で、肩を掴まれる。
 なにも考えずこの手を振り払えたら、どんなにいいだろう。
 母親の額にある傷が、いつも自分の足を引っ張って、ここから動けなくする。
 すべて、無かったことにできたら。
 いったい何度、そんなことを願ってきただろう。
 だから、俺にとって今回の記憶喪失事件は、まさに転機だったのだ。
 母親に対する罪悪感や情をすべて忘れて、別人になってしまいたい――。
 薬の混入を告げられたあの日。誰もが記憶を失いたくないと思う中、俺はあの教室内で恐らくたったひとり、そんなことを考えていた。
 「この傷が、あなたと私の絆よね……?」
 泣きそうな顔をした母親が、ワンレンの髪の毛をかきあげ傷を見せつけてくる。
 ……母親のその傷が、いとも簡単に一番思い出したくない過去へと、俺を引きずり込んでいく。

 〇

 ――中学三年生、春。
 その日、塾に行ってから家に帰ると、珍しく家が荒れていた。
 母親によっていつも完璧にきれいにされているリビングに、割れた花瓶の破片や壁にかかっていたはずの額装された絵画が散らばっている。
 驚き立ち止まっていると、焦ったようにパタパタとスリッパの音が聞こえてきた。「おかえりなさい、映。ごめんね、ほかの用事があって手を付けられていなくて…… すぐ片付けるからね」「いや、一緒にやる」
 ひとまず俺は、足元に落ちていた本を拾う。
 母親はほうきを使ってせっせと割れた花瓶を片付け始めた。
 「どうしたの、これ」
 「うん、ちょっとね。お義母さんが」
 なぜか母親を毛嫌いしている義母が、また暴れたのか。思わず深いため息が出る。
 義母からの嫌がらせは、いわゆる嫁姑問題という言葉で片づけられる範囲を、とっくに超えている。
 そういえば今朝も、庭の手入れがどうのこうのと文句を言って、朝から母親に草取りをさせていた、
 「片付けはいいから、映はご飯食べちゃいなさい」
 そう言われたけれど、この状況の中で食べられるわけがない。
 母親が用意した料亭並みの夕食は、テーブルの上で冷えている。
 「父さんは」
 「さっき、急に食事会が入ったらしいわ。優も付き添いで行くって」
 「……ババアは」
 「こら、そんな呼び方しないの。もう寝たわ。夕食はいらないそうよ」落ち着いた声でそんなことをたんたんと話す母親が、怖い。
 父親は母親に無関心で、母親が用意するすべてのことを当たり前だと思っている。兄も完全に母親をなめていて、毎朝靴下までそろえて出してもらう殿様ぶりだ。
 ほうきを握る母親の手は日々の水仕事のせいで荒れており、手首も痩せ細っている。
 「……もう、この家出て行ったら、母さん」
 「ふふ、心配してくれてるの」
 俺のつぶやきに、母親は小さく笑みをこぼす。でも俺は、真顔のままだ。
 「いや、本当に」
 「いいのよ、映が味方でいてくれるから頑張れる」
 それは、母親がいつも言う言葉だ。
 どんなに心配しても、その一言ですべての問題が先送りにされてしまう。
 「もっと家事も外に頼ったら。親父、金だけはあるんだし」
 今の状況をとにかく打解した方がいいと思った俺は、色んな策を頭の中で考える。
 でも母親は、微笑したまま表情を変えない。
 「……そうね、でもあの人、ものひとつ置くのにもこだわりがあるから」
 「じゃあせめて、ババアは老人ホームに入れたら。もうたまにボケ入ってるんだし」
 「まさか。そんなこと憲文さんが許さないわ」
 「優にも甘すぎだろ。大学生になってまで靴下用意してもらうとか頭おかしいだろアイツ」
 「ふふ、そんなこと言わないで。映のお兄ちゃんなんだから」なにを提案しても、母は自分の負荷を減らそうとしない。
 ぜんぶ受け止める。なにも言わずに。
 このままじゃいつか壊れるに決まっている。
 改善しようとしない母親の姿勢にも、俺はだんだんイライラしていた。
 「いや、真面目に言ってんだけど……」
 「ありがとうね、映。お母さん、掃除用具二階に片してくるわね」
 「だから……」
 ふつふつとその怒りは煮えたぎり、判断力を鈍くしていく。
 だめだ。これ以上話していては、言ってはいけないことを口走ってしまう。 
 でも、俺たちは家族そろって全員異常なのだと認めないと、この状況は絶対に変わらない。
 これ以上、家族に自分の人生のすべてを使ってしまっている母親を見ることが……、怖い。
 「家族の世話ばっかしてないで、母さんももっと自分の人生生きたら?」 ――それは、母親のためを思って言った。つもりだった。
 でもすぐに、やばいことを言ってしまったということを理解する。
 階段を上っていた途中の母親は、なにかを落としたらしく、ガシャンガシャンと大きな音を立てた。
 恐る恐るリビングから階段に向かうと、鉄製のちりとりが下に転がっている。
 そして……、目を見開いた母親が、絶望した表情でこっちを見下ろしていた。
 「私、映にもそんな風に見下されていたの……?」
