僕が傷を見てしまった後すぐ、叶愛は眠ってしまった。「明日の朝も早いから寝よっか」と、無理のある言い訳をして。
翌朝、目が覚めて隣の布団を見ると、叶愛の姿がなかった。
僕は慌てて襖を開けると、そこにはいつも通り、僕に向かって微笑む叶愛がいた。
綺麗な白い肌に痣は見当たらない、笑った表情にも違和感は感じなかった。
その後の新幹線では、普段の調子で前日の思い出話をした。普通に笑って、普通に話して、途中で疲れてしまった叶愛はそのまま静かに眠ってしまった。
駅で別れた僕たちは「また週明けに学校でね」なんて言葉を最後に手を振ってそれぞれの家へ向かった。
それなのに、その週明けの学校から叶愛の席は空いたまま埋まらない。
机の中に溜まっていくプリントと、空いていく出席簿の確認印が僕に現実を突きつける。
「……」
あの時少しでも部屋に入るタイミングが遅ければ、部屋に入る前に一言確認さえすれば、僕は叶愛を傷つけずにいられたかもしれない。
傷を目にした時に、戸惑わず叶愛を安心させられるような言葉を掛けられればよかった。器用な言葉じゃなくても、素直に、思った通りに「傷があったとしても叶愛が好きなことに変わりはない」と伝えられれば、今頃なにかが変わっていたのかもしれない。
そんな後悔ばかりが、僕の頭を駆けていく。
「想——」
「神楽、どうしたの」
「このプリント、回収するから重ねて前に回してほしい」
「ごめん、全然聞いてなくて」
ここ数日、授業はおろか人の話すら頭に入ってこない。
少しでも集中を切らすと、全ての音が雑音に聞こえてしまう。そしてあの二日間を思い出して、言葉にできないほどの喜怒哀楽と、そのどれにも当てはまらない混沌とした感情に呑まれていく。
叶愛が笑っていた、僕の隣で心から楽しそうにしていた、二人だけの特別な時間で、最初で最後の幸せで、もしかしたらこれから先もずっと一緒にいれる可能性すらあって——叶愛がいない今から目を背けるように、僕の頭に浮かぶのはそんな幸せな光景ばかりだった。
「想、今日の放課後なにか用事あったりする?」
「ないよ、いつも通り帰るだけ」
「じゃあこの前一緒に行ったカフェにでも行こう」
「どうして——」
「理由なんて一つしかないだろ、楪さんのこと。ちょっと落ち着いて話す時間をつくろう、寧々も店の手伝いが終わり次第こっちに来れるらしいから」
「僕は大丈夫だけど神楽、弟さんたちは?」
「その時間だけ寧々のお母さんに面倒をみてもらう。親同士も仲がいいから安心して預かってもらえるよ」
「なんだか申し訳ないな、ごめんね」
「申し訳ないなんて言ってる場合じゃないだろ? 楪さんはいないし、想だって顔色とか目つきとか最近様子が危ないんだよ」
「そんなことないと思うけど」
「普段想のことをほとんど話さない寧々が何回も「心配だ」って言うくらいなんだから自覚してもらわないと困る、頼むから俺と寧々にできることは協力させてくれ」
素直に頷くことはできなかった。
傷ついて助けを必要としているのは叶愛なのに、これではまるで僕が神楽や白石に助けてもらっているようで心が痛んだからだ。
神楽に半ば強制的にバス停へ手を引かれ、乗車する。
乗客はいつもより少なくて、妙な静けさとひび割れた車内アナウンスが鳴り響く。
「神楽、次の信号で一つ前の席に移動するね」
「一つ前に、どうして?」
「ちょっと風に当たりたくて、窓際に行きたくてさ」
数日間の睡眠不足が祟ったのだろうか。乗り物酔いなどしたことのない僕が、たった数分間のバス乗車で酔った。
視界が回る、立ち上がることすら億劫な状態の意識の中で何度も叶愛の影がちらついた。
*
“急用のため本日臨時休業“カフェの入り口にはそんな張り紙が貼ってあった。
僕の話をするために、今日は店を貸し切ってくれたらしい。
通されたテーブルには冷たいレモン水と焼き菓子が置かれていた。その心遣いに申し訳なさを抱いて戸惑っていると「これは久遠君のためでも叶愛ちゃんのためでもある! そして私と律がしたいことだからやったの! 気を遣うの禁止!」と白石は言い切ってくれた。そして調理器具の片付けのためと、白石は一度席を離れた。
「寧々が来る前に、俺にだったら話せることを話してほしい。寧々には遠慮しちゃうこととか、男同士だから話せることとか、あったら聴かせてほしい」
調理器具の片付けのため、という口実は紛れもない二人の優しさだと気付かされた。
神楽にだから言えること、それなら一つ、心あたりがある。
僕自身に聞いたってわからない、白石はきっと知らない、神楽なら答えを知っていること。
「神楽からみて、僕は——」
こんなことを今更になって聞くなんて情けないような気がするけれど、それでも僕の口は止まらなかった。
「僕は、いい彼氏だったのかな」
そんな漠然とした問いに、神楽は少しだけ困った顔をした。
誤魔化すようにレモン水を流し込んで「いい彼氏、か」と、一言だけ繰り返すように呟いている。
困らせてしまっているな、と申し訳なくなった。
僕自身のことを“彼氏“と名乗っていいのかすらわからないから、ついそんなことを聞いてしまった。
形だけの関係だったけれど、僕は叶愛のことを本当の“彼女“のように接していた。それじゃあ叶愛は僕のことを一瞬でも本当の“彼氏“と思ってくれていたのか。本人に確かめることはできないから、せめて近くで見てくれていた神楽からの言葉でその時間の答え合わせをしたい。
「想が言う“いい彼氏“ってどういう彼氏だ?」
「どういう彼氏」
「どんな条件が揃ってて“いい彼氏“だと思う?」
「それは——相手のことを思ってて、優しくて、言葉にすることは難しいけど、神楽みたいな彼氏」
「急に褒めるなよ、照れるだろ。それにそんな虚な目で褒められても反応に困る」
小っ恥ずかしそうに神楽は後頭部の辺りを一度掻いた。
虚な目、そんな自覚はなかったけれど確かにそんな酷い目をしているかもしれない。
いい彼氏がなにか、改めて考えると確かに僕の中でも曖昧だった。ただ感覚的には本当に、神楽のような人が、僕の中の“いい彼氏“だった。
「答えがないから言い切ることは難しいけど“いい彼氏“だったと思うぞ」
まぁそう言うしかないよな、と気づいてしまった。
優しい神楽なら、僕を思ってそう言ってくれることなんて最初からわかっていたのに——。
「だって俺にも寧々にも、想と楪さんの関係が本当の恋人じゃないなんてわからなかったからな」
神楽が優しいからそう言ってくれた、それもあるのかもしれないけれど、きっと神楽は本心から僕を“いい彼氏“と言ってくれたのだとわかった。
僕が“いい彼氏“と言うより、僕と叶愛が“いい恋人同士“だと、認めてくれている気がした。
「二人の本当の関係とか以前にさ、想が楪さんのことを好きな気持ちに嘘はないんだろう?」
「叶愛のことは、気づいた時には好きだったんだ。だから、嘘なんてないよ」
初めてそう、誰かに向けて言葉にした。
「告白されて、最初はなにも思わなかった。形だけなら、それでいっかって思った。でも神楽に叶愛の素敵なところを聞かれた時に気付かされたんだ、ずっと気づかないフリをしてただけなんだって。本当に好きで、恋人として接したい、意識してる僕がいるって気づいた」
「気づくのはちょっと遅いけど、そんなところも想らしいな」
笑ってくれてる、呆れてるわけじゃない。神楽は温かく笑いながら「よかったな」なんて言っているみたいに笑ってくれている。
神楽の言う通り、僕は僕自身の気持ちに気がつくまで必要以上の時間がかかった。僕の中の恐怖心を超えるまでの時間が長すぎた。
隣の席から聞こえる声も、不定期に叶愛の気分次第でかかってくる電話も、今思うと叶愛なりの“彼女らしさ“だったのかもしれない。
そんな健気さにも気づかないように蓋をしてしまっていた僕自身の言動を、今更になって心底後悔している。
「想は本当に叶愛さんのことを大切に思ってたんだな」
包み込むように僕を慰めるような声がした。
その神楽の声に無意識に俯いてしまっていた僕の顔が上がる。
「俺が何日か学校に来なくてもここまで心配しないだろ? 好きな人になにかあったのかもしれないとか、どうしたのかなって、大切に思ってこその気持ちだからさ」
「傷つけたことへの罪悪感かな、ずっと重苦しいなにかに刺されているみたいで」
「素直に寂しいとか悲しいとか心配とか言えばいい。言ったって、減るものじゃないし。それほど相手のことを思ってるって改めて確かめられるから。だから想は、今なにを思ってる?」
僕がなにを思っているか、そう尋ねた神楽の表情は少し前にはなかった真剣さが含まれていた。
答えから逃げようと向けたグラスはすでに空になっていて、移した視線の先にはやっぱり真剣な神楽がいた。
「隣をみて叶愛がいないことは、寂しい。あの時ああしてれば、って、考えてもわからなくて、ただひたすら一緒に笑ってた時間に戻りたいって考えちゃう」
やっと、僕の気持ちを言葉にできた。
そっかそっか、と神楽は僕の言葉を呑んでくれた。
僕が本当に感じていたことは罪悪感なんて言葉に収まるような感情じゃない。
僕のせいで叶愛が姿を現さなくなったという申し訳なさ、それでも一度でいいから会いたいと思ってしまうわがまま、隣をみた時に笑った顔の叶愛がいてほしいという願い。
いくら言葉を並べても足りないほどの感情が、今の僕の中にはある。
「その気持ちを楪さんに伝えられたらいいのにな」
「まずはちゃんと謝らないといけないな、僕にそんな冷静さが残っているか怪しいけど」
「冷静さなんていらないよ、思ったことを伝えたらいい。次にまたいつ会えるかなんて誰にもわからないものだからさ」
「神楽でもそんなこと考えるの……?」
「考えるよ。確かに寧々とは毎日会って色んな話をするけどさ、いつかこういう会話もできなくなる日が来ちゃうのかなって寂しくなったりもするよ」
「そう、だったんだ」
「俺は忘れっぽいし、話したことの大半は曖昧にしか覚えられてないかもしれない。だからこそ伝えたいことをすぐに伝えたり、形に残すようにしてる」
「形に?」
「写真とか手紙とか、ちょっと恥ずかしい時もあるけど、それもきっと幸せな証拠だからさ」
神楽の恋愛論を真面目に聴いたことは今までなかったけれど、今の話は妙に真っ直ぐ僕の中に響いた。
それなのに神楽は珍しく自信のない表情で、躊躇いながら言葉を並べていく姿がより強く僕の胸になにかを訴えた。
「また楪さんに会えた時に、想が思っていることを全部伝えてみればいい。難しいことは考えなくていいから、その時に思ったことをそのまま言えばいい」
「僕にできるかな」
「旅行の時、想は何か難しいこと考えてた? 水族館で水槽をみた後に、発する言葉を難しく選んでたか?」
「選んでない、叶愛との時間で感じたままを——あっ」
「そういうことだよ、寂しいでも苦しいでも嬉しいでも綺麗でもなんでもいい。その時の想が、その場で感じたことを言葉にすればいいと思う」
「もしそれでまた叶愛を傷つけてしまったら、どうすればいいのかな」
