あの後、消沈した春樹くんを家まで送ったのは龍介だった。
「こういう時は男同士の方が気楽だからさ」
そう言いながら力無く笑う龍介に、私も理沙ちゃんも縋るような思いで龍介に春樹くんを託した。
帰り道、理沙ちゃんがそっと私の耳元で、
「さっきはごめん……ちょっと、取り乱しちゃって」
と呟いた。私は黙って首を横に振る。
理沙ちゃんが悪いわけではない。私が春樹くんに真実を話させたのだ。私の、身勝手な嫉妬心が春樹くんをあんなふうにさせてしまった。責められるとすれば、私の方だった。
胸に重しを抱えたまま帰宅し、一目散に自室へと向かう。NPCの両親は「おかえりー」と呑気な声をかけてくれたけど、私は返事をすることができなかった。
「案内人……! 案内人、どこ!?」
部屋に入るなり、私は久しぶりに案内人を呼び起こした。
『ふわぁぁ、お久しぶりですねえ……』
案内人は、長い眠りにでもついていたのか、ひどく眠たそうな声で答えた。
彼と話すのは本当に久しぶりだ。私がこの世界にやってきて、最初にルールを聞かされて数回話してから呼んでいなかったので、約二年ぶりだった。
「お久しぶりです。単刀直入に言います。春樹くんの声を、戻してください」
『春樹……? ああ、あの新入りの少年のことか』
もし案内人に姿形があるのだとしたら、彼は今こめかみをポリポリと掻いているような気がする。私の気持ちとは裏腹に、のんびりとした彼の口調は、私をいくらか苛立たせた。
「そう。春樹くんがルールを破りました。私に自分の正体を話したの。それで罰が与えられて……声を失ってしまったの」
『なるほど。春樹にとって、大切なものが声だったということだね』
「うん。彼は歌手を目指してたから。私のせいで……私のせいで、春樹くんは話すことも歌うこともできなくなっちゃった。ねえ、元に
戻す方法はないの!? 確か最初にルールを説明してくれた時、罰を解除する方法もあるって言ったよね?」
そう。案内人からこの世界でのルールを聞かされた時、罰について、彼は解除する方法もあるにはあると言っていた。その時は、何のことかからっきし分からず、深く追及することもなかった。
でも今は、その唯一の罰の解除方法を知りたいのだ。
自分のせいで、彼が大切なものを失ってしまったというのなら、どうしても彼を元に戻してあげたかった。
何より私自身、もう一度春樹くんに、「夏海」と名前を呼んでほしかった。
案内人は何かを考える素ぶりでたっぷりと黙り込んだあと、いつになく真剣な声で「そんな方法は存在しない」と言った。絶望感に胸が打ちひしがれる。目の前が真っ暗になり、その場に卒倒しそうだった。
『——と言いたいところだが、一つだけ、あるにはある』
案内人は私を揶揄っているのか、そう付け加えた。意識が飛びそうになっていた寸前のことで、私はすんでのところで持ち堪える。
「それはなに!? 早く教えてっ」
一刻も早く春樹くんを元に戻したい一心で、私は部屋の中で叫んだ。もし案内人が目の前にいたら、彼の胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
『まあ、落ち着きなさい。夏海、きみだって分かっているだろう? この世界が、どうしてできたのか。私たち案内人が誰なのか』
質問とは全然違う答えが返ってきて、私は拍子抜けした。
案内人の言葉に、私は呻くようにして頭を抑えた。
どうしてだろう。頭が、痛い。
私の中で、何か大切なことを忘れているような気がしてならないのだ。そのことを思い出そうとして、頭がズキズキと大きく脈を打っている。
「分からない……あなたは、誰……? 春樹くんの声はどうやったら治るの? ねえ、おしえて。おしえてよ……」
子供が泣いているみたいなか弱い声が、自分の口から漏れ出ていた。
誰でもいい。案内人にできないのなら、神様。神様がいるのなら、私の声を聞いてほしい。
春樹くんを、助けて。
『……まあ、我々の正体は置いておいて。春樹の罰を解く方法、教えてやってもいい』
私の悲痛な叫びを聞いたからか、案内人はこれまで以上に真剣な声色でそう告げた。
私ははっと我に返り、
「なに?」
とすぐさま問う。
焦る気持ちが、身体中の毛穴から汗になって吹き出していくのが分かった。
『そう焦るな。一度しか言わないから、心して聞いておけ。春樹の罰を解く唯一の方法。それはな、“春樹の大切なものを、もう一つ失うこと”だ』
「大切なものを、もう一つ失う……?」
案内人の口から紡ぎ出されたたった一つの答えを、私は反芻した。
