「すごい!ドラマでみるみたいな広い旅館……」

「本当だ……絵に描いたような旅館……」

「外観も綺麗だったけど、それを超えるくらい綺麗な造りだね」

「叶愛の初めての旅館が素敵な場所になってよかった」

「最後までこんなに感動するなんて……想君、本当にありがとう」

 実を言うと旅館は、神楽と白石からの隠れ誕生日プレゼント。このことは後日、正直に彼女に伝える予定。
頻繁に家族旅行をする白石と、小学生の頃にこの近くで暮らしていた神楽による選りすぐりの旅館らしく、僕も住所以外の情報は一切伝えられていなかった。

「みて想君!夜景がすごく綺麗だよ!」

「すごい……さっきの神社よりも高い場所にあるから本当に街の全てが一望できちゃいそうだね」

「あれがさっきの神社かな……水族館のオブジェもライトアップされてる!」

「そうだね提灯が並んでるのが飴細工工房の辺りかな」

「本当だ……提灯が街に浮かんでいるみたいで幻想的……人はさっきより少ないけどそれもまたいいね」

「街全体が本当に綺麗だね」

「小さくてよく見えないけど、きっと遠くの方に見える人もみんな楽しんでるんだろうな……雰囲気が笑っているような気がする」

「テラス席に出てみようか、そうしたらもっとちゃんと見れると思うよ」

「テラス席もあるんだね……本当に豪華な旅館だね、お嬢様になったみたい」

 涼しくなった夜風には、夏の湿気がまだ少し残っていた。
おおきく息を吸い込み、肺に閉じ込める。吐き出すことが勿体無いほど、澄んでいる空気の感触をこのまま記憶していたい。
素足になって無邪気にテラス席の柵から身を乗り出す彼女はどこか危なっかしくて、それでもそれ以上の可愛らしさを持っていた。

「想君」

「どうしたの?」

「こんな素敵な街に連れてきてくれて本当にありがとう、想君がいなかったら私こんな綺麗な景色あるって知れないままだったよ」

「どういたしまして、叶愛はこの街のどんなところが好きになった?」

「景色とかはもちろんだけど、人が優しいところかな。もちろん全員が優しいに当てはまるわけじゃないと思うけど、今日出会った人達はすごく優しさに溢れていた気がする」

「そうだね、僕もすごくそう思うよ。安心する温度があったよね」

「うん、暖かさとか優しさに包まれた一日だったよね」

「きっとまだまだあるんだろうね、この街の素敵なところ」

「そんなに広い街ではないけど、その分素敵さが詰め込まれているのかなって僕は思う」

「生きている間に、この街に出逢えてよかった……ここを知らないまま死んじゃうなんて、あの世で悔やんじゃうと思うから」

 彼女は数分前よりも前へ身を乗り出し、全身で街を観ている。
提灯のぼんやりとした暖色も、ライトアップされた水族館のオブジェの青い光も、彼女の真っ白な姿が全て吸い込んでしまうのではないかと思ってしまう。
あまりにも綺麗なその姿に、このまま街に溶けて消えてしまうのではないかと怖くなる。

「想君っていつも何時頃に寝るの?」

「あんまり覚えてないけど……日を跨ぐことが多いかな」

「それなら私と同じくらいだね、たくさんお話しできそうで嬉しい」

 彼女とふたりきりで同じ空間、同じ時間を過ごせるのも、きっと今日が最後になる。
眠る前に彼女の声を隣で聴くことも、周りの目なんて気にせずに二人だけのペースで言葉を交わすことも、非現実的な空間を共有することも、全てこの夜が最初で最後。

「たくさん話をしよう、きっとどれだけ話をしても話し足りないって思うんだろうけど」

「そうだね、だからできるだけたくさん二人で記憶しておこうよ。またいつか今日みたいに二人で話ができるように」

「そうしよう、僕と叶愛だけの特別をちゃんと覚えておこうね」 

 静かに頷き、彼女は室内へ戻る。
手招きしながら僕の名前を呼ぶ、そして軽快なスキップを踏みながら部屋の明かりをつける。

「今日撮った写真でも見ようよ!想君のスマホにある写真と私のスマホにあるのどっちも見よ」

 スマートフォンを片手に楽しそうに彼女は机に土産を広げる、それを眺めながらソワソワしている様子が可愛らしい。
その可愛さを少しだけ遠くから見ていたくて立ち止まったままの僕に、待ちきれなくなった彼女は手招きをする。
普段は少し大人びた彼女の子供らしさ、写真には収められない愛おしさがある。

