朝、澄んだ空気の中で二人に背中を押された二週間前のあの日を思い出して彼女の到着を待つ。 
バスの時刻表と観光予定の施設を改めて確認する、ここから一泊二日の僕と彼女の初めてが始まる。今回の旅行を、彼女にはまだ『誕生日旅行』だということは伝えず『デートの延長』という口実で来てもらうことにした。
誘った瞬間は少し戸惑ったような様子で相槌を打っていたけれど、次第に表情が晴れ最終的には僕と同じ期待を含ませたような笑みへ変わった。その時初めてみた少し期待したように、恥ずかしそうに笑う彼女の顔が僕の頭に浮かぶ。

「想君!おはよう」

 数メートル先から、僕の名前を呼んで駆け寄る彼女の姿が見える。
片手に持たれた真新しいキャリーケース、そして何より初めてみる彼女の私服に目を奪われる。
可愛らしいフリルの付いた白基調のワンピースに、少し底の厚いスニーカー、薄く目元に施されたメイクと綺麗に整えられた髪が彼女にすごく似合っていた。

「叶愛おはよう、朝早くて準備とか大変だったよね」

「楽しみ過ぎて早起きしたから準備は完璧だよ!時間になるまでが待ち遠しかったくらい」

「制服もいいけど私服姿もすごく素敵だね、可愛いよ」

「想君、その言葉はまっすぐすぎて照れちゃうよ」

「本当に思ってることだから、メイクも髪もすごく似合ってる」

 彼女は照れ隠しに笑った後に『ありがとう』と告げた。
柔らかく広がったワンピースの裾を少し掴みながら揺らし、左足を少し浮かせて嬉しそうにそれを眺める。ゆっくりと一回転した後に『私もこのワンピース、お気に入りなんだ』と笑う彼女の無邪気さとシルエットの儚さに心を奪われた。
早くなった鼓動を抑えられないまま普段乗っている便よりも一つ早い便に乗り、駅へ向かう。
隣に座る彼女に僕の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと僕の中に初めて男子高校生らしい不安が宿った。



 バスを降り、案内板の矢印に促されるまま新幹線乗り場のホームへ足を進める。
キャリーケースを引きずりながら、その音に負けないように声を張りながら、それでも聞こえない時にはお互いの表情で補いながら、僕達は昂る気持ちを交わしていく。
彼女の少し小さい歩幅に合わせて、朝の少し騒がしい新幹線へ乗り込む。

「私、新幹線に乗るの人生で初めてかも」

「そうだったんだ、引っ越して来る時とかに乗ったことあるのかなって思ってた」

「引っ越しの時はずっと電車だったから新幹線ってちょっと憧れだったんだよね」

 彼女は声を弾ませながら、様子を捉えることすら難しいほど速く流れていく窓の外を眺める。
そして時々、隣に座る彼女が何かを指さしながら『あれすごくない?』と静かにはしゃぐ。青すぎる海も、風に靡く草花も、見上げても終わりが見えないほどの高層ビルも。その度にきっと特別でも何でもない風景が、彼女の声で特別に変わっていく。

「ねぇ想君」

「どうしたの?」

「終点に着いたら最初はどこに行くの?」

「それは着くまで内緒かな、予想してみてよ」

「予想か……始めて行くところだから余計難しいな」

「叶愛はどんなところに行きたいの?」

「きっとどこに行っても最高に楽しいと思うから……二人でたくさん話しながら楽しめるところがいいな」

「それなら期待に添えるかもしれないね」

 荷物をまとめて降車の準備を済ませる。
僕にとっては懐かしい光景、彼女にとっては初めての景色。少しプレッシャーが残っているけれど、それを遥かに超える高揚感で胸が埋め尽くされている。

「建物がいつもみてるものとは全然違う……都会って感じ」

 色鮮やかで奇抜な広告、太陽の光を反射するオフィスビルの窓、呑み込まれてしまいそうな雰囲気を感じながら彼女が呟く。
その表情はどこか怯えているようで、それに負けない好奇心と興奮を含んでいるようにみえた。

「すごいよね、同じ日本とは思えないくらい景色が違う」

「そう!それが言いたかったの……なんだかすごくキラキラしてみえる」

「ここから少し歩くからその時にもまた違う景色がみれると思うよ」

「全部見逃さないように私のこの目に焼き付けるね」

 キャリーケースを引きながら彼女の手を取り目的地へ向かう。
景色に気を取られて目を離したら迷子になってしまいそうな彼女に、どこか愛おしさを覚えながら僕はその瞬間を噛み締めた。

「着いたよ、ここが僕達の旅行の最初の場所」

「ここ……水族館?」

「そう、前に話した時に叶愛が水族館の綺麗な空間が好きって言ってたから」

「覚えてくれてたんだ……嬉しいよ、ありがとう」

「僕も水族館が好きなんだよね、だから嬉しくて覚えてたんだ」

 神聖さと、非日常感に包まれた暗い館内に足を踏み入れる。
入場券には今日の日付と時刻、ポップな絵柄のイルカが描かれている。風で飛んでしまいそうなほどの小ささのその紙すら、きっと僕達の時間を思い出す欠片になる。僕はそんな特別を鞄の内側にある小さなポケットへしまった。