『そうだ。春樹が命と同じくらい大切だと思っているものを、失う。失うという定義は、それが何であるかによって変わってくるがな。とにかく春樹がもう二度と手に入らない状態にするんだ。それが条件だぞ。ゴミ箱に捨てて、気が変わってゴミ箱から再び取り出せるような状態は、“失う”とは言わない。燃やすなり海に投げ捨てるなりして、完全に、春樹の目の前から消去するんだ。そうすれば春樹の声は戻る』
「なんて……」
なんて、残酷なんだろう。
失った大切なものを取り戻すには、新たな代償が必要——確かに理に適ってはいる。でも、人間の心は、理屈ではできていない。みんな、感情を持っている。
「ひどい……条件だね」
カーテンの閉め切られた六畳ぽっちの自分の部屋で、私のか細い声が、不自然なほど響いて聞こえた。家の中ではいつもそうだ。学校に行けばみんなと賑やかな日常を過ごせるのに、家に帰ってくるといつも孤独。確かに、お母さんとお父さんはいるけれど、彼らには血が通っていない。まあ、私だって、ここが現実世界でない限り、実際は血の通っていない人間なのかもしれないけれど。
この世界のルールに、私たちは散々振り回されてきた。
与えられた場所で、与えられたルールをただ享受して、無意味だと分かりつつ、テスト勉強を頑張って、学校では成績を気にして。私たちにできるのは、与えられた青春時代を謳歌することだけだ。
だからこそ、笑顔で頑張ってきたのに。
人一倍、笑っていれば友達も明るい気持ちでいてくれる。孤独な私の仲間になってくれる。そう思って、精一杯生きてきたつもりだ。
でも私は今、再びこのディーナスという世界のルールの縄で、身体中をがんじがらめに縛れている。結局この世界で、本当に自由で幸せに生きることなんて、できないのかな。
『そう思うのなら、最初からルールを破らなければよかったことだ。我々は、みな平等に、最初にこの世界のルールを説明している。その上でルールを破ったのなら、それは春樹の責任だ。止めなかったきみにも、いくらか責任があるのかもしれないけど。全部春樹が決めたことだ。どうするかも、彼が決めればいい』
突き放すような案内人の言葉に、私は目尻にじわじわと熱い涙が溜まっていくのを感じた。
案内人は、何一つ間違ったことは言っていない。最初にルールを伝えられているのだから、悪いのは完全に私たちだ。
私だって、最初は、ルールなんて破るわけないと思っていた。重たい罰があるのに、どうしてあえてルール違反を冒す必要があるのかって。
でも、違うんだ。
人間は、とても愚かだ。
頭では正しいと思っていても、心が間違った行動をとってしまう。
春樹くんも私も、互いの心を知ろうとするあまり、この世界でも道を踏み外してしまったんだ。今更後戻りはできない。だから案内人の言うとおり、どうするかは春樹くんが決めるしかない。大切なものを二度失うかもしれないのは、彼なんだから……。
「……っ」
こめかみにズキズキとした痛みが広がっていく。
春樹くんのことを考えて、私の心がずっと泣いているのだ。
『じゃあ私はこれで。健闘を祈っているよ』
案内人は私が苦しんでいるのを見越してか、あえて私を一人でそっとしておこうと思ったのか、必要な情報だけくれて去って行った。
その日の夜、私は高熱を出して寝込んだ。
夢の中で、私はずっと誰かの声が頭の中で響いていた。男の人の声だ。それが春樹くんの声だと気づいた時、彼の声をもう一度聞くことができた喜びと切なさで、涙が止まらなかった。
春樹くん。
私は必死に彼の名前を呼んだ。彼は、私に背を向けて一メートルほど先に立っている。
春樹くん。
私の声は、彼には届いていないようだ。その証拠に、彼は一度だって後ろを振り返らなかった。
『案内人……案内人』
春樹くんが、「案内人」と呼ぶ声がして、私ははっとした。
そうだ、呼ばれている。
私、呼ばれてる。
どうしてか分からない。春樹くんは「夏海」ではなく「案内人」と呼んでいるだけなのに、自分が呼ばれているという感覚に陥っていた。不思議だった。私は「春樹くん」と、彼の呼びかけに答えるようにして呟いた。
春樹くんが、ゆっくりとこちらへ振り返る。
『夏海?』
春樹くんが私に気づいて、私の名前を呼んだ。嬉しかった。愛しい人の声が、もう一度私を呼んでくれたことが、この上なく嬉しくて胸が詰まった。
「私、私だよ。夏海だよ。春樹くん、ごめん——」
今日のことを、私は春樹くんに謝ろうとした。でも、春樹くんは「気のせいだったのか」とでも言うように、再び前を向いて歩き出した。
待って。
待って!