「その時はふたりで話し合えばいい、最初からすべてを理解するなんて難しい。それに本当のことすら言えないまま相手を傷つけることが、きっと一番つらいはずだから」
“本当のことすら言えないまま相手を傷つける“その言葉が今の僕にはすごく痛かった。綺麗な言葉を探そうとなにも伝えられなかった僕自身をそのまま映したかのような言葉だったから。
次に叶愛と会った時は、どんな状況だったとしても真っ直ぐ僕の言葉を伝えたい。もしもその言葉に叶愛が傷付いたら、神楽が言う通り二人で話し合う。
二人で誤解を解いて、時間をかけながら、本当に伝えたかった心を交わしたい。もうこれ以上、なにも知らないまま時間を過ごすようなことはしたくない。
知った気には、なりたくない。
「神楽」
「どうした?」
僕はこれから、叶愛への気持ちから逃げない。
だから最後に、未来を見るための手本を知りたい。
僕の中の“いい彼氏“に、恋人の未来の一例を教えてもらいたい。
「神楽はこれから、白石とどんな時間を過ごしたい?」
「そんなの、ずっと隣で笑ってたいに決まってるだろ。くだらない話をしながら病気もせずに「幸せだね」って言い合ってみせるさ」
ニカっと笑いながら、神楽はそんな素敵な時間への理想を語ってくれた。
僕もいつか、こんなふうに未来を語れる人間になりたい。
叶愛と、未来を語り合えるようになりたい。
「想は、楪さんとどんな時間を過ごしたい?」
僕は——まだ、知らないことで溢れている僕と叶愛は、この先の未来で——。
「もっと二人のことを知りたい、そしてもっとお互いを好きになれたら嬉しい」
僕の口から発された言葉はすべて、紛れもない本心だ。
叶愛のことを知りたいということも、叶愛のことを好きでいたいということも。そして欲を言うなら、僕も叶愛に好きになってもらいたいということも。
そして、叶愛を、二人の未来を、僕はなににも代えられない大切にしたい。
「そんな希望があるなら、楪さんとちゃんと話し合わないとだな——って、こんなこと急に言われても怖いし困るよな。これは俺のエゴだけど、想がこのまま後悔したままで終わることだけは嫌なんだ、だから——」
「わかってる、神楽の優しさは僕に伝わってる。だからそれはエゴなんかじゃない」
「想」
「なに?」
「想は、楪さんと出会って変わったな」
そう神楽から言ってもらえたのは、これが二度目だった。
「ふとした時に感じるんだよ、変わったっていうか人としての成長って言うのかな。俺が言えるようなことじゃないのかもしれないけどさ」
「僕も思う、叶愛に出会ってから僕は変われた——叶愛の存在が、僕を変えたんだって」
「そうやって素直に笑ってくれる回数も増えたよな、友達として嬉しいよ」
「神楽には申し訳なかったけど、僕が変われるまで友達を辞めないでくれてありがとう。改めて意識したことはなかったけどさ、神楽がいてくれて本当によかった」
「急に言われると照れるだろ、申し訳ないなんてお互い様なんだから気にすんな」
「だから卒業しても友達でいてほしい、たまに会った時になんの遠慮もせずに手を振り合えるだけでもいいんだ」
「当たり前だろ、大人になったらその時は寧々と楪さんも連れて旅行にでも行こうよ」
過去に囚われていた僕は今、未来の話をしている。
失った人生を語らずに、まだ見たこともない人生を語っている。
なんとも言えない幸せな感覚がした。
話している途中の抱く感情すべてに希望が隠れていて、想像する未来を心から待ち望んでいる僕がいた。
「遅れちゃってごめんね! 久遠君、叶愛ちゃんとは連絡取れてる?」
キッチンの奥から、白石が忙しく駆けてきてくれる。
エプロンの紐を解いている途中、神楽の隣の椅子へそのまま腰掛けた。
「神楽にも白石にも、二人には本当にお世話になってばっかりだな」
「楪さんと想がそれぞれ本当に望んだ結果になればいいよ、それがどんな結果だったとしてもな」
「私も律と同意見、二人が後悔しない結果になることが一番重要だと思うから」
「そうなれるためにも、僕がちゃんと話をしてくる。それに叶愛の気持ちもちゃんと聴きたい」
「その言葉を久遠君の口から聴けて安心した、叶愛ちゃんと会う方法って今の時点だと何があるの?」
「一番望ましいのは叶愛が学校に来る日を待つことだけど、いつになるかわからないから——連絡もずっと既読がつかなくてさ」
「既読がつかなくなったのはいつから?」
「旅行から帰ってきた日の夜からかな」
「私が最後に連絡したのは旅行の前日だけど——律は最後いつ連絡した?」
「俺は連絡先持ってないよ、学校で話すだけにしてる」
「そうなると叶愛ちゃんの安否から不安になってくるよね」
「僕も家まではわからないし、他に確かめる方法が思いつかなくてさ」
連絡がつかなくなった日から毎日、朝と夜に一回ずつ僕はなんの深い意味もないメッセージを送り続けている。白石が全ての教科で補習対象となったこと、神楽が調理コンテストで入賞したこと、非常勤講師が一週間の臨時担任を担当していること、図書室の本が三冊増えたこと。
本当に他愛のない、そんなことばかり。
くだらないような話をすることで、隣にいるような気持ちになって欲しかった。普段なら言葉にすらしないような事柄を並べていくことで日常を形にしてみたかった。
「どうにか久遠君と叶愛ちゃんがもう一回会える方法ないかな……でも既読すらつかないなら厳しいってことなの——」
「願えば叶うのかな」
「想、今なんて言った?」
「願えば叶うのかなって、不意に思ってさ」
「そんな言葉、久遠君から聴いたことない」
「えっ」
「中学校から一緒だけどさ、久遠君はなにかあるといつも現実的に全部切り捨てて考えるから、今の言葉にちょっとびっくりしてさ」
「それくらい楪さんに会いたいってことだよ、俺は叶うと思う。想の願いなら」
「神楽、白石」
「「なに?」」
「叶愛に会いにいく前に、一つだけ聞きたいことがあるんだ」
二人が揃って、僕の言葉に耳を傾けなおしてくれている。いつでもいいよ、とせかさないように言葉を待ってくれている。
僕にとっての叶愛は大切でかけがえのない人。
だからこそ、その気持ちが一方的なものでないかが怖い。もしも叶愛の中に大切でかけがえのない人が他にいるのなら、僕はその気持ちを尊重したいと思う。
「叶愛にとって、僕はどんな存在なんだろう、って」
「どんな存在——」
その場の空気が一瞬で静かになった。
動かない、そんな表現の方が正しいような気がする。
どんな存在か、僕自身でも難しいことを友達に、友達の恋人に聞いているのだ。すぐに答えが返ってこないなんて自然のこと。
「どんな存在かは私にはわからない。でも、叶愛ちゃんは想君のこと失いたくないって言ってたよ」
こんな時は神楽がいつもみたいになにか言葉をくれるものだたお思っていた。
でも、違った。
三人の間に流れる沈黙を破ったのは、白石の証言だった。
「二人の本当の関係について相談された時に、私が叶愛ちゃんに聞いたんだ。これから先、想と一緒にいたいかどうか。そしたら叶愛ちゃん「期限を設けてしまったのは私だけど今になって後悔してる、想君と一緒にいたい、失いたくない」ってすぐ答えてくれた」
叶愛の気持ちを代弁する白石の表情はどこか怯えているようにも見えた。
言葉に誤解がないように、伝えそびえがないように、慎重に僕に叶愛の気持ちを教えてくれている。
叶愛の気持ちは伝わった、でも、わからないことに変わりはなかった。
わかるはずもない。何度考えても叶愛の中にある模範解答に僕が完璧に沿うことは、ほぼ不可能に近いことだと思う。ただそんな途方もないことを考えてしまうほど、僕は叶愛を失いたくない。
でも伝えたい二文字すら伝えられないまま、最後を迎えたくない。
「そんなに考えてるってことは、もしかしたら楪さんは、想が生涯で好きになる唯一の人なのかもしれないな」
「僕もそんな気がしてる。こんなことを言ったら愛が重いなんて言葉で括られてしまうかもしれないけど、それくらい好きなんだと思う」
「今言ったこと、叶愛ちゃんに会った時に伝えられたらいいね」
「ちゃんと伝えないとね、仮に期限が延長されなかったとしても今はまだ叶愛の彼氏だから」
「たまにはかっこいいこと言うじゃん、叶愛ちゃんも惚れなおしちゃうね」
まだ彼氏らしいことをなに一つできていない僕にとって、叶愛の気持ちの正解を探すことは、きっとすごく時間のかかることだと思う。
ただそんな僕にも彼女を想うことだけはできる。
叶愛を好きだと、大切だと想うこと。それが今の僕と叶愛を繋ぎ止める唯一の方法なのかもしれない。
とても不確かで、形なんてなくて、確かめる方法もなくて、怖さすら思えるものだけど、僕たちにはそれしかないんだ。
「久遠君、さっきからずっと電話鳴ってない?」
白石からの指摘でテーブルに置いていたスマートフォンの振動に気づく、着信先に目をやると——。
「えっ——、叶愛から——」
願えば叶う、なんてことを言ったけれど、これは本当に奇跡だと思った。
“叶愛“の文字に怯んでしまいそうになる僕自身の臆病さを取り払う。振動を止めて、スマートフォンの画面を耳元にあてた。
神楽と白石は緊張した様子で、それでも僕を励ましてくれている。
僕なら話せる、そんな気がしたし、僕だから話さなければいけない、そんな使命感すら感じた。
「叶愛、僕だよ」
僕は今、二度と会えないかもしれないと思っていた叶愛の名前を呼べることに言い表せないほどの喜びを感じている。
「電話、出てくれてありがとう。すこし話したいことがあるんだよね。想君が大丈夫だったら、今から言う場所に来てほし——」
「わかった、どこに行けばいい?」
来てほしい、と言い切られる前に僕は場所を訪ねてしまった。
頭の中がそれほど、早く会いたい、ばかりだったから。
「大学病院の大通り沿いにある空き地に来てほしい」
「大学病院の大通り——わかった、すぐに向かうから待ってて」
告げられた場所に違和感を覚える、叶愛とまったく関連性のない場所。
そして僕にとっては、十年前のあの夏を強く思い出させる場所。
真意はわからないけれど“会わない“なんて選択肢は僕の中に存在しない。
「神楽、白石ありがとう。叶愛とちゃんと話をしてくる」
二人から言葉は返ってこなかった。
ただ「行ってこい」と、背中を押すように頷いてくれた。
好きと伝えてこい、でも、本当の恋人になってこい、でもない。
ただ会って、後悔を晴らしてこい、そう言われているような気がした。
十七時、夏の空は夕方という時間を疑ってしまうほどまだ明るさに包まれていた。
*
「急に呼び出しちゃってごめんね、来てくれてありがとう」
走ってきたせいで息が上がっている僕は叶愛からの「ありがとう」に最大限の「こちらこそ」を込めて頷いた。
叶愛の表情はどこか怯えているように見えて、顔色もどこか青白く見えた。夏の空気は湿っているのに、叶愛の周りだけが冷たいような、そんな感じ。
「ずっと立っているのも疲れると思うからさ、一旦座らない?」
そう言い叶愛は僕をベンチへ座るよう促した。
