病院から許可が出て一週間。
 私は久しぶりに自宅で朝を迎えた。
 部屋の壁には、一度しか袖を通していないブレザータイプの制服が寂しくかけられている。
 埃が被っていなかったり、皺がないところを見るに、お母さんがちゃんと手入れしてくれていたんだと思う。

 高いお金を払って買ってくれた制服。
 着る回数が少なくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりそうだけど、それはきっとお母さんを困らせてしまう。
 だから私は、整った制服を見て感謝をするべきなんだ。

 絶対に、お母さんたちの前では申し訳なさそうな顔はしない。

 そう心に決めて、私は部屋を出た。

「おはよう、星那」

 食卓でコーヒーを飲んでいるお父さんが一番に声をかけてくれた。

「おはよう」

 続いて、朝食の準備をしているお母さん。

 私、家に帰って来たんだ。

 そう感じるには十分すぎる日常だった。

「……おはよう」

 そして、私の指定席に座ると、お母さんが朝食を運んできてくれた。
 焼き鮭、卵焼き、みそ汁、白米。
 美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。

「いただきます」

 手を合わせて、黒ベースで桜が描かれた箸を手にする。
 不特定多数の患者用じゃなくて、私用。
 なんてことない日常の連続に、泣きそうだ。

「……美味しい」

 私が呟くように言うと、お母さんは目を潤わせて微笑んでいた。

 それから自室に戻って、制服と睨み合う。
 これは恐怖なのか。それとも、緊張なのか。
 自分の感情のはずなのに、はっきりとはわからなかった。

 新品同様の制服はまだ生地が硬くて、着心地が悪かった。
 部屋にある姿見でおかしなところがないかを確認する。
 ちゃんと、正しく着れている。
 だけど、あまりに馴染んでいなくて、自分で笑ってしまった。

 すると、ノックの音がした。
 返事をすると、お母さんがドアを開け、顔を覗かせた。

「準備できた?」
「うん」

 机の上に準備していたスクールバッグを持ち、部屋を出る。
 玄関先には、ローファーが並べられていた。
 足が痛くなるから履きたくないな、なんて思いながら、足を伸ばした。

 お母さんが運転する車に揺られること十五分、学校の駐車場に到着した。

「星那、いいね? 無理は絶対しないこと」
「わかってる」

 小学生のころは鬱陶しくて仕方なかったこの確認も、もはや日常会話。
 私は忘れ物がないか確認をしながら返す。

「なにかあったら、すぐに保健室に行ってね」
「うん。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 車を降りると、校門の方から楽しそうな声が聞こえてきた。
 他の生徒が通学してきたのだろう。
 私は急に、自分が受け入れられるのか、不安になってきた。

 だけど、このまま立ち止まっていたら、お母さんに心配をかけてしまう。

 自分を奮い立たせて、一歩、踏み出した。

 一度しか訪れたことはないのに、意外と迷わなかった。
 入学式のときに見て回ったとき、結構覚えていたらしい。

 一年三組、三番。

 記憶を頼りに教室に辿り着いたのはいいけど、入る勇気がなかった。

「織部さん?」

 ドアに手を伸ばして固まっていると、横から名前を呼ばれた。

「……穂村くん」

 知っている顔に出会ったことで、私は一気に安心した。
 でも、穂村くんは少しだけ顔を顰めたように見えた。

 それもそうか。
 あんなことを言っておいて、いい印象を抱く人なんていない。

 私は勝手に、唯一の味方のように思っていたみたいだ。
 なんて都合のいい妄想だろう。

「学校、来たんだ」

 冷たく感じる声で、穂村くんは会話を続けた。

「あ、うん……」

 私の返答はぎこちなかった。
 そして穂村くんは、私が開けられないでいたドアを、簡単に開けた。

「入らないの?」

 たった一歩。
 それが踏み出せなかった。

「洸太、おはよ!」

 私が躊躇っていると、教室から明るい声が聞こえてきた。

「おはよ」

 私を待っていてくれた穂村くんは、私に背を向けた。
 初対面のときに聞いた明るい声だ。
 みんな穂村くんに気付くと、どんどん挨拶を交わしていく。

 病院にいるときの、私みたい。

 だけど、穂村くんと私は違うように感じた。
 年上だからという理由だけで頼られている私とは、絶対に違う。

「あれ? 転校生?」

 ふと、声がした。
 皆の視線が私に集中する。
 同い年の人たちと関わることが少ないせいで、どう対応するのが正しいのか、私にはわからなかった。
 できたのは、せいぜい目を逸らすことぐらいだ。

「違うよ。クラスメイトの織部さん」

 穂村くんは訂正しながら、窓際から二列目の一番後ろの机に鞄を置いた。
 私を転校生と言った彼は、私を見ながら穂村くんの席に近付いていく。

「ああ、ずっと休んでた子だ」

 その通りだけど、そんなはっきりと言ってほしくなかった。

(しゅん)、デリカシーなさすぎ」

 穂村くんははっきりと言った。
 彼は少し、申し訳なさそうにする。

 気にしないで。事実だし。

 そう、明るく返すことは私にはできなかった。

 そしてその場から逃げるように、自分の席に着く。
 廊下側の、前から三番目。
 左側から視線を感じる。
 こんなにも注目されてしまうなら、最初から保健室に行けばよかった。
 居心地の悪さを感じながら、ただ始業時間を待つ。
 そうだ、いつもの本を読もう。
 そうすればきっと、少しは落ち着くだろうから。

「ねえねえ、織部さんの名前って、セナ? それとも、ホシナ?」

 鞄に手を伸ばすと、前に座っていた女の子が声をかけてきた。
 その表情からして、雑談のつもりだろう。

「……セナ、です」
「星那ちゃんか。私は和泉(いずみ)真保(まほ)。よろしくね」

 私は、和泉さんに笑顔を返せなかった。

「……よろしく」

 みんなより先に死んでしまう私が、友達を作っていいのかという葛藤のせいで、印象の悪い返しになってしまった。

 友達。
 憧れていたのに。

「星那ちゃんもその本、読んでるの?」

 印象が悪かったはずなのに、和泉さんは会話を続けてくれた。
 少し気を使っているように見えるのは、気のせいではないと思う。

 これは、チャンスだ。
 卑屈になっている場合じゃない。

「私の、一番のお気に入りなの」

 私が返すと、和泉さんに自然な笑顔が戻った。

 それから始業のチャイムが鳴るまで、私は和泉さんと話していた。
 あれだけ恐怖心を抱いていたのに、いつの間にか和らいでいた。