「入場ゲートはこちらです、ごゆっくり海の世界へ」

 導かれるままに進んだ先で、僕と彼女は息を呑む。
一足踏み入れただけで、水槽の中へ引っ張られてしまいそうなほどの壮大な世界観に惹き込まれる。

「すごいね壁の全部水槽で海の中にいるみたい……どこをみても綺麗な青だよ」

「そうだね、海の中にいるような感覚になれる」

「本当に海の中ってこんな感じの綺麗な世界なのかな」

 目を輝かせながら彼女は水槽へ近づく。
小さな魚に目線を合わせるように背丈の低い彼女がしゃがむ。追いかけていた魚が上の方へ泳いでいくと、追いかけずに少しだけ寂しそうな顔をして水槽越しに手を振る。それでも微笑んだ横顔は柔らかく、水槽の中の世界と本当に言葉を交わしているかのような様子だった。

「叶愛は小さい魚が好きなの?」

「大きい魚も好きだよ、でも近くでみるのは小さな魚がいいな」

「確かにわかるかも、大きすぎると少し怖いもんね」

「そうそう水槽越しだから何かされることはないってわかってるけど……ちょっとね、迫力が凄すぎて」

「叶愛、水族館にはよく行くの?」

「前に住んでいた家の近くにあって学校帰りにほぼ毎日寄り道してたんだよね、生徒手帳を持っていくと入館料も無料でさ」

「それは好条件だったね、水族館が好きなら尚更いいところだったね」

「そうなんだよね、だから水族館は結構詳しい方だと思うんだけど……それでもずっと気になってることがあってね」

「気になってること?」

「犬とか猫は何度か顔を合わせたらその人のことを覚えて近寄ってきてくれるでしょ?」

「犬種とかにもよるけど……大抵そうかもね」

「でも私が何度その水族館に行っても全然魚達は近付いてきてくれないんだよね」

「叶愛の顔を覚えてないってこと?」

「そう、ほぼ毎日みる人の顔だったら意識しなくても覚えちゃいそうだけど……なんでなんだろうってずっと気になってて」
 
「叶愛、水族館の水槽の中にいる魚から僕達は見えてないって聞いたことある?」

「えっそうなの?」

「魚はすごく神経質な生き物で、僕達の動く様子が気になってそれがストレスになっちゃうんだって」

「それなら……どうやって見ないようにしてるの?目は空いてるよね、魚達だってずっと眠っているわけにもいかないし……」

「そのために水族館内を暗くして、水槽に使われているガラスに水槽内の光を反射させて暗い場所にいる僕達を魚側から見えないようにしてるらしいよ」

「そうなんだ、顔が見えていないなら覚えてもらえないのも当然だね」

「確かに、でもなんかちょっと寂しいよね」

「想君はそのことをいつ知ったの?」

「僕が小学生くらいの頃に水族館で働いていた知り合いがいて、その人に教えてもらったんだ」

「そうだったんだ覚えててくれてありがとう、教えてもらえて嬉しかった」

 生真面目な話を彼女は嫌がることなく、むしろ楽しそうに追求した。
誰もが真っ先に水槽を見つめる中、彼女は水槽横の魚の説明を律儀に読んでいる。それから水槽を見て、魚と通じ合うように笑う。たまに変な名前をつけて、それを僕に教えてくる。
不思議で、無邪気で、可愛らしくて、愛らしい。
やはり彼女は、僕には持っていないものを持っている。

「見て!この魚たまに来る数学の特別課外の先生に似てない?」

「確かに!この唇の形が特に似てるかも」

「今度会った時に思い出しちゃいそうだね、想君笑っちゃだめだよ?」

「絶対に笑わないように頑張らないとね。僕が笑ったら叶愛もつられて笑っちゃうだろうし」

 そう言って少しふざけたように彼女が笑う。大きな瞳は、笑うと三日月のような形になる。
水槽の上の方を指差す時に伸びる白く細い腕も、振り向く時に揺れる前髪も、話す時に上がる口角も。
暗い館内で、僕には彼女の姿だけがどこか美しく光っているようにみえた。

「ねぇ想君」

「どうしたの」

「この魚、この大きい水槽にひとりだけだよ」

「本当だ……そんなに大きな魚でもないのにね」

「私も同じこと考えてた、どちらかというと小さめだよね」

「他の魚と一緒になれたらいいのにね、大きな水槽にみんなでさ」

「その方がきっと楽しいって私も思う。でも綺麗だよね、他の水槽に劣らないくらいの目線を集めちゃうくらい」

 色鮮やかな尾鰭を持つ魚を指さしながら彼女は呟く。そして寂しそうに、羨ましそうに、その魚を追う。
他の水槽を泳ぐ魚とは違う向き合い方で、彼女はその魚をみつめる。何かを語りかけることもなく、何かを噛み締めるように彼女はその魚が泳ぐ水槽の前から動かない。

