今日は、いよいよ卒業式だ。
 明日になったらもう、私たちの十年分の記憶がなくなる。
 私は最後の制服に腕を通して、覚悟を決めてローファーを履いた。
 「深青、いってらっしゃい。見に行くからね」母親も父親も、複雑な表情で私を見送る。
 私は手を振り、静かに笑みを浮かべて家を出た。
 教室に着くと、そこは不安に満ち溢れていた。すでに号泣している生徒たちが、互いを励ますように抱き合っている。
 これが普通の卒業式による別れの涙だったら、どれだけよかっただろうか。
 席に着いた私も、そっと目を閉じて、ここで過ごした思い出を瞼に浮かべる。
 昨日の夜、ずっと書いては消していたメッセージを、ようやくある人に送ることができた。
 【明日になっても、この先何年も、虹奈さんは私の一番大切な親友です。本当に勝手なことを言って、ごめんなさい】
 既読になったものの、返信はなかった。
 虹乃ちゃんがこのメッセージを読んでどう思ったのか、知ることはできない。なにをいまさらと、思わせてしまったかもしれない。
 でも、私の本心を、ちゃんと虹乃ちゃんにも伝えなければと思ったのだ。
 虹乃ちゃんの大切なお姉さんを、私も大切に思って生きていくと……。
 「深青、おはよう」
 ポンと肩をたたかれた方を振り向くと、そこには有里がいた。
 思い切り泣き腫らした目をしている。加西君とは、ちゃんと話し合えたのだろうか。加西君からの手紙はちゃんと受け取れたのだろうか。
 訊きたいことはたくさんあるけれど、それよりも前に、いつも自然とそばにいてくれた有里への感謝が溢れだしてしまった。
 「有里がいてくれたから、三年生は楽しかった」
 「え、やだ急になに……! お別れモードやめてよ」
 有里は慌てたように早口で捲し立てて、でもすぐに、大人しくなった。しんみりとした表情で、私の肩をもう一度ポンとたたく。
 「お別れモードもなにも、本当にお別れじゃんね……、うん」
 「有里……」
 「私も、深青がいてくれてよかった。ありがとう」
 まっすぐ私の目を見つめながらそう言い切ってくれた有里に、胸が震える。
 高校生のうちに、有里のような友人ができるとは思っていなかった。
 誰にでも人気者の有里だけど、私にとってはすごく特別なクラスメイトだ。有里のはっきりした性格や明るさには、いつも救われていた。
 「加西君とは、話し合えた?」
 静かに切り出すと、有里はふと瞳を不安な色に染める。
 「これからまた、会いに行こうかなって……」
 「そっか。行ってきな。また後で」
 私は有里に勇気を与えるように、ぎゅっと手を握り締めた。
 有里はこくんと深く頷いて、隣の教室へと向かっていく。
 頑張れ、有里。どうか、悔いのないように、思いをすべて伝えられますように。
 本当に、心からそう願う。
 ひとりになった私は、ぐるりと教室を見渡した。
 映と黒木さんの席だけ、まだなにも荷物が置かれていない。
 黒木さんが虹奈のお墓参りに行けたのかどうか、気になっていたけれど、あれから彼女は一度も学校に来なかった。
 元々学校には来たり来なかったりしていたようだけれど、心配で少し気になってしまう。
 今なら、虹奈のお墓に一緒に行くこともできたかもしれない。
 もっとこうすればよかった……という後悔が、卒業式当日になってあれこれ浮かんできてしまう。
 それはもちろん、映に対しても同じだ。
 映のことをもっと早く思い出していれば、一緒に過ごせる時間が増えていたかもしれない。
 ひとり考え込んでいると、ちょうどドアが開いて、映が教室に入ってきた。
 すぐにバチッと目があったので、ひらひらと手を振る。すると、映は脇目も振らずにこっちにやってきた。
 「退院おめでとう」
 「たった三日だけどな」
 「アルバムの入稿は無事終わったから、安心してね」
 映がいない間に、最後の仕上げを終えて無事にデータを入稿した。逐一映に報告しながら進めたから、一緒に完成させた気持ちでいる。
