花火は、予想通り——いや、予想に反してとても美しった。
人混みの中、座る場所なんてなくて、立ちっぱなしで夜空に咲く大輪の花を見上げていた。心臓まで響く花火の音が何度も耳にこだまする。光の花びらを見つめて、感嘆の声を上げる観客たち。確かにとても綺麗だ。だけど私は終始、花火の美しさよりも、少し前で横並びになって花火を見上げる春樹くんと理沙ちゃんのことが気になって、花火に集中することができなかった。
二人は今にも肩が触れそうな距離で、じっと花火を見ていた。
時折理沙ちゃんが横を向いて、春樹くんに笑いかける。その横顔が、すっと伸びる鼻筋と、ほころんだ口元が、花火なんかよりもずっと綺麗で、きっと春樹くんだって理沙ちゃんに見惚れていただろう。春樹くんは、わざと理沙ちゃんの方を見ないようにしているようだったが、私には彼の心臓の音が聞こえてきそうだった。
理沙ちゃん、春樹くんと一緒に花火が見られて良かったね。
あとでそう声をかけてあげたい。でも、自分の口からそんな優しい台詞が果たしてちゃんと出てくるのかどうか、不安になり怖くて震えていた。
花火が終わったあと、くるりと振り返って笑顔をこちらに向けた理沙ちゃんは、本当に幸せそうだった。恋する女の顔をしていた。私は疼く胸を必死に抑えながら、春樹くんの顔は見ないように努めた。いま彼の顔を見てしまえば、私の中でぎりぎり保てている善人の皮が、めりめり剥がれ落ちていく気がしたから。
花火大会が終わると、のろのろとした足取りで観客たちが駅の方へと進み出す。私と龍介は理沙ちゃんと春樹くんと、だいぶ距離ができてしまい、途中で二人の姿が見えなくなった。
私は、押し寄せる不安と恐怖の波に飲まれそうになりながら、今は人混みに足を取られないようにと必死に前に進んだ。その間、龍介はずっと私のことを気にかけてくれて、時々私とはぐれないように、腕を掴んで支えてくれていた。
このごつごつした手が、春樹くんのだったらいいのに——。
ふとそんなふうに思っている自分に気づいて、最低だな、と後悔する。
龍介だって、つらいはずだ。
だって龍介はきっと、理沙ちゃんのことが好きだろうから。
龍介が理沙ちゃんと馬が合うのは普段の二人の様子を見ているとよく分かる。理沙ちゃんと話している時の龍介は、とても自然体でリラックスしているから。
だから今この瞬間に、私と同じ憂鬱な気分を抱えているはずの龍介を、私を支えてくれる彼を、邪険に思ってしまった自分が憎らしかった。
「夏海、本当に大丈夫か?」
少しだけ人混み具合がマシになったところで、龍介は私に尋ねた。
「大丈夫って、なんのこと?」
龍介に、私が春樹くんと理沙ちゃんのことでやきもきしていることを、知られたくなかった。龍介とは付き合いが長く、幼馴染のような感覚さえ抱いている。そんな彼に、今更格好悪いところを見せたくないよ。
龍介は、強がって答えない私に、痺れを切らした様子で「なあ」と大きな声を出す。私を横道まで引きずり出して、「こっちを向け」と真面目な声で告げた。
その、あまりに真剣な声に、私は思わず龍介の顔を見つめた。
普段は私や理沙ちゃんのことで茶化したりボケたりを繰り返している龍介が、いつになく真面目な表情を浮かべていた。龍介の背後で、人波はどんどん押し流されていく。春樹くんたちの姿は、もうとっくに見失っていた。
「俺は、お前が隠し事をしてることなんて、すぐ分かっちゃうんだよ。ごめん、でもそれくらい、夏海のこと見てるからさ。俺には、夏海以外見えてないんだ」
いつのまにか俯いて、上目遣いで視線だけを私の方に向けている龍介の耳が、暗闇の中でも赤く染まっていることが分かる。
「え——」
いくら鈍チンの私でも、龍介が何を言おうとしているのか、気づいてしまった。
「俺は、夏海のこと……好き、なんだ」
ゆっくりと、吐息を吐くような声で龍介が今の気持ちを口にする。彼らしからぬ、神聖な告白だった。
その衝撃的な事実に、私は胸を矢で突かれたように固まる。
