神社からまたすこし坂道を登ったところに今日泊まる旅館がある。
 これは神楽と白石からの誕生日サプライズで、旅行から帰った後に叶愛にも二人からのプレゼントだと伝える予定でいる。
 頻繁に家族旅行をする白石と、小学生の頃にこの近くで暮らしていた神楽による選りすぐりの旅館らしく、僕も住所以外の情報は一切伝えられていなかった。

「みて想君! 夜景がすっごく綺麗だよ!」
 
 住所を調べた時に目に入ったホームページの見出しに『観光街一望! 光の一夜』と書かれていたけれど、その言葉から受ける印象を遥かに上回る絶景に息を呑んだ。
 叶愛は素足になって無邪気にテラスせきの柵から身を乗り出している。どこか危なっかしくて、でも可愛らしくて、僕はそれを微笑んで見ていられることに幸せを感じていた。
 涼しくなった夜風には、夏の湿気がまだすこし残っている。
 大きく息を吸い込んで、肺に閉じ込める。吐き出すことが勿体無いほど澄んでいる空気の感触をこのまま記憶し続けられたら、叶愛とのこの時間が永遠になるような気がした。

「あれがさっきの神社だね——あっ! 水族館のオブジェもライトアップされてる!」

「ほんとだね、提灯が並んでるのが飴細工工房の辺りかな」

 そんな話をしていると、叶愛は来た時よりも身を乗り出して全身で街を観ている。
 左手で柵を掴みながら、右手で空を切っている。
 提灯のぼんやりとした暖色も、ライトアップされた水族館のオブジェの青い光も、叶愛の真っ白な姿がすべて吸い込んでしまうのではないかと思ってしまう。
 あまりにも綺麗なその姿に、このまま街に溶けて消えてしまうのではないかと寂しさすら覚えてしまう。

「想君、今夜はたっくさん一緒の時間楽しもうね」
 
 ニコニコ、飾らないそんな表情で僕に幸せな時間にしようと誘ってくれた。
 
「たくさん話そう、楽しいって思おう。きっとどれだけ時間があっても足りないって思っちゃいそうだけど」
 
 僕も素直に、そう返した。
 ふたりきりの空間、同じ時間を過ごせるのも、きっと今日が最後になる。
 眠る前に叶愛の声を隣で聴くことも、周りの目なんて気にせずに二人だけのペースで言葉を交わすことも、非現実的な空間を共有することも、すべてこの夜が最初で最後。特別で、でもそれが、少し寂しい。

「きっと足りないね、私もそう思う。だから二人で今日のことちゃんと覚えていようよ。またいつか今日みたいに二人で話ができるように」

 部屋に戻った叶愛が手招きしながら僕の名前を呼ぶ。軽快なスキップを踏みながら部屋の明かりをつけて回る。
 五つの照明がすべて灯された時、叶愛はテーブルに置いていたスマートフォンを僕に差し出してこう言った。

「今日撮った写真でも見ようよ! 想君のスマホにある写真と私のスマホにあるのどっちも見よ!」

 新幹線車内で窓の外を見つめている横顔、移動中に高層ビルの高さに圧倒されて少し間抜けた表情、振り向いた時の自然な表情——。
 互いの一瞬を捉えられた隠し撮りを明かして、恥ずかしながら笑っていく。
 不意をついた表情は自然体そのもので、その時の記憶が内側から湧き上がってくる。
 今は、それがただ楽しくて、一枚一枚が大切で仕方がない。でも卒業して叶愛の存在を恋しく思った僕は、きっと今と同じ感情でこの写真を見れない。
 溢れ出てくる思い出に息が詰まるほど溺れてしまって、写真から、叶愛の表情から目を逸らしてしまうと思う。
 この写真をまっすぐに大切だと、幸せの形だと思えるのはきっと今だけだ。

「水族館は? 想君なに撮ったの——って、海月とイルカばっかり!」

「どれも綺麗だったけど、思い入れが強いのは叶愛が話をしてくれた海月と一緒にショーを観たイルカかなって思ったんだ」

「いいねぇ、私はねぇ想君がペンギンに餌をあげてる写真とか撮った! ペンギンに戸惑ってる想君が可愛くてさ」

 なかなか上手く撮れてるでしょ? と、写真を続けて見せてくれる。
 僕の隣で、少し低めの位置から撮られた写真たちはどれも特別に感じられた。
 技術的なことなんてなにもわからないけれど“叶愛の写真だ“と、すぐにわかる。
 そして僕が水族館で一番多く撮ったのは実は海月ではない。非表示フォルダに保存している、水槽を眺める叶愛の写真だった。
 魚を指でなぞりながら必死に追いかける無邪気な姿が、僕のスマートフォンには数えきれないほど収められている。
 海月やイルカなんて、比にならないほど。
 儚すぎるその瞬間を捕らえずにはいられなかった。管理が緩くてあまり出席していなかったし、神楽から誘われて入部しただけだったから大した思い入れもなかったけれど、今日ばかりは元写真部の血が騒いだ。