「ねぇこの写真、想君撮られてたこと気づかなかったでしょ」

「これ……朝の新幹線を待ってる時の?」

「そう!降車したあとのこと、ちゃんと調べてくれてることが嬉しくて撮っちゃったんだよね」

「改めてみると少し恥ずかしいな……でも叶愛がそんなふうに思ってくれていたことはすごく嬉しいよ」

「私、もしかしたら隠し撮りの才能あるのかもね」

「じゃあ叶愛は僕にこの写真を撮られてたの気づいてた?」

「新幹線で窓の外見てる時の……こんなに近くにいたのにシャッターの音聞こえなかった……」

「まだまだ詰めが甘いね、僕も人のこと言えないけど」

 お互いに少し揶揄って茶化しながら、お互いの知らない隠し撮りを明かしていく。
不意をついたような表情は自然体そのもので、その時の記憶が内側から湧き上がってくる。
今はそれがただ楽しくて一枚一枚が大切で仕方がないけれど、卒業して彼女の存在が恋しくなった僕が今と同じ感情でこの写真を見ていられる自信を僕は持つことができなかった。
きっと溢れ出てくる想い出に息が詰まるほど溺れてしまって、写真から、彼女の表情から目を逸らしてしまう。

「水族館の写真もすごく綺麗に撮れたよね、やっぱり海月の写真が多くなっちゃった」

「僕も海月が多いかな、あとは鰯の大群。二人で話した水槽の前での写真はやっぱり他の水槽より多いのかも」

「本当だ……海月と鰯でいっぱい、あとで鰯の写真送ってくれたら嬉しいな」

「わかった、忘れないうちに送るね」

「他にはどんな写真を撮ったの?」

「僕はイルカショーでの写真かな、動画もあるけどイルカの決めポーズとかは全部写真で撮ってある!」

「私も!奥の方にいた小さいイルカの写真も何枚かあるんだ、すごく可愛くてね」

「ずっと言ってたよね、ショーには登場しなかったけど確かに可愛かった……」

「あとは想君がペンギンに餌をあげてる写真かな、私は怖くてできなかったけど見てるのがすごく楽しくて」

「近距離だと僕も想像していたより怖かったな、でも食べてくれた時は嬉しかったよ」

「写真には撮ってないけどさ、あの短時間でもたくさん思い出が増えたよね」

「そうだね、全部を写真にしたら容量が足りなくなっちゃうくらい」

 水族館で撮った写真で一番多いのは、海月ではない。非表示フォルダに保存している、水槽を眺める彼女の写真だった。
魚を指でなぞりながら必死に追いかける無邪気な彼女の姿が、僕のスマートフォンには数えきれないほど収められている。
儚すぎるその瞬間を捕らえずにはいられなかった、あまり出席していなかったけれど今日ばかりは元写真部の血が騒いだ。

「この写真、眩しくてどっちも目瞑ってるね」

「本当だ!想君すごい頑張ってカメラみてる」

「これもきっといい思い出になるよ、いつか見返した時にね」

 どれだけ時間が掛かっても、この写真の全てを現像して宝物にしたい。
彼女が僕から遠く、手の届かない場所へ行った時に、その形を抱きしめていられるように。一方的な想いで彼女の決断を引き留めないように、僕の中だけでも綺麗な思い出として一瞬を永遠に握り締めていたい。