教室での隣より近い距離にいるのに、それなのに、感じている距離感は今までで一番遠かった。転校初日の僕の席から黒板までの距離よりも遠い、触れられるのに、触れられない。
叶愛の指す“話したいこと“を聞くことが怖くて、目を合わせられない。
目を合わせた瞬間から、話が始まってしまいそうで。
聞いた瞬間、僕は叶愛の隣にいることを拒んでしまうかもしれない。
いや、そんなことはないけれど、隣にいることがどうしようもなく怖くなってしまうかもしれないから。
だから告げられる前に、一緒にいられる時間を一秒でも長く心地よく感じていたい。くだらなくても、意味がなくてもいい、ただ一緒に時間を過ごしたい。
今は、それがいい。
「叶愛、体調はどう ?体調以外でも気分とかさ」
「もう大丈夫だよ、来週からは学校にも通う予定でいる」
「それなら、よかった。旅行もあったし、疲れたよねって思って」
なにが“よかった“のか、この状況で“よかった“ことなんてなにもないのに。
そう思った瞬間に、僕はただ「大丈夫だよ」と叶愛から聞いて勝手に安心したかっただけなのだと気づいて、その情けなさに無性に腹が立った。
「心配かけてごめんね、想君はどう?」
「僕も大丈夫、隣の席がずっと空いていたのは寂しかったけどね」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれるね。来週からは嫌でも顔を合わせなくちゃいけなくなっちゃうのに」
嫌でも顔を合わせなくちゃいけないのに、そんな言葉叶愛に言わせたくなかった。
だめだ、このままじゃなにも進まない。
夏の陽がいくら長くても暮れてしまう。
逃げていても仕方がない。
僕が今本当にしなければいけないことは、話を逸らすことでも時間を稼ぐことでもなくて、叶愛の言葉を聴くことだ。
「叶愛、電話で言ってた話したいことって、なに?」
覚悟はできた。
その証拠として、今、僕と叶愛の視線はまっすぐ交わり合っている。
手を強く握りしめながら、叶愛は一度大きく息を吸う。そして——。
「私と、別れてほしいんだ」
告げられたのは、別れの言葉だった。
寂しいくらい、悲しいくらい、その言葉を告げる叶愛の表情に迷いは見当たらない。
もう決めたことなのだと、言い切られてしまいそうな、そんな顔をしている。
「そ、っか——」
五月蝿いほどの感情が生まれているはずなのに、言葉はこれしか出てこなかった。
考える。
数時間後の僕が伝えそびれて後悔すること、数年後の僕が尋ねておけばよかったと今の僕を恨むことを。
「答えられる範囲でいいから理由を聞かせてほしい」
言えないなら、言えないと教えてほしい。
ただ叶愛がどうしてその答えを出したのか僕は知りたい。
「理由なんて今更言う必要もないと思うな」
「どうして? 別れるっていう決断になるなら、僕は知りたいよ」
「だって私たちは——」
ああ、そうか、やっぱり、いや、でも、悔しい。
わかってしまう、次になにを言われるか。
だって私たちは、の続きはきっと僕の予感を裏切ってくれない。
「そもそも本気じゃなかったから。形だけの恋人だったから理由なんていらないでしょ?」
裏切ってほしかった、それが率直な感想だった。
笑っている、というより口角が上がっている。それが今の叶愛の表情。
理由なんていらないでしょ? の少しだけ上がった疑問系の語尾がぎこちなく震えていて、それが僕の胸を絞めた。
「僕は大切な人と、理由もわからないまま離れるなんてしたくないんだ」
僕の言葉が叶愛を困らせている。
なにを考えているのか、感じているのか表情から察することは難しかったけれどそれだけは確かにわかった。
「僕が、叶愛の傷を見たから?」
赤くなり始めている瞳と、小刻みに指先を見て申し訳なさが積もる。
それでも僕は、言葉を呑み込むことができなかった。
「隠してくれていたものを無神経に僕が見てしまったから、そう言ったの?」
今振り返ると、叶愛が体育をいつも見学していたことも、持っていたポーチが白石に比べて大きかったことも辻褄が合う。
それほど隠していたことに、僕は無許可で踏み入ってしまったんだ。
「私の顔にある傷をみてどう思った? 気持ち悪いとか思わないの?」
「思わないよ、傷があっても叶愛は叶愛だから」
「ずっと隠したままだったこと怒ったりしないの?」
「隠したいことがあるなんて自然なことだよ。それが叶愛にとっては傷だった、だから僕は怒ることも、責めることもしない」
「そんなこと言ってくれるなんて、想君は優しいんだね」
叶愛からの「優しい」には、拒絶の意味が込められているような気がした。
想君は優しい、と言いながら、あなたは優しい、と言われているような絶妙な距離感の違いを感じる。
それが異常に苦しくて寂しい。
「違う、僕はただ本当に思ってることを言っただけで——」
「でも、もういいよ。もともと形だけだったんだから。私たちは、終わっても続いても関係ないような距離だったってことにしようよ」
伝えられた、ずっと喉に引っかかっていた言葉を発することができた。
なにがあっても僕にとっての叶愛は叶愛のままだと、そう伝えられたのに。
それなのに叶愛から返ってきた言葉は冷酷で、鋭いものだった。
伝えられたという達成感が積もる僕の心とは対照的な表情の叶愛がなにを抱えているのか、僕は今そのすべてを知りたい。
もしも本当にこのまま別れを迎えてしまうなら、恋人でなくなるなら、すべてを明かしてほしい。そんな身勝手なことすら思った。
「叶愛」
「なに」
「僕に別れを切り出した理由は傷のことがきっかけ?」
「話したくない、私はこれ以上想君を傷つけたくない」
「大丈夫だから、絶対、絶対大丈夫」
「大丈夫じゃない、これは想君を傷つけることになる」
「それでもいいから、僕に本当のことを教えてよ!」
無意識に、声を荒げてしまった。
誰もいない空き地で、叶愛の肩を掴みながら問い詰めてしまったことを後悔する。叶愛の目には涙が溜まっていて、こぼれないようにすこし上を向きながら力強く開かれていた。
ただ、僕は本当を知りたいだけだった。
逃げるように“傷つける“と僕を守ろうとする叶愛の手を僕は離したくなかった。
「ごめん、でも本当に知りたいんだ」
「私が話すことが想君を傷つけることだとしても、想君は知りたいと思える?」
「僕を傷つけることだとしても知りたい、傷ついてもいい、このまま終わることだけは嫌だから」
「それならもしもそれが想君が触れられたくないようなことだったとしても、知りたいと思える?」
触れられたくないようなことだったとしても、意味深な質問に言葉が詰まる。
叶愛の抱えていることを知りたいという思いが揺らぐことはないけれど、妙に慎重な口ぶりと険しい表情に頷くことを数秒躊躇ってしまう。
「知りたい、それがどんなことだったとしても」
僕の言葉に叶愛は戸惑っている。
それでも僕は、もう逃げないと決めたんだ。
時々肌に馴染む色で隠された痣を撫でながら、深く息を吸う。正直僕も、叶愛からなにを告げられるのか怖い。でも——。
「久遠類」
「え——」
「久遠類さん、想君のお兄さんの名前だよね」
「そうだけど、僕、叶愛にお兄ちゃんの名前教えてことあったっけ?」
「教えてもらったことはないよ」
「じゃあ、どうしてその名前を知ってるの?」
「一旦、その質問には答えないで話を進めるね」
どうして名前を知っているのか。
僕の兄の話をどうして叶愛がしているのか。
僕たちの別れ話に、兄が出てくる理由はなんなのか。
わからなかった、すべてが僕の中で謎として浮かんで消えない。
「どうして今日、私がこの空き地を話す場所として選んだと思う?」
「それは、僕にはわからな——」
「十年前の夏、ここで交通事故があった」
僕が「わからない」を言い切るより先に、遮るように、叶愛はその言葉を口にした。
「逆走者の巻き込み事故。死者は二人、一人は逆走者の運転手、そしてもう一人は想君のお兄さん——久遠類さん」
「どうしてそのことを」
「ここまで私が話したことに間違いはないよね」
「ないけど、急になにを話しだすの? その事故がどうしたの? 僕のお兄ちゃんがその事件の当事者だから別れたいって言いたいの?」
「違う、そんなことが言いたいんじゃないよ」
「じゃあなにが言いたいの——」
「その逆走者の運転手が私のお父さんだったんだよ」
その告白の後、叶愛は「これから先の話は、想君を傷つける。それでも、本当に知りたい?」と再度僕へ訪ねた。
躊躇ったけれど、迷いなんてなかった。
すぐに頷いて、話の続きを急かした。
「お父さんが運転する車の助手席に当時乗っていたのが、当時八歳の私」
叶愛からの告白は、想像を遥かに超えるものだった。
僕の“知りたい“なんて言葉では片付けられないほどの事実が、叶愛の中に秘められていた。
「じゃあその傷は——」
「この傷は、その事故でついたもの」
「ねぇ叶愛」
「なに?」
「僕のお兄ちゃんの事故のことを知っていたから、そのことを深く探るために僕と付き合っていたの?」
それだけは嫌だった。
兄の死を利用されているようで、僕自身の失った過去を抉られているようで、痛かった。それに、叶愛がそんなことをするような子だとも思いたくなかった。だから——。
「それは違うよ」
そう答えが返ってきた時、心の底から安心した。
「じゃあいつ、その事故のことを知ったの?」
「初めて想君のお家に招いてもらった日、お兄さんの写真を見せてくれた後に想君言ったよね。お兄さんは“事故で亡くなった“って」
「確かにそうは言ったけど、そこからどうやって結びつけたの?」
「聴いたあと、瞬間的にもしかしたらって予感がしたんだよね。詳しく尋ねた時に十年前に大学病院前で起きた事故って想君が話してくれて、そこでお父さんのことと重なったんだ」
「そこから先は、どうやって確信したの?」
「その事故のことをインターネットで検索したの、記事に想君のお兄さんの写真が掲載されてた。想君に見せてもらった写真に写ってた顔と同じで、予想が確信に変わったの」
十年越しに知る、新たな事故の真相。
十年前のあの夏、葬儀で兄のことを「可哀想」だと言っていた人たちは続けて「加害者が死ぬなんて卑怯ね」と、感情的になっていた。
そして、僕もすこしだけそんなことを思っていた。
兄を殺してしまったのは僕だと思っているけれど、それでも兄を轢いた運転手がすでに亡くなっているというのは、なんだかとても複雑な気持ちだった。
でも十年越しに出会った恋人の父親がその加害者本人というのは、その当時以上に複雑な気持ちだ。
知りたいと思っていた反面、避け続けていたことが、食い止めることのできない波のように襲ってくる。
「でも、どうして」
「え?」
「叶愛が僕に告白してくれたのは、お兄ちゃんの話をする前——まだ事故のことは知らないはずだよね」
「私、実は転校前の学校でいじめられてたんだよね」
「そうだったの?」
「顔の傷のことで煙たがられてさ、誰かに優しく接してもらうことってなかったんだよね」
「……」
「だから、疑いもなく優しさをくれた想君のことが好きになっちゃったの。単純だよね、本当に」
「単純なんて言葉で無理に片付けなくていいんだよ」
