『夏海、改めて、ここ一ヶ月の間、夏海のこと避けて本当にごめん。怖かったんだ。夏海を失うことも、僕の声が戻らないことも。どちらも嫌だった。だから選択を先送りにした。夏海のことが大切じゃなくなれば、きみを失わずに済むんじゃないかって思った』

「春樹くん……」

 そうだ、そうだよね。
 春樹くんがいちばん、怖くて苦しかったよね。
 何がいちばん最善なのか分からなくて、迷ってたんだよね……。
 そう気づいてたのに、私は春樹くんと前みたいに話せなくなってしまったことが辛くて、一人で勝手に傷ついていた。
 ピコン、と再び通知音が鳴った。
 春樹くんが、次の文章を送った合図だ。

『きみのことを避けて、あわよくばきみに僕のことをひどいやつだと思われたらそれでいい。僕に、敵意すら向けて欲しかった。情けないよな。自分から夏海を嫌いになるんじゃなくて、夏海の方から僕を嫌いにさせるように仕向けるなんて、卑怯だ。人を好きになるより、好きだった人を嫌いになる方が、絶対難しいはずなのに』

 海から漂う潮の香りが、鼻の奥をツンと刺激する。しょっぱい、と思ったら、自分の目から涙が流れていることに気がついた。
 好きになるより、嫌いになる方が難しい。
 確かにそうかもしれない。
 龍介や理沙ちゃんのこと、私は絶対に嫌いになれない。龍介が私に好意を伝えてくれて、気まずい返事をしてしまった後も、龍介のことは好きだ。もちろん友達としてだけれど、龍介が根っからいいやつだって知ってるから。
 理沙ちゃんも、時々喧嘩をしてしまうけれど、圧倒的な包容力で私を包んでくれる。だから私は、理沙ちゃんのことも、絶対嫌いにならない自信がある。
 春樹くん。
 私は、春樹くんのことがいちばん、嫌いになれないよ。

『僕は馬鹿だった。現実世界でもあんなことがあって、人間関係については反省していたはずなのに、大切な人との向き合い方は、やっぱり何ひとつ分かっちゃいなかった。今ならどうして僕がこの世界に連れてこられたのか理解できるよ。僕は、成長過程の人間だったんだ。いくら歌で少し有名になったって、好きな人の心一つも守れない、ただのガキだった。だから人生をやり直して、本気で心を通わせられる人間関係をつくってみろって、案内人が僕に挑戦状を突きつけてきたんだと、思う』

 挑戦状。
 ディーナスの世界での日々は、甘く楽しいだけじゃなかった。
 私も、春樹くんも、他のみんなもきっと、誰にも言えない想いを抱えて生きていた。 決して本当の心の痛みを悟られないように、笑顔の下に苦しみを隠して生きてきた。
 彼がこの世界での日々を挑戦状だと言ったのにも頷ける。

『ようやく、気づいたんだ。僕が向き合うべき人は、いちばん近くにいるんだって。声が出なくたって、想いは伝えられる。僕は僕の方法で、夏海に伝えたいと思った。これ、見て』

 春樹くんが、わきに置いていた鞄から一冊の大学ノートを取り出した。どこか見覚えのある、有名な文房具メーカーのロゴが入ったノートだ。あ、と夢の記憶がフラッシュバックする。そうだ、このノートは、確か今朝の夢で春樹くんが何かを書いていたノートだ——。
 彼はノートの一ページを開いて、私にそっと差し出してきた。なんだろう。何が書いているんだろう。どきどきしながらノートに視線をやった。

「これ……」

 ノートには、詩のような短い文がつらつらと並んでいた。

『恥ずかしいけど、夏海のために歌を作ったんだ。メロディーもつけたから、聞いてくれる?』

「歌……」

 春樹くんが、背中に背負っていたギターをおろして胸の前で構えた。彼の指が、シャララン、と優しい音を弾く。春樹くんは深く息を吸い、メロディーを奏で始める。
ドク、ドク、と大きな振動を震わせる心臓を必死に宥めながら、私は彼が書いたという歌詞を目で追いかけた。



“春風がぼくらを誘う
 ねえ、見て
 ねえ、聞いて
 物語のヒロインみたい
 きみはくるりと踊って会釈する

 三人の輪はかたちを変え
 四人の輪になり回りだす
 きみはみんなを大切な仲間というかもしれない
 だけどぼくは輪っかを壊しにかかる

 きみが夢見る未来を守りたい
 太陽みたいにきらきら光る目で語るその夢
 ぼくはまぶしくて時々目を閉じたくなるほど
 だけどやっぱりもう一度まぶたを上げる
 きみが夢を語る姿見ていたいんだ
 
 壊れそうなこの想いは
 夏の寂しさに溶け見失いそう
 失ったのはいちばん大切だったはずの音
 いちばん自分らしくいるための声
 まっくらな海の底に沈む
 想いのかけらは弾けて見えなくなった 

 からっぽになったぼくの心が
 海底で揺れ泡となる
 この想いは誰のもの
 この寂しさはどこへ行く
 この気持ちが壊したものは
 きっと僕の情熱と愛
 きみへ伝えたかった言葉が沈む

 絶望の淵でゆれるまなざし
 僕がみつけたひとつの希望
 手のひらからこぼれ落ちたと思うのは簡単
 やがてこの手の中にあったと気づいた
 きみへの恋はまだここにある

 秋の晴れ間を差す黄金の光を
 そっとまぶたの裏に感じてごらん
 海の底で見えなくなってた
 想いのかけらが降りそそいでく
 言葉となって溢れ出すのは
 たったひとつの僕の真実
 変わらない心
 変わりたくないもの
 全力で叫び続ける
 たとえこの声がもう二度と届かなくても
 ずっとずっと言えなかった
 ずっとずっと言いたかった

 僕はきみのこと
 壊れそうなくらい好きだ”