「あの」
不意に、後ろから誰かに声をかけられた。
考え事をしていた僕はハッとして、咄嗟に振り返る。後ろから、ざぶんという波の音が間近に迫って響いた。
「足、濡れちゃって寒くないんですか?」
振り返った先にいた、黒髪の少女が、僕の足元を見つめながらそう聞いた。
彼女の言葉に、自分の足に波がかかっていることに気づく。
黒髪の少女は、間違いなく僕の記憶の中にいる、あの榛色の瞳をした彼女そのものだった。白いロングコートが、彼女の白い肌を一層浮き立たせている。見た目も声もまったく同じだ。そのことに、軽い衝撃を覚える。
「なつみ……?」
自然と口から漏れていた僕の呟きに、目の前の少女が「え?」と瞳を瞬かせる。
「どうして、私の名前知ってるんですか?」
訝し気に僕を見つめる瞳が、真実を探ろうとしていた。
やっぱり彼女が、春木夏海なんだ。
そうと分かって、僕の心臓が大きく跳ねた。
「あ、いや、僕の知人に似てると思って……すみません、突然呼び捨てなんかして」
さすがに、SNSで命の恩人を探していて、今日海に来ると書いていたので会いにきました、なんて最初から言えるはずがなかった。
彼女は、僕の言い訳を聞いてどう思ったんだろう。
じっと何かを思案するような瞳で、僕のことを見つめていた。僕の足には相変わらず波がかかり続ける。でも、そんなことよりも今は、目の前の少女のことで頭がいっぱいになっていた。
「もしかして、Harukiさん……?」
ようやく僕の正体に気づいた彼女が、何度も瞬きを繰り返す。
「はい。僕は、あなたに命を救われた、Harukiです。本名は、真田春樹といいます」
衝撃を受けたように瞳を大きく見開き、彼女が僕から一歩後ずさる。
彼女の記憶の中で、湘南の海で溺れている僕を助けたことが、いまだに深く記憶にこびりついていることが分かった。
「どう、して」
信じられない、というふうに口に手を当てる彼女。
僕は正直に、目が覚めてからここまで来るに至った経緯を話した。
彼女は僕のストーカーじみた行為を気持ち悪がるかと思ったが、実際の反応はまったく違っていた。
「私、毎月この海に遊びに来てたんです。ここは湘南の海とは違うけれど、あなたのことがずっと気がかりで……。あのとき助けた人が、まさかSNSで人気のアーティストだなんて知らなかったんですけど、ずっと、大丈夫かなって気になってて。海を眺めてあなたのことを考えるのが、私の習慣になっていました」
「そうだったんですね。その節は本当に、ありがとうございました」
彼女が、僕を助けた後もずっと僕のことを考えてくれていたということに、胸が張り裂けそうな思いがした。
ディーナスの夏海もいつも僕のことを一番に考えてくれていた。夏海という人間は、そういう優しく温かな人なのだ。
「ううん。私のほうこそ、お礼を言いたいです。私、あの時ちょうど修学旅行で湘南に来ていたんです。その旅行中に、幼馴染の龍介から——あ、こんな名前なんて出しても分からないですよね。幼馴染の男の子から、告白をされて。どうしたらいいか分からなくて、夜中に部屋を抜け出して、海で思い悩んでたんです。その時、あなたを見つけて、我に返ったというか。とにかく、『助けないと』って突き動かされました。あの出来事がなかったら、きっと私は今も迷子の子猫ちゃん状態だったんだろうなあ」
彼女の口から、龍介という名前が出てきて、僕は息をのんだ。
この世界に、龍介がいる。
もちろんディーナスで出会った龍介とは別の人物だろう。でも、こうして夏海と話している以上、龍介が存在していても不思議ではなかった。
「だから、ありがとうございました。私がお礼を言うのはおかしいのかもしれないですけれど。私、あんな形だったけど、あなたに出会えて良かったなって思ったんです」
夏海の瞳が、ゆるりと揺れていた。
僕は、そんな彼女の姿を見て、胸に込み上げる衝動を抑えられなくなっていた。
「あの、夏海さん。信じられないかもしれないけど僕、眠っている間に夏海さんに——夏海に、会っていたんです」