私たちが春樹くんの学校案内を終えたのは、小一時間経った頃だった。
外はもう薄暗くなっていて、山の端に沈んでいく夕日と、橙色から群青色に変わっていく空のグラデーションを眺めた。
「ディーナスの空って、本当現実世界とそっくりだよね」
理沙ちゃんが感慨深そうにそう呟く。
「ディーナス?」
聞き慣れない言葉だったのか、春樹くんがまた首を傾げていた。
「ああ、この世界の名称『Dean Earth』だから、略して『ディーナス』ってみんな呼んでるの。私も初めて聞いた時、なんだそりゃってびっくりしたよ」
「なるほど。ディーナス、か」
ふむふむ、と新しい用語を覚えていく春樹くんは、小さな子供みたいで面白い。私や龍介はもうこの世界の住人になって久しいから、
空を見てもあまり何も思わないし、この世界独特のいろんな名称も、飽き飽きするほど身体に染み付いている。
「でも確かに、この世界は本物みたいだな——」
春樹くんが目を細めて、空を仰ぐのを、私は隣で眺めていた。
私も初めてこの世界を目にした時は、空や、海や、学校や街の風景にいちいち感動していたっけ。一日過ぎるごとに、そんな驚きも減っていたんだけれど。
この世界には二種類の人間が存在している。
ディーナスに住む人間の頭には、絶対にこの事実が棲みついている。私は出会った時から、春樹くんが私とは別の種類の人間だということに気づいた。簡単な仕掛けだ。私や龍介には苗字がない。対する春樹くんや理沙ちゃんには、真田、藍沢という苗字がある。それは、私と龍介が同類で春樹くんと理沙ちゃんとは別の種類の人間だということを物語っていた。
きっとこの世界の人間のほとんどが、苗字の法則に気づいている。でも春樹くんはまだ知らないだろう。理沙ちゃんは賢いから多分分かっている。龍介は——ちらりと彼の方を見る。空を見上げる春樹くんを、これまた感慨深そうに見つめている龍介。彼は気づいているのかな。
私は龍介の気持ちなら分かってあげられるけれど、春樹くんや理沙ちゃんの抱えているものを、分かってあげられないのかな——。
「夏海?」
また物思いにふけっていると、理沙ちゃんが声をかけてきた。私はふと、自分の世界に入り込んでしまうことが多い。その度にみんなからは、「夏海ワールドに入ったな」と笑われる。うーん、この性格、本当は変えたいんだけどなあ。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「またかよ〜。今日も夏海ワールド全開だな」
「うう、またその言い方やめて! それより春樹くん、学校のこと少しは分かったかな?」
私はなんとか話題を逸らそうと、春樹くんの目を見て尋ねた。
「ああ、おかげさまで、大体は分かったよ。どうも、普通の高校とほとんど変わらないみたいだな。教室の場所とかはまた聞くことになるかもしれないけど、今日はありがとう。あと、これからよろしくお願いします」
やっぱり春樹くんは礼儀正しく頭を下げる。私は彼の律儀なふるまいが好きだ。いつもガーガー喋りかけてくる龍介も見習ってほしい!
「そんな、大したことしてないよ。こっちこそ急に案内するって言ったのについてきてくれてありがとうね」
私はただ、三人だった友達の輪が四人に増えるのが嬉しかっただけだ。春樹くんにお礼を言われるほどのことはしていない。
「あ、そうだ! 春樹も仲間に加わったことだしさ、もうすぐゴールデンウィークじゃん? みんなで遊びに行かね?」
龍介が両手をパンと鳴らして、そんな提案をしてきた。
ゴールデンウィークのことなんて頭になかった。でも毎年、三人で遊びに出かけるのが私たちの恒例イベントだったんだ。
「いいね! いつもほら、遊園地とか行って乗り物に乗っても、二人乗りばっかりだから、一人余ってたのよねえ。ま、そもそも私は絶叫系苦手だから乗れるのは優しい乗り物だけだけど」
「そうそう! 理沙は全然ジェットコースター乗らねえし、乗れるもんも、いっつも俺が一人乗りになるだぜ? 寂しすぎて全然楽しくないっつーの」
龍介がおかしそうに毎度恒例の困った問題を主張する。私も春樹くんも思わずぷっと吹き出した。
「なんだそれ、なんかかわいそうだな」
「だろ〜? だからほら、三人より四人の方が絶対楽しいって」
あっけらかんとした龍介の言葉が春樹くんの心を溶かしたのか、春樹くんは嬉しそうに「それじゃあ」と頷いた。
私はその間ずっと、三人の会話をそばで眺めて、温かい灯火が胸に広がるのを感じていた。
ディーナスの空は、次第に橙色が群青色に飲み込まれて、街頭がないとお互いの顔が見えないくらい、暗くなっていた。その中でも、どうして春樹くんの表情だけは、こんなにもくっきりと見えるんだろう。
三人が、私の方を一斉に見て、「夏海はどう?」と聞いてくる。
また考え事をしてしまっていた私は、いつものように口の端を持ち上げて、精一杯の笑顔を浮かべる。
「もっちろん、賛成だよ! ていうか、私抜きで話進めないでよー!」
子供みたいな主張をする私を見て、春樹くんがまた笑っている。理沙ちゃんと龍介には、きっといつもの夏海だとしか思われていないだろう。
三人の輪が四人になった。
それだけで、胸の中の幸福度が一気に高まったみたいに、私は満たされていた。
ディーナスの春の夜、少し肌寒い夜風が、私の頬や首を撫でる。風や、自然の風景を好めで見られることは、私が生きている証拠だ。
高校三年生になった私が、この世界で息をしていることが、この上なく幸せで、嬉しくて——切なかった。