「普段人から写真なんて撮られないから緊張するなぁ、でも、想君が撮る写真は好きだから嬉しい!」

「僕の写真?」

「この間校舎内を一人で歩いた時に想君が撮った写真を見つけて素敵だなって思ったの、ほら! 去年の桜の写真!」

 さすが、顧問や部長の存在すら把握されていない、管理が緩いだけある。
 どうやら隣の校舎の階段に去年の掲示物として提出した写真が貼られたままだったらしい。

「私はあんまりいいモデルにはなれないかもしれないけど、想君が撮ってくれるならどんな形になっても嬉しい気がしてね」

「そう言ってもらえることは僕としても嬉しいよ。僕も、叶愛の表情が好きだから撮ってて楽しいんだ」

 そんな僕の小さな告白に、叶愛は「そうなんだ」と呟くように答えた。
 僕がした告白は些細な会話の一部にしか過ぎないだろうけど、僕にとってはかなりの勇気が必要なことだったりする。
 兄が亡くなってから僕は人を形として残すことを避けてきた、だから写真なんて興味すら持ったことがなかった。部活動への所属が義務だった去年までは「ほぼ帰宅部だから頼む!」と神楽からの強引な誘いを受けて所属していた写真部では景色ばかりを撮ってきた。でも今は。
 僕のカメラロールを許されているうちに叶愛で埋めておこう。
 そんなことを思ってしまっている。
 僕の隣から数ヶ月後いなくなってしまうことがわかっている叶愛のことを、思い出として切り取りたいなんてことを思ってしまっている。
 そしてそれを卒業式の直後にでも告白して「僕は心の底から好きだった」と伝えよう。少し未練がましい気もするけれど、生半可な気持ちのまま時間を共にしていたわけではないと証明したい。
 好きだという気持ちを伝えられない意気地のない僕はそんなわがままな計画を立てている。

「着物姿の写真は私の方が多く撮ってる自信あるよ?」

「僕のこと、撮ってたの?」

「隙を見てずっと横から撮ってたんだよねぇ、彼女目線の写真!」

「彼女目線って、意識して恥ずかしくなっちゃうよ」

「私ばっかり照れててもおかしいからバランス調整したのっ」

「仕掛けてくるね」

「攻撃には戦略と順番が大切だからね!」

「それなら次は僕のターンになっちゃうけどいい?」

「それだと次の旅行が怖いなぁでも! 私も負けないからね! いつでも攻め込んできていいよ?」

 叶愛の言う“次の旅行“は本当に来るものなのだろうか。
 それともただ会話の流れから生まれた冗談なのだろうか。
 きっとこれは僕の考えすぎで、叶愛は思ったままを話しているだけなのだろう。
 ただ僕はそんな一言にすら反応してしまうほど叶愛との別れを迎えることが怖い。
 こういう感情を持ちたくなかった、誰かと関係を気づくたびに遅かれ早かれ待ち受けている“別れ“を僕には受け入れられる自信がない。それでも僕は今、叶愛の恋人でいることを選んでいて、これから先もその関係が続くことを望んでいる。
 叶愛に変えられた。
 僕の心に寄生していた恐怖心を、叶愛は希望にすり替えた。

「ねぇ叶愛」

「ん?」

「次の旅行をするとしたらどこに行きたい?」

「急すぎてわからないけどまた違う所に行きたいな、まだ知らない好きな場所をみつけたい」

「じゃあ次の旅行はいつにしたい?」

「いつ、どうだろうね、台風とかが来ていない安全な時がいいな」

「その時になにがしたい?」

「また一緒に楽しめることがしたいな、たくさん話ができたり笑い合えたり」

 どこ、いつ、なに。
 どんなに未来の質問をしても、叶愛からは曖昧な言葉しか返ってこなかった。
 言ってほしいことはただ一つなのに、たった一つ、彼女の言葉から未来を感じられたら僕はそれでいいのに。