「でも傷のことを知られちゃったら嫌われるって怖くなって、あんな卑怯な告白をしちゃった、だから、本当にごめんなさい」
「そんな謝らなくていいよ、僕も嬉しかったから」
「想君ならきっとそう言うと思った、でも事故のことを知ってちゃんと離れる決心がついたんだよね」
「決心——」
「すべて知られないまま、終わろうって私自身の中で整理ができたんだ」
彼女の口から初めて告げられた、あの日の言葉の裏側。
なにも知られたくなかった、綺麗な嘘をつける場所で、綺麗な思い出だけを残していたかった。だから卒業まで。
僕を傷つけないために、僕の過去を抉らないために。
そのすべては、形の違う優しさでできていた。
「想君」
「なに?」
「時間を巻き戻すことはできないからこそ言わせてほしい。本当に、申し訳ありませんでした。お兄さんのことも、想君のことも、ご家族のことも」
「どうして叶愛が」
叶愛は頭を深く下げたまま動かない。
どれだけ肩をさすっても、名前を呼んでも首を横に振ったまま謝罪の言葉を続ける。
叶愛だって、大切な父親を亡くしているのに、僕だけが悲しみを許されている、そんな違和感に塗れた空気だった。
「あの時、お父さんが逆走したのは、きっと私のせいだから。だから、想君のお兄さんと、お父さんを殺したのは、私なんだ」
その一言で確信した、頭を撃ち抜かれたような衝撃が走った。
叶愛は、僕と同じ罪を背負いながら十年を生きてきた一人だった。
「そんなことは背負わなくていい、だから話を聴かせてくれないかな」
「あの日、大学病院に入院していたお母さんの容態が急変したの」
叶愛の母は幼い頃から難病を患っていたらしい。成人することも難しいと告げられていた状況で、奇跡的に叶愛を授かり闘病を続けながら叶愛を育てた。
ただ叶愛が小学校に入学する頃、病気が進行し再入院。それから何度も手術を繰り返し、何とか命を繋ぎ止めていたらしい。
「お母さんは、いつ息が止まってもおかしくないような状態だったんだ。私はまだ幼かったから詳しくは理解できていなかったけど、一緒にいられる時間が長くないことはなんとなく察してた」
「……」
「そんな中でお母さんが、最後の手術を受けることが決まったの。体力的にもこれが最後の手術になるだろうって」
「その手術が、事故の起きる三日前……」
「二日間眠ったままで、目を覚ましたっていう連絡のすぐ後にお母さんが危篤だっていう連絡が来たんだよね」
「そんな……」
「その時に私がお父さんを急かしちゃったんだ、早く行かないとお母さんに会えなくなるって」
「でもそれは悪いことじゃないよ、誰だって大切な人が危ない状態だったら焦るだろうし、ましてや小学生なんてまだ小さいから仕方ない——」
「だからお父さんは、いつもと違う道を走った。「こっちの方が早く着くはずだ」って」
もう、なんとも言えなかった。
兄の葬儀の時に何度も耳にした言葉「不慮の事故」思いがけない事故、という意味らしい。誰も責められない、そんな言葉をいう人もいた。
加害者と被害者が存在する事故で、誰も責められないなんてあるかと思っていたけれど、今になってわかった。
僕の兄は、そして叶愛の父親は、本当に不慮の事故で命を失ったんだ。
「角を曲がって少し走り始めた後に、正しい進行方向に逆らって車が進んでることに気づいたの」
「それで逆走に——」
「故意じゃないことは確かなんだよね、でも引き返そうと思った頃にはもう遅くて」
僕の兄と、彼女の父親の息が止まったあの事故はこの世の不運が全て重なったような事故だった。
それが、十年前のあの夏の日。
「だから、このことを想君が知る前に私が先に離れようと思ったの。これ以上傷つけたくなかったから」
誰にも尋ねることができずにいた真実が、叶愛の言葉によって明かされた。
話してくれてありがとう、つらかったよね、痛かったよね、苦しかったよね、今まで生きていてくれてありがとう——僕にはわかる、どの言葉もかけたい気持ちとは違う。
言葉なんて要らない、どれだけ言葉を紡いでもなにも変わらないからだ。
でも、それなら、今の僕にできることは——。
「想君……?」
ただなにも言わずに、叶愛を抱きしめることだった。
そして——。
「僕は、なにも気づけなかった」
そうただ、事実を告げること。
「いいんだよ、私が隠してたことに気づかないでいてくれたことが私にとってはすごく救いになっていたから」
叶愛から返ってきたのは、あまりに予想外な言葉だった。
「私が高校三年生になったばっかりの時に、前に通っていた学校で事故のことがバレちゃったんだ」
「それがさっき話してくれた転校前の学校でのこと?」
「そうだよ、バレてからはずっと腫れ物扱いだった。先生たちは妙に優しく接してくるし、揶揄ったり、犯人の娘だって後ろ指を刺してくるクラスメイトもすごく多くてね。お父さんもお母さんもいないから、これ以上波風を立てないように、いつも学校行事は欠席だった」
「……」
「だから誰も、私のことを知らないところを選んだの。私の過去も秘密も、何も知らない人に囲まれたら“普通“になれると思ったから」
叶愛の言葉から隠しきれない痛々しさを感じた。
どれだけの傷を負ってここまで生きてきたのか、僕にすら想像ができなかった。
「でもやっぱり普通にはなれなくてね——過去って、変えられないらしくて。高校三年生の夏に転校してくるなんて裏があるって疑われることも多くてさ」
「そんな——」
「さっきは「優しさをくれた」って言ったけど、想君はいい意味で私に無関心だったのかもしれない」
「無関心?」
「話しかけても興味がなさそうで、一度言った名前も初めてかのように聞いてくる想君に惹かれたんだよね。干渉されていないような気がしてさ」
「僕はそのこと、すごく反省してるんだけど」
「興味なんてなさそうなのに、邪険にせずに接してくれたから。気づいたら好きになってたんだよね、初めて人のことを好きになったの」
「そう、だったんだ」
「ずっと怖かった。両親を失って唯一近くにいる親戚からは“可哀想な子“っていうレッテルが貼られて、誰も私自身をみてくれていないような気がして、かけられる言葉が全部嘘のように感じちゃってさ。怖かったし、寂しかった」
その気持ちは、僕にも痛いほどわかる。
僕は幸いにも両親がいるけれど、兄の死から崩れた家庭は近所の人から“可哀想“と非難されるようになったし、歪な同情がなにより心を抉ることを何度も痛感してきた。
「誰かを信じることなんてできなかったし、信じた後に本当の私を知って離れていかれることが怖かった」
叶愛が秘密にしていただけで、僕の本心と彼女の本心が恐ろしいほど似ているということを今初めて知った。
明るくて、少し抜けていて、笑顔の素敵な叶愛の内側に僕と似たような影が住み着いていることを、不謹慎だけれど少し幸せと感じてしまった。
「僕もだよ」
「え——」
「僕も、誰かを信じたり好きだと思ったり“大切“だと認めることが怖かったんだ」
「そうなの……?」
「僕は生まれつき心臓が悪くて中学校までは、ほとんどの時間を病院で過ごしてきたんだよ」
「じゃあ、あの時プールを見学してたのも——」
「よく覚えてくれてたね、そういうことだよ」
「ごめん、私、なにも知らなくて」
「だから友達もいなくて、唯一話せる存在がお兄ちゃんだったんだよね」
「……」
「だからこそ亡くした時のショックは大きくてさ、すべてを失ったみたいな感覚。その事故が原因でお父さんもお母さんも別人みたいに変わっちゃってさ。“大切“って言葉が怖かったんだ、その存在がなくなってしまった時の穴がどうしても埋まらないことを知っちゃったから」
生まれて初めて、僕は本当の心を自分から話している。
怖い、ただそんな気持ちよりも伝えたいが先行している。
心の奥底に眠り続けていた感情をすべて言葉にしたい。
それで嫌われてしまったとしても未練はない、今はただ僕の中の秘密をすべて明かしていきたい。
「でも、叶愛と一緒に過ごす時間を重ねていく度にその怖さを超えて、叶愛と一緒にいたいと思うようになったんだ」
「想君——」
「だから夏祭りでの告白は、寂しかったけどそれ以上に嬉しかった。当時は素直に言えなかったけど、ありがとう」
「夏祭りの告白、さっきも言っちゃったけど、素直に言えなくてごめんね」
「大丈夫だよ。ただ一つだけ教えてほしいことがあるんだけど、聞いてもいいかな」
「なに?」
「計り知れないくらいの躊躇いがあった中で、叶愛が僕に気持ちを伝えてくれたのはどうして?」
「それが、私のお母さんの最期の教えだったから」
「最期の教え?」
「お母さんは私宛てに一通の手紙を書き遺していったの、その最後に書いてあったんだ。『大切な人の隣にいつまでいられるかなんてわからない、だから後悔のないように想いを伝えなさい』って」
そう告げた瞬間に、叶愛の頬には静かに滴が伝っている。
それでも拭うことをせず、懸命に僕の目をみて話を続ける。不規則な呼吸で苦しそうに息を吸いながら、想いを届けることをやめないでくれている。
「でも、そんな言葉を遺してもらったのに私は、あんなに卑怯な告白をした」
「卑怯なんかじゃないよ、言ってくれたでしょ? 叶愛はちゃんと本当の想いも、僕に話してくれてたよ」
「そうだけど……私はすごくあの日の言葉を反省してる。ただ好きってまっすぐに伝えていればよかったって、ずっと後悔と反省を繰り返してる——だから私、決めたんだ」
「決めた?」
「もう心に嘘をつくことは辞める、隠しごとも抱えたくない。すべてを明かすことはやっぱり怖いこともあるけど、想君にはそれすら知ってほしいって思えたから」
「叶愛——」
僕たちの距離を遠ざけていたものは、お互いを守るための秘密だった。
失った人生で、未来すらも失いそうになっていた。
傷つけないために、察されないために隠し通してきた秘密。ただ、その秘密を知った今僕たちはよりお互いを愛せる準備ができた気がする。
過去を変えることはできないし、傷を消すことも僕と叶愛にはできない。ただそれを超えるくらいの幸せを未来でつくることは僕たちにかかっていると思う。
生きているなら、それを果たすのが義務だとも思う。
「叶愛」
「どうしたの?」
「やっぱり僕たち別れよう」
「え——」
「もう“形だけの恋人“なんて辞めようよ」
次に叶愛へ好きを伝えるときは、本当の僕として伝えたい。
開き直ったわけでも、無かったことにするわけでもない。全てを抱えて背負ったまま僕は僕の、叶愛は叶愛の人生を命が尽きるまで生き続ける。
だからその中で、新しい僕と叶愛が遠くに感じていた幸せを掴みたい。
「叶愛」
だから、今告げる。
僕の中で、この人生の中で、限りあることをわかっていながら、叶愛は僕の永遠に、そして——。
「僕の、かけがえのない大切な恋人になってください」
「想君」
わかった、その後に続く言葉がその笑った顔からわかった。
「隣でずっと笑わせてね、好きでいさせてね」
あの夏、幸せから引き裂かれた僕たちはこの夏、限りある永遠を誓い合った。
失うことなんて考えていない。
