龍介からLINEが来たのは、九月終わりの金曜日の晩だった。夏海が三日間学校を休み、ようやく登校したかと思えば、ほとんど誰とも会話をすることなく一日を終えた。いつも明るく周囲を和ませている夏海の様子を知っている僕からすれば、夏海はどこかおかしかった。
『夏海と向き合え』
龍介からのメッセージには、強い気持ちが込められていた。
龍介はたぶん、夏海に恋をしている。
僕と同じだから分かるのだ。思えば夏休みに海に行った日に、龍介と夏海の様子がおかしかったのは、二人の間に何かあったからだと推測できた。どうして今まで何も気づかなかったんだろう。自分のことばかりで、夏海たちの中で揺れている青春の痛みが、僕の胸を今さらながらに襲ってくる。先週、理沙から告白をされたことも、理沙が僕に、前へ進めと鼓舞してくれたのだと感じて、自分を情けなく思う。
『分かってる。龍介、ごめん』
龍介は夏海に、告白したんだろうか。
だとすれば、夏海は龍介にどんな返事をしたんだろう。
聞かなくても、龍介の言葉から発せられているオーラを感じて、なんとなく察してはいた。龍介は自分の気持ちを押し殺して、こうして僕をけしかけるようなことを言うのだ。
本当に、ごめん。
もし僕が今、龍介の目の前にいたら、僕は龍介から頬を一発殴られていただろう。僕の煮え切らない態度が、夏海だけでなく、理沙も、龍介もみんな、傷つけている。
『違う。違うんだ。謝ってほしいわけじゃないんだ。春樹、俺は春樹にも、笑ってほしいんだよ』
想像していたのとは違う、龍介の優しい言葉が僕の胸を詰まらせた。
どうして。どうして龍介は、不甲斐ないこの僕に、こんな透明な言葉をかけてくれるんだろう……。
『春樹は俺にとっても、大切な友達だからな!』
スマホの画面から、龍介がガハハと笑っている声が聞こえるような気がして、僕は鼻の奥がツンとした。
まったく、僕は本当に何も分かってなかったんだ。
現実世界では一人もできなかった友達に、こんなにも励まされているなんて。
案内人——。
僕は久しぶりにその人の名前を心の中で呼んだ。いや、これを名前と呼んでいいのか分からない。この世界で、唯一客観的に、僕のことを見ていてくれる人。僕はただ、その人に縋りたかった。
——真田春樹さん、どうされましたか。
頭の中に響いてきた声は、いつもより湿っていた。
『なんでもない。ただちょっと、声が聞きたかっただけなんだ』
僕は、この世界にやってきて、未だかつてないくらいに自分の気持ちが揺れていることに気づいた。案内人は、「そうですか」と静かに息を吐くようにつぶやく。
——あなたの声が聞けて、私も良かったです。あなたに会えて、“案内人”としてとっても光栄でしたよ。
『え?』
案内人が、どこか透き通るような声で、感情的な言葉を口にした。こんなふうに、彼女の気持ちを聞いたのは初めてだったので僕は戸惑う。
それにしてもこの声……誰かに……。
案内人について、思考を巡らせていたところで、一階のリビングからNPCの母が「ご飯よ」と僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
『ごめん、下に行く』
——はい。いってらっしゃい、真田春樹さん。
いつかと同じように、案内人が僕の背中を押した。
僕は、香ばしい匂いのする食卓へと向かう。テーブルの上に並べられているのは、僕の大好きな唐揚げだった。現実世界では「油の処理が面倒なの」とあまり揚げ物を作ってくれない母親だったが、そんな母の手料理を、もう二度と食べることができないのだと、僕はこの時は初めて実感して涙で視界が滲んだ。
「春樹、疲れてるだろうから、これ食べて元気出して」
NPCの母が、にっこりと歯を見せて微笑む。僕は反射的に、生前部屋に引きこもっていた時に、部屋の外から声をかけてくれた母のことを思い出す。
『春樹、大丈夫? 大丈夫じゃなくても、せめてご飯だけは食べてね。今日のご飯はあなたが大好きな唐揚げよ』
絶望的な毎日に、母の声は僕の心をすっと通り抜けてしまっていた。
確かに聞いたはずの母の優しい言葉を、僕はどうして今まで忘れてしまっていたんだろうか。
母さんっ……。
父さんも、学業を放り出した馬鹿息子だと呆れながら、心の中では僕の夢を応援していてくれたんだろう。口には出さないけれど、二人はそういう親だった。
いただきます。
心の中で手を合わせて、僕は唐揚げを一口口に含んだ。柚子胡椒が隠し味で効いた母さんの味だ。そうとわかると、貪るようにして口の中に次々と唐揚げを掻き込んでいく。香ばしい香りと、柚子胡椒の辛味が鼻から抜けて、思わず涙が溢れていることに気づいた。
「どう? 美味しいでしょう」
NPC母親が僕に問いかける。僕は全力で頷いてみせた。
母さん、今までごめん。
それから、ずっと心配してくれてありがとう。
現実世界で伝えきれなかった母への想いを、唐揚げと一緒に噛み締めた。
食事を終えた僕は、自室へと戻る。先ほど龍介から「夏海と向き合え」と叱咤されたことを思い出し、夏海のことを考えた。
夏海……。
僕は、きみが好きだ。
この気持ちは変えられない。たとえ自分の声が出なくなったって、きみを失うくらいなら、喉を掻き切って死んでもいい。それぐらい、好きなんだ。
この気持ちを、彼女に伝えよう。
彼女は喜ぶだろうか。悲しむだろうか。
どちらに転んでも、もう大切な人に背を向けて、逃げ続ける自分は嫌だ。
僕は机の抽斗の中から、大学ノートを取り出してペンを握る。
スポットライトは浴びなくてもいい。たくさんの人に届けられなくても、ただ一人、彼女に気持ちを届けられたらそれでいいんだ。
声が出なくても、想いを言葉にすることはできる。
僕は僕のやり方で、精一杯彼女と向き合いたい。
月明かりの差し込む部屋で、僕は黙々と机に向かった。