「叶愛の中で次の旅行があることは決まっていることなの?」

「想君」

 僕の言葉を、叶愛は強引に遮った。

「質問ばっかりだからさ、ちょっとゲームしようよ。想君が勝ったら、想君が一番私に聞きたいことを聞ける権利がもらえるの」

「なんでも聞いていいの?」

「いいよ、私は全部答えるから。そんなに質問するって、なにか本当に知りたいことがあるんでしょ?」
 
 すべてを見透かされてしまっていた。
 でも仕方ない、誤魔化す方法なんてない。

「そのゲームって?」

「『もしも想定ゲーム』ってゲーム。私が今思いついただけだから、ルールも曖昧なんだけどいい?」
 
 叶愛の言う通り、ルールは本当に曖昧だった。
 まず一人が“もしも“の状況のお題を出す。
 
「たとえば——「もしも、隕石が降ってきたら」とか」
 
 そうするともう一人が“その状況になったらどうなるか“を具体的に答える。
 お題を出した人は気の済むまで相手の答えに言及することが許されているらしい。お題を出した人を納得させることができればそのターンは終了、というものらしい。
 名前の通り“もしも“を“想定“するゲームで、思ったよりゲーム性が浅かったけれどそれでいいように思った。
 今の僕には複雑なルールを理解した上で気持ちを落ち着ける余裕なんてないから。

「嘘は禁止だよ! 本当に自分がする行動しか言っちゃダメ!」

 それが、このゲームで最も重要なルールだと付け加えられた。
 僕に知りたいことがあることをわかっていながら叶愛はこのゲームを提案した。まっすぐに尋ねられることを恐れて避けているのか、それとも僕の本気度合いを探っているのか。
 どちらにしても僕は、確実にこのゲームを勝ちで終わらせなければいけない。
 と思ったところ幸先悪くじゃんけんに負け、叶愛が最初にお題を出すことになった。

「想君が下校中に捨て猫を見つけたとして、その捨て猫がずっとついてきたら想君はどうする?」

「僕の家は一軒家だから、そのまま連れて帰るよ」

「それなら、その猫がすごく汚れて痩せ細ってたら?」

「まずはお風呂に入れるかな、ご飯とかは詳しくわからないから近くの動物病院に連れていくと思う」

「なるほど——想君一問目クリア! じゃあ次は想君がお題を出して!」
 
 やってみてわかった。
 このゲームは“今の僕の状況でなんでも聞くことが許される“がかかっていなければかなりつまらないゲームだ。

「それじゃあ叶愛が一日だけ誰かと入れ替われるってなったら誰と入れ替わる?」

「それって身近な人と入れ替わるの?」

「できれば僕が知ってる人だと嬉しいな」

「寧々ちゃんかな! 誰とでも気軽に話せていつ見てもすごく楽しそう! しっかりしてて、明るくて、たくさん尊敬しているところがある寧々ちゃんと入れ替わってみたい!」

「白石と入れ替わって叶愛はなにをしたい?」

「クラスの女の子と遊んでみたいかなぁ、まだ勇気が出なくてあんまり声も掛けられてないから楽しく遊んでみたい」

「いいね、納得。叶愛も一問目クリア」

「それじゃあ次のお題は——もしも明日の朝、全然知らないところで目が覚めたら、想君はどうする?」

「位置情報で自分がどこにいるかを確かめると思う、そこからどうにかして家に向かうと思う」

「驚いたりしない?」

「最初は混乱するかもしれないけど、すぐに冷静になれそうって思ってる」

「ちょっと悔しいけど、想君二問目クリア」

 そんなラリーを、この後も十数回繰り返した。
 叶愛の思いつきで始まったかなりつまらないゲームは思いの外、楽しかった。
 ゲーム性はほぼないけれど、好きな人のことを知れるのは嬉しい。あの日の放課後、僕の家で初めてお互いのことを明かしあった時を思い出す。
 初めてのゲームに、僕は懐かしさを感じた。