 実際に会うのは、病室で会って以来だったから少し気恥ずかしかったけれど、意外にも穏やかな気持ちで話せている。
 映も、「ありがとう」と優しく笑みを返してくれた。
 家族とどうなったのかとか、どこでひとり暮らしをする予定なのかとか、音楽は続けていくつもりなのかとか、気になることは沢山あるけれど。
 でも、映が話したかったらでいい。
 そんな気持ちで待っていると、映がゆっくり口を開いた。
 「退院後は、叔父の別宅で暮らしてる。大学に行くまでそこで世話になるつもり」
 「そうだったんだ……。よかったね」
 「別宅っていうか、そこは叔父の仕事場なんだけど。叔父は作曲家でさ、いろいろ機材が置いてあって楽しいよ」
 そうか。映にもそんなふうに頼れる人がいたことに、心底ホッとする。楽曲制作も
 きっと、地道に続けていくつもりなのだろう。
 楽しそうに語る映を見て、私も嬉しい気持ちになった。
 「あと……、母親はカウンセリングに行くことになった。これでどうなるのか分からないけど、一旦距離は置けたかな。あとは親父に任せる」
 今回の事件のことでようやく映の父親も事態の深刻さを理解してくれたのだろうか。
 映がここまで大怪我をしないと、状況はいつまでも変わらなかったはずだ。
 それはすごく悲しいことだけれど、でも、映は一歩進むことができた。
 映自身は、これでよかったのだと思っていそうな口ぶりだから、私も一緒に喜ぼうと思う。
 「式が終わったら、少し資材室で話そう」
 「え……」
 突然そんなことを提案されて、私は思わず間抜けな声を出した。
 「渡したいものがある」いったいなんだろう?
 疑問に思いつつも、ゆっくり頷く。
 映は「じゃあまた後で」と言って、窓際にある自分の席に向かった。

 〇

 そして、ついに、卒業式が始まった。
 周りにいる生徒たちの啜り泣く声が聞こえる。ただ別れを惜しむ泣き声ではない。外にはマスコミが押しかけていて、教師が対応するのに大変そうだった。
 今ここにいる生徒のほとんどが、明日には十年分の記憶を失うのだ。この校舎で出会ったことなんか、すっかり忘れて。報道番組的には映像に残したいと思うだろう。
 でも、私は思う。出会いと別れが何度も繰り返されたこの場所で、大人になった卒業生たちは、いったいどれほどの記憶が残っているというのだろう。
 中に入れてほしいと騒いでいるマスコミの人たち全員に、聞いてみたい。
 あなたたちは、どれほど覚えていますかと。
 大切だと思っていた思い出たちを、どれほど語れますかと。
 「あーおーげーばー……」
 歌を歌いながら、私は昨夜の自分のことを思い浮かべていた。
 虹奈との思い出と、自分が大切に思う人たちの思い出を、私は〝十年ノート〟と称したノートにまとめたのだ。
 これが未来の自分に役立つものなのか分からなかったけれど、私は過去の自分の感情を記録として残したかったのだ。
 過去の私がどんな人と関わって、どんなふうに感じていたのか……。
 きっと、どんなに詳細に書き込んでも、そのとき抱いた感情をそのまま取り戻すことは不可能だろう。
 でもそれは、記憶を失わなくても同じことだ。
 その時抱いた感情は、その時だけのものだから。
 だから私たちは、その一瞬一瞬を、必死に生きるにすぎない。
 「この度は……ご卒業……誠に……」
 ネクタイ姿の校長先生が、白髪交じりの眉頭を寄せて涙声になったところで、私はそっと目を閉じ、今を胸に刻んだ。

 ◯

 卒業証書を持って、私は言われた通り資材室に向かっていた。
 廊下を歩いている間も、色んなことが思い出される。今から向かう資材室で私たちは初めてちゃんと話して、アルバム委員として活動したんだ。
 たった一ヶ月にも満たない日々だったけれど、永遠のようにも思える。
 まだ映は来ていなかったので、私は資材室の窓枠に手をかけて、横にスライドした。
 穏やかな春の風が中に流れ込んで、ふわりと前髪を宙に浮かせた。
