「夏海、一緒に帰らない?」
理沙ちゃんがそう声をかけてきたのはその日の放課後だった。
「うん、いいよ」
私たちは家の方向が途中から違うから、一緒に帰ることはあまりない。こうして理沙ちゃんが声をかけてきたということは、私に何か話したいことがあるのだというのはすぐに分かった。
理沙ちゃんと二人、肩を並べて傾きかけた太陽の下、学校のすぐ前にある坂道を下っていく。理沙ちゃんは普段自転車で登校をしていて、この日も自転車を押して歩いていた。私の利用している最寄駅まで一緒に歩いてくれるらしい。
「理沙ちゃん、何かあったの?」
駅まではそう遠くない。何か話があるのなら、前置きなんてせず、すぐに聞いてあげたいと思っていた。
「夏海って天然で何も考えてないように見えるのに、すごく鋭い時あるよねえ」
理沙ちゃんは目元を細めながら、空を見上げる。むむ、今の言葉は褒められたの? けなされたの? 私はいつも、友人たちから「天然」だと言われるし、自分でも自覚しているから、そう言われるのは慣れてるんだけど。今日の理沙ちゃんはわざとらしくて何だか変だった。
「だって、理沙ちゃんが一緒に帰ろうって言う日は大抵なにか話したいことがある時じゃん」
「それと、『ストロベリードロップ』のパフェを食べたい時ね」
「あ! もしかして今日、半額デー?」
「当たり!」
『ストロベリードロップ』とは、駅前にあるカフェで、月に一度、十五日にパフェが半額になる。その日を狙って何度か理沙ちゃんと『ストロベリードロップ』に訪れたことがあった。
「ええ、じゃあ今日はパフェを食べたいから私を誘ってくれたの?」
「ご名答! ……と言いたいところだけど、それ以外にもある」
カラカラカラ……と自転車のチェーンの音が、妙な懐かしさを運んでくる。理沙ちゃんと放課後に並んで歩いて帰る日は、いつもこの音を聴いていたから。
「やっぱり何かあったんだね。どうしたの?」
私は早く、彼女の心を知りたくて、急かすように聞いた。
しかし彼女は、「えっとね」とか「うーん」とか前置きばかりしていて、いつものハキハキとした様子がない。私は暮れなずむ空を見ているばかりで、理沙ちゃんの気持ちを推しはかることができないでいた。
理沙ちゃんがようやく重たい口を開いたのは、駅がもうすぐ目の前に迫ってきた頃だ。
「夏海は、春樹のことが好き?」
今日の空みたいに澄んだ声色で告げる理沙ちゃんを、私は目を丸くして見つめ返す。
「え、好きって、なんのこと……?」
突然彼女の口から出てきた色恋話に、私は分かりやすいくらい狼狽える。
春樹くんを、私が好き……?
これまで考えなかったわけではない。確かに私は春樹くんと仲良くしたいと思っているし、はっきり言って気になる存在である。みんなで遊びに行った帰りに、衝動的に手を繋いでしまった時には、自分で自分の行動に驚かされた。春樹くんのことを考えると、私は嬉しいような切ないような気持ちに襲われる。でも、私の胸に灯っている彼への感情を、「好き」という二文字で表してしまってもいいのか、私自身分からなかった。
理沙ちゃんは、返答に戸惑う私をじっと観察し、何かを察したように「分かんないか」と呟いた。
「うん、分からないよ」
私の返事を聞いた理沙ちゃんの顔に、西日がすうっと当たり、橙色に染め上げる。
その顔が、妖艶で大人っぽくて、思わずため息が出るくらい見惚れていた。理沙ちゃんの栗色の髪の毛が夕日の色に混ざり、輝いて見える。切れ長の瞳が知的な彼女に似合っていて、私よりもずっと年上の綺麗な女性のようだと感じさせられた。
「そっか。実は私、春樹のこと気になってる。ううん、そんな曖昧な言葉じゃだめだね。私は春樹のこと、好き」
好きという二文字が、こんなにも胸にすとんと落ちてくるくらい、今の理沙ちゃんの口から出てくるのにはとても似合っていた。
女の子は恋をすると、うんと素敵に輝いて見えるんだよ。
何かの本で読んだ一節が、本当なんだと思い知らされる。
理沙ちゃんは綺麗だ。子供っぽい私とは正反対に、大人の輝きを放つ女子高生。
反対に、春樹くんと手を繋ぐだけで心臓が跳ね上がるくらいに高鳴っていた自分が、馬鹿みたいに子供だと思い知らされた。
「……そうなんだ。すごいね! 私、応援するっ」
私は、理沙ちゃんに気づかれないように、右手で左腕をぎゅっと握りしめる。皮膚がつねられる感覚に痛みを覚えた。痛い。でも違う。痛いのは腕じゃなくて、心だ。春樹くんへの気持ちを、彼女みたいに素直に認められない自分が、子供っぽい自分が、痛くて悔しいのだ。
「ありがとう。花火大会でね、あいつと近づきたいと思ってる。告白……はするかどうか分からないけど、友達じゃなくて、それ以上の関係になれるように頑張ってみようと思う」
だから協力してほしい、とまでは言われなかった。
きっと理沙ちゃんは、自分の力で春樹くんを振り向かせようと思っているのだろう。友達に協力を頼むほど、彼女は子供じゃない。大人の女性だから、春樹くんの気持ちを、自らの手で自分に向けさせられる何かを、彼女は持っている。
彼女の力強い言葉からそんな強さが窺われて、私は腕だけじゃなくて、胸がひりついた。
嫌だ、嫌だ!
春樹くんを理沙ちゃんに取られちゃう。
私の心がそう叫ぶのを聞いて、私は目の前が真っ暗になった。
理沙ちゃんの恋を、私は心から応援できると思っていた。
それなのに、心は正反対の気持ちを叫んでいる。
こんな自分が醜くて、消えてしまいたいと泣きたくなる。
「ごめん理沙ちゃん。『ストロベリードロップ』、今度でもいいかな?」
気がつけばそんなことを口走っていた私。
「え、そうなの? いいけど、どうかした?」
「ちょっとね、お腹が痛くなっちゃって。昨日食べたお刺身があたっちゃったのかなぁ?」
「えっ、大丈夫? 夏海ってば、生物を食べる時は気をつけないと」
「そうだよね。本当、おっちょこちょいでごめん」
嘘をついてまで謝る場面ではないのに、理沙ちゃんは何かを察してくれたのか、「それならまた今度行こう」と私の提案を受け入れてくれた。
理沙ちゃんと駅で別れた私は、自転車にまたがり颯爽と去っていく彼女の背中を見ながら、しゃんと背筋が伸びて美しい彼女の後ろ姿を見ながら、頬に何かが滑り落ちるのを感じた。
それが涙だと気づいた頃には、彼女の背中は遠く、見えなくなっていた。