「次、想君がお題を出す番だね」

「ねぇ叶愛」
 
 そろそろ即興で思いつくシュチュエーションも限界を迎えそうだ。だから僕は——。

「これで最後にしよう。叶愛が答えられたら叶愛の勝ち、答えられなかったら僕の勝ち」
 
 そんな提案をした。

「いいよ、最終戦ってことだね」

 叶愛はそう快く受け入れてくれた。

「本気の一戦だよ」

「じゃあお題をお願いしますっ」

 このお題は僕の本心、今まで飛び交ったどのお題よりも卑怯で、難しい。
 そしてこの問いは、きっと叶愛を苦しめてしまう。
 それでも僕は、知りたいと思う。

「もし僕が、叶愛と本当の意味で付き合いたいって言ったらどうする?」

「え——」

「契約的でも、形だけでもない。本当の恋人同士になりたいって言ったら、叶愛はどうする?」

「……わからない」

「僕の出したお題に質問があったら答えるよ、すごく意地悪なお題だと思うからね」

「私がこのお題に答えたことがそのまま現実になる可能性はある?」

「最初に叶愛が言ってたよ、本当に自分がしそうな行動じゃないと言っちゃダメだって。だから僕は、叶愛の答えにそうように動くよ」

 口を噤んだまま、叶愛は少し俯いて考え込んでいる。
 本当はこんなに大切なことを、ゲームを通して聞くなんて筋が通っていないとわかっている。すごく卑怯で、意地悪で、叶愛を困らせてしまうということもすべてわかっている。
 わかっていたから、聞いたのかもしれない。
 どこかで聞かなければ曖昧に包まれたまま終わってしまうのが今の僕たちだから、そして苦しいことなんて日常会話ではきっと触れないと思ったから。
 僕は叶愛から「本当の恋人同士になると思う」と答えられたら、すぐにその手をとってしまうと思う。抱きしめてしまうかもしれない。叶愛が好きで、可愛くて、守りたくて、知りたくて、そんな叶愛の隣にいたいから。
 だからこそ僕は、彼女の本当の気持ちを知りたいんだ。

「私負けちゃう、このゲーム」

「え——」

「まさか自分で考えたゲームに自分で負けるとは思ってなかったぁ——降参!」

 顔を上げたかと思うと、叶愛は少し引き攣った顔でそう言った。
 誤魔化したような笑顔に胸が苦しくなる、僕はただ彼女の本心を知りたかっただけなのに。

「想君」

「なに——」

「なんでも質問していいよ、それが約束だったから」

「でも——」
 
 叶愛の笑う顔は僕の想像なんかよりも遥かに苦しいものだった。
 だから聞くのを躊躇ってしまう。

「遠慮なんてしたらゲームじゃないでしょ? どうせならこういう時にしか聞けないことにしてよね?」

 “こういう時にしか訊けないこと“それはもうゲームなんかじゃない。
 僕が、目の前の叶愛から知りたい本当のことは——。

「叶愛」

「ん?」

「ここから先はゲームとしてじゃなくて、僕からの純粋な質問として受け取ってほしい」

「もちろん、最初からそのつもりだよ」

「叶愛は——」

 知りたい、でも、怖い。
 付き合うとか、卒業までとか、そんなことはどうでもよくて。
 僕はただ、今の叶愛の気持ちが知りたい。だから——。

「叶愛は僕のこと、好き?」

 そう聞いた瞬間、想像通りの沈黙が僕たちの間に走った。
 叶愛の表情を確かめることはできなかったけれど、きっと今は知らずにいることが正解なのだと思う。
 叶愛の声が聞こえるまで、ひたすら下を向いて待つ。

「私は、想君のこと好きだよ」

「それならどうして——」

「どうしてさっきのお題に答えられないのって、想君が思ってることもわかってるんだ」

「……」

「でもね、想君」

「なに」

「私は想君のことが本当に好きだけど、本当に好きだから、その決断ができないの」

 わからなかった。
 でも叶愛は確かに僕の質問に答えた。
 好きかどうか、に対して、好きだと答えてくれた。

「本当なら、叶うことなら、もっと違う関係で想君の隣にいたかった」

 叶愛の言葉の意味を、僕はやっぱり理解できなかった。
 理解できなかったというより、僕が理解したくなかったのかもしれない。自分本位なわがままが叶愛の言葉を無意識に拒んでいるのかもしれない。

「想君、電話……ずっと鳴ってるよ?」

「あっ、神楽——ごめん、すぐに終わると思うからお風呂でも入って待っててほしいな」

 最悪なタイミングだったのにも構わず、叶愛は僕へ「電話ゆっくりでいいよ」と柔らかく送り出してくれた。
 部屋を出て、誰もいない空間でスマートフォンを耳へあてる。
 旅行前「二日間は極力連絡をしない」と気遣う言葉をくれた神楽からの電話に鼓動が早くなる。