そう叫んでも、喉から声が出ない。
彼を襲っている孤独が、私を闇の底へと一気に引き摺り込んでいくようだった。
「こういう時は男同士の方が気楽だからさ」
そう言いながら力無く笑う龍介に、私も理沙ちゃんも縋るような思いで龍介に春樹くんを託した。
帰り道、理沙ちゃんがそっと私の耳元で、
「さっきはごめん……ちょっと、取り乱しちゃって」
と呟いた。私は黙って首を横に振る。
理沙ちゃんが悪いわけではない。私が春樹くんに真実を話させたのだ。私の、身勝手な嫉妬心が春樹くんをあんなふうにさせてしまった。責められるとすれば、私の方だった。
胸に重しを抱えたまま帰宅し、一目散に自室へと向かう。NPCの両親は「おかえりー」と呑気な声をかけてくれたけど、私は返事をすることができなかった。
「案内人……! 案内人、どこ!?」
部屋に入るなり、私は久しぶりに案内人を呼び起こした。
『ふわぁぁ、お久しぶりですねえ……』
案内人は、長い眠りにでもついていたのか、ひどく眠たそうな声で答えた。
彼と話すのは本当に久しぶりだ。私がこの世界にやってきて、最初にルールを聞かされて数回話してから呼んでいなかったので、約二年ぶりだった。
「お久しぶりです。単刀直入に言います。春樹くんの声を、戻してください」
『春樹……? ああ、あの新入りの少年のことか』
もし案内人に姿形があるのだとしたら、彼は今こめかみをポリポリと掻いているような気がする。私の気持ちとは裏腹に、のんびりとした彼の口調は、私をいくらか苛立たせた。
「そう。春樹くんがルールを破りました。私に自分の正体を話したの。それで罰が与えられて……声を失ってしまったの」
『なるほど。春樹にとって、大切なものが声だったということだね』
「うん。彼は歌手を目指してたから。私のせいで……私のせいで、春樹くんは話すことも歌うこともできなくなっちゃった。ねえ、元に
戻す方法はないの!? 確か最初にルールを説明してくれた時、罰を解除する方法もあるって言ったよね?」
そう。案内人からこの世界でのルールを聞かされた時、罰について、彼は解除する方法もあるにはあると言っていた。その時は、何のことかからっきし分からず、深く追及することもなかった。
でも今は、その唯一の罰の解除方法を知りたいのだ。
自分のせいで、彼が大切なものを失ってしまったというのなら、どうしても彼を元に戻してあげたかった。
何より私自身、もう一度春樹くんに、「夏海」と名前を呼んでほしかった。
案内人は何かを考える素ぶりでたっぷりと黙り込んだあと、いつになく真剣な声で「そんな方法は存在しない」と言った。絶望感に胸が打ちひしがれる。目の前が真っ暗になり、その場に卒倒しそうだった。
『——と言いたいところだが、一つだけ、あるにはある』
案内人は私を揶揄っているのか、そう付け加えた。意識が飛びそうになっていた寸前のことで、私はすんでのところで持ち堪える。
「それはなに!? 早く教えてっ」
一刻も早く春樹くんを元に戻したい一心で、私は部屋の中で叫んだ。もし案内人が目の前にいたら、彼の胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
『まあ、落ち着きなさい。夏海、きみだって分かっているだろう? この世界が、どうしてできたのか。私たち案内人が誰なのか』
質問とは全然違う答えが返ってきて、私は拍子抜けした。
案内人の言葉に、私は呻くようにして頭を抑えた。
どうしてだろう。頭が、痛い。
私の中で、何か大切なことを忘れているような気がしてならないのだ。そのことを思い出そうとして、頭がズキズキと大きく脈を打っている。
「分からない……あなたは、誰……? 春樹くんの声はどうやったら治るの? ねえ、おしえて。おしえてよ……」
子供が泣いているみたいなか弱い声が、自分の口から漏れ出ていた。
誰でもいい。案内人にできないのなら、神様。神様がいるのなら、私の声を聞いてほしい。
春樹くんを、助けて。
『……まあ、我々の正体は置いておいて。春樹の罰を解く方法、教えてやってもいい』
私の悲痛な叫びを聞いたからか、案内人はこれまで以上に真剣な声色でそう告げた。
私ははっと我に返り、
「なに?」
とすぐさま問う。
焦る気持ちが、身体中の毛穴から汗になって吹き出していくのが分かった。
『そう焦るな。一度しか言わないから、心して聞いておけ。春樹の罰を解く唯一の方法。それはな、“春樹の大切なものを、もう一つ失うこと”だ』
「大切なものを、もう一つ失う……?」
案内人の口から紡ぎ出されたたった一つの答えを、私は反芻した。
