知らない自分の過去があること。それは、ただの恐怖だ。
 「じゃあ浅羽(あさば)さんは本当に、小学校から高校生時代の十年間のことは、全然思い出せないんだ」
 週刊誌の編集部でアルバイトをしているという同じ大学の先輩が、珍獣でも見るかのような目つきで問いかけてきた。
 新宿駅南口にあるチェーン店の狭いカフェで、筋肉質な先輩は太い指でノートパソコンを開く。
 「いやー、まさか近くにこんな経験をしている子がいたとは。俺いまピンチでさ、新ネタ持ってこないとクビになるところだったから助かったよ。あ、会社で経費落ちるからなんでも好きなもの頼んでね」
 先輩が、ネタを探しに引退したはずのサークルの飲み会にたびたび現れていることは知っていた。
 だから、飲み会の後に先輩に声をかけられたとき、ついにあの事件と向き合う時が
 来たのか……と、ストンと受け止めることができた。心のどこかでいつか声を掛けられる気がしていたのだ。
 「ネタになるかどうか、分からないですが……」
 乾いた笑みをこぼしながら、私は自分の過去を顧みた。
 たしかに、私は高校三年生の時に、普通の人ではそうそうない経験をしている。
 ――〝集団記憶喪失事件〟に巻き込まれた――なんて、無個性な自分の人生の中では、かなり大きな出来事だ。
 私は今大学四年生でもうすぐ二十二歳になるけれど、そのうち十年の記憶がない。自分の歴史にぽっかりと大きな穴が開いているのだ。
 幸い勉強したことは忘れずにいられたので学力に差し支えはないが、頭の中からなにかが欠落している感覚は常にある。
 気持ちを落ち着かせるように、忙しく人が行き交っている窓の外の景色を眺める。もう季節は夏なのに、東京にいるとあまり四季を感じられない。
 地元に帰ると、鬱陶しいほどに生い茂った緑と蝉の声が、夏だ夏だと言わんばかりに知らせてくるのに。
 「じゃあ、まずは事件当時の気持ち、聞いてもいい?」「すみません。それも……覚えてないんです」
 「あ、そっか!」
 先輩はしまったというように、大袈裟なリアクションをして頭をかく。
 なんだか申し訳ない気持ちになって、グラスが結露しぬるくなったアイスコーヒーを一口飲んだ。
 「えーと、しまったな。どうしよう。そうだなー、これは後半に聞こうと思ってたんだけど……。あのさ、クラスメイトの写真とか見ても、ピンとこないものなの? 人の記憶って芋蔓式に出て来るってよく言うけどさ」
 突然スッと差し出されたスマホの画面。そこには、端正な顔立ちだけど少し暗い雰囲気の青年が映っていた。頭には大きなヘッドフォンをつけて、カメラをつまらなさそうに見つめている。
 「現役大学生で人気ボカロ作曲家の久我山映(くがやまえい)。この人も同じ事件に巻き込まれていたらしいけど、見覚え無い?」
 「すみません……。分からないです」
 その写真を見て、私はすぐに首を横に振る。すると、先輩は「そっかあ」と残念そうに眉を顰めて、スマホをテーブルに置いた。
 覚悟していたことなのに、他人に興味本位で過去を探られることに、今更ざわざわと不安な気持ちになっている。
 「まあー、ドラマみたいにはいかないよね。いいよいいよ気にしないで。他の質問ちょっと考える!」
 焦ったように先輩がパソコンを打ち鳴らす。
 自分が空っぽであることを改めて認識させられた私は、「すみません」と小声で謝罪をした。直後、いったい何に対して謝っているのか……と、虚しくなる。
 微妙な空気が漂っている私たちの隣の席に、垢ぬけた女子高生二人が飲み物片手にやって来た。
 「ねぇ昨日の更新観たー?」
 「観た! グループ発表、皆本気で可愛かったー。はあ、全員受かってほしい……」
 「もう推し決めた? 私はねー……」 
 おそらく今話題のアイドルオーディション番組に夢中になっているのだろう。スマホ画面を二人で楽しげに覗き込みながら、女子高生たちは驚いたり爆笑したりしている。
 私は、まるで遠い星を見るかのように、その様子をぼうっと眺めた。眩しい。未来のことなどちっとも不安ではないとでもいうように、煌めいて見える。
 その女子高生たちの姿は、全く自分の記憶には重ならず、ただただ空白が広がっているだけだった。
 「あ、この曲!」
 しかめっ面をしていた先輩が、急に店内に流れ始めた曲を聞いて目を輝かせた。
 「久我山映が記憶喪失事件と向き合って作った新曲なんだって。確か曲名がー、なんだったっけな……〝空白〟的な……」
 ちょうど今自分の胸に浮かんでいる単語が出てきたので、ドキッとした。
 気にも止めていなかった曲に、ちゃんと耳をすませてみる。
 この曲を作った人が、私と同じようにあの事件に巻き込まれていたのか。そんな有名人が母校にいただなんて、全然知らなかった。
 初めて聴くそのメロディーは、鈴の音のような高らかな女性の声と合わさって、なぜか胸の中にスッと染み込んできたのだった。