「一日会ってないだけなのに、想がいないと違和感がすごいな」

「なんだそんなことで電話してきたのか……何かあったのかと思って心配したよ」

「違うよ、本題に入る前にちょっと雑談でも挟もうかと思って。楪さんとの旅行はどう、順調に楽しめてる?」

「手惑うこともあったけど、それ以上に楽しいよ。いい思い出になれてる」

「それならよかった、こっちも久しぶりに寧々とデートでね。いい意味でいつも通りだよ」

「熟年カップルは格が違うな」

「新婚さんみたいな初々しさが恋しい時もあるけどな」

 聞き慣れた神楽の声に、少しだけ胸の苦しさが解けたような気がした。
 普段は見過ごしてしまいそうな優しさが今ならはっきりと輪郭を成してみえる。早く部屋へ戻らなければいけないことはわかっているけれど、今はもう少しだけ、くだらない話に逃げていたい。

「ねぇ神楽、本題って何?」

 それでも僕は、そんな逃げ方をするほど卑怯にはなりたくなかった。

「単刀直入に聞く、傷つけたらごめん。でも絶対に電話は切るなよ」
 
 神楽からの口調にここまでの重さを感じたのは、これが初めてだった。
 切らないよ、とだけ答える。そして——。

「想と楪さん、純粋な“付き合う“って関係じゃないよな」

 その事実を、何故神楽が知っているのか僕には理解が追いつかなかった。
 反射的に、電話を切ってしまいそうになる指先を止める。止めた親指に力を入れながら、動揺で開いたままの唇を動かす。

「どうして、そんな」

「寧々から聴いたんだ」

「白石?」

「寧々がちょうど先週、楪さんから相談を受けたって言ってて——」

「先週って」

 先週の今日は、僕が叶愛を旅行に誘った日の放課後だった。
 淡々と語られていく言葉が計り知れないほど重く、鋭く、僕の脳を刺しながら伝う。
 神楽、白石、叶、三人の顔が生々しく点滅して止まない。

「どうして、叶愛が——白石に何を話したんだよ」

「まず確認。今、楪さんは近くにいる?」

「いない、叶愛はお風呂に入ってて僕は部屋の外に出てる」

「それならよかった。そんなに時間も取れないと思うから想が知りたいことから話していこう。急で申し訳ないけどなにから知りたい?」

「白石は叶愛から、なにを聞いたの?」

「夏祭りの日に「私から告白したけど卑怯な告白をしちゃった」って言ってたらしい」

「その“卑怯な告白“が、形だけの付き合いだったって叶愛から聞いたの?」

「俺はその場にいなかったから断言することはできないけど、おそらくそういうことだと思う」

「それで、なんで白石に相談したの? 内緒にするって言ったのは叶愛の方なんだ」

 こんなこと、神楽に聞いても仕方がないことはわかってる。ただ知りたかった、縋れる存在に縋っていたかった。この衝撃を独りで受け止められる強さを、今の僕は持ち合わせていない。
 叶愛を疑いたくない、それでも神楽や白石の言っていることが嘘だとも思えない。
 怒りでも、悲しみでもない。一番近しい気持ちは、戸惑いだと思う。

「楪さん自身も、その期限がすごく寂しかったんだと思う」

「寂しい——」

「卒業まで数えるほどしかないだろ、きっと想と一緒にいられなくなるのが嫌なんじゃないかなって」

「でも、その期限は叶愛が」

「なにか理由があると思うって寧々が言ってたんだよね」

「理由?」

「ずっとそばにいられない理由。その話をしてる時、楪さんが今にも泣き出しそうだったって」

 人伝えで聞いた情報は鵜呑みにしない方がいいとよく聞くけれど、この数分間に掛けられた言葉が嘘だとは思えなかった。できることなら嘘だと思い込みたかった。
 そしてできることなら、あの夏祭りの告白に添えられた期限も嘘だと思い込みたい。
 叶愛が僕に隠している秘密を知りたいと思った。でも、僕が知っていいことなのかすら今の僕にはわからなかった

