「私ね、春樹が好きなの。気づいていたかもしれないけど」

 気づいていた。薄々、だけれど。
 花火大会の日に二人きりになった時から、彼女の気持ちが、もしかして自分に向けられているのではないかって。でも、気づかないふりをしていた。気づきたくなかった。

「ねえ、夏海を諦めるためにさ、私と付き合うのはどう? 今は好きじゃなくても、付き合っていくうちに、好きになるかもしれないでしょう? 私たちは同じ傷を持つ人間として、お互いの気持ちを分かり合える。支えながら生きていける。それとも、私みたいにずけずけものを言う女は、嫌かな」

 潤んだ瞳が、僕の目の前まで迫っていた。
 理沙は、こんな目をする人だっただろうか。
 こんな切実な目で、女の子らしい涙までうっすら浮かべて、僕を見つめて——。
 彼女の言う通り、現実世界の僕の心の痛みは、同じように自ら命を絶った彼女になら分かってもらえるのかもしれない。
 だけど、僕は理沙の気持ちに応えられない。夏海の笑顔を愛しく思うこの気持ちはもう、誰にも変えられないのだ。僕は理沙への罪悪感から、唇を噛み締めて彼女から目を逸らした。震える指で『ごめん』と一言だけメッセージを送る。彼女の目が大きく見開かれ、それから「そうだよね」と小さく呟いた。顔を歪め、僕から一度視線を外して遠くを見やる。涙は流していないけれど、心は泣いているのだとすぐに分かった。

「ごめん、悪あがきしてみたかっただけ。春樹が夏海を好きって分かって、その気持ちを消したいって思ってるのも知って、最低なことしたね。大丈夫、分かってた、から」

 少年たちが、サッカーボールを抱えておうちへ帰ろうと話している。

「ねえ、振ったお詫びにさ、私の昔話、聞いてくれない?」

 再び瞳をこちらに向けた彼女が、少しだけ微笑みながら僕に問いかけた。僕は、自然に首を縦に振っていた。

「ありがとう。私ね、前にも言ったと思うけど、昔一度結婚したことがあるの。結婚したのは十七歳、高校二年生の春。ふふ、晩婚化の現代にしてはすごく若いでしょう? 私、これでもモテるのよ」

 彼女がモテるというのは、言われなくともなんとなく分かる。実際、クラスメイトの中には「藍沢が気になってる」と僕に相談をしてくるやつもいた。彼女の大人らしい振る舞いや知的な姿、美人な容姿を好む人は多い。だけど、現実世界で十七歳で結婚したというのはさすがに驚いた。

「相手は高校一年生の時からコンビニでアルバイトしてた時に、声をかけてきたお客さんなの。名前は雅也(まさや)さん。私よりも八歳年上で、大手建設会社で働いていた。親御さんは資産家でね、小さい頃からお金の苦労はしなかったみたい。二十代半ばになっても、実家から経済的に援助してもらえるくらいには、お金持ちだったのね。まだ子供だった私には、包容力があって金銭的にも余裕がある彼に、すっかり虜になっていた。実際優しかったし、私を愛してくれていた。最初は普通にお付き合いするだけで良かったの。でも、雅也さんから早々に結婚しようって言われた時、今までの人生で一番嬉しい瞬間だって感じてしまった」

 恍惚とした表情で話をする彼女は、当時の自分の恋心に浸っているようだった。今、その恋心はもうないはずなのに、どうしてそこまでかつての相手への気持ちを思い出せるのか不思議だ。

「雅也さんは私と結婚すると同時に、学校もアルバイトも辞めるように言った。とても優しい言葉で、『俺が絶対苦労させないから』って説き伏せられたわ。私の両親はもちろん猛反対して、もう大喧嘩よ。でも私は、雅也さんが望むなら、と簡単に高校とバイトを辞めてしまったの。それが、私の運の尽きだった」

 不穏な言葉の切れ目に、僕は息をのむ。

「……私が社会との関わりと断つと、雅也さんは人が変わったように私に暴力を振るって、私を家に閉じ込めようとした。自分の支配下におきたかったのね。学校やアルバイトを辞めさせたのも、実は私を家から出ないようにして、自分の思うままに操るためだった。一体彼の何がそうしているのか分からなかったけれど、彼は仕事でストレスが溜まるたびに私を殴ったの。そして、気の済むまで殴り終わったあと、私の身体にできた傷や痣を撫でて、『理沙、ごめん。本当にごめん。愛してるんだ』って泣きついてくるの。私は、すぐにこの男は危険だと気づいたけれど、それよりも彼の人が変わってしまったことがショックで、何も言い返せなかった」

 彼女の眼光が、僕の心臓を突き刺すように鋭く射抜く。まさか理沙が、過去にこんな壮絶な経験をしていたなんて。普段の様子からは想像がつかない。

「蹴られたり殴られたりして、本当に痛かったし苦しかった。でも、その後必ず『愛してる』って言葉をくれるから、私は雅也さんは一時的におかしくなってしまっただけなんだと思い込むようにした。精神的な病気にかかってしまったんだと思って、心療内科に行くよう勧めたの。そしたら『舐めてんのか』って、いきなり掴みかかってきて、揉み合いになって、私は机の角で頭をぶつけて血が流れた。それでも病院には行けなかった。彼が、私を病院に連れて行ってはくれなかったから」