 校舎の外では、卒業生たちが泣いて抱きしめあっている。
 その様子を容赦なく撮影する記者の群れを見て、私はなんとも言えない気持ちになった。
 「待った?」
 「ううん、今来たとこ」
 すっと映がうしろから現れた。胸元には、私と同じく桜のコサージュがついている。
 私たちはなんとなくそのまま横に並んで、窓から外の景色を眺めることにした。
 「皆意外と受け入れ始めてるというか、前向きだったな」映の言葉に、こくんと頷く。
 「もう……、無理やり納得するしかないもんね」
 「記憶がなくなるって、どんな感覚なんだろうな。寝てるうちに進行するっていうけ
 ど」
 「ずっと寝なかったら進行しないのかな?」
 「はは、無理だな」
 「だね」
 実現不可能な妄想を語って、私たちは笑いあった。
 本当に、明日記憶がなくなるとは思えないような空気感だ。
 数秒笑ってから、映は私の反応を窺うように、首を傾げる。
 「……朝が来るのが怖い?」
 映の問いかけに、私は「そうだね」と静かに頷く。
 そうだね。たしかに怖い。怖くないわけがない。
 でも私たちは、明日を受け入れなければ、前に進めないから。
 「皆は、明日大切な人の記憶が消えるなら、最後にどんな言葉をその人に贈ろうって思うのかなー」
 外に群がっている卒業生たちを見ながら、問いかけるでもない盛大なひとりごとをつぶやいた。
 死ぬわけではないけれど、明日を最後だと思って生きることなど、もう人生でないだろう。
 「そう、それ」
 すると映は思い出したように、なにかをブレザーのポケットから取り出した。
 「最後の言葉、渡そうと思って」
 「え……?」
 渡されたのは、二つ折りにした名刺サイズの青いメッセージカードだった。
 「今読んじゃダメ?」
 「別にいいよ」
 「え、いいんだ」
 少し戸惑いながらも、そっとメッセージカードを開く。
 そこには、【@ei_ _0716……】というなにかのIDが書かれていた。
 それを見て、私はすぐに眉を顰める。
 「まだアカウントしか作ってないけど、そこで本格的に楽曲アップしていくから、見てて」
 戸惑っている私を見て、映は少し自信ありげにそう宣言した。
 「全然、最後の言葉って感じじゃないけど。でも、未来の俺はそこで生きてるから」
 未来の映が、ここに……。
 すごく素敵な、最後の言葉だと思った。
 まだ映と繋がれる希望が、この名刺サイズのカードの中に、詰まっている気がして。人差し指と親指でぎゅっと掴んで、「ありがとう」とお礼を伝えた。
 すぐにチャンネルだけでも登録しておこう。そうしたら、忘れないでいられるかもしれない。
 映の思いを噛みしめている間に、映はなぜか、首にかけていたヘッドフォンを外した。黒い高価そうなそのヘッドフォンは、映のトレードマーク的なアイテムだ。
 「あとこれ、もらって」
 「え! いやいや、もらえないよこんな高価なもの」
 予想外の発言に困惑し、私は勢いよく手を横に振って断った。
 けれど、映は「はい」と私の首にそのヘッドフォンをかけてしまった。
 もっと強く断らなければいけないのに、彼の少し茶色い瞳が優しく細められていく様子に思わず見惚れてしまって、拒否できない。
 目の前の映は、ヘッドフォンをかけた私を見て満足げに微笑している。
 「俺の一番大事なものを、深青に持っててほしいんだ」
 「え……」
 「記憶を取り戻す、なにかのきっかけになるかもしれないから」
 記憶を取り戻す……。そんなこと、どうしてか今まで一度も考えたことがなかった。
 どうしてだろう。諦めていたわけではないけれど、そこまで考えている余裕がなかったのだ。
 そんな風に言われてしまうと、断ることなどできない。
 私は遠慮がちに頷き、「わかった」と返した。
 「もし未来の私が壊したりしたら……ごめんね。先に謝っとく」
 「全然いいよ。でも覚えてるうちに、引っ越しの段ボールに詰めておいて。深青も上京組でしょ?」
 「あ、それいいね!」