「飴細工工房では作ることに夢中になって写真は撮れなかったな、想君は撮れた?」

「僕も撮れてないかな、その後の食堂での写真なら少しあるよ」

「見せて……って私の写真ばっかりだね」

「予告無しで撮った方が自然な表情をしてくれる気がしてね、これも気づいてなかったでしょ?」

「気づかないよ……でも想君が撮る写真は好きだから、恥ずかしいけど嬉しい」

「そうなの?」

「そうだよ、この間校舎内を一人で歩いていた時に想君が撮った写真を見つけて素敵だなって思った」

「僕の写真を見つけたの……?」

「隣の校舎の階段に貼ってある文化部の特設掲示板にあったんだよね」

「そうだったんだ。改めて撮った写真を見られるのはちょっと恥ずかしいけど、そう言ってもらえて嬉しいよ」

「だからもしよかったらまた私のことも撮ってね、また想君の写真が見たいから」

「それならよかった、僕も叶愛の表情が好きだから撮ってて楽しいんだ」

 そんな僕の小さな告白を『そうなんだ』と答える彼女。
きっと些細な会話の一部にしか過ぎないだろうけど、僕にとってはかなりの勇気が必要なことだったりする。僕のカメラロールを許されているうちに彼女で埋めておこう。
それもいつか、期限が切れる時に告白して『僕は心の底から好きだった』と伝えよう。少し未練がましいけれど、生半可な気持ちのまま時間を共にしていたわけではないと証明したい。
この気持ちを今伝えられない意気地のない僕の、我儘(わがまま)な計画。

「着物姿の想君の写真は私の方が多く撮ってる自信あるよ」

「えっ」

「隙を見てずっと横から撮ってたんだ、彼女目線の写真」

「彼女目線って……照れちゃうからその言葉」

「私ばっかり照れててもおかしいからバランスを調整したの」

「仕掛けてくるね」

「攻撃は戦略と順番が大切だからね!」

「それなら次は僕のターンになるよ?」

「それだと次の旅行が怖いな……でも私も負けないからね!」

 彼女の言う『次の旅行』は本当に来るものなのか、それともただの会話の流れから生まれた冗談か。
きっと僕の考えすぎだけれど、そんな言葉にすら反応してしまうほど僕は彼女との別れを迎えることが怖い。
こういう感情を持ちたくなかった、誰かと関係を気づくたびに遅かれ早かれ待ち受けている『別れ』を僕には受け入れられる自信がないから。それでも僕は今、彼女の恋人でいることを選んでいて、これから先もその関係が続くことを望んでいる。
彼女に変えられた。
僕の心に寄生していた恐怖心を、彼女は希望にすり替えた。

「ねぇ叶愛」

「ん?」

「次の旅行をするとしたらどこに行きたい?」

「急すぎてわからないけど……また違う所に行きたいな、まだ知らない好きな場所をみつけたい」

「じゃあ……次の旅行はいつにしたい?」

「いつ……どうだろうね、台風とかが来ていない安全な時がいいな」

「……その時に何がしたい?」

「また楽しめることがしたいな、たくさん話ができたり笑い合えたり」

 どんなに未来の質問をしても、彼女からは曖昧な言葉しか返ってこない。
言ってほしいことはただ一つなのに、たった一つ、彼女の言葉から未来を感じられたら僕はそれでいいのに。

「……叶愛の中で次の旅行があることは決まっていることなの?」

「想君」

「何?」

「質問ばっかりだからさ、ちょっとゲームしようよ」

「ゲーム……?」

「想君が勝ったら、想君が一番私に訊きたいことを訊く権利がもらえるの」

「なんでも訊いていいの?」

「いいよ、私は全部答えるから」

「そのゲームって何?」

「『もしも想定ゲーム』っていうゲーム」

「何それ……初めて聞いた」

「私が今思いついただけだからね、ちょっとルールも曖昧だけど大丈夫?」

「いいよ、教えて」

「まず一人がもしもの状況のお題を出すの」

「例えば?」

「例えば……『もし今、隕石が降ってきたら』とか」

「なるほど、そして?」

「そして、もう一人がその状況になったらどうなるか、どんな行動を取るかを具体的に答える」

「なるほど」

「お題を出した方は気の済むまで相手の答えに追及していい。相手が納得したらその人の質問ターンは終了で、相手の質問に先に答えられなくなった方が負けね」

「なんとなくわかった、とにかくお題にあったことを答えればいいんだよね」

「そう!でも嘘は禁止だよ、本当に自分がしそうな行動しか言っちゃダメ」

「わかった」

 彼女の思いつきで始まったゲームは、正直趣旨がわからなかった。
質問から逃れたい彼女の本心から思い立ったのだろうか。ただ始まってしまった以上、僕は答えを聴くためにもこのゲームで勝たなければいけない。