「きっとこの魚は強いんだよね、私は一人じゃ何もできないだろうから。私もこの魚みたいに強くなりたい」

「強いのかな……」

「強いよ、臆病さも感じさせないくらい凛と泳いでる」

「叶愛」

「ん?」

「ちょっと僕についてきて」

 記憶の地図を辿る、途絶えることなく続く水槽の中を一つの目的に向かって進む。
辿り着いた先で僕が彼女に見せたい、そして伝えたいもう一つの強さが泳いでいるから。

「叶愛、これがなんの魚かわかる?」

「……(イワシ)かな」

「そう、正解」

「でも鰯がどうしたの?」

「叶愛は鰯を弱いと思う?それとも強いと思う?」

 僕の漠然とした顔に彼女は暗闇の中でもわかるほど困った表情をした。
少し考えた後に、彼女は僕に答えを告げる。

「弱いと思う。漢字にも『弱』が使われているし、強くはないと思うな」

「そう、強くない。でも実は、弱くもないんだよね」

「え……どういう意味?」

「ひとりの力は叶愛が言うように強くない、でも強くなるために鰯は仲間を探すんだ」

「仲間……?」

「鰯って自分自身が食べられる危険性を減らすために大群をつくって泳ぐんだよね。敵がいない水族館の水槽の中でさえも、食べられないように大群をつくって泳いでる」

「……そんな理由があったんだ」

「自然界って不思議だよね」

「本能なのかな、相手を盾にしてるのに嫌な感じが全然しない。相手を蹴落とすような意思が不思議なくらいに伝わってこない」

「誰かを犠牲にするかよりも、お互いに逃げながら、仲間を増やしながら、強くなれるようにしているのかもね。誰一人失わずに生きていられるように」

「すごいね、その中でちゃんと自分自身を生きてる」

「無理に強く在る必要はないって教えてくれる気がしてさ。僕は鰯の大群、結構好きなんだよね」

「想君すごい、大切なことたくさん知ってる。私とは全然違うよ」

「鰯の本当の気持ちは僕にはわからないけどね」

 彼女の寂しそうな表情を目にして、つい臭い言葉を並べてしまった。
小難しいことを並べてしまったと反省したけれど、彼女の表情をみたらそんな小難しい話も無駄ではなかったのかもしれないと安心した。
暗い館内が僕の赤面した顔を隠してくれている、この暗さが守っているのは魚の心だけじゃない。

「急に難しいこと言っちゃてごめんね、ただ綺麗だねって伝えたかったんだ」

「大丈夫、私にはちゃんと伝わったよ。ありがとう、想君」

 誤魔化したはずの本音が、どうやら彼女には伝わってしまったらしい。
残った恥ずかしさを抱えながら、それを飛ばすようにイルカショーを観る。最前列、水飛沫で服を濡らしながら手を叩いて笑いあう。
隣でイルカに手を振る彼女をこっそり写真に収めながら、僕も合わせて手を振った。
去年、ここで神楽と白石と同じショーをみたことを思い出す。当時はイルカを前に白石ばかりみている神楽の感覚に違和感を覚えていたけれど今ならわかる、この時間の本命は飛び回るイルカじゃない。

「イルカって近くで見ると本当にぬいぐるみみたいな顔してるってわかるね!」

「イメージとかイラスト通りの可愛い顔だよね」

「私が持ってるぬいぐるみにそっくり、色はちょっと違うけどね」

「あのイルカ小さいね、赤ちゃんかな」

「本当だ!可愛い……赤ちゃんは人間も動物も関係なく無条件に可愛いものなのかもね」

 そう言い彼女はまた目で三日月をつくる。
かすかに窪むえくぼも、ちらっと覗かせる八重歯も、彼女には今日まで僕が見つけられていない可愛いが詰まっていた。
そしてそれきっとまだ数え切れないほど詰まっている。
僕はそのうちのどれだけを卒業までにみつけられるだろうか。

「ショーも終わったし……もう少し館内の魚達をみたいな」

「まだみていないところも多いし、せっかく来たなら全制覇しようか」

 彼女はまた、水槽の世界へ駆けて溶け込んでいく。
白いフリルが揺れる、束ねられた髪も華奢で白い肌も、彼女の後ろ姿の美しさが僕は水槽よりも美しくみえた。
無意識に惹かれてしまう、そして追いかけたくなってしまう。
恋人であるはずなのに、その手に触れられないことが僕は少しもどかしかった。

「ねぇ叶愛」

「どうしたの?」

「サメってさ、周りにたくさん小さい魚がいるのによく食べたりしないよね」

「確かに、言われてみれば海の中では絶対にありえない光景だね」

「人間に育てられると考え方とかも変わってくるのかな」

「どうなんだろう……サメの内なる優しさが開花したとか?」

「叶愛のその考え方好きかも。もし本当の理由が他にあったとしても、僕達の正解はその考えのままにしよっか」

「いいね、これは二人だけの正解にしよう」

 水族館で飼育されているサメが他の魚を食べない理由は『餌で満たされている』という疑ってしまうほどに単純なものだった。サメの水槽から少し歩いた先の雑学掲示板に、不意に浮かんだ問いへの真っ当な答えが記載されていた。
インターネットで検索しても、本を読んでも、きっと彼女の発した『内なる優しさ』という言葉は出てこないと思う。
ただそんな正しさだけの正解よりも僕は、彼女の心を表したような優しい正解を好んでしまう。
僕はそのまま、彼女へ本当の正解を告げなかった。

