タッタッタッという足音を立てて小走りで近づいてきた人物が、ベッドの上に寝そべったままの僕の顔を覗き込む。
「母さん……」
シワの刻まれた母さんの顔は、どこか遠い異国の世界の人物であるかのように、周りの景色から浮き上がって見えた。実際は、僕の方が異世界から舞い戻ってきたのだ。
久しぶりの母さんとの対面では、懐かしいという感覚を覚えるより前に、ぬらりと光る墨汁のような罪悪感が僕の胸をひたひたにした。
「ごめん、なさい……」
口をついて出てきたのは、謝罪の言葉以外には何もなかった。
僕はずっと、母さんと父さんに謝らなければならなかった。
嘘をついてごめん。
期待に応えられなくてごめん。
勝手に絶望して、命を投げ捨てようとした。
二人はきっと、僕を恨んでいるだろう。
ずっと、両親の想いに鈍感なふりをして生きることに、心のどこかで罪悪感が拭えなかったのだ。
母さんは僕の懺悔を聞いて、ベッド脇で目を丸くして立ち尽くしていた。母さんの右手が宙に高く持ち上げられる。ぶたれる、と反射的に目を瞑った。子供の頃、友達とちょっとしたイタズラをしたり門限を破ったりした時、僕をお説教するのはいつも父さんではなく母さんだった。
「春樹……帰ってきて、くれたのね」
すうっと、頬に温かい何かが触れるのを感じた。
紛れもない母さんの手だ。
母さんは、持ち上げた右手で僕を叩くのではなく、僕の頬を優しく包み込んだのだ。
「母さん、なんで……。僕は、最低なことをしたのに」
良い意味で期待を裏切られた僕は、目尻に涙を浮かべている母の顔を、震えながら見つめる。母さんの瞳には、僕が想像していた“怒り”の感情は映っていないようだった。その代わりに、幼子を見つめるような優しげなまなざしが、切なく揺れている。
母は僕の呼吸を確かめるようにしばらく間を置いた後、大きく息を吸った。
「……そうね。最低なことをしてくれたわね。大切な命を投げ出すなんて、親不孝にも程があるわ。……でも、春樹がそんなに苦しんでるのに、何もしてやれなくて、私はお母さん失格ね……。あなたが夢を追いたいって言っていた気持ちも、親のエゴで踏み躙って。だから春樹は一人で頑張ってたのに、あんな事件が起きて。挙句こんなことになったんだって、自分を責めたわ」
母さんは途中、声を震わせながら目尻に涙を溜めてた。
その切ない表情を見て、僕の中で何かが決壊した。
「……っ……。違うよ、僕が浅はかだったんだ。自分はきっと何者かになれる。そう思って、夢ばかり追ってたんだ。母さんや父さんを悲しませるって分かってて、最低なことをしたんだ。……あの事件が起きて、世間から痛い目で見られた時、その報いを受けたと思った。親不孝者の自分が、一生夢を追って輝けるなんて、そんなはずがなかったんだ。これは僕自身の選択が招いたことだから、母さんは悪くないよ」
母さんの目が、大きく見開かれる。
「母さん、今まで本当にごめんなさい。母さんたちの想いを無視して、勉強せずに歌ばかり歌っていたことも——命を捨てようとしたことも。僕は、母さんたちに謝らなくちゃいけないことばかりだっ」
込み上げてくる母さんへの愛情を、僕はひしひしと感じていた。
両親の存在は、自分の将来を阻む大きな堤防のようにしか思っていなかった。でも違う。母さんも、そしてきっと父さんも、僕が勉強から逃げ出したと知った時からずっと、変わらない愛で僕のことを心配してくれていた。両親の気持ちに、僕はようやく気づいたのだ。
「いいのよ、そんなことはもう。お母さんはね、あなたが戻ってきてくれただけでいいの。それだけで十分よ。ありがとう。帰ってきてくれて……」
とうとう母の目尻に溜まっていた涙が溢れ出した。僕は、泣き崩れる母さんの背中に手を添えようとしたけれど、思うように腕が動かない。代わりに、「母さん」と何度も口にした。ごめん。待っていてくれてありがとう。何度も呟いては、現実世界に戻ってくることができた喜びをかみしてめいた。
そのうち、病室から聞こえてくる会話を訝しく思った看護師が僕たちの前へと現れ、意識を取り戻した僕を見て目を見開く。「先生を呼んできます!」と言い残して足早に去って行った。