そして、どうしてか、瞳だけを動かして周囲を見回してしまう。
今ここに、“彼”の姿がないことはさっきからずっと分かっているはずなのに、そうせずにはいられなかった。
だって、龍介と自分が、二人きりになっているところを見られたく、ないんだ。
告白をしてくれた龍介に対して、浅ましいことしか考えられない自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。
「……びっくりした。龍介は、理沙ちゃんが好きなのかと、思ってたから」
一番に口から出て来た感想はそれだった。
私はずっと、龍介が自分ではなく理沙ちゃんのことを好きでいるのだと思っていたのだ。
二人はどんな時も呼吸が合っていて、
ボケとツッコミを交わしていて、
とぼける龍介のことを、理沙ちゃんはまんざらでもないふうに笑っていて、
龍介は理沙ちゃんの笑顔を見て、また大口を開けて。
そんな光景ばかりを見てきたから、まさかその龍介が、私を想ってくれているなんて、考えもしなかったのだ。
「違う。俺は出会った時から、夏海のことが気になってた。もちろん、理沙のことも好きだよ。でもあいつに対する気持ちは兄弟愛みたいなものなんだ。俺が恋愛対象として見てるのは、太陽みたいに俺たちを笑わせてくれる、夏海なんだよ」
太陽みたいに、笑わせてくれる。
龍介の口からこぼれ出た言葉が、私の胸を二つの感情で溢れさせた。
そんなふうに思ってくれて嬉しいという気持ちと、そうじゃないんだという罪悪感。
違う……違うんだよ。
私は、太陽じゃない。
私はみんなを、笑わせてあげられるような、できた人間じゃない。
今だってずっと、春樹くんのことばかり考えてる。
春樹くんと理沙ちゃんが上手くいかなければいいのにって、そんなことばっかり——。
「夏海となら、俺はずっと笑っていられる。だって俺たちは、“同じ種類の人間”なんだろ? 俺たちの苦悩は、俺たちにしか分かり合えない。だからさ、そんな悲しそうな顔せずに、俺と一緒に行こう? この先夏海のこと、絶対楽しませてやるから」
悲願しているような切実な声が、私の耳に遠く響く。聞こえない。何も聞こえないフリをしたい。
俺たちの苦悩は、俺たちにしか分かり合えない——。
心とは裏腹に、頭の奥で木霊する龍介の言葉が、私の胸を締め上げる。
いくら私たちが四人で仲良しごっこをしていても、この世界の住人である以上、別の種類の人間とは、分かり合うことができない。誰の心にも巣喰っていた不安を、龍介が言葉にしたことで、私は思い知らされた。
「私は……同じ種類に、なりたいよ……」
龍介の告白への返事とは程遠い本音が口から漏れて、私はその場で項垂れた。
龍介は分かりやすく、傷ついた顔をしている。瞳は大きく開かれて、私が同じ種類になりたいと望んでいるのが春樹くんのことであることを悟って、悔しそうに顔を歪める。私はその龍介の傷ついた顔を直視するのが辛くなり、顔を伏せた。
「……そうか。そうだよなあ。ごめんな、夏海」
深海に沈んでいくような龍介の懺悔が、私を責めることのない彼の優しさが、私の胸に深く刻み付けられる。
「私、帰るね」
私がこの場にいたら、龍介がずっと縛り付けられたままになってしまう。龍介は決して涙を見せないけれど、本当は泣きたいはずだった。
自分勝手な私は、重たい足取りで、龍介を振り切り、人波の方へと向かう。
流れに身を任せるようにして進んでいると、しばらくして、闇の底でもがき苦しむような慟哭が聞こえてきた。それが、よく見知った人間から発せられた、初めて聞いた声なのだと分かって、視界が滲む。
「あれ……」
自分の頬を伝っているのが涙だと気づいたとき、私はようやく自分が今どこにいるのか、理解した。
四人の輪が、音を立てて崩壊していく映像が頭の中でちらつき、ばらばらに砕け散った輪っかの破片を、私は一生懸命紡ごうとした。
けれど、想像上の私はそれを繋ぐことができない。
私はもう、一人だった。