「夏海……どうかした?」
夏海は何かを思い詰めていて、今にも繋がれた腕を振り解いて沈んでいきそうだ。
「あの二人がいる場所へは、戻りたくない……」
「え?」
震える声で呟くようにそう言う彼女の顔は、引き攣っていた。
あの二人、とは間違いなく龍介と理沙のことだ。でもどうしてだ? どうして、二人の元に戻りたくないなんて言うんだ。
「夏海、どうしたんだ。今日、ずっと変だったから、気になってたんだ。何かあったの? もし僕でよければ話を聞かせてくれないかな」
夏海の身体が、一瞬ドクンと震える。僕の目を見つめ、嬉しそうに微笑んだかと思うと、逆に恐ろしい怪物でも見るかのように、その目が見開かれていく。彼女の中で変化する感情が複雑で、彼女自身、自分の気持ちについていけていないように見えた。
「べつに、何もないよ? ちょっとね、遠くに行ってみたかっただけなの。あの二人のいない場所に。ずっとずっと遠くに」
嘘だ、とすぐに分かった。
遠くに行ってみたかっただけだなんて、そんなのはすぐに違うと分かる。でも、龍介と理沙から離れたいというのだけは、本心かもしれなかった。
「夏海、もしかして僕のせい?」
思い当たる節があるとすれば、僕自身だった。
今日、僕は理沙に誘われるがままに海を楽しんでいたから、夏海と関わる時間が少なかった。四人で仲良く過ごしたいと思っている夏海にとっては、面白くなかったのかもしれない。
僕の言葉に、夏海が目を瞬かせる。そして、ゆっくりと頷いた。
「そう、春樹くんのせいだよ……」
彼女の身体も、声も、瞳も、すべて震えているように見える。僕は、彼女のことを抱きしめたい衝動に駆られた。でも、心とは裏腹に、掴んでいた夏海の右腕を離してしまう。
触れられない。触れていられない。
だって、きみは壊れそうだから——。
「春樹くんはさ、理沙ちゃんと同じ種類の人間なんだよね。だったら、理沙ちゃんの気持ちが、よく分かるんだよね。理沙ちゃんは、春樹くんのこと、どう思ってると思う?」
試すような口ぶりでそう聞いてくる彼女は、いつもの天真爛漫な夏海とは程遠く、鋭い視線を僕に向けていた。
理沙が僕に対して抱いている感情——考えなくても、ある程度は察している。でも、それを夏海の前で口にすることはできなかった。
「理沙は……友達だよ。きっと彼女もそう思ってる。夏海のことも、大切な友達だって。だからほら、早く二人の元に帰ろうよ」
嫌われたっていい。僕はなんとかして、早く彼女を岸へと上げたかった。
太陽の位置が低くなるにつれ、水位が上がっていく。これから満ち潮になるのだ。僕の背筋に寒気が走った。
「……嫌だ」
蚊の鳴くような声でつぶやいた彼女の瞳に、怒りが迸るのが分かり、僕は水の中で一歩後ずさる。
「春樹くんには分からないよっ。私がどんな気持ちでいるのかなんて。だって私と春樹くんは、違う種類の人間なんだものっ。絶対分かり合えないんだもの……。でも、理沙ちゃんと春樹くんは分かり合える。そんなのずるいよ。私だって、同じ種類の人間になりたかった……」
夏海の目からポタポタこぼれ落ちる涙が、水面に溶けて海と一体化する。太陽がどんどん沈んでいって、遠くの空は濃紺色に変わっていた。
悲嘆に暮れる夏海の表情が、僕の胸に暗く突き刺さる。
どうしてなんだ。
僕たちは確かに、違う種類の人間だ。でも、そんなことは関係ないって、四人の輪が繋がっていることが嬉しいんだって、夏海はずっと笑ってそう言っていたじゃないか。
僕は別に、理沙と二人だけの特別な関係になりたいわけではない。
本当に特別になりたいのは、夏海、きみなのに……!
喉元までせり上がってくるこの想いを、今すぐ口にしたい衝動に駆られる。でも、だめだ。僕にはまだ、夏海に気持ちを伝えられるほどの勇気がなかった。
「春樹くん……」
夏海が、懇願するようなまなざしを僕に向ける。
きっと答えが欲しいのだ。
僕たちは本当に分かり合えないのか。
彼女の胸を、少しずつ蝕んでいく毒が、もう二度と抜けることはないのか。
夏海がぎゅっと目を瞑る。
だめなんだよ……僕は、現実世界でも、どうしようもなくダメな人間だったんだ。
目の前で泣いている女の子一人、慰められないような、格好悪い男なんだ——。
「……分かり合えない。確かに僕も、そう思うよ」
違う。
分かり合いたい。
本心ではきみのこと、分かり合いたいと思っている。
たとえこの世界で、別の種類の人間と呼ばれても。
それなのに、自分の口から漏れ出た言葉は、心とは全然違っていて。夏海の心を一気に砕くのに十分すぎる威力を持っていた。
「そう、だよね……」
彼女の瞳から光が消える。
太陽が、水平線の向こうへと見えなくなる。
夏海の顔が、濃紺色の影の中で暗く沈んでいく。
その姿を見ても、僕は自分の中で迸る、本当の自分を知ってほしいという欲が、消えなかった。
「ああ。きっと僕の気持ちだって、夏海には分からないよ」
鋭利なナイフで突き刺されたかのように、傷ついた表情をする彼女。現実世界で、僕が周りの人間に抱いていた感情を、夏海にぶつけるなんて、我ながらひどいやつだ。
僕の気持ちは、他の誰にも分からない。
現実でもずっとそう思っていた。
僕がどれだけ上手く歌を歌っても。
有名になり、多くの人から賞賛されても。
たった一つのあの事件のせいで、僕の心はバラバラに砕け散ってしまったのだから——。
「僕は、僕は……現実世界で、自ら命を絶ったんだ」