「ねぇ想君、これみてよ」

「クラゲだね、ちょっと怖いけど綺麗」

「綺麗だよね……私がよく通ってた水族館にも綺麗なクラゲの水槽があってさ、好きでずっとみてたんだよね」

「みてると落ち着くよね、僕もその気持ちわかる」

「ねぇ想君」

「ん?」

「『クラゲ』って漢字でどう書くか知ってる?」

「確か……海と月じゃなかったけ」

「そう、海と月で『海月』って書くの」

「それがどうしたの……?」

「想君は『クラゲ』を『海月』って書く理由、聞いたことある?」

「……考えたこともなかった」

 ただ目の前に浮いているクラゲを直感的に綺麗と捉えて『海月』と書くことすら曖昧になっていた僕に、彼女は少し得意げな顔をみせた。
少し視線を上に向けて手で何かを(すく)うような仕草の後、彼女は僕へ視線を戻した。

「クラゲって、海に浮かぶ姿が反射する月のように美しくみえるから『海月』って書くんだって」

「そうだったんだ、名前の意味まで綺麗だね」

「最初に『海月』って書き表した人の感性もすごく綺麗だと私は思うんだよね」

「それくらい綺麗だったんだよね、きっと」

「毒があっても惹かれちゃうよね、それすら魅力に感じちゃう」

「叶愛の今の言葉、小説の一節にありそうなくらい綺麗な言葉だね」

「そうかな、それは嬉しいけどちょっと恥ずかしい」

 小窓のような小さな海月の水槽をなぞりながら、彼女は水中を浮遊する月を追う。
他の水槽を眺める時とはまた違う、神秘を撫でるような視線。指先で少し触れただけでも消えてしまいそうな存在と、今にも同化してしまいそうな程の儚い彼女の横顔。

「想君の名前にはどんな意味が込められているの?」

「意味……どうして急に?」

「海月の由来の話をしたら気になちゃって、教えてほしいな」

「僕の名前は……人を思いやれる人になるように、人の想いに気付けるようにっていう願いを込めてお父さんが名付けたんだ」

「素敵……想君はきっとその願いを叶えられていると思う」

「そうだといいな、叶愛はどんな願いから名付けられたの?」

「私は……愛する人との約束が叶いますようにってお母さんが名付けてくれたの」

「愛する人との約束か……叶愛ならきっと叶うと思う」

「そうかな、そうだったら嬉しいね」

 彼女は本当は誰を愛しているのだろう、もう既にその『愛する人』に出逢えているのだろうか。
僕自身は『愛する』の正しい定義すらまだ見つけられていないけれど、時々詩人めいた言葉を漏らす彼女なら見つけていてもおかしくないと勝手に思う。
そんな彼女が愛する人と出逢った時、どんな約束を交わすのだろう。きっと僕には関係のないことだけれど、妙に気になってしまう。

「叶愛はさ」

「うん」

「愛する人ってどんな人だと思う?」

「どんなに相手の醜い瞬間を知ったとしても、それすら抱きしめてしまう人だと思う」

 迷う間も無く、彼女は僕へ言葉を返す。
僕が予想していた通り、彼女は僕より先にその定義を見つけていた。

「じゃあ叶愛はその人と、どんな約束を交わしたい?」

「……それはまだわからないかな」

「やっぱりまだ難しいよね」

「約束が夢なのか願い事なのか、自分本位な我儘じゃないかって色々考えると難しいなって思う」

「夢と願い事を約束にするのは叶愛の中で納得がいかないの?」

「納得がいかないって言うより、もっと有意義に約束を使いたいって思うんだ。夢と願い事は頑張って自分で叶えたい、そのどちらにも属さないものを約束にして守りたいの」

「その考え方いいね、素敵だと思う。きっと叶愛なら素敵な約束がみつけられるよ」

「まだよくわからないけど、私とその人の未来を照らせるような約束がいいな。一緒にいられる未来を少しでも永遠に近づけられる約束がいい」

 十八歳、既に僕達は生涯を共にする相手と永遠の愛を誓える年齢に達している。
数週間前まで友情も愛情も避けていた僕にとって、その決断はきっと遥か遠くのものだと思う。ただ彼女にとっては、もしかしたらすぐに手が届いてしまうほど近くにあるものなのかもしれない。
僕の勝手な想像が事実だったらと思った瞬間、目の前にいる彼女が知らぬ間に遠くへいってしまうような気がした。それが少し寂しくて、根拠もなく胸が痛む。
『いかないで』と引き留める権利なんて僕には無いけれど、せめてこの瞬間、僕が彼女の隣にいることが許された時間を噛み締めていたい。

「水族館すごく楽しかったな……連れてきてくれてありがとう」

 彼女の手にはお揃いのキーホルダーと半券が包まれている。
そして暗い館内での儚さからは想像できないほどの笑顔を僕に向けている。

「こちらこそ楽しんでもらえて嬉しかった、一緒に来れてよかったよ」

「想君、一つ気になったことがあるんだけど訊いてもいい?」

「どうしたの?」

「もしかしてここの水族館って、想君達が修学旅行で来た場所?」

「えっそうだけど……どうしてわかったの?」

「やっぱりそうだったんだ!この間見せてもらった写真と似た雰囲気の場所がいくつかあったからそうかなって思ったんだよね」

「よく気づいたね、すごすぎるよ」

「そう考えると余計嬉しい……改めてありがとう!」

 無邪気な顔のまま、入り口付近のオブジェの前で写真を撮る。
この写真は、僕と彼女の初めてのツーショットになる。もしかしたら、最初で最後になるかもしれない。
少し照れながらも大きくピースをつくる彼女の隣に、きっと笑いすぎて目がいつも以上に細くなっている僕が写っている。

