ディーン高校での高校三年生の四月、僕はこの『Dean Earth』という世界に慣れるのに必死だった。
「はあっ」
現実世界での高校生活に良い思い出がないからか、毎日学校に行くだけで心身ともに疲弊する。
外面は取り繕っているものの、家に帰ればいつもベッドにダイブして、課題もそのままに眠ってしまこともあった。
「案内人、いる?」
手慰みに、久しぶりに彼——いや、高い声からすると彼女なのか——を呼んでみた。
……。
短い沈黙が流れる。そもそも僕の部屋には僕以外誰もいないので、基本的には沈黙しているのだが、しばらく待つと、頭の奥の方で小さなさざめきが聞こえた。
——はあい、お呼びですか〜?
すごく間延びした声で返事をされたので、僕はいささか面食らう。一応、ディーナスでの高校生活が始まってから案内人を呼んだのは今日が初めてだった。これまでも何度か案内人に聞きたいことがないとは言えなかったが、大抵のことは夏海や龍介たちに聞けば解決できたからだ。
そんな僕が、今日案内人を呼ぼうと思ったのは、高校三年生の四月が終わり、明日からゴールデンウィークに突入するからに他ならない。生活にもだいぶ慣れてきたので、そろそろ案内人の声を聞こうと思ったのだ。
「久しぶりだね」
僕は、一ヶ月の高校生活ですっかり身体に染みついた“優しい男子高校生の喋り方”で彼女に話しかけた。
——お久しぶりです! もう、一生呼んでくれないかと思って焦ってましたよ。
滅多に出てくることはないと言ったのは案内人の方なのに、呼ばれなければ呼ばれないでいじけているのか。なんとも面倒臭いやつめ。
「別に呼ばなくても良かったんだけどね。なんとなく声かけてみたんだ」
僕が意地悪くそう言うと、案内人は「はあ?」と間の抜けた声を上げる。
——そんなことで呼び出さないでくださいよ。私は暇じゃないんですって言ったでしょう? で、用がないならもうお暇しますけど?
呼ばれなくて焦ると言ったり暇じゃないと言ったり、矛盾だらけの言動がおかしくてつい笑いが込み上げてくる。
「そんなに拗ねないでよ。あのさ、一個お願いがあって」
——お願いとは?
「コンビニでお酒買ってきてくれない? 一度飲んでみたかったんだ」
冗談めかして僕がそう言うと、案内人は「あのですねえ」と僕を嗜めにかかった。
——私、お酒なんて買ったこと——じゃなくて、実態のない私が、お酒なんて買いに行けるわけないじゃないですか!
目の前に彼女がいたら、きっとぷりぷりと怒っているだろうと想像がつくくらい、分かりやすい反応が返ってきた。僕はひとり、くつくつと笑う。家の中では基本的に孤独を感じることが多いけれど、案内人と話していると幾分か気分が和らいだ。
「ごめん、ごめん。まあそう怒らないでくれよ。冗談だって」
——はああああ。冗談は寝言で言ってください! で、用はそれだけですか?
やっぱり人間みたいにコロコロと声色を変える案内人に、僕はちょっとだけ好感を抱き始めていた。
「ああ、そうだな。もう一つだけ聞いてもいい?」
——なんです? 今度は煙草なんて言わないですよね。
「はは、さすがに煙草の欲はないよ。まあ、もう死んだんだしこっちの世界で試してみるのもアリだけど」
——そんなことしたら退学になりますよ?
退学……この世界にも、退学なんていうシステムがあるのか。一つ勉強になった。やはりほとんど現実世界と変わらない。
「退学、は勘弁だな。聞きたいことっていうのはあれだ。この世界には二種類の人間があるって言ってたよな。それを、何か法則で見分けることはできるのか? 例えば外見とか」
そう。僕はこの世界に来た時から、二種類の人間についてずっと気になっていた。というか、気にならない人はいないだろう。
案内人は真面目な声で、「そのことですか」と相槌を打つ。
——それなら確かにあります。簡単に見分ける方法が。でもそれは、私の口からは伝えられません。みなさんのプライバシーに関わることなので。
「やっぱりそうなのかー……」
案内人の口から何かヒントを得られれば儲けものだと思っていたが、そう甘くはないようだ。僕は大きくため息をついた。
「あ、ごめんあと一つ。前に、この世界には終わりがないって言ってたよね。じゃあこの世界にいる住人は、ずっとこのままなのか? 高校では人が増えていく一方で、誰もいなくなったりしないのか?」
一ヶ月の高校生活の中で、気になっていたことを吐き出した。
僕がディーン高校で目覚めてから、新しくやって来た生徒はいない。どうやら、住人はそう頻繁にやってくるわけではなさそうだ。
しかし、終わりがないとなれば、いつまでも人口は増え続けていくばかり。そのあたりの整合性のようなものがあるのかどうか、気になったのだ。
——増えていく一方、ということはありません。先にも言った通り、この世界には終わりがありませんが、唯一自ら命を絶った場合には、この世界から消えることになります。時々、そういうことが起こるのです。だから私たち案内人は、消えた人間が一人出たら、現世から一人補充する、という方法をとっています。つまり、現実世界からやってきた人間は一定の数を保ち続けているんです。
先ほどとは打って変わって真剣な声色で、案内人がそう告げた。
そうか。そういうことか。自殺した人間が絶対に『Dean Earth』に連れてこられるわけではない。何か選考基準のようなものがあるのだろう。僕がこの世界にやって来たのも、この世界から一つの命が消えたから——そう考えると、胸の奥がざわざわと荒く削れていくような心地がした。
「分かった。ありがとう」
僕は案内人にそれだけ言うと、案内人は「ではまた」と僕の意識から消えていった。