 映の提案に、私は思わずパッと顔をあげて笑顔になる。
 思ったよりも映の顔が近くにあって、私はそのまま固まってしまった。
 動揺している私とは違って、映は落ち着いた様子で、そのまま私の瞳を見つめる。
 「深青は」
 「え?」
 「最後にどんな言葉、かけてくれるの」
 突然そんなことを聞かれて、頭の中が真っ白になってしまった。まさか、映の方からそんなことを求められるとは……。
 私は必死に頭を回転させて、映に贈る〝最後の言葉〟を探した。
 すると、ある一言がするりと頭に浮かんできた。
 「元気でね……、かな」
 「はは、極薄じゃん」
 しまった。考えがまとまる前に、口に出してしまった。
 言いたいことはそうじゃない。なんて伝えたら、ちゃんと伝わるだろうか……。必死に頭を働かせる。
 「ごめん、そうじゃなくて、なんていうか説明が難しいんだけど……。いろんな意味込めての、元気でね、なの」
 「いろんな?」
 「幸せになってね、体に気をつけてね、無理しないでね、自分らしく生きてね……とか、全部込みの、元気でねだよ。……記憶がなくても、心のどこかで願ってるから」ちゃんと、伝わっただろうか?映は最後まで説明を聞き終えると、嚙みしめるように「そっか」と呟き、また優しく目を細めた。
 私も映も、都内の大学に進学予定だ。けれど、同じ都内といえどその距離は遠く、生活圏が交わることはなさそうだった。
 集団説明会に訪れた医師も、記憶喪失後、すぐに記憶に関わる人と接触することは、精神的に負荷がかかる可能性があるから推奨しないとのことだった。
 だから、どこかで分かっている。
 私たちはここで別れて、もう二度と会うことはないのだと。
 「映……、どうか、〝元気〟でね」涙交じりに、改めて伝えてみる。
 映は、穏やかな顔をして、笑っている。
 「うん。深青も……〝元気〟で」
 短い言葉の中にいろんな感情をこめて、映の幸せを願った。
 映の優しい瞳を見ていたら、泣いてしまいそうになったので、スッと視線を下げる。
 すると、映の胸元にある桜のコサージュが目に入った。
 桜は、来週末には満開になるだろうと予想されている。
 桜が咲く頃、あなたはもう、私のことを忘れていて、私も、あなたを思い出せなくなっている。
 切なくて、苦しくて、胸がちぎれそうだ。
 今目の前にいる映が、明日には幻のように消え去っていくなんて。
 「最後に……、抱きしめてもいい?」
 映が控えめに訊いてきたので、私は自ら映の背中に腕を回した。存在ごと確かめるように、強く、強く。
 映は最初戸惑ったようだったけれど、すぐに同じように抱きしめ返してくれた。
 「今日は泣かないつもりだったんだけど」
 涙交じりの声で、私の頭に顎をのせながら、映がそんなことをつぶやいた。 忘れたい過去、忘れられない過去、忘れたくない過去。様々な感情に振り回されて、私たちは今日、卒業した。
 ここから先は、未知の世界だ。
 でも、恐れずに歩もう。
 大切な人から受け取ったものを、私たちはただ、見えない場所にしまっただけだ。
 桜が咲いた頃の私たちが、どうか少しでも前向きでありますようにと、切に願う。「アルバム委員、残っててよかったな……」
 噛みしめるようにつぶやくと、映は「うん」と頷いてから、私の肩に顔を預けた。
 「奇跡だ、全部」
 映が肩を震わせながら、ひと言そうつぶやいた。
 その一言で、同じ教室にいながらも、一度も話したことのなかった過去の自分たちが思い浮かんだ。
 あんなに狭い世界でも、記憶喪失事件というきっかけがなかったら映を知ることはできなかった。
 映に出会わなければ、私の人生は止まったままだっただろう。
 あなたは、奇跡そのものだ。
 たとえ世界の端と端で生きることになっても、心のどこかであなたの幸せを願う。
 もしまた会えたなら、それはもう、奇跡を超えたことになるだろう。 


第一章 終

続きは発売中の同タイトル単行本に収録されています