春樹くんの声が、広い海の上で、風の音にかき消された。
 夕日が水平線へと沈んで、辺りはいよいよ暗くなっていた。砂浜の方から、理沙ちゃんと龍介が私たちを呼ぶ声が聞こえる。
 私は、震えの止まらない身体を無理やり動かして、彼の手を握った。
 はやく……はやく。
 ここから、彼を遠ざけなきゃ。
 だってここは、彼が命を失った夏の夜の海だもの……。
 現世でのことを思い出して絶望の色を浮かべている彼を、早く海から岸へと連れ出さなきゃいけないと本能が告げた。
 春樹くんが、自ら命を絶っていたことは、少なからず私に衝撃を与えた。正直、信じたくない。だけど今はそれよりも、彼をこの場から遠ざける必要があった。
 私が手を引いて砂浜の方へと歩き出すと、春樹くんは黙ってしたがってくれた。私たちの間に流れる空気に、ぴりぴりとした緊張感が駆け抜ける。それでも私は、繋がれた手からわずかながら温もりを感じられることに、深く安堵した。

「もう、二人とも遠くでずっと何をしてたの!?」

 途中何度も波に足を攫われそうになりながら砂浜までたどり着くと、龍介と理沙ちゃんが私たちにバスタオルをかけてくれた。温かい。夏の海でも、長い時間水に浸かっていれば、気づかないうちに身体は冷えていたのだ。私は、春樹くんと理沙ちゃんが二人きりになってモヤモヤしていた気持ちなどどこかへ吹き飛んで、今は春樹くんを陸に上げることができたことに感謝していた。

「春樹も、なかなか戻ってこないから心配したのよ。何かあったんじゃないかって。でも普通に二人で話し込んでるみたいだったからそっとしておいたの。もう話は終わった?」

 理沙ちゃんが春樹くんの顔を覗き込む。
 話は終わったよ。
 春樹くんの、過去の話。
 たぶん、私だけしか聞いていない。彼の壮絶な現実世界での話を——。

「春樹……?」

 理沙ちゃんの声色が、一気に重くなったのに、私も龍介もすぐに気づいた。

「どうした?」

 ただならぬ気配を察したのか、龍介がいつになく真面目な表情で問う。
 私は、何が起こったのか分からなくて、咄嗟に春樹くんの様子を窺った。

「……ぁ…っ」

 春樹くんの目が、何かに驚愕して大きく見開かれている。彼の口から漏れ出たのは、声にならない掠れた吐息だけだった。喉元に手を持っていって、自分の喉仏を何度も触っている。

「……っ……はぁっ」

 苦しそうな吐息が、また彼の口からこぼれ落ちた。私たちは、三人で視線を合わせて何がどうなっているのかと必死に考えた。

「もしかして春樹、声が出ないのか?」

 やがて龍介が導き出した答えに、春樹くんがガクガクと大きく首を縦に振った。

「え、なんで?」

 普段は冷静な理沙ちゃんの、困惑する声が耳にこだました。
 春樹くんの声が、出ない。
 どういうこと? と私たちは全員で顔を見合わせた。

「ねえ、どうして? 何があったの?」

 理沙ちゃんが春樹くんの両腕を掴んで、必死に揺さぶる。でも春樹くんも自分の身に起こった事の重大さに、唖然として何も答えることができないでいる。いや、実際声が出ないのだ。何かを伝えたいと思っても、彼の口から漏れるのは、やっぱり喉の奥で唾が擦れるような、聞くに耐えない“音”だけだ。

「夏海っ……! 何があったの!?」

 今度は唯一数分前まで二人きりで春樹くんと話していた私の方に、理沙ちゃんの視線が向かってきた。目の淵に涙が溜まっている。好きな人の声が突然出なくなったのだ。事情を知っていそうな私に詰め寄りたくなる気持ちはよく分かる。

「あ……えっと……」

 私は、春樹くんの声が出ないのが、さっき彼が私に自分の正体を話したせいだというのは薄々気づいていた。でも、そんなことを龍介と理沙ちゃんにも伝えてもいいのか。咄嗟に春樹くんの方を見る。彼は、苦しそうな表情で、私の目を見つめている。まるで、すべての意思を、私に委ねるとでも言うかのように。
 そんなの、どうしたらいいか分からないよ……。
 私は理沙ちゃんに何も言い返すことができない。
 理沙ちゃんの目が、だんだんと怒りの熱を帯びていくのが見てとれた。煮え切らない私の態度から何かを察したのか、「まさか」と彼女は一呼吸置いてこう訊いた。

「自分の正体を、夏海に話したの?」

 理沙ちゃんが春樹くんを切実なまなざしで見つめる。その目に射竦められてしまったかのように、彼はゆっくりと頷いた。

「なんで……? だから、“大切なもの”を失ったのね。春樹の大切なものは、声、だったんでしょ」

 絶望の滲む声色で、理沙ちゃんは一つ一つの言葉を紡いだ。

「まじで……?」

 龍介が瞠目したまま春樹くんを見つめている。

「……うん。春樹くん、さっき私に、現実世界で歌手を目指して頑張ってたって言ってた……。カラオケに行った時、あんなに上手だったのは、春樹くんがもう立派な歌手だったからだよ。でも、いろいろあって、人生に絶望して、それで——」

 私はその先の事実を、この場では口にすることができなかった。
 口にしなくても理沙ちゃんには絶対に伝わっている。
 春樹くんは理沙ちゃんに、自分の過去を話したんだろうか。
 春樹くんと理沙ちゃんは同類の人間だから、もしかしたら話したのかもしれない。
 その事実が、私の胸をより一層、穿つように痛くする。
 海の中で、春樹くんが現実世界で自ら命を絶ってしまったと聞いた。だったら理沙ちゃんも同じだ。理沙ちゃんも春樹くんと同じように、現実世界で何かに絶望して、自分の命を失くしてしまったんだ——……。
 どうしてそんなことをしたのか、なんて問うことはできない。
 春樹くんの、あの壮絶な過去を聞いてから、私の心はずっとざわついていた。彼が自ら命を絶ったのは、現実の彼にとってそれしか選択肢がなかったからだ。いや、それしか選択肢がないように彼の目には見えていたから。
 でも、それでも私は……悔しかった。
 私は絶対に、たとえ何が起きても命を投げ捨てることができない人間だ。
 彼にも、現実世界でそう思ってほしかった。たとえ一寸先が闇でも、その向こうには夏の晴れた空が広がってるって、信じてほしかった。

「春樹くん……」

 乾いた喉から出た自分の掠れた声に、反射的にぎゅっと目を閉じた。
 もうこの先ずっと、春樹くんの声を聞くことはできないんだろうか。
 声が、聞きたいよ。
 春樹くんの優しい声は、私だけじゃなくて、理沙ちゃんも龍介もきっと大好きだから。
 失われてしまった彼の大切な一部を想うと、群青色の空に顔を覗かせていたまん丸の月すらも、今はくすんで見えた。