「白石が聴いたことってそれが全部? 他に何か言ってなかった?」

「その話を楪さんから聴いた後に「私は今が一番幸せかもしれない」って言ってたとは聞いたよ」

 そう教えてくれたのは、神楽の優しさだとわかった。
 複雑な気持ちだろうけど、叶愛が幸せと思っていれば僕は喜ぶから、だから神楽はそんなことを教えてくれた。

「想」

「なに?」

「想はどうしたい、こんなこと聞くなんて酷だとは思うけど。想は楪さんと、これからどうなっていきたいの」

「これから——」

「叶っても叶わなくてもいい、想の思ってることを俺だけでも知っていたい。想が抱いた感情、なかったことにはしたくないんだ」

「僕は、まだまだ叶愛と一緒にいたい。今日みたいにまた旅行もしたいし、まだまだ話したいことだってある、お互いが望む限り一緒にいたい」

「想からそんな言葉聴けるなんて思わなかった、そしてちょっと嬉しかった」

 僕も、そんな言葉を誰かに言える日が来るなんて思っていなかった。
 通話時間が二十分を超えた。こういう時の時間の進み方は異常に速い。
 
「想は楪さんと話すようになって変わったな」

 その“変わったな“が、僕の中の希望のように思えた。
 変わった、変われたんだ。
 でも同時に、呪いのようにも感じた。
 悲しくならないように、寂しく思わないように生きてきたのに、僕はまた誰かを失うつらさに刺されそうになっている。
 僕は、叶愛との時間に変えられてしまったんだ。

「想」
 
「なに」
 
「想と楪さんは、どうしたって恋人だし、どうなったって恋人だ。夫婦みたいに堅苦しいものでもないし、友達みたいに軽いものでもない」
 
「だから難しいんだよ、それに、僕たちは普通の恋人じゃない」
 
「普通の恋人でいる必要なんてないだろ。それにな、いい人にはこれから数えきれないほど出会うだろうけど、自分を変えてくれる人に出会うって、そうそうできることじゃない」
 
 神楽の言う通りだ。
 実際僕は叶愛のことを心から好きになったし、大切に思えてしまっている。
 恋人なんて、大切な人なんて、いるだけ未来のつらさが増えるだけだと思っていた。
 でも違う。
 恋人は、大切な人は、好きな人は、僕にとっての叶愛は、今の幸せをくれて、未来への楽しみとか、そういう希望をくれた。
 だから、失いたくない。

「それと寧々から伝言」
 
「白石?」

「「叶愛ちゃんは絶対悪くないし、久遠君も絶対悪くないから二人で幸せになって」って」

 神楽も白石も、僕と叶愛の幸せを願ってくれている。
 それなら僕が今できること、するべきことは一つしかない。
 通話時間が三十分を超えた。叶愛の元に戻ろうと思う、と言うと神楽は「行ってこい」と、背中を押してくれた。そして——。
 
「失う前に伝えろよ」

 切る直前、そんな言葉を添えてくれた。
 電話が切れる、この決心を失わないうちに叶愛にすべてを伝えよう。
 手には、叶愛へ贈る誕生日プレゼントがある。今度はゲームなんて手段に頼らずに僕の言葉と共に届けたい。
 僕の言葉で、僕の心の全てを叶愛に明かす。
 ここさえ超えてしまえば、僕たちは幸せになれる。

「遅くなってごめんね、ただいま」

「みないで——」

「ごめん、もしかして着替えてる途中?」

「違う、違うけど——」

 その切羽詰まった声に驚き、不意に目を開けてしまった。
 一つに結んでいた長い髪はまっすぐ伸びている、少し振り向いた顔に僕は違和感を覚えた。

「叶愛、?」

「だからみないでって言ったのに。嫌でしょ、こんな彼女」

「そんなこと——」

「嘘つかなくていいから、自分でも思ってるから。嫌だな、気味悪いな、って」

 綺麗な黒髪に隠れた顔が少しずつ僕の方を向く。
 その瞬間が妙にスローモーションに映った。理解するのに数秒時間がかかった、いつも隣で見ているはずの叶愛の顔に一瞬、僕自身の目を疑った。
 綺麗な顔の半分ほどに赤黒い痣のようなものがあった。
 手で覆っても隠せないほどの痣を見て言葉に詰まる。

「気持ち悪いでしょ? ごめんね、こんな、ずっと、隠したままで」

 叶愛は僕の目をみて逸らさなかった。
 鋭くて、感じたことのないような痛々しさを感じる。
 傷に対してではない。初めて見た、叶愛の臆病さを抑え込んだ表情に戸惑いが止まらなかったのだ。
 大丈夫だよ、と。なにに対して大丈夫なのかも曖昧なまま近づく。
 叶愛からの「ごめんね」に強い拒絶が含まれているような気がして、無意識に足を止めてしまった。
 情けなく、入り口付近に立つ僕とテーブル付近に立つ叶愛の距離が空いている。
 僕はそれ以上なにも言えぬまま手を後ろに組み、渡すはずのプレゼントを隠した。