「きれい……」

 夏海の瞳が、部屋の壁を反射するミラーボールの光を映し出す。ほとばしる宝石のような輝きを、僕は一心に見つめて、彼女に届けるように歌い続けた。
 Bメロが終わり、サビに突入した頃には僕の喉の調子もすっかり現実世界でHarukiとして歌っているときのものに戻っていた。
 不安や恐れはあったものの、僕の全身が、「歌いたい」と叫んでいる。歌うことでしか息をすることができなかった僕は、失ったものを取り戻そうと必死にもがく。ただのカラオケに、ここまで必死になるなんて、どうかしている。でも、僕が全身全霊をかけて生きた証は、歌しかないのだ。
 僕は三人の大切な仲間に見守られながら、最後のサビを歌い上げた。拍手喝采が、想像の中で轟く。実際、理沙も龍介も、拍手をしてくれた。夏海だけは息を呑んだまま、いまだ瞳を大きく見開き、僕がマイクを離すまで、僕を見つめていた。

「す、すごいじゃねえか! 春樹、お前にこんな特技があるなんて知らなかったぜ」

 龍介が僕の肩をバシバシと叩く。イテテ、と僕は肩をすくめた。

「そうそうびっくりした〜! それに、なんか聴いたことあるような声だった。きっとプロで似てる人がいたんだろうな〜」

 理沙が昔を思い出そうとするかのように、うっとりとした表情で語る。もし理沙が、現実世界で僕のことを知っていたのだとすれば、「聴いたことがある」と言うのも無理はない。僕のSNSのフォロワーは最終的に百万人にまで膨れ上がっていたのだから。

「ねえ、どうしてそんなに歌が上手いの? 私、春樹くんよりも歌が上手な人、見たことない」

 夏海の純粋な言葉が、先ほど光っていたミラーボールの輝きを思い起こさせて、僕は息を呑んだ。

「それは——」

 現実世界で、歌手を目指していたからだ。
 そんなことを言ってしまえば、自分が自殺者だという核心に触れてしまいそうな気がしたが、きらきらとした瞳を向ける夏海を前にすると、心が言うことを聞かなかった。

「……歌手になるのが、夢だったんだ」

 夢、という耽美な響きに、夏海の瞳が一層輝いていくのを見た。

「そうなんだ。だからそんなに上手いんだね。春樹くんなら歌手になれるよ、この世界で」

 何も知らない夏海が、ひまわりが咲いたように可憐に笑う。
 他の二人も同時に「うん」と頷いていた。
 この世界でも歌手になれる——か。
 確かにディーナスにだってテレビをつければ音楽番組があって、歌手として歌を歌っているNPCの姿を見ることができる。そんなNPCと同じように、現実からやってきた僕たちでも、歌手になれる権利があるということだ。

 僕が夢の話をしたせいか、三人は次の歌を歌う雰囲気ではなくなって、理沙が「飲み物とってくるね」と部屋を出て行った。龍介も理沙について行く。僕は、ソファに座って足をぶらぶらとさせている夏海をじっと見つめていた。彼女の白く、ほっそりとした足が、この世のものではないかのようにさえ見えて、はっとする。そんなことはない。確かに夏海はディーナスの住人で、現実世界の人間ではないけれど、僕とこうして普通に会話をして、遊んでくれているのだから——。

「私ね、学校の先生になるのが夢なの」

 唐突に夏海が切り出した言葉に、僕は目を瞬かせた。
 同時に、理沙と龍介が戻ってくる。二人は両手に一つずつ、コーラを持っていた。

「学校の先生って、子供の人生を左右する重要な存在だよね。私、一年生の時に、友人関係で悩んでいたことがあって。担任の先生に思い切って相談したら、ずっと親身になって話を聞いてくれたの。それだけじゃない。私の悩みを解決できるよう、実際に動いてくれた。他の先生たちはとっくに帰ってる時間でも、私のために、解決策を一生懸命考えてくれたの」

 夏海の目は、どこか遠い将来を見据えていた。希望や夢という明るい言葉が、こんなにも素直に似合うと思う人を見たのは初めてた。
 理沙と龍介は夏海の夢の話を以前聞いたことがあったのか、神妙に頷いている。

「だからね、私もいつか、悩んだり迷ったりしてる子供に、大丈夫だよって手を差し伸べてあげられる先生になりたい。勉強はちょっと苦手だけど……でも、たくさん努力して、できれば大学にも行きたい——て、この世界じゃ大学生になれないか。まあ、大学生になれなくても、きっとどこかに先生になれる道は残ってるはず。こんな身体のままでも、子供達に教えられることは、あると思うから」

 高校生の身体のままでも、先生になりたいと夢見て、頑張ろうとしている夏海。僕は自分が歌手という職業を追っていた時、ずっと苦しいと思っていた。でも、苦しみの中にどうしても見出してしまう喜びや楽しさを、手放せなかった気持ちを今、思い出したのだ。

「——素敵な夢だ」

 いつか自分を真っ暗な底のない沼に沈めていった「夢」という言葉が、夏海の前では宝石みたいに光っている。彼女はどうして、こんなにも活き活きと夢の話を語れるのだろう——と考えて、ようやく理解することできた。
 夏海はきっと、僕のような“自殺者”ではないのだ。
 この世界には二種類の人間がいて、夏海はもう一方の方の人間だ。自殺した人がみんな夢を持っていなかったか、夢に絶望していたかと言われればそうではないかもしれない。でも、自分の人生を自分で断ち切るほど追い詰められていた人間が、たとえ死後の別世界ででもこんなふうに夢を思い描けるとは思えない。

「ありがとうっ」

 自分の夢を褒められて嬉しそうに頬を染める夏海。理沙は、「いいなあ、夏海には夢があって」と冗談ぽく笑う。龍介は「夏海なら絶対なれるって!」と根拠のない自信で夏海を応援した。
 そうだ、夏海ならきっと先生になれる。
 夏海の底抜けの明るい笑顔を見ていると、幸せな気持ちにさせられるのだ。
 そういう温かい光を、きっと生徒に分けてあげられるから——。

「夏海が先生になったら、僕は夏海の生徒になりたかったって、きっと後悔するよ」

 夏海の瞳が、大きく見開かれる。僕の言葉に揺れた瞳の奥で、彼女は一体何を思っているのだろうか。

「じゃあ、たくさん勉強して、春樹くんにも何かを教えてあげられるようにするよ」

 はにかんだ彼女の口から溢れ出た最高の答えに、僕は胸にじんわりと込み上げてくるものを感じた。

「その前に夏海は、春樹に歌を教えてもらわないとねえ」

 すかさず理沙のつっこみが飛んできて、夏海が「うう」と唸る。とたんに笑いの渦が巻き起こり、先ほどまでのしんみりとした空気はまた、賑やかな遊園地みたいに色づいていく。

「さあ、また一曲歌うぜ!」

 龍介がマイクを握ると、僕はさっとタンバリンを構えるのだった。