今はただ、目の前にある幸せをまっすぐ見つめあっている。
翌朝、目が覚めて隣の布団を見ると、叶愛の姿がなかった。
僕は慌てて襖を開けると、そこにはいつも通り、僕に向かって微笑む叶愛がいた。
綺麗な白い肌に痣は見当たらない、笑った表情にも違和感は感じなかった。
その後の新幹線では、普段の調子で前日の思い出話をした。普通に笑って、普通に話して、途中で疲れてしまった叶愛はそのまま静かに眠ってしまった。
駅で別れた僕たちは「また週明けに学校でね」なんて言葉を最後に手を振ってそれぞれの家へ向かった。
それなのに、その週明けの学校から叶愛の席は空いたまま埋まらない。
机の中に溜まっていくプリントと、空いていく出席簿の確認印が僕に現実を突きつける。
「……」
あの時少しでも部屋に入るタイミングが遅ければ、部屋に入る前に一言確認さえすれば、僕は叶愛を傷つけずにいられたかもしれない。
傷を目にした時に、戸惑わず叶愛を安心させられるような言葉を掛けられればよかった。器用な言葉じゃなくても、素直に、思った通りに「傷があったとしても叶愛が好きなことに変わりはない」と伝えられれば、今頃なにかが変わっていたのかもしれない。
そんな後悔ばかりが、僕の頭を駆けていく。
「想——」
「神楽、どうしたの」
「このプリント、回収するから重ねて前に回してほしい」
「ごめん、全然聞いてなくて」
ここ数日、授業はおろか人の話すら頭に入ってこない。
少しでも集中を切らすと、全ての音が雑音に聞こえてしまう。そしてあの二日間を思い出して、言葉にできないほどの喜怒哀楽と、そのどれにも当てはまらない混沌とした感情に呑まれていく。
叶愛が笑っていた、僕の隣で心から楽しそうにしていた、二人だけの特別な時間で、最初で最後の幸せで、もしかしたらこれから先もずっと一緒にいれる可能性すらあって——叶愛がいない今から目を背けるように、僕の頭に浮かぶのはそんな幸せな光景ばかりだった。
「想、今日の放課後なにか用事あったりする?」
「ないよ、いつも通り帰るだけ」
「じゃあこの前一緒に行ったカフェにでも行こう」
「どうして——」
「理由なんて一つしかないだろ、楪さんのこと。ちょっと落ち着いて話す時間をつくろう、寧々も店の手伝いが終わり次第こっちに来れるらしいから」
「僕は大丈夫だけど神楽、弟さんたちは?」
「その時間だけ寧々のお母さんに面倒をみてもらう。親同士も仲がいいから安心して預かってもらえるよ」
「なんだか申し訳ないな、ごめんね」
「申し訳ないなんて言ってる場合じゃないだろ? 楪さんはいないし、想だって顔色とか目つきとか最近様子が危ないんだよ」
「そんなことないと思うけど」
「普段想のことをほとんど話さない寧々が何回も「心配だ」って言うくらいなんだから自覚してもらわないと困る、頼むから俺と寧々にできることは協力させてくれ」
素直に頷くことはできなかった。
傷ついて助けを必要としているのは叶愛なのに、これではまるで僕が神楽や白石に助けてもらっているようで心が痛んだからだ。
神楽に半ば強制的にバス停へ手を引かれ、乗車する。
乗客はいつもより少なくて、妙な静けさとひび割れた車内アナウンスが鳴り響く。
「神楽、次の信号で一つ前の席に移動するね」
「一つ前に、どうして?」
「ちょっと風に当たりたくて、窓際に行きたくてさ」
数日間の睡眠不足が祟ったのだろうか。乗り物酔いなどしたことのない僕が、たった数分間のバス乗車で酔った。
視界が回る、立ち上がることすら億劫な状態の意識の中で何度も叶愛の影がちらついた。
*
“急用のため本日臨時休業“カフェの入り口にはそんな張り紙が貼ってあった。
僕の話をするために、今日は店を貸し切ってくれたらしい。
通されたテーブルには冷たいレモン水と焼き菓子が置かれていた。その心遣いに申し訳なさを抱いて戸惑っていると「これは久遠君のためでも叶愛ちゃんのためでもある! そして私と律がしたいことだからやったの! 気を遣うの禁止!」と白石は言い切ってくれた。そして調理器具の片付けのためと、白石は一度席を離れた。
「寧々が来る前に、俺にだったら話せることを話してほしい。寧々には遠慮しちゃうこととか、男同士だから話せることとか、あったら聴かせてほしい」
調理器具の片付けのため、という口実は紛れもない二人の優しさだと気付かされた。
神楽にだから言えること、それなら一つ、心あたりがある。
僕自身に聞いたってわからない、白石はきっと知らない、神楽なら答えを知っていること。
「神楽からみて、僕は——」
こんなことを今更になって聞くなんて情けないような気がするけれど、それでも僕の口は止まらなかった。
「僕は、いい彼氏だったのかな」
そんな漠然とした問いに、神楽は少しだけ困った顔をした。
誤魔化すようにレモン水を流し込んで「いい彼氏、か」と、一言だけ繰り返すように呟いている。
困らせてしまっているな、と申し訳なくなった。
僕自身のことを“彼氏“と名乗っていいのかすらわからないから、ついそんなことを聞いてしまった。
形だけの関係だったけれど、僕は叶愛のことを本当の“彼女“のように接していた。それじゃあ叶愛は僕のことを一瞬でも本当の“彼氏“と思ってくれていたのか。本人に確かめることはできないから、せめて近くで見てくれていた神楽からの言葉でその時間の答え合わせをしたい。
「想が言う“いい彼氏“ってどういう彼氏だ?」
「どういう彼氏」
「どんな条件が揃ってて“いい彼氏“だと思う?」
「それは——相手のことを思ってて、優しくて、言葉にすることは難しいけど、神楽みたいな彼氏」
「急に褒めるなよ、照れるだろ。それにそんな虚な目で褒められても反応に困る」
小っ恥ずかしそうに神楽は後頭部の辺りを一度掻いた。
虚な目、そんな自覚はなかったけれど確かにそんな酷い目をしているかもしれない。
いい彼氏がなにか、改めて考えると確かに僕の中でも曖昧だった。ただ感覚的には本当に、神楽のような人が、僕の中の“いい彼氏“だった。
「答えがないから言い切ることは難しいけど“いい彼氏“だったと思うぞ」
まぁそう言うしかないよな、と気づいてしまった。
優しい神楽なら、僕を思ってそう言ってくれることなんて最初からわかっていたのに——。
「だって俺にも寧々にも、想と楪さんの関係が本当の恋人じゃないなんてわからなかったからな」
神楽が優しいからそう言ってくれた、それもあるのかもしれないけれど、きっと神楽は本心から僕を“いい彼氏“と言ってくれたのだとわかった。
僕が“いい彼氏“と言うより、僕と叶愛が“いい恋人同士“だと、認めてくれている気がした。
「二人の本当の関係とか以前にさ、想が楪さんのことを好きな気持ちに嘘はないんだろう?」
「叶愛のことは、気づいた時には好きだったんだ。だから、嘘なんてないよ」
初めてそう、誰かに向けて言葉にした。
「告白されて、最初はなにも思わなかった。形だけなら、それでいっかって思った。でも神楽に叶愛の素敵なところを聞かれた時に気付かされたんだ、ずっと気づかないフリをしてただけなんだって。本当に好きで、恋人として接したい、意識してる僕がいるって気づいた」
「気づくのはちょっと遅いけど、そんなところも想らしいな」
笑ってくれてる、呆れてるわけじゃない。神楽は温かく笑いながら「よかったな」なんて言っているみたいに笑ってくれている。
神楽の言う通り、僕は僕自身の気持ちに気がつくまで必要以上の時間がかかった。僕の中の恐怖心を超えるまでの時間が長すぎた。
隣の席から聞こえる声も、不定期に叶愛の気分次第でかかってくる電話も、今思うと叶愛なりの“彼女らしさ“だったのかもしれない。
そんな健気さにも気づかないように蓋をしてしまっていた僕自身の言動を、今更になって心底後悔している。
「想は本当に叶愛さんのことを大切に思ってたんだな」
包み込むように僕を慰めるような声がした。
その神楽の声に無意識に俯いてしまっていた僕の顔が上がる。
「俺が何日か学校に来なくてもここまで心配しないだろ? 好きな人になにかあったのかもしれないとか、どうしたのかなって、大切に思ってこその気持ちだからさ」
「傷つけたことへの罪悪感かな、ずっと重苦しいなにかに刺されているみたいで」
「素直に寂しいとか悲しいとか心配とか言えばいい。言ったって、減るものじゃないし。それほど相手のことを思ってるって改めて確かめられるから。だから想は、今なにを思ってる?」
僕がなにを思っているか、そう尋ねた神楽の表情は少し前にはなかった真剣さが含まれていた。
答えから逃げようと向けたグラスはすでに空になっていて、移した視線の先にはやっぱり真剣な神楽がいた。
「隣をみて叶愛がいないことは、寂しい。あの時ああしてれば、って、考えてもわからなくて、ただひたすら一緒に笑ってた時間に戻りたいって考えちゃう」
やっと、僕の気持ちを言葉にできた。
そっかそっか、と神楽は僕の言葉を呑んでくれた。
僕が本当に感じていたことは罪悪感なんて言葉に収まるような感情じゃない。
僕のせいで叶愛が姿を現さなくなったという申し訳なさ、それでも一度でいいから会いたいと思ってしまうわがまま、隣をみた時に笑った顔の叶愛がいてほしいという願い。
いくら言葉を並べても足りないほどの感情が、今の僕の中にはある。
「その気持ちを楪さんに伝えられたらいいのにな」
「まずはちゃんと謝らないといけないな、僕にそんな冷静さが残っているか怪しいけど」
「冷静さなんていらないよ、思ったことを伝えたらいい。次にまたいつ会えるかなんて誰にもわからないものだからさ」
「神楽でもそんなこと考えるの……?」
「考えるよ。確かに寧々とは毎日会って色んな話をするけどさ、いつかこういう会話もできなくなる日が来ちゃうのかなって寂しくなったりもするよ」
「そう、だったんだ」
「俺は忘れっぽいし、話したことの大半は曖昧にしか覚えられてないかもしれない。だからこそ伝えたいことをすぐに伝えたり、形に残すようにしてる」
「形に?」
「写真とか手紙とか、ちょっと恥ずかしい時もあるけど、それもきっと幸せな証拠だからさ」
神楽の恋愛論を真面目に聴いたことは今までなかったけれど、今の話は妙に真っ直ぐ僕の中に響いた。
それなのに神楽は珍しく自信のない表情で、躊躇いながら言葉を並べていく姿がより強く僕の胸になにかを訴えた。
「また楪さんに会えた時に、想が思っていることを全部伝えてみればいい。難しいことは考えなくていいから、その時に思ったことをそのまま言えばいい」
「僕にできるかな」
「旅行の時、想は何か難しいこと考えてた? 水族館で水槽をみた後に、発する言葉を難しく選んでたか?」
「選んでない、叶愛との時間で感じたままを——あっ」
「そういうことだよ、寂しいでも苦しいでも嬉しいでも綺麗でもなんでもいい。その時の想が、その場で感じたことを言葉にすればいいと思う」
「もしそれでまた叶愛を傷つけてしまったら、どうすればいいのかな」
「その時はふたりで話し合えばいい、最初からすべてを理解するなんて難しい。それに本当のことすら言えないまま相手を傷つけることが、きっと一番つらいはずだから」