『そうだ。春樹が命と同じくらい大切だと思っているものを、失う。失うという定義は、それが何であるかによって変わってくるがな。とにかく春樹がもう二度と手に入らない状態にするんだ。それが条件だぞ。ゴミ箱に捨てて、気が変わってゴミ箱から再び取り出せるような状態は、“失う”とは言わない。燃やすなり海に投げ捨てるなりして、完全に、春樹の目の前から消去するんだ。そうすれば春樹の声は戻る』
「なんて……」
なんて、残酷なんだろう。
失った大切なものを取り戻すには、新たな代償が必要——確かに理に適ってはいる。でも、人間の心は、理屈ではできていない。みんな、感情を持っている。
「ひどい……条件だね」
カーテンの閉め切られた六畳ぽっちの自分の部屋で、私のか細い声が、不自然なほど響いて聞こえた。家の中ではいつもそうだ。学校に行けばみんなと賑やかな日常を過ごせるのに、家に帰ってくるといつも孤独。確かに、お母さんとお父さんはいるけれど、彼らには血が通っていない。まあ、私だって、ここが現実世界でない限り、実際は血の通っていない人間なのかもしれないけれど。
この世界のルールに、私たちは散々振り回されてきた。
与えられた場所で、与えられたルールをただ享受して、無意味だと分かりつつ、テスト勉強を頑張って、学校では成績を気にして。私たちにできるのは、与えられた青春時代を謳歌することだけだ。
だからこそ、笑顔で頑張ってきたのに。
人一倍、笑っていれば友達も明るい気持ちでいてくれる。孤独な私の仲間になってくれる。そう思って、精一杯生きてきたつもりだ。
でも私は今、再びこのディーナスという世界のルールの縄で、身体中をがんじがらめに縛れている。結局この世界で、本当に自由で幸せに生きることなんて、できないのかな。
『そう思うのなら、最初からルールを破らなければよかったことだ。我々は、みな平等に、最初にこの世界のルールを説明している。その上でルールを破ったのなら、それは春樹の責任だ。止めなかったきみにも、いくらか責任があるのかもしれないけど。全部春樹が決めたことだ。どうするかも、彼が決めればいい』
突き放すような案内人の言葉に、私は目尻にじわじわと熱い涙が溜まっていくのを感じた。
案内人は、何一つ間違ったことは言っていない。最初にルールを伝えられているのだから、悪いのは完全に私たちだ。
私だって、最初は、ルールなんて破るわけないと思っていた。重たい罰があるのに、どうしてあえてルール違反を冒す必要があるのかって。
でも、違うんだ。
人間は、とても愚かだ。
頭では正しいと思っていても、心が間違った行動をとってしまう。
春樹くんも私も、互いの心を知ろうとするあまり、この世界でも道を踏み外してしまったんだ。今更後戻りはできない。だから案内人の言うとおり、どうするかは春樹くんが決めるしかない。大切なものを二度失うかもしれないのは、彼なんだから……。
「……っ」
こめかみにズキズキとした痛みが広がっていく。
春樹くんのことを考えて、私の心がずっと泣いているのだ。
『じゃあ私はこれで。健闘を祈っているよ』
案内人は私が苦しんでいるのを見越してか、あえて私を一人でそっとしておこうと思ったのか、必要な情報だけくれて去って行った。
その日の夜、私は高熱を出して寝込んだ。
夢の中で、私はずっと誰かの声が頭の中で響いていた。男の人の声だ。それが春樹くんの声だと気づいた時、彼の声をもう一度聞くことができた喜びと切なさで、涙が止まらなかった。
春樹くん。
私は必死に彼の名前を呼んだ。彼は、私に背を向けて一メートルほど先に立っている。
春樹くん。
私の声は、彼には届いていないようだ。その証拠に、彼は一度だって後ろを振り返らなかった。
『案内人……案内人』
春樹くんが、「案内人」と呼ぶ声がして、私ははっとした。
そうだ、呼ばれている。
私、呼ばれてる。
どうしてか分からない。春樹くんは「夏海」ではなく「案内人」と呼んでいるだけなのに、自分が呼ばれているという感覚に陥っていた。不思議だった。私は「春樹くん」と、彼の呼びかけに答えるようにして呟いた。
春樹くんが、ゆっくりとこちらへ振り返る。
『夏海?』
春樹くんが私に気づいて、私の名前を呼んだ。嬉しかった。愛しい人の声が、もう一度私を呼んでくれたことが、この上なく嬉しくて胸が詰まった。
「私、私だよ。夏海だよ。春樹くん、ごめん——」
今日のことを、私は春樹くんに謝ろうとした。でも、春樹くんは「気のせいだったのか」とでも言うように、再び前を向いて歩き出した。
待って。
待って!
そう叫んでも、喉から声が出ない。
彼を襲っている孤独が、私を闇の底へと一気に引き摺り込んでいくようだった。