「叶愛、そろそろお腹空かない?」

「そうだね、もうすぐお昼だし朝も早かったからね」

「少し歩いたところに二つ目の行きたい場所があるんだ、そこでお昼ご飯も食べようと思ってるんだけど……どうかな」

「いいね!今日は想君が考えてくれたコースにお任せしたいな」

「そう言ってくれて嬉しいよ、ありがとう」

 日が照りつける昼の空の鬱陶しさを今日は感じなかった。
今日の晴れはあの日、初めて彼女と出逢った時に窓から吹き込んできた風のように爽やかで、心を浄化するような温かい空。そして僕の隣には楽しそうに僕の方を向く彼女がいる。
この瞬間がきっと、僕の人生で唯一の青春と呼ぶに相応しい瞬間なのだと思う。

「想君は晴れと曇りだったらどっちが好き?」

「晴れと曇りだったら……晴れかな、それがちょっと鬱陶しい時もあるけど」

「そっか、じゃあ想君は晴れ男だね」

「晴れが好きだと晴れ男なの?」

「正しいことはわからないし、そもそも晴れ男に科学的根拠なんてないだろうけど、好きなものを引き寄せることってあるからさ。だから晴れが好きな想君は晴れ男」

「なるほど……ちょっと無理矢理だけど説得力あるかも」

「でしょ?」

「うん、叶愛はどっちが好きなの?」

「私も晴れかな、ちょっと嫌だなって思った時でもなんとなく明るくいられる気がするから」

「素敵な理由だね」

「初めてそう言われたかも」

「そうなの?」

「うん、この話をすると絶対私とは反対側の理由を言う人がいるんだよね」

「反対側の理由……ちょっとそれも気になるかも、聴かせてほしいな」

「その人は曇りが好きなんだって、どうしてだと思う?」

「明るすぎない空間が落ち着くから……?」

「もしかしたらそれもあるのかもね、でもちょっと違う」

「何?」

「明るくなれない時に、無理に明るくならなくていいから好きなんだって」

「どういう意味?」

「自分の気持ちに嘘をつかなくていい、それを許してくれる気がするって言ってたの」

「その考えは僕になかったな……いいね、自分の心に正直になれそう」

「そうでしょ?私は晴れが好きだけど、好きな理由だけは曇りの方が好きなんだよね」

「それは誰が言ってたの?」

「私のお母さん、すごく素直で自分に嘘をつかない人なんだよね」

「素敵なお母さんだね、今の話から少しだけど叶愛に似てるなって思った」

「私に?」

「考え方というか言葉の表し方とか、ほんの一部分しか僕はまだ知らないけど似てるなって」

「ちょっと恥ずかしいけど……それ以上に嬉しい、ありがとう」

 目を逸らして、はにかんだ笑顔を浮かべる。
普段無邪気な笑顔をみせる彼女が、僕に初めてみせる笑い方を自然に零してくれた。
そんな状況に勝手に感動しているうちに、次の目的地についた。
水族館のあった駅周辺とは違う、風情のある古風な建物が並ぶ観光街。

「着物、綺麗……」

 近年流行の勢いを増した着物レンタル店が多くあることも、この街の特徴の一つ。
話によるとこの街は数年前、都市開発により廃れた和食店や呉服店が多くあったらしい。その状況を打開しようと、和食店は日本食や和菓子の文化体験施設へ、呉服店は着物レンタル店へと改装を進められ今の観光街が出来上がったのだという。

「綺麗だよね、叶愛も着てみる?」

「えっ」

「もともと着てきてくれた服も可愛いけど、少しの間だけ着替えてみるのもいい体験かなって思って。叶愛の着物姿、みてみたい」

「想君も一緒に着ようよ、それなら着てみたいな」

 彼女からの提案に隙もなく頷き、入った店内には数えきれない数の着物が掛けられていた。
着物はもちろん、帯や今風の帯締め、下駄や髪飾りまで。みているだけで心が和に染まるような空間に自然と口角が上がる。

「いらっしゃいませ、男性と女性の二名様でしょうか」

「はい、着物のレンタルをお願いします」

「かしこまりました。それではお着物選びから始めさせていただきますね、女性用はこちらへ男性用はあちらへございます。ご相談やお決まりの際には近くのスタッフへお声がけください」

 綺麗な着物に身を包んだ店内スタッフの案内に沿うように足を進める。
流行りの色や形、デザインを教えられた後に僕達はお互いに視線を向け、それぞれが着物を身に纏った姿を想像する。
彼女は何度か僕と着物を交互にみて首を傾げている。それとは対照的に僕は彼女をずっとみてしまっている、きっとどの着物を選んだとしても彼女は綺麗に着こなしてくれる。

「想君はどんな着物にしたい?」

「たくさん種類がありすぎて迷うけど……この深い緑とか綺麗だと思うんだよね」

「確かに!帯が細めなのもかっこいいね」

「こっちの紺も捨て難いよね……叶愛の着物を決めてからそれに合う方にしようかな」

「どっちになっても想君なら綺麗に着こなせると思うよ」

「ありがとう、じゃあ叶愛の着物も一緒に選ぼうか。女性用だから色もたくさんありそうだね」

「そうだねこの淡い色の着物とか可愛い……!でも帯がパールになってるの、私にはちょっと大人っぽすぎるかもしれない……でも可愛い」

「絶対似合うと思う!ただ叶愛も言うようにちょっと大人っぽいから……このアクセサリーを付けてみるとかどうかな、もっと可愛くなると思う!」

「本当だ……想君センス良すぎるよ!」

 僕が手に取ったアクセサリーと着物を合わせて、彼女は舞い上がったように喜ぶ。
近くにあった鏡でその着物と身体を合わせた姿を確認し、可愛らしく口角を上げて僕の目を見る。
その姿が既に可愛くて、僕は返す言葉を見失った。

「想君はどんな着物にする?」

「そうしたら僕は深い緑にしようかな、叶愛はどう思う?」

「私もそっちがいいなって思った、私の着物の色にも合いそうだし」

「それじゃあお互い着付けしてもらおうか、先に終わったら待っててね」

「私も最強に可愛くなってくるから、想君も最高にかっこよくしてもらってきてね!」

 そう言いそれぞれ着付け室へ入る。
誰かに着付けをお願いするということに恥ずかしさと緊張を感じながら、手を振る彼女に笑いかけて互いにカーテンを閉める。
数分後、カーテンを開けた先で立つ彼女の姿を想像すると自然と頬が熱くなってしまう。

「彼女さんとデートですか?」

「そうなんです、実は今日が彼女の誕生日でサプライズ旅行なんですよね」

「素敵な彼氏さんですね、彼女さんも可愛らしくてお二人とも微笑ましいです」

「照れますね……ありがとうございます」

「これからどこを見ていかれる予定でしたか?」

「二軒先の飴細工体験に行こうと思っていました、あそこはご飯も美味しいので」

「よく修学旅行生さんが見学にいらっしゃるところですかね、お兄さんは初めてですか?」

「実は去年の修学旅行で一度。ただ彼女が最近引っ越してきたので、修学旅行を一緒に擬似体験させてあげたいなと思って」

「絶対いい思い出になりますよ!彼女さん、素敵な方に出逢いましたね」

「せっかくの誕生日なので全力で楽しんでもらいたくて……ありがとうございます」

 手際よく着付けられている間に、僕は彼女とのこの後の時間を想像してしまっている。それも都合のいいところだけ。
着物を纏ってより一層綺麗になった彼女を前にエスコートしなければいけないという緊張感すら無視して、彼女の笑う顔と楽しそうな声を想像している。
着付けが完了し、再度帯を縛られる。その締まる感覚にカーテンを僕自身の手で開ける覚悟ができた。
一度目を瞑り、深く息を吸って吐く。澄んだ視界で、彼女の新たな姿をみる。

「似合ってるかな……?」

 声の先には、淡い紫色に包まれた美しいという言葉では足りないほどに綺麗な彼女の姿があった。
そして少女漫画の一コマを切り取ったお手本のような上目遣いで僕へ近づき問い掛ける。
大人っぽい紫の奥床しい雰囲気と、彼女の小さな手で握られている可愛らしい小物が調和している。

「すごくすごく可愛いよ、それにすごく綺麗だよ」

「ありがとう、想君もかっこいい。それにすごく似合ってる」

 お互いに上手な感想も言えずに、目を合わせることが精一杯だった。
初めての姿に鼓動を鎮めている。可愛い、綺麗、そんな単純な言葉が無数の意味を持って頭の中に溢れていく。

「お二人ともすごくお似合いですよ!レンタル時間の指定はございませんので、閉店時間までに再度ご来店くださいますようよろしくお願いいたします」

 丁寧に送り出され、僕達は再び街を歩く。
二軒先の飴細工工房はちょうどよく体験席が二席だけ空いていた。

「ここって……飴細工?」

「そう、飴細工の体験ができるんだよ。工房内に和食がメインの食堂もあるんだよね」

「すごいね色々楽しめそう」

 暖簾をくぐると、去年お世話になった店主のおじいちゃんがカウンターで飴を作っていた。
堅物そうな見た目をしているけれど雰囲気は言い表せないほど和やかで、それが伝わったのか彼女の目が輝いている。

「二名、飴細工体験お願いできますか」

「あいよ!二名様ね、ここに並んでお座りください」

 照明は吊るされた三つの電球のみ、厨房からの家庭的な匂いと目の前で練られる飴の甘さが空間で調和している。どこか懐かしいようで、経験したことのないような雰囲気がこの店の特徴。

「ちょっと緊張する……想君は?」

「緊張はしてないけど、ちょっとソワソワするのはわかるかも」

「はい二人とも、この棒をそこの台に立ててもらって最初に飴を使いやすくなるように練ってください!あっ手袋を忘れないでね、手がベタベタになっちゃうからね」

 一人暮らしをしたことがないから『実家』と呼べる程『実家』の感覚を知らないけれど、なんとなく『実家のような安心感』を感じた。下校中、通りすがりに声をかけられる感覚と似た温かさを感じている。

「どれくらい柔らかくすればいいのかな」

「僕もそんなに詳しくないけど……駄菓子屋に売ってる水飴くらいをイメージすればいいのかなって思ってる」

「あらお兄ちゃん詳しいね!もしかして一回来たことある子かい?ここは修学旅行生もよく見学に来るからね」

「想君、もしかして……」

「そうなんだよね、実はここも修学旅行のコースの中の一つなんだ」

「そうだったんだ!じゃあ想君に教えてもらったら上手にできるかもね」

 飴を練りながら、楽しそうに話す彼女の表情はマスク越しにも伝わってくる。
彼女の表情が半分隠されてしまうのは少し寂しいけれど、衛生上の都合には抗えない。

「そろそろ二人ともちょうどいい硬さになってきたんじゃないか?」

「これくらいで大丈夫ですかね?」

「おお!お嬢さん上手上手!お兄さんはどうかな?」

「なかなか難しいですね……どうですか?」

「お兄さんも上手!じゃあ形を決めていこうかね」

「形ってどんなものまでなら決められるんですか?」

「上限はないよ!お嬢さんが好きなものを作ればいいさ」

「想君、何つくるか決めてる?」

「迷い中かな……せっかくなら今日にちなんだものがいいなって思ってる」

「それいいね!それなら私は海月にしようかな、水族館の思い出」

「絶対綺麗に出来あがるよ!じゃあ僕は色違いの海月にしようかな」

「クラゲかい!いいねそれじゃあちょっと大変だけど二人とも頑張るんだよ!」

 専用の用具をいくつか手渡され、手探りで使っていく。
一度体験したことがあることとはいえ、僕も慣れない感覚に苦戦する。その隣で初めての感触と扱いに戸惑いながら不器用に指先を使っていく彼女と飴の形を変えながら、お互いの飴を見比べて完成形へ近づけていく。

「ねぇ想君」

「どうしたの?」

「海月の足って八本だっけ、十本だっけ」

「たぶんそれタコとイカの話じゃないかな、海月の足の本数は僕もわからないかも」

 そんな他愛もない会話を交わしながら順調に作業は進み、最後の作業である色の修正作業に入る。
器用に道具を操りながら染められていく飴の綺麗さと、苦戦していることがよくわかるような彼女の表情が愛おしくて自然と笑いが溢れてしまう。そんな僕を不思議そうに見る彼女に、また笑ってしまいそうになる。

「お嬢さんは……紫色かな」

「そうです!ここをもう少し濃くしたくて、ちょっと塗り直し中です」

「着物の色とも重なってすごく綺麗だよ!お兄さんは何色にしたんだい?」

「上半分が青で、下半分は透明のままにしてみました」

「お兄さん……なかなか高度なことをするね、これは面白い!」

 丁寧に梱包され透明で小さな冷蔵庫に入れられている飴をみて、海月の水槽を思い出す。
僕達だけの思い出が、その中には閉じ込められている。
完成した飴はお互いの作ったものを食べようと言う約束をし、食堂へ向かう。

「集中するとお腹空くよね、想君の海月すごく綺麗だった」

「叶愛の色もすごく綺麗だったよ、水族館からそのまま連れてきたみたい」

「そんなこと言われたら照れちゃうよ……ありがとう!」

 水族館では誤魔化せていた頬の火照りが、今は隠す隙間もなく確認できた。
マスクで隠されていた口角は想像以上に可愛く上がっていて、彼女が心から楽しめていることが確認できて安心した。

「ここのお店での想君のおすすめは何?」

「僕は……月限定定食がおすすめかな、食器とかもすごくお洒落なんだよね」

「いいね!本当だ季節によって食材と食器が変わるって書いてある……これにしようかな」

 注文を済ませた彼女はじっと僕の目をみる。
時々恥ずかしそうに逸らしながら、それでも再び僕の目をみて微笑む。
何度もみつめては逸らしてを繰り返す彼女の動作が何を表しているのか、僕には不思議だった。

「どうしたの?」

「想君って本当に優しいねよ、そして心が丁寧だよね」

「心が丁寧……?」

「旅行のコースを修学旅行と重ねてくれたこと、私すごく嬉しいよ。想君にしかできない優しさだと思う」

「本当に……?」

「一度行ったところなのに新鮮に楽しんでくれたり、でも頼もしく案内してくれたり、想君との話のひとつひとつが私はすごく楽しいの。そして嬉しい」

 彼女の素直な言葉で一気に靄が晴れた。
僕が彼女にとってどんな存在か、彼女からどうみえているのか、そして僕が彼女のことを心の底からどう思っているのか。
今日になるまでの二週間、ずっと付き纏っていた不安は彼女の一瞬の言葉と笑顔で振り落とされた。

「月限定定食です、ごゆっくりどうぞ」

 夏を連想させる涼しげで透明な食器の上に、規則正しく配置された料理。
その爽やかな青が彼女とみた水槽の青と重なっていく。

「すごく美味しそう……いただきます!」

 丁寧に両手を合わせ、綺麗に箸を持つ。
普段の仕草からは可愛さが溢れ出す彼女から、今は美しさが溢れている。まっすぐに伸びた姿勢と、食器を持つ手と伸びた指先、整えられた礼儀作法。
彼女は僕には勿体無いくらい、心が綺麗に澄んでいる人なのかもしれないとふと瞬間的に思う。言葉遣いも、心遣いも、繊細で、どこか人の心がみえているかのような言動に頭が上がらない。

「はい!これ完成した飴ね、落とさないように気をつけるんだよ!」

 昼食を終え、工房を後にする。
風が少し夕方の空気に近づいてくる時間帯、あたりはまた観光客で埋め尽くされてきた。

「ここからはどこへ行くの?」

「まずは着物を返して、今日最後に行く場所へ向かう予定だよ」

「今日が終わっちゃうのは少し寂しいけど、最後の場所も楽しみだな」

「僕もおなじ気持ちだよ、最後に着物のまま二人で写真を撮ろうか」

 画面に収まるように無意識に身体が近づき、必然的に肌が触れ合う。
着物越しに伝わる温度に少し鼓動が速くなるのを感じた、作った飴を顔の横に添えながら思い出を切り取っていく。
人との写真を積極的に取ってこなかった僕が彼女との写真を重ねていきたいと思ってしまった。教室で隣の席に座る何気ない彼女の日常を、神楽や白石と笑い合う楽しげな姿を、二人でどこかへ出掛けた時の彼女の振り向いた瞬間の表情を、そして僕達の最後である卒業式でのツーショットを。
人に無頓着だったはずだった。写真なんて、彼女を家に招いたあの日『みたい』と言われなければ自主的に見返すこともなかった。
彼女を前にするときっと手が震えて器用にカメラを向けられない僕だからこそ、今日の一枚一枚を大切にしていたい。
きっと僕と彼女が離れた先でも、この写真の思い出は美しいまま残っていると思うから。

「先程レンタルを利用した久遠と申します……」

「お客様、お帰りなさいませ。そのまま着付け室へお入りください」

 扉を閉める瞬間まで手を振り微笑む、そんな彼女をみて目線を逸らしてしまう単純な僕がいる。
きっと最後になる、彼女の着物姿。本当に綺麗で、手離したくないと思ってしまう。

「お客様、彼女さんと素敵な時間を過ごせましたか」

「はい、飴細工体験の後に写真も撮ることができて彼女も楽しんでくれました」

「きっと素敵なお写真なんでしょうね……」

「少し恥ずかしいですけど……これ、撮った写真です」

 頬を赤ながら微笑む彼女と、少しぎこちなく口角を上げている僕。
やっぱりどこか壁があるようで、それでも少しずつ心を開いているようで。僕達の関係がそのまま表れたような表情に笑ってしまいそうになる。

「お二人とも素敵な笑顔ですね、楽しげな雰囲気が画面越しにも伝わってきます」

「着物のおかげもあって本当に楽しい時間になりましたよ、本当にありがとうございました」

「そのお言葉をお聞きすることができて嬉しいです、ご利用ありがとうございました」

「料金をここで払うことは可能ですか……?」

「お代は、お兄さんと彼女さんの幸せそうな表情ということにさせていただきます」

「えっそんなこと……本当にいいんですか?」

「もちろんでございます、ご縁があって出逢ったお二人の幸せのお手伝いをできたことが私達も嬉しいですから。大切に、時間を重ねていってくださいね」

 契約的な関係、形だけの恋人。
それでも僕達は確かに巡り合って、その巡り合いの中の何かを手繰り寄せて縁を結んだ。
残された時間を、大切に刻んでいきたい。

「ありがとうございます、また彼女とここへ来ますね」

「それは嬉しいですね、スタッフには既に話をしているので着付け室を出たらそのままお店を出ていただいて大丈夫ですからね」

 柔らかな笑みに送り出され、彼女と店を出る。
再びワンピースを身に纏った彼女は、やはり綺麗だった。着物で隠れていた脚は白く綺麗で、朝には気づくことのできなかった魅力にも惹かれてしまう。

「また次に着物を着るときも、あのお店に行こうね」

「僕もそうしたい、次はどんな着物にしようか今から楽しみだね」

「そうだね……次、来るといいね。それで最後の場所ってどこに行くの?」

「この一本道を抜けて少し曲がったところにあるんだ、ちょっと階段があるけど足とか大丈夫?歩き疲れてない?」

「大丈夫!たくさん歩けるようにスニーカーで来たからさ」

「ありがとう、そのスニーカーもすごく似合ってるよ」

 日が沈み、店の明かりが消え、少しずつ暗くなる観光街には提灯の光が上品に灯り始めた。
日が落ちると共にシャッターが下ろされていく店の間に、雰囲気のある居酒屋が賑やかな声が集まり始めている。
修学旅行では観ることのなかった大人な雰囲気の漂う空間。大人になって、また違う楽しみが許される歳になった時もう一度彼女とここを訪れたい。今日のことを思い出しながら笑う幸せな時間になる、きっとその時彼女は僕の恋人ではないけれどそれでももう一度二人で幸せに浸れる