“本当のことすら言えないまま相手を傷つける“その言葉が今の僕にはすごく痛かった。綺麗な言葉を探そうとなにも伝えられなかった僕自身をそのまま映したかのような言葉だったから。
次に叶愛と会った時は、どんな状況だったとしても真っ直ぐ僕の言葉を伝えたい。もしもその言葉に叶愛が傷付いたら、神楽が言う通り二人で話し合う。
二人で誤解を解いて、時間をかけながら、本当に伝えたかった心を交わしたい。もうこれ以上、なにも知らないまま時間を過ごすようなことはしたくない。
知った気には、なりたくない。
「神楽」
「どうした?」
僕はこれから、叶愛への気持ちから逃げない。
だから最後に、未来を見るための手本を知りたい。
僕の中の“いい彼氏“に、恋人の未来の一例を教えてもらいたい。
「神楽はこれから、白石とどんな時間を過ごしたい?」
「そんなの、ずっと隣で笑ってたいに決まってるだろ。くだらない話をしながら病気もせずに「幸せだね」って言い合ってみせるさ」
ニカっと笑いながら、神楽はそんな素敵な時間への理想を語ってくれた。
僕もいつか、こんなふうに未来を語れる人間になりたい。
叶愛と、未来を語り合えるようになりたい。
「想は、楪さんとどんな時間を過ごしたい?」
僕は——まだ、知らないことで溢れている僕と叶愛は、この先の未来で——。
「もっと二人のことを知りたい、そしてもっとお互いを好きになれたら嬉しい」
僕の口から発された言葉はすべて、紛れもない本心だ。
叶愛のことを知りたいということも、叶愛のことを好きでいたいということも。そして欲を言うなら、僕も叶愛に好きになってもらいたいということも。
そして、叶愛を、二人の未来を、僕はなににも代えられない大切にしたい。
「そんな希望があるなら、楪さんとちゃんと話し合わないとだな——って、こんなこと急に言われても怖いし困るよな。これは俺のエゴだけど、想がこのまま後悔したままで終わることだけは嫌なんだ、だから——」
「わかってる、神楽の優しさは僕に伝わってる。だからそれはエゴなんかじゃない」
「想」
「なに?」
「想は、楪さんと出会って変わったな」
そう神楽から言ってもらえたのは、これが二度目だった。
「ふとした時に感じるんだよ、変わったっていうか人としての成長って言うのかな。俺が言えるようなことじゃないのかもしれないけどさ」
「僕も思う、叶愛に出会ってから僕は変われた——叶愛の存在が、僕を変えたんだって」
「そうやって素直に笑ってくれる回数も増えたよな、友達として嬉しいよ」
「神楽には申し訳なかったけど、僕が変われるまで友達を辞めないでくれてありがとう。改めて意識したことはなかったけどさ、神楽がいてくれて本当によかった」
「急に言われると照れるだろ、申し訳ないなんてお互い様なんだから気にすんな」
「だから卒業しても友達でいてほしい、たまに会った時になんの遠慮もせずに手を振り合えるだけでもいいんだ」
「当たり前だろ、大人になったらその時は寧々と楪さんも連れて旅行にでも行こうよ」
過去に囚われていた僕は今、未来の話をしている。
失った人生を語らずに、まだ見たこともない人生を語っている。
なんとも言えない幸せな感覚がした。
話している途中の抱く感情すべてに希望が隠れていて、想像する未来を心から待ち望んでいる僕がいた。
「遅れちゃってごめんね! 久遠君、叶愛ちゃんとは連絡取れてる?」
キッチンの奥から、白石が忙しく駆けてきてくれる。
エプロンの紐を解いている途中、神楽の隣の椅子へそのまま腰掛けた。
「神楽にも白石にも、二人には本当にお世話になってばっかりだな」
「楪さんと想がそれぞれ本当に望んだ結果になればいいよ、それがどんな結果だったとしてもな」
「私も律と同意見、二人が後悔しない結果になることが一番重要だと思うから」
「そうなれるためにも、僕がちゃんと話をしてくる。それに叶愛の気持ちもちゃんと聴きたい」
「その言葉を久遠君の口から聴けて安心した、叶愛ちゃんと会う方法って今の時点だと何があるの?」
「一番望ましいのは叶愛が学校に来る日を待つことだけど、いつになるかわからないから——連絡もずっと既読がつかなくてさ」
「既読がつかなくなったのはいつから?」
「旅行から帰ってきた日の夜からかな」
「私が最後に連絡したのは旅行の前日だけど——律は最後いつ連絡した?」
「俺は連絡先持ってないよ、学校で話すだけにしてる」
「そうなると叶愛ちゃんの安否から不安になってくるよね」
「僕も家まではわからないし、他に確かめる方法が思いつかなくてさ」
連絡がつかなくなった日から毎日、朝と夜に一回ずつ僕はなんの深い意味もないメッセージを送り続けている。白石が全ての教科で補習対象となったこと、神楽が調理コンテストで入賞したこと、非常勤講師が一週間の臨時担任を担当していること、図書室の本が三冊増えたこと。
本当に他愛のない、そんなことばかり。
くだらないような話をすることで、隣にいるような気持ちになって欲しかった。普段なら言葉にすらしないような事柄を並べていくことで日常を形にしてみたかった。
「どうにか久遠君と叶愛ちゃんがもう一回会える方法ないかな……でも既読すらつかないなら厳しいってことなの——」
「願えば叶うのかな」
「想、今なんて言った?」
「願えば叶うのかなって、不意に思ってさ」
「そんな言葉、久遠君から聴いたことない」
「えっ」
「中学校から一緒だけどさ、久遠君はなにかあるといつも現実的に全部切り捨てて考えるから、今の言葉にちょっとびっくりしてさ」
「それくらい楪さんに会いたいってことだよ、俺は叶うと思う。想の願いなら」
「神楽、白石」
「「なに?」」
「叶愛に会いにいく前に、一つだけ聞きたいことがあるんだ」
二人が揃って、僕の言葉に耳を傾けなおしてくれている。いつでもいいよ、とせかさないように言葉を待ってくれている。
僕にとっての叶愛は大切でかけがえのない人。
だからこそ、その気持ちが一方的なものでないかが怖い。もしも叶愛の中に大切でかけがえのない人が他にいるのなら、僕はその気持ちを尊重したいと思う。
「叶愛にとって、僕はどんな存在なんだろう、って」
「どんな存在——」
その場の空気が一瞬で静かになった。
動かない、そんな表現の方が正しいような気がする。
どんな存在か、僕自身でも難しいことを友達に、友達の恋人に聞いているのだ。すぐに答えが返ってこないなんて自然のこと。
「どんな存在かは私にはわからない。でも、叶愛ちゃんは想君のこと失いたくないって言ってたよ」
こんな時は神楽がいつもみたいになにか言葉をくれるものだたお思っていた。
でも、違った。
三人の間に流れる沈黙を破ったのは、白石の証言だった。
「二人の本当の関係について相談された時に、私が叶愛ちゃんに聞いたんだ。これから先、想と一緒にいたいかどうか。そしたら叶愛ちゃん「期限を設けてしまったのは私だけど今になって後悔してる、想君と一緒にいたい、失いたくない」ってすぐ答えてくれた」
叶愛の気持ちを代弁する白石の表情はどこか怯えているようにも見えた。
言葉に誤解がないように、伝えそびえがないように、慎重に僕に叶愛の気持ちを教えてくれている。
叶愛の気持ちは伝わった、でも、わからないことに変わりはなかった。
わかるはずもない。何度考えても叶愛の中にある模範解答に僕が完璧に沿うことは、ほぼ不可能に近いことだと思う。ただそんな途方もないことを考えてしまうほど、僕は叶愛を失いたくない。
でも伝えたい二文字すら伝えられないまま、最後を迎えたくない。
「そんなに考えてるってことは、もしかしたら楪さんは、想が生涯で好きになる唯一の人なのかもしれないな」
「僕もそんな気がしてる。こんなことを言ったら愛が重いなんて言葉で括られてしまうかもしれないけど、それくらい好きなんだと思う」
「今言ったこと、叶愛ちゃんに会った時に伝えられたらいいね」
「ちゃんと伝えないとね、仮に期限が延長されなかったとしても今はまだ叶愛の彼氏だから」
「たまにはかっこいいこと言うじゃん、叶愛ちゃんも惚れなおしちゃうね」
まだ彼氏らしいことをなに一つできていない僕にとって、叶愛の気持ちの正解を探すことは、きっとすごく時間のかかることだと思う。
ただそんな僕にも彼女を想うことだけはできる。
叶愛を好きだと、大切だと想うこと。それが今の僕と叶愛を繋ぎ止める唯一の方法なのかもしれない。
とても不確かで、形なんてなくて、確かめる方法もなくて、怖さすら思えるものだけど、僕たちにはそれしかないんだ。
「久遠君、さっきからずっと電話鳴ってない?」
白石からの指摘でテーブルに置いていたスマートフォンの振動に気づく、着信先に目をやると——。
「えっ——、叶愛から——」
願えば叶う、なんてことを言ったけれど、これは本当に奇跡だと思った。
“叶愛“の文字に怯んでしまいそうになる僕自身の臆病さを取り払う。振動を止めて、スマートフォンの画面を耳元にあてた。
神楽と白石は緊張した様子で、それでも僕を励ましてくれている。
僕なら話せる、そんな気がしたし、僕だから話さなければいけない、そんな使命感すら感じた。
「叶愛、僕だよ」
僕は今、二度と会えないかもしれないと思っていた叶愛の名前を呼べることに言い表せないほどの喜びを感じている。
「電話、出てくれてありがとう。すこし話したいことがあるんだよね。想君が大丈夫だったら、今から言う場所に来てほし——」
「わかった、どこに行けばいい?」
来てほしい、と言い切られる前に僕は場所を訪ねてしまった。
頭の中がそれほど、早く会いたい、ばかりだったから。
「大学病院の大通り沿いにある空き地に来てほしい」
「大学病院の大通り——わかった、すぐに向かうから待ってて」
告げられた場所に違和感を覚える、叶愛とまったく関連性のない場所。
そして僕にとっては、十年前のあの夏を強く思い出させる場所。
真意はわからないけれど“会わない“なんて選択肢は僕の中に存在しない。
「神楽、白石ありがとう。叶愛とちゃんと話をしてくる」
二人から言葉は返ってこなかった。
ただ「行ってこい」と、背中を押すように頷いてくれた。
好きと伝えてこい、でも、本当の恋人になってこい、でもない。
ただ会って、後悔を晴らしてこい、そう言われているような気がした。
十七時、夏の空は夕方という時間を疑ってしまうほどまだ明るさに包まれていた。
*
「急に呼び出しちゃってごめんね、来てくれてありがとう」
走ってきたせいで息が上がっている僕は叶愛からの「ありがとう」に最大限の「こちらこそ」を込めて頷いた。
叶愛の表情はどこか怯えているように見えて、顔色もどこか青白く見えた。夏の空気は湿っているのに、叶愛の周りだけが冷たいような、そんな感じ。
「ずっと立っているのも疲れると思うからさ、一旦座らない?」
そう言い叶愛は僕をベンチへ座るよう促した。
教室での隣より近い距離にいるのに、それなのに、感じている距離感は今までで一番遠かった。転校初日の僕の席から黒板までの距離よりも遠い、触れられるのに、触れられない。