「叶愛からお題を出してよ」

「じゃあ……想君が下校中に捨て猫を見つけたとして、その捨て猫がずっとついてきたら想君はどうする?」

「僕の家は一軒家だから、そのまま連れて帰ると思う」

「その猫がすごく汚れて痩せ細っていたら?」

「まずはお風呂に入れるかな、ご飯とかは詳しくわからないから近くの動物病院に連れていくと思う」

「なるほど……想君一問目クリア!じゃあ次は想君がお題を出して」

「叶愛が一日だけ誰かと入れ替われるってなったら誰と入れ替わる?」

「誰だろう……身近な人と入れ替わるの?」

「できれば僕が知ってる人だと嬉しいな」

「寧々ちゃんかな、誰とでも気軽に話せて……いつ見てもすごく楽しそう!しっかりしてて、明るくて、たくさん尊敬しているところがある寧々ちゃんと入れ替わってみたい!」

「なるほど……白石と入れ替わって叶愛は何をしてみたい?」

「クラスの女の子と遊んでみたいかな、私はまだ勇気が出なくてあんまり声も掛けられてないから楽しく遊んでみたい」

「いいね、叶愛も一問目クリア」

「それじゃあ次のお題は……もしも明日の朝、全然知らないところで目が覚めたら、想君はどうする?」

「位置情報で自分がどこにいるかを確かめると思う、そこからどうにかして家に向かうと思う」

「驚いたりしない?」

「最初は混乱するかもしれないけど、すぐに冷静になれそうって思ってる」

「なるほど……ちょっと悔しいけど想君二問目クリア」

 彼女の思いつきで始まったゲームは思いの外、楽しかった。
絶対にありえないシュチュエーションを投げては、どうにか想像を膨らませて解決していく。たまに少し卑怯なお題を混ぜながら、安直なルールの中で稀に高度な心理戦が生まれる。
表情をコロコロ変えながら、時々回答に詰まるような声を出しながら、最終的には笑い合って正解をつけていく。
そんなラリーを十数回繰り返し、そろそろシュチュエーションに限界が来る頃。

「次、想君がお題を出す番だね」

「ねぇ叶愛」

「これで最後にしよう。叶愛が答えられたら叶愛の勝ち、答えられなかったら僕の勝ち」

「いいよ、最終戦ってことだね」

「そう、本気の一戦だよ」

「じゃあお題をお願いします」

 このお題は僕の本心、今まで飛び交ったどのお題よりも卑怯で、難しい。
そしてこの問いは、きっと彼女を苦しめてしまう。
もしかしたら正解をつける時に笑うことができないかもしれない。

「もし僕が、叶愛と本当の意味で付き合いたいって言ったらどうする?」

「……えっ」

「契約的でも、形だけでもない。本当の恋人同士になりたいって言ったら、叶愛はどうする?」

「……わからない」

「僕の出したお題に質問があったら答えるよ、すごく意地悪なお題だと思うからね」

「じゃあ……私がこのお題に答えたことがそのまま現実になること可能性はある?」

「最初に叶愛が言ってたよ、本当に自分がしそうな行動じゃないと言っちゃダメだって。だから僕は、叶愛の答えにそうように動くよ」

「……」

 口を噤んだまま、彼女は少し俯いて考える。
本当はこんなに大切なことを、ゲームを通して訊くなんて筋が通っていないとわかっている。すごく卑怯で、意地悪で、彼女を困らせてしまうということも全てわかっている。
ただ、どこかで訊かなければ曖昧に包まれたまま終わってしまうのが今の僕達だということも、それ以上によくわかっている。
僕はきっと彼女から『本当の恋人同士になりたい』と言われたら、すぐにその手をとってしまうと思う。彼女が好きで、可愛くて、守りたくて、知りたくて、そんな彼女の隣にいたいから。
だからこそ僕は、彼女の本当の言葉を聴きたい。