「そんな」と、心の中でつぶやく。
 そんなむごいことってあるのだろうか。
 自分の妻が自分のせいで怪我を負ったのに、病院にも行かせてもらえないなんて、そこに愛はあるのだろうか。

「彼はまた泣きながら私の頭を手当してくれた。不恰好な包帯を巻かれて、私はそれでも愛されていると思ってしまった。本当に、今考えると馬鹿ね。このままじゃいけないと思ってアルバイト先を探そうとしたけれど、すっかり彼に依存して一人では生きていけないような自分を、雇ってくれる会社があるのか分からなくて、踏み出すのが怖かった。今ならね、たぶん応募さえすれば、どこかの会社は拾ってくれたって思うよ。でも当時は、自分に自信がなくて。経済的にも、雅也さんに支配されていたから、家を逃げることもできなかった。毎月三千円だけ渡されて、『俺がいない時にどうしても食事に必要になったら使って』って言われてた。小学生がもらうほどのお小遣いで、十七歳の私が生きられるわけがなかったの」

 公園から、少年たちがいなくなった。太陽が山の端に沈んでいく。橙色の空は、薄暗い青に変わっていた。

「だけどね、そんな私が唯一心の拠り所にしていたのが、SNSで聞くHarukiのライブだった」

 Harukiという名前が理沙の口から出てきて、僕は衝撃を覚える。
 そうか……理沙は、僕のことを知っていたんだ。同じ世界を生きていたのだから、知っていたとしてもおかしくはない。

「ゴールデンウィークに、みんなでカラオケに行ったじゃない。あの時、春樹が歌ってるところを聞いて、なんか聴いたことあるなって思ったの。ずっと考えてた。同じ名前だったから、すぐにピンときたけどね。ねえ、あなたがHarukiなんでしょう?」

 理沙が、アイドルを見るようなまなざしで僕を見つめる。僕はゆっくりと頷いていた。

「やっぱりそうだったんだ。びっくりしたわ。私、あなたの歌う歌に救われてた。家の中で、一人きりで過ごす人生で、あなたの歌を聴いていると、とても心に染みるの。私は一人じゃないって思えたの。だから本当に、ありがとう」

 理沙が恭しく頭を下げる。僕は、人に感謝をされるようなことはしていない。でも、Harukiの歌が、こうして誰かの心に届いていたのだということを、初めて実感した。
 無駄じゃなかった。
 僕が歌を歌ったことは、結果的に僕を破滅へと導いたけれど、僕の歌で救われたと言ってくれた人がいる。
 気がつけば右目から一筋の涙が流れていた。

「一年、結婚生活は続いた。途中あなたの学校でのことがSNSで話題になって、私はとても心配だった。ちょうど同じ時期に、雅也さんはどんどん私への暴力をエスカレートさせるようになって。私は、終わりにしたいと思った。ある日、とうとう限界まで心がすり減ったころ、マンションの屋上から、飛び降りたの」

 飛び降りた、という言葉に、僕の心臓が止まりそうになる。息が苦しい。入水自殺をした僕だって、同じようなものなのに。他人の口から語られる自殺のエピソードは、思ったよりも身に堪えた。

「だから私、高いところが苦手なのよね。ほら、遊園地で乗り物乗れないって言ったのもそのせい」

 ああ、なるほど。
 確か、理沙は遊園地では優しい乗り物しか乗れないと、龍介が嘆いていた。絶叫マシーンが苦手なのは僕も同じだけれど、理由は全然違った。それに、僕がディーン高校に来たばかりの頃、夏海たちに学校案内をしてもらった日、理沙は四階から窓の下を見て、顔を青くしていた。あれは、高いところから下を見たせいだったんだ。

『大変、だったんだね』

 彼女の話を、「大変だった」なんて言葉でまとめるのは違うのだと思いながらも、他にどう言えばいいか分からなかった。

「ええ。でも、春樹も一緒でしょ。春樹だって、現実世界に絶望したんだよね」

 僕は再び頷く。
 理沙はたぶん、僕の現実世界での事件を知っているんだろう。

「そっか。人気だったものね。そりゃいろいろ、あるわよね。でもこれだけは覚えておいてほしい。少なくとも私は、あなたの歌が好きだった。あなたの歌に救われてた。あなたのことも好き。って、これはさっき言ったね。何回も、しつこくてごめんね?」

 少しだけ笑みを浮かべながら、彼女は僕に想いを伝えてくれた。僕は、絶望しかないと思っていた自分の人生に、誰かの日常を照らす光があったのだと、初めて知ることができたんだ。

『ありがとう。僕は今、救われたよ』

 理沙が、切なげな表情で微笑む。
 僕たちは、公園の椅子に座ったまま、それぞれの人生に思いを馳せていた。