あれから体調を悪化させてしまった私は、夕方、病院に連れていかれ、そのまま病院生活に逆戻りしてしまった。
 自業自得とはいえ、今回は入院したくなかった。

 穂村くんがおすすめしてくれた本、読めなかった。

 慣れたはずのベッドの上は、退屈どころか、ますます私を絶望の淵に落としていく。
 もうすっかり日は暮れて、カーテンが閉められている。
 今日は上手く寝付けなくて、私はベッドから降りてカーテンを開けた。
 黒い空の中に、月が一つ、輝いている。

 どうして綺麗なものを見ていると心が満たされるだけでなく、涙がこぼれそうになるんだろう。

 もう強がらなくてもいいよ。

 そんなふうに言われているような気がして、私は涙を堪えるのを辞めた。

 光のない人生だった。
 光に憧れた人生だった。
 奪われるばかりで、たくさん諦めてきた。
 せっかく見つけた楽しみも、こんなに簡単に奪われる。

「もう、私からなにも奪うな、バカ……」

 私のか細い声は、闇に攫われていった。



 また、織部さんの席が空席になった。

「星那ちゃん、また来なくなっちゃった。洸太、なにか知ってる?」

 和泉は寂しそうに織部さんの席を見つめている。
 織部さんは、和泉には病気の話をしていなかったらしい。

「……さあ」

 勝手に話していい内容でもなくて、僕は曖昧に誤魔化すことしかできなかった。

 放課後になると、僕は家に戻って自分の本棚から『朝露』を取り出した。
 少しでも、彼女のやりたいことを叶えたい。
 そう願う僕にできることは、これくらいしかなかった。

 数週間前に訪れた病院。
 今回は迷わなかった。

「星那、元気出せー」

 織部さんの病室に向かう途中、少年の声が聞こえた。
 声がしたほうを見ると、子供たちが織部さんを囲み、心配そうに見上げている。
 織部さんは、魂が抜けたように見えた。

「……こんにちは」

 僕が声をかけると、織部さんの視線はゆっくりと動く。
 焦点が合っていなかったように感じた視界に、おそらく僕が写った。

「穂村くん……」

 織部さんは泣きそうな声で言った。

 彼女がやりたいことを忘れたと言った理由。
 それを、今ようやく理解した気がした。

「……これ、持ってきた」

 僕は鞄から本を取り出す。
 少しだけ、織部さんの目に光が宿ったように思えた。

「ごめん、みんな。今日は遊べない」

 織部さんはそう言いながら、僕のもとに来る。
 そして僕たちは織部さんの病室に向かった。

 織部さんはまるで家のようにリラックスしている。
 彼女がベッドに腰かけると、僕は本を渡した。

「ありがとう、穂村くん」

 僕は、思わず織部さんの笑顔から顔を背けてしまった。
 こんなにも喜んでくれるとは思わなかった。

「それ、僕のだから、いつ返してくれてもいいよ」
「そうなの? じゃあ、大切に読む」

 なんだか、毒気が抜けたみたいだ。
 本当の彼女は、とても穏やかな子なのかもしれない。

「あの、さ。やっぱり、織部さんのやりたいこと、教えてよ。全部、叶えよう」

 織部さんは少し悩んで、ベッドのそばにある勉強道具の山からバインダーを手にした。
 そして一枚のルーズリーフを取り出すと、僕に差し出した。

“死ぬまでにやりたいことリスト”

 学校に行く。
 授業を受ける。
 友達を……作る、だろうか。
 友達との勉強。
 図書室に行く。
 学校行事への参加。
 海に行く。

 そして、恋をする。

 どれも、僕たちの当たり前の日常だ。
 だけど、どれも彼女にとっての当たり前じゃない。

「もう、全部叶わないけどね」

 僕が目を通し終えると同時に、織部さんはまた泣きそうに笑いながら言った。

「そんなことは」

 ない、と無責任には言えなかった。

「たった二日。いや、一週間かな。そんな短い間に、私の身体は一気に病に蝕まれたんだって。だから、今までの薬で抑え込むことができなかったみたいで。本当、世界は残酷だよね」

 ああ。
 神様は、意地悪だね。

 思うことはたくさんあるのに、僕は声が出せなかった。

「……やっぱり、困るよね。ごめん」

 織部さんは僕の手からルーズリーフを取り戻そうと、手を伸ばす。
 僕は思わず手を引っ込めた。

「勉強、しよう。まだ叶えられるよ」

 慌てて提案したから、織部さんは驚いている。
 だけど、すぐに表情を和らげた。

「また、同情?」
「違う。……違うんだ」

 あのときだって、違ったんだ。
 君をかわいそうだと思って、いろいろしているわけじゃない。
 君のために、僕がしたいと思ったんだ。
 それが照れくさくて、素直に言えなかっただけ。

「穂村くんは優しいね」

 そう言って、織部さんは微笑む。

 ねえ、織部さん。
 君の恋の相手は、僕じゃダメかな。

 なんて、言えそうになかった。