「私負けちゃうかも、このゲーム」

「え……?」

「まさか自分で考えたゲームに自分で負けるとは思ってなかった……降参!」

 顔を上げたかと思うと、彼女は少し引き攣った顔でそう言った。
誤魔化したような笑顔に胸が苦しくなる、僕はただ彼女の本心を知りたかっただけなのに。

「想君」

「……何?」

「なんでも質問していいよ、それが約束だったから」

「でも……」

「遠慮なんてしたらゲームじゃないでしょ?どうせならこういう時にしか訊けないことにしてよね」

 『こういう時にしか訊けないこと』これはもうゲームなんかじゃない。
僕が、目の前の彼女に問いたい本当のこと。

「叶愛」

「何?」

「ここから先はゲームとしてじゃなくて、僕からの純粋な質問として受け取ってほしい」

「もちろん、最初からそのつもりだよ」

「叶愛は……」

「うん」

「叶愛は僕のこと、好き?」

 想像通りの沈黙が僕達の間に走る。
彼女の表情をみることはできなかったけれど、きっと今はみないことが正解なのだと思う。
彼女の声が聞こえるまで、ひたすら下を向いて待つ。

「想君」

「……うん」

「私は、想君のこと好きだよ」

「それならどうして……」

「どうしてさっきのお題に答えられないのって、想君が思ってることもわかってるんだ」

「……」

「でもね、想君」

「……ん?」

「私は想君のことが本当に好きだけど、その決断はできないな」

「そっか……」

「私が弱いだけんなんだよね。本当なら……叶うことなら、もっと違う関係で想君の隣にいたかった」

 彼女の言葉の意味を、僕は初めて理解できなかった。
理解できなかったというより、僕が理解したくなかったのかもしれない。自分本位な我儘が彼女の言葉を無意識に拒んでいるのかもしれない。

「……想君」

「ん……?」

「電話……ずっと鳴ってるよ」

「あっ……神楽だ……ごめん、すぐに終わると思うからお風呂でも入って待っててほしいな」

「わかった、じゃあ先にお風呂失礼するね」

ー*ー*ー*ー*ー

 部屋を出て、誰もいない空間でスマートフォンを耳へあてる。
旅行前『この二日間は極力連絡をしない』という気遣いを言葉にしてくれた神楽からの電話に鼓動が早くなる。

「一日会ってないだけなのに、想がいないと違和感がすごいな」

「なんだそんなことで電話してきたのか……何かあったのかと思って心配したよ」

「違うよ、本題に入る前にちょっと雑談でも挟もうかと思って」

「本題……よくわからないけど、わかった」

「楪さんとの旅行はどう、順調に楽しめてる?」

「手惑うこともあったけど、それ以上に楽しいよ。いい思い出になれてる」

「それならよかった」

「神楽は?今日は白石と放課後デートだっけ」

「そうだよ久しぶりにね、こっちはいい意味でいつも通りだよ心配ない」

「熟年カップルは格が違うな」

「新婚さんみたいな初々しさが恋しい時もあるけどな」

 聞き慣れた神楽の声に、少しだけ胸の苦しさが解けたような気がした。
普段は見過ごしてしまいそうな優しさが今ならはっきりと輪郭を成してみえる。早く部屋へ戻らなければいけないことはわかっているけれど、今はもう少しだけ、くだらない話に甘えていたい。