叶愛の指す“話したいこと“を聞くことが怖くて、目を合わせられない。
目を合わせた瞬間から、話が始まってしまいそうで。
聞いた瞬間、僕は叶愛の隣にいることを拒んでしまうかもしれない。
いや、そんなことはないけれど、隣にいることがどうしようもなく怖くなってしまうかもしれないから。
だから告げられる前に、一緒にいられる時間を一秒でも長く心地よく感じていたい。くだらなくても、意味がなくてもいい、ただ一緒に時間を過ごしたい。
今は、それがいい。
「叶愛、体調はどう ?体調以外でも気分とかさ」
「もう大丈夫だよ、来週からは学校にも通う予定でいる」
「それなら、よかった。旅行もあったし、疲れたよねって思って」
なにが“よかった“のか、この状況で“よかった“ことなんてなにもないのに。
そう思った瞬間に、僕はただ「大丈夫だよ」と叶愛から聞いて勝手に安心したかっただけなのだと気づいて、その情けなさに無性に腹が立った。
「心配かけてごめんね、想君はどう?」
「僕も大丈夫、隣の席がずっと空いていたのは寂しかったけどね」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれるね。来週からは嫌でも顔を合わせなくちゃいけなくなっちゃうのに」
嫌でも顔を合わせなくちゃいけないのに、そんな言葉叶愛に言わせたくなかった。
だめだ、このままじゃなにも進まない。
夏の陽がいくら長くても暮れてしまう。
逃げていても仕方がない。
僕が今本当にしなければいけないことは、話を逸らすことでも時間を稼ぐことでもなくて、叶愛の言葉を聴くことだ。
「叶愛、電話で言ってた話したいことって、なに?」
覚悟はできた。
その証拠として、今、僕と叶愛の視線はまっすぐ交わり合っている。
手を強く握りしめながら、叶愛は一度大きく息を吸う。そして——。
「私と、別れてほしいんだ」
告げられたのは、別れの言葉だった。
寂しいくらい、悲しいくらい、その言葉を告げる叶愛の表情に迷いは見当たらない。
もう決めたことなのだと、言い切られてしまいそうな、そんな顔をしている。
「そ、っか——」
五月蝿いほどの感情が生まれているはずなのに、言葉はこれしか出てこなかった。
考える。
数時間後の僕が伝えそびれて後悔すること、数年後の僕が尋ねておけばよかったと今の僕を恨むことを。
「答えられる範囲でいいから理由を聞かせてほしい」
言えないなら、言えないと教えてほしい。
ただ叶愛がどうしてその答えを出したのか僕は知りたい。
「理由なんて今更言う必要もないと思うな」
「どうして? 別れるっていう決断になるなら、僕は知りたいよ」
「だって私たちは——」
ああ、そうか、やっぱり、いや、でも、悔しい。
わかってしまう、次になにを言われるか。
だって私たちは、の続きはきっと僕の予感を裏切ってくれない。
「そもそも本気じゃなかったから。形だけの恋人だったから理由なんていらないでしょ?」
裏切ってほしかった、それが率直な感想だった。
笑っている、というより口角が上がっている。それが今の叶愛の表情。
理由なんていらないでしょ? の少しだけ上がった疑問系の語尾がぎこちなく震えていて、それが僕の胸を絞めた。
「僕は大切な人と、理由もわからないまま離れるなんてしたくないんだ」
僕の言葉が叶愛を困らせている。
なにを考えているのか、感じているのか表情から察することは難しかったけれどそれだけは確かにわかった。
「僕が、叶愛の傷を見たから?」
赤くなり始めている瞳と、小刻みに指先を見て申し訳なさが積もる。
それでも僕は、言葉を呑み込むことができなかった。
「隠してくれていたものを無神経に僕が見てしまったから、そう言ったの?」
今振り返ると、叶愛が体育をいつも見学していたことも、持っていたポーチが白石に比べて大きかったことも辻褄が合う。
それほど隠していたことに、僕は無許可で踏み入ってしまったんだ。
「私の顔にある傷をみてどう思った? 気持ち悪いとか思わないの?」
「思わないよ、傷があっても叶愛は叶愛だから」
「ずっと隠したままだったこと怒ったりしないの?」
「隠したいことがあるなんて自然なことだよ。それが叶愛にとっては傷だった、だから僕は怒ることも、責めることもしない」
「そんなこと言ってくれるなんて、想君は優しいんだね」
叶愛からの「優しい」には、拒絶の意味が込められているような気がした。
想君は優しい、と言いながら、あなたは優しい、と言われているような絶妙な距離感の違いを感じる。
それが異常に苦しくて寂しい。
「違う、僕はただ本当に思ってることを言っただけで——」
「でも、もういいよ。もともと形だけだったんだから。私たちは、終わっても続いても関係ないような距離だったってことにしようよ」
伝えられた、ずっと喉に引っかかっていた言葉を発することができた。
なにがあっても僕にとっての叶愛は叶愛のままだと、そう伝えられたのに。
それなのに叶愛から返ってきた言葉は冷酷で、鋭いものだった。
伝えられたという達成感が積もる僕の心とは対照的な表情の叶愛がなにを抱えているのか、僕は今そのすべてを知りたい。
もしも本当にこのまま別れを迎えてしまうなら、恋人でなくなるなら、すべてを明かしてほしい。そんな身勝手なことすら思った。
「叶愛」
「なに」
「僕に別れを切り出した理由は傷のことがきっかけ?」
「話したくない、私はこれ以上想君を傷つけたくない」
「大丈夫だから、絶対、絶対大丈夫」
「大丈夫じゃない、これは想君を傷つけることになる」
「それでもいいから、僕に本当のことを教えてよ!」
無意識に、声を荒げてしまった。
誰もいない空き地で、叶愛の肩を掴みながら問い詰めてしまったことを後悔する。叶愛の目には涙が溜まっていて、こぼれないようにすこし上を向きながら力強く開かれていた。
ただ、僕は本当を知りたいだけだった。
逃げるように“傷つける“と僕を守ろうとする叶愛の手を僕は離したくなかった。
「ごめん、でも本当に知りたいんだ」
「私が話すことが想君を傷つけることだとしても、想君は知りたいと思える?」
「僕を傷つけることだとしても知りたい、傷ついてもいい、このまま終わることだけは嫌だから」
「それならもしもそれが想君が触れられたくないようなことだったとしても、知りたいと思える?」
触れられたくないようなことだったとしても、意味深な質問に言葉が詰まる。
叶愛の抱えていることを知りたいという思いが揺らぐことはないけれど、妙に慎重な口ぶりと険しい表情に頷くことを数秒躊躇ってしまう。
「知りたい、それがどんなことだったとしても」
僕の言葉に叶愛は戸惑っている。
それでも僕は、もう逃げないと決めたんだ。
時々肌に馴染む色で隠された痣を撫でながら、深く息を吸う。正直僕も、叶愛からなにを告げられるのか怖い。でも——。
「久遠類」
「え——」
「久遠類さん、想君のお兄さんの名前だよね」
「そうだけど、僕、叶愛にお兄ちゃんの名前教えてことあったっけ?」
「教えてもらったことはないよ」
「じゃあ、どうしてその名前を知ってるの?」
「一旦、その質問には答えないで話を進めるね」
どうして名前を知っているのか。
僕の兄の話をどうして叶愛がしているのか。
僕たちの別れ話に、兄が出てくる理由はなんなのか。
わからなかった、すべてが僕の中で謎として浮かんで消えない。
「どうして今日、私がこの空き地を話す場所として選んだと思う?」
「それは、僕にはわからな——」
「十年前の夏、ここで交通事故があった」
僕が「わからない」を言い切るより先に、遮るように、叶愛はその言葉を口にした。
「逆走者の巻き込み事故。死者は二人、一人は逆走者の運転手、そしてもう一人は想君のお兄さん——久遠類さん」
「どうしてそのことを」
「ここまで私が話したことに間違いはないよね」
「ないけど、急になにを話しだすの? その事故がどうしたの? 僕のお兄ちゃんがその事件の当事者だから別れたいって言いたいの?」
「違う、そんなことが言いたいんじゃないよ」
「じゃあなにが言いたいの——」
「その逆走者の運転手が私のお父さんだったんだよ」
その告白の後、叶愛は「これから先の話は、想君を傷つける。それでも、本当に知りたい?」と再度僕へ訪ねた。
躊躇ったけれど、迷いなんてなかった。
すぐに頷いて、話の続きを急かした。
「お父さんが運転する車の助手席に当時乗っていたのが、当時八歳の私」
叶愛からの告白は、想像を遥かに超えるものだった。
僕の“知りたい“なんて言葉では片付けられないほどの事実が、叶愛の中に秘められていた。
「じゃあその傷は——」
「この傷は、その事故でついたもの」
「ねぇ叶愛」
「なに?」
「僕のお兄ちゃんの事故のことを知っていたから、そのことを深く探るために僕と付き合っていたの?」
それだけは嫌だった。
兄の死を利用されているようで、僕自身の失った過去を抉られているようで、痛かった。それに、叶愛がそんなことをするような子だとも思いたくなかった。だから——。
「それは違うよ」
そう答えが返ってきた時、心の底から安心した。
「じゃあいつ、その事故のことを知ったの?」
「初めて想君のお家に招いてもらった日、お兄さんの写真を見せてくれた後に想君言ったよね。お兄さんは“事故で亡くなった“って」
「確かにそうは言ったけど、そこからどうやって結びつけたの?」
「聴いたあと、瞬間的にもしかしたらって予感がしたんだよね。詳しく尋ねた時に十年前に大学病院前で起きた事故って想君が話してくれて、そこでお父さんのことと重なったんだ」
「そこから先は、どうやって確信したの?」
「その事故のことをインターネットで検索したの、記事に想君のお兄さんの写真が掲載されてた。想君に見せてもらった写真に写ってた顔と同じで、予想が確信に変わったの」
十年越しに知る、新たな事故の真相。
十年前のあの夏、葬儀で兄のことを「可哀想」だと言っていた人たちは続けて「加害者が死ぬなんて卑怯ね」と、感情的になっていた。
そして、僕もすこしだけそんなことを思っていた。
兄を殺してしまったのは僕だと思っているけれど、それでも兄を轢いた運転手がすでに亡くなっているというのは、なんだかとても複雑な気持ちだった。
でも十年越しに出会った恋人の父親がその加害者本人というのは、その当時以上に複雑な気持ちだ。
知りたいと思っていた反面、避け続けていたことが、食い止めることのできない波のように襲ってくる。
「でも、どうして」
「え?」
「叶愛が僕に告白してくれたのは、お兄ちゃんの話をする前——まだ事故のことは知らないはずだよね」
「私、実は転校前の学校でいじめられてたんだよね」
「そうだったの?」
「顔の傷のことで煙たがられてさ、誰かに優しく接してもらうことってなかったんだよね」
「……」
「だから、疑いもなく優しさをくれた想君のことが好きになっちゃったの。単純だよね、本当に」
「単純なんて言葉で無理に片付けなくていいんだよ」