 「え……」
 まばたきひとつせずに俺のことを見つめる母親は、全然知らない人に見えた。
 どんな時もいつも朗らかに微笑んでいる母親しか、見たことがなかったから。
 「家族の世話ばっかしている私は、そんなにつまらない人間?」自分の言葉が、開けてはいけない感情の蓋を開けてしまった。
 母親の震えた声が緊張感を生み出し、冷汗がじわりとこめかみを伝う。
 あまりにショックが大きすぎたのか、母親はふらりとバランスを崩し、手すりに手をついた。
 「母さん、危な……」
 「自分の人生生きろなんて……、そんな風に突き放されたら私……。自分の人生なんてもうとっくに忘れてるのに、そんなこと映に言われたら私……」
 うつむきながら、ぶつぶつと絶望の言葉を口にする母親を見て、恐怖心を抱いた。
 俺は、自分の発言にどう責任を取ったらいいのか分からないまま、棒立ちしている。つまらない人間とか、突き放すとか、そんなつもりで言った言葉ではなかった。
 でも、俺が放った言葉は、母親に届くまでにいくつも変換されてしまい、崖っぷちで踏ん張っていた母親の心をへし折ってしまった。
 「なんで……? 映はお母さんの味方でしょう……? どうして突き放すの……」
 「母さん!」
 手を伸ばした時には、もう遅かった。
 ゆらりと髪を揺らしてから、母親はそのまま意識を失って階段から落下した。
 ドタンガタンと鈍い音を立てて母親の体が足元に転がってくる。
 「母、さん……?」
 頭の中が真っ白になる、とはこういうことか。
 震えながら、母親の体を起こそうとするも、呻き声が聞こえてすぐに止めた。
 血だ……。母親の額から、血が流れ出ている。
 その赤い鮮血を見て、一気にドクンドクンと心臓が騒がしくなった。
 「母さん!」
 だめだ、落ち着け。息はある。今は下手に触らないほうがいい。すぐに救急車を呼ばなくては。
 落ち着け、落ち着け……と心の中で何度も言い聞かせて、俺は救急車を手配した。
 「久我山さーん、聞こえてますか? 聞こえていたら返事してくださーい!」救急隊員に声かけをされながら、救急車へと運ばれていく母親をただ見守る。
 近所の人も、何事かとぞろぞろ集まってきた。
 「映! 大丈夫か?」
 玄関前で棒立ちしている俺を見て、斜め向かいの敷地に住んでいる幼馴染の加西陽太が駆けつけてきた。
 焦って家を出てきたのか、陽太はジャージ姿のまま、俺の肩を揺さぶる。
 「映、しっかりしろ。なにがあった……? おばさんが倒れたのか?」
 「陽太……」
 「おじさんに連絡はとれたか? とれてないなら俺が代わりに……」
 「……行かなきゃ」
 陽太の心配を振り切って、俺は震えた足を無理やり動かし、救急車へと向かう。
 きっと、今の俺はものすごい顔をしているのだろう。顔面蒼白になっていることが、陽太の心配ぶりからよく分かる。
 「息子さん! お母さん意識取り戻しましたよ」
 救急隊員に案内され救急車に乗り込むと、母親がちょうどゆっくり瞼を開けたところだった。
 もう目を開けないかもしれない最悪の可能性も考えていた俺は、救急隊員の言葉を聞いてほっと安堵する。
 「母さん!」
 そばに駆け寄った俺はすぐに母親の手を取り、目を合わせようと顔を覗き込む。
 すると、目が合った瞬間母親は、「映!」と叫びながら、俺の顔を両手でガッと音がしそうなほどの強さで掴んだ。
 「映だけが母さんの希望なの。映だけが分かってくれる。映がいなかったら、私の人生本当に無くなっちゃう……!」
 「母さ……」
 「私が産んだ。映は私が産んだんだから、どこにも行かせない。憲文さんにも邪魔させない。私が産んだ。私が……」
 目を血走らせて呪文のようにそう繰り返しながら、母親は再び意識を手放した。
 爪が食い込むほどの力で抑え込まれていた頬には、まだ母親の爪痕と体温が残っている。
 俺は多分、母親の中にある最も触れてはいけない感情に、無遠慮に触れてしまったのだ。
 中学生ながらに、重い責任を感じた。
 狂ったように『私が産んだ』と繰り返す母親は、明らかに異常だったから。
 本当に、自分がそばにいなければ危険なことになるだろう……。これから先の未来を悟ると同時に、大きな絶望が襲ってきた。
 母親の言葉が太い鎖となり、俺の足元を雁字搦めにしていく。
 「いるよ、ここに……」
 かすれた声で、目をつむっている母親に返事をする。
 救急隊員が心配してなにか話しかけているようだが、それはただの雑音で、まったく言葉として入ってこない。
 自分の描いていた未来が、母親への罪悪感によって、完全に閉ざされていく。まるで黒い幕が下りていくかのように……。
 その後、俺は県外の寮制高校の受験をやめて、近くの私立高校に進路変更することを決めた。
 母親に自分の人生を生きろなんて言いながら、傷を負わせた罪悪感から母親のための人生を選択した瞬間だった。