「結局どこに行ったの?」

「最初はあの水族館に行ったよ、修学旅行だったら確か二日目の朝に白石も一緒に行った場所」

「いいじゃん!あそこ想すごい気に入ってたもんな、ちゃんとエスコートできたか」

「エスコートなんてそんな大したことはできてないかもしれないけど、ちゃんと楽しんでもらえたと思う」

「それならよかった、その次は?」

「どこに行ったと思う?たぶん神楽ならわかるよ」

「一緒に行ったところ?」

「神楽と僕と白石と三人で行ったところ、絶対神楽はわかるし覚えてる」

「俺がわかって覚えてるところなら……飴細工のところ?あの優しいおじいちゃんが教えてくれるところか!」

「正解!やっぱり覚えてた」

「あの時の白石の不器用なところが可愛くてさ……もう一回一緒に行きたいんだけど誘ったら断られちゃいそう」

「卒業旅行とかで誘ったら案外誘いに乗ってくれそうだけどね」

「卒業旅行か……寧々の進学先次第かな、俺は就職確定だからいくらでも合わせられる!」

「白石ならどうにか頑張って時間つくりそうだけどね、その時はちゃんと神楽がかっこよくエスコートするんだぞ」

「どうかな……その時は想に助言をもらってから誘うよ」

「助言ができるほどの知識なんてない!今回だって神楽と白石がいなかったら何もできてなかったんだから」

「でも旅行に関して経験値は想の方が高いからな、お世話になりますよ先輩」

「そしたらその時は今度は僕が旅館プレゼントかな、本当に素敵なところを選んでくれてありがとう」

「こちらこそだよ、寧々のセンスが本当によくてさ……選ぶ時が楽しくてしかたなかったよ」

 そうだ、神楽と白石には未来がある。
きっといつかは終わりが来てしまうけれど、二人にはお互いが望む限り続く未来があるんだ。卒業しても、社会に出ても、そのまま永遠を誓う可能性だってある。そんな事実に気づいて少し虚しくなる。

「いつまでも楪さんを待たせるわけにもいかないし、そろそろ本題に入ろうか。想」

「……うん、本題って何?」

「単刀直入に訊く、傷つけたらごめん。でも絶対に電話は切るな」

「わかった……」

「想と楪さん、純粋な『付き合う』って関係じゃないよな」

「……えっ」

 その事実を何故神楽が知っているのか、僕には理解が追いつかなかった。
反射的に、電話を切ってしまいそうになる指先を止める。止めた指に力を入れながら、動揺で開いたままの唇を動かす。

「どうして……そんな」

「さっき寧々から聴いたんだ」

「白石が?」

「寧々がちょうど先週、楪さんから相談を受けたって言ってた」

「先週って……」

「先週の水曜日、想が楪さんを旅行に誘った日の放課後」

 淡々と語られていく言葉が計り知れないほど重く、鋭く、僕の脳を刺しながら伝う。
神楽、白石、叶、三人の顔が生々しく点滅して止まない。

「どうして、叶愛が……白石に何を話したんだよ」

「落ち着けなんて言うつもりはないけど、一度話をちゃんと聴いてほしい」

「そんなこと言われても……」

「まず確認だけど今、楪さんは近くにいるの?」

「いない、叶愛はお風呂に入ってて僕は部屋の外に出てる」

「それならよかった、きっとそんなに時間も取れないと思うから想が知りたいことから話していこう。急で申し訳ないけど何から聴きたい?」

「……白石は叶愛から、どんな言葉でその事実を聞いたの?」

「夏祭りの日に、私から告白したけど卑怯な告白をしちゃったって言ってたらしい」

「その『卑怯な告白』っていうのが、形だけのお付き合いをしたいっていう叶愛からの言葉ってこと……?」

「俺はその場にいなかったから断言することはできないけど、おそらくそういうことだと思う」

「それで……どうして白石に相談したの?内緒にするって言ったのは叶愛の方なのに」

 こんなこと、神楽に聞いても仕方がないことはわかってる。ただ知りたかった、縋れる存在に縋っていたかった。この衝撃を独りで受け止められる強さを、今の僕は持ち合わせていない。
彼女を疑いたくない、それでも神楽や白石の言っていることが嘘だとも思えない。

「これは俺の想像だけど、それでもいいなら話したい」

「それでもいい、間違っていてもいいから聴かせてほしい」

「楪さん自身も、その期限がすごく寂しかったんだと思う」

「え……」

「卒業まで数えるほどしかないだろ、きっと想と一緒にいられなくなるのが嫌なんじゃないかなって」

「でも、その期限は叶愛が……」

「何か理由があると思うって寧々が言ってたんだよね」

「理由……?」

「ずっとそばにいられない理由。その話をしてる時、楪さんが今にも泣き出しそうな目をしてたんだって」

 人伝えで聞いた情報は鵜呑みにしない方がいいとよく聞くけれど、この数分間に掛けられた言葉が嘘だとは思えなかった。できることなら嘘だと思い込みたかった。
そしてできることなら、あの夏祭りの告白に添えられた期限も嘘だと思い込みたい。
彼女が僕に隠している秘密を知りたいと思った。でも、僕が知っていいことなのかすら今の僕にはわからなかった

「神楽」

「ん?」

「白石が聴いたことってそれが全部?他に何か言ってなかった?」

「その話を楪さんから聴いた後に『私は今が一番幸せかもしれない』って言ってたとは聞いたよ」

「そっか……教えてくれてありがとう」

「想」

「……何?」

「想はどうしたい、こんなこと訊くなんて酷だとは思うけど。想は楪さんと、これからどうなっていきたいの」

「これから……」

「叶っても叶わなくてもいい、想の思ってることを俺だけでも知っていたい。想が抱いた感情、なかったことにはしたくないんだ」

「僕は……まだ叶愛と一緒にいたい。今日みたいにまた旅行もしたいし、まだまだ話したいことだってある、お互いが望む限り一緒にいたい」

「想からそんな言葉聴けるなんて思わなかった、そしてちょっと嬉しかった」

「そうかな」

「想は楪さんと話すようになって変わったと思う」

「変わった……?どこが……」

「人の目をみて話をするようになったり、前より笑う時の顔が楽しそう。思ってることを口に出すようになったし、表情が明るくなった」

「……」

「何より楽しそうなんだよね、今の想をみてると」

「それはちょっと自分でも感じてる……」

「あと寧々が想に伝えてって言ってたことがあってさ」

「何?」

「『叶愛ちゃんは絶対悪くないし、久遠君も悪くないだから二人で幸せになって』って」

 彼女が何を考えていて、どんな秘密を抱えているのか僕にはまだわからないことが多いけれど、僕は彼女と永く一緒にいたいと願っていて、きっとその願いを彼女も抱いているということは確かなことだと思う。
伝えることも、彼女の本心の奥を問うことを少し気が引けてしまうけれど、そんなことで臆病になっている時間はきっとない。

「想」

「……ん?」

「失う前に伝えろよ」

「ありがとう神楽、いってくるね」

 電話が切れる、この決心を失わないうちに彼女に全てを伝えよう。
手には、彼女へ贈る誕生日プレゼントがある。今度はゲームなんて手段に頼らずに僕の言葉と共に彼女に届けたい。
僕の言葉で、僕の心の全てを彼女に明かす。

「遅くなってごめんね、ただいま」

「みないで……!」

「ごめん、もしかして着替えてる途中だった……?」

「違う、違うけど……」

 彼女の切羽詰まった声に驚き、不意に目を開けてしまった。
一つに結んでいた長い髪は腰のあたりまで伸びている、少し振り向いた顔に僕は違和感を覚えた。

「叶愛……?」

「だからみないでって言ったのに……嫌でしょ、こんな彼女」

「そんなこと……」

「嘘つかなくていいから、自分でも思ってるから醜いって」

 綺麗な黒髪に隠れた顔が少しずつ僕の方を向く。
その瞬間が妙にスローモーションに映る。理解するのに数秒時間がかかった、いつも隣で見ているはずの彼女の顔に視線を向ける。一瞬、僕自身の目を疑った。
彼女の綺麗な顔の半分ほどに赤黒い痣のようなものがあった、手で覆っても隠せないほどの痣を見て言葉に詰まる。

「気持ち悪いでしょ?ごめんね、こんな姿ずっと隠したままで」

 彼女は僕の目をみて逸らさなかった。鋭くて、感じたことのないような痛みを感じる。
彼女からの『ごめんね』に強い拒絶が含まれているような気がした。
僕は何も言えぬまま手を後ろに組み、彼女に渡すはずのプレゼントを隠した。