「でも傷のことを知られちゃったら嫌われるって怖くなって、あんな卑怯な告白をしちゃった、だから、本当にごめんなさい」
「そんな謝らなくていいよ、僕も嬉しかったから」
「想君ならきっとそう言うと思った、でも事故のことを知ってちゃんと離れる決心がついたんだよね」
「決心——」
「すべて知られないまま、終わろうって私自身の中で整理ができたんだ」
彼女の口から初めて告げられた、あの日の言葉の裏側。
なにも知られたくなかった、綺麗な嘘をつける場所で、綺麗な思い出だけを残していたかった。だから卒業まで。
僕を傷つけないために、僕の過去を抉らないために。
そのすべては、形の違う優しさでできていた。
「想君」
「なに?」
「時間を巻き戻すことはできないからこそ言わせてほしい。本当に、申し訳ありませんでした。お兄さんのことも、想君のことも、ご家族のことも」
「どうして叶愛が」
叶愛は頭を深く下げたまま動かない。
どれだけ肩をさすっても、名前を呼んでも首を横に振ったまま謝罪の言葉を続ける。
叶愛だって、大切な父親を亡くしているのに、僕だけが悲しみを許されている、そんな違和感に塗れた空気だった。
「あの時、お父さんが逆走したのは、きっと私のせいだから。だから、想君のお兄さんと、お父さんを殺したのは、私なんだ」
その一言で確信した、頭を撃ち抜かれたような衝撃が走った。
叶愛は、僕と同じ罪を背負いながら十年を生きてきた一人だった。
「そんなことは背負わなくていい、だから話を聴かせてくれないかな」
「あの日、大学病院に入院していたお母さんの容態が急変したの」
叶愛の母は幼い頃から難病を患っていたらしい。成人することも難しいと告げられていた状況で、奇跡的に叶愛を授かり闘病を続けながら叶愛を育てた。
ただ叶愛が小学校に入学する頃、病気が進行し再入院。それから何度も手術を繰り返し、何とか命を繋ぎ止めていたらしい。
「お母さんは、いつ息が止まってもおかしくないような状態だったんだ。私はまだ幼かったから詳しくは理解できていなかったけど、一緒にいられる時間が長くないことはなんとなく察してた」
「……」
「そんな中でお母さんが、最後の手術を受けることが決まったの。体力的にもこれが最後の手術になるだろうって」
「その手術が、事故の起きる三日前……」
「二日間眠ったままで、目を覚ましたっていう連絡のすぐ後にお母さんが危篤だっていう連絡が来たんだよね」
「そんな……」
「その時に私がお父さんを急かしちゃったんだ、早く行かないとお母さんに会えなくなるって」
「でもそれは悪いことじゃないよ、誰だって大切な人が危ない状態だったら焦るだろうし、ましてや小学生なんてまだ小さいから仕方ない——」
「だからお父さんは、いつもと違う道を走った。「こっちの方が早く着くはずだ」って」
もう、なんとも言えなかった。
兄の葬儀の時に何度も耳にした言葉「不慮の事故」思いがけない事故、という意味らしい。誰も責められない、そんな言葉をいう人もいた。
加害者と被害者が存在する事故で、誰も責められないなんてあるかと思っていたけれど、今になってわかった。
僕の兄は、そして叶愛の父親は、本当に不慮の事故で命を失ったんだ。
「角を曲がって少し走り始めた後に、正しい進行方向に逆らって車が進んでることに気づいたの」
「それで逆走に——」
「故意じゃないことは確かなんだよね、でも引き返そうと思った頃にはもう遅くて」
僕の兄と、彼女の父親の息が止まったあの事故はこの世の不運が全て重なったような事故だった。
それが、十年前のあの夏の日。
「だから、このことを想君が知る前に私が先に離れようと思ったの。これ以上傷つけたくなかったから」
誰にも尋ねることができずにいた真実が、叶愛の言葉によって明かされた。
話してくれてありがとう、つらかったよね、痛かったよね、苦しかったよね、今まで生きていてくれてありがとう——僕にはわかる、どの言葉もかけたい気持ちとは違う。
言葉なんて要らない、どれだけ言葉を紡いでもなにも変わらないからだ。
でも、それなら、今の僕にできることは——。
「想君……?」
ただなにも言わずに、叶愛を抱きしめることだった。
そして——。
「僕は、なにも気づけなかった」
そうただ、事実を告げること。
「いいんだよ、私が隠してたことに気づかないでいてくれたことが私にとってはすごく救いになっていたから」
叶愛から返ってきたのは、あまりに予想外な言葉だった。
「私が高校三年生になったばっかりの時に、前に通っていた学校で事故のことがバレちゃったんだ」
「それがさっき話してくれた転校前の学校でのこと?」
「そうだよ、バレてからはずっと腫れ物扱いだった。先生たちは妙に優しく接してくるし、揶揄ったり、犯人の娘だって後ろ指を刺してくるクラスメイトもすごく多くてね。お父さんもお母さんもいないから、これ以上波風を立てないように、いつも学校行事は欠席だった」
「……」
「だから誰も、私のことを知らないところを選んだの。私の過去も秘密も、何も知らない人に囲まれたら“普通“になれると思ったから」
叶愛の言葉から隠しきれない痛々しさを感じた。
どれだけの傷を負ってここまで生きてきたのか、僕にすら想像ができなかった。
「でもやっぱり普通にはなれなくてね——過去って、変えられないらしくて。高校三年生の夏に転校してくるなんて裏があるって疑われることも多くてさ」
「そんな——」
「さっきは「優しさをくれた」って言ったけど、想君はいい意味で私に無関心だったのかもしれない」
「無関心?」
「話しかけても興味がなさそうで、一度言った名前も初めてかのように聞いてくる想君に惹かれたんだよね。干渉されていないような気がしてさ」
「僕はそのこと、すごく反省してるんだけど」
「興味なんてなさそうなのに、邪険にせずに接してくれたから。気づいたら好きになってたんだよね、初めて人のことを好きになったの」
「そう、だったんだ」
「ずっと怖かった。両親を失って唯一近くにいる親戚からは“可哀想な子“っていうレッテルが貼られて、誰も私自身をみてくれていないような気がして、かけられる言葉が全部嘘のように感じちゃってさ。怖かったし、寂しかった」
その気持ちは、僕にも痛いほどわかる。
僕は幸いにも両親がいるけれど、兄の死から崩れた家庭は近所の人から“可哀想“と非難されるようになったし、歪な同情がなにより心を抉ることを何度も痛感してきた。
「誰かを信じることなんてできなかったし、信じた後に本当の私を知って離れていかれることが怖かった」
叶愛が秘密にしていただけで、僕の本心と彼女の本心が恐ろしいほど似ているということを今初めて知った。
明るくて、少し抜けていて、笑顔の素敵な叶愛の内側に僕と似たような影が住み着いていることを、不謹慎だけれど少し幸せと感じてしまった。
「僕もだよ」
「え——」
「僕も、誰かを信じたり好きだと思ったり“大切“だと認めることが怖かったんだ」
「そうなの……?」
「僕は生まれつき心臓が悪くて中学校までは、ほとんどの時間を病院で過ごしてきたんだよ」
「じゃあ、あの時プールを見学してたのも——」
「よく覚えてくれてたね、そういうことだよ」
「ごめん、私、なにも知らなくて」
「だから友達もいなくて、唯一話せる存在がお兄ちゃんだったんだよね」
「……」
「だからこそ亡くした時のショックは大きくてさ、すべてを失ったみたいな感覚。その事故が原因でお父さんもお母さんも別人みたいに変わっちゃってさ。“大切“って言葉が怖かったんだ、その存在がなくなってしまった時の穴がどうしても埋まらないことを知っちゃったから」
生まれて初めて、僕は本当の心を自分から話している。
怖い、ただそんな気持ちよりも伝えたいが先行している。
心の奥底に眠り続けていた感情をすべて言葉にしたい。
それで嫌われてしまったとしても未練はない、今はただ僕の中の秘密をすべて明かしていきたい。
「でも、叶愛と一緒に過ごす時間を重ねていく度にその怖さを超えて、叶愛と一緒にいたいと思うようになったんだ」
「想君——」
「だから夏祭りでの告白は、寂しかったけどそれ以上に嬉しかった。当時は素直に言えなかったけど、ありがとう」
「夏祭りの告白、さっきも言っちゃったけど、素直に言えなくてごめんね」
「大丈夫だよ。ただ一つだけ教えてほしいことがあるんだけど、聞いてもいいかな」
「なに?」
「計り知れないくらいの躊躇いがあった中で、叶愛が僕に気持ちを伝えてくれたのはどうして?」
「それが、私のお母さんの最期の教えだったから」
「最期の教え?」
「お母さんは私宛てに一通の手紙を書き遺していったの、その最後に書いてあったんだ。『大切な人の隣にいつまでいられるかなんてわからない、だから後悔のないように想いを伝えなさい』って」
そう告げた瞬間に、叶愛の頬には静かに滴が伝っている。
それでも拭うことをせず、懸命に僕の目をみて話を続ける。不規則な呼吸で苦しそうに息を吸いながら、想いを届けることをやめないでくれている。
「でも、そんな言葉を遺してもらったのに私は、あんなに卑怯な告白をした」
「卑怯なんかじゃないよ、言ってくれたでしょ? 叶愛はちゃんと本当の想いも、僕に話してくれてたよ」
「そうだけど……私はすごくあの日の言葉を反省してる。ただ好きってまっすぐに伝えていればよかったって、ずっと後悔と反省を繰り返してる——だから私、決めたんだ」
「決めた?」
「もう心に嘘をつくことは辞める、隠しごとも抱えたくない。すべてを明かすことはやっぱり怖いこともあるけど、想君にはそれすら知ってほしいって思えたから」
「叶愛——」
僕たちの距離を遠ざけていたものは、お互いを守るための秘密だった。
失った人生で、未来すらも失いそうになっていた。
傷つけないために、察されないために隠し通してきた秘密。ただ、その秘密を知った今僕たちはよりお互いを愛せる準備ができた気がする。
過去を変えることはできないし、傷を消すことも僕と叶愛にはできない。ただそれを超えるくらいの幸せを未来でつくることは僕たちにかかっていると思う。
生きているなら、それを果たすのが義務だとも思う。
「叶愛」
「どうしたの?」
「やっぱり僕たち別れよう」
「え——」
「もう“形だけの恋人“なんて辞めようよ」
次に叶愛へ好きを伝えるときは、本当の僕として伝えたい。
開き直ったわけでも、無かったことにするわけでもない。全てを抱えて背負ったまま僕は僕の、叶愛は叶愛の人生を命が尽きるまで生き続ける。
だからその中で、新しい僕と叶愛が遠くに感じていた幸せを掴みたい。
「叶愛」
だから、今告げる。
僕の中で、この人生の中で、限りあることをわかっていながら、叶愛は僕の永遠に、そして——。
「僕の、かけがえのない大切な恋人になってください」
「想君」
わかった、その後に続く言葉がその笑った顔からわかった。
「隣でずっと笑わせてね、好きでいさせてね」
あの夏、幸せから引き裂かれた僕たちはこの夏、限りある永遠を誓い合った。
失うことなんて考えていない。
今はただ、目の前にある幸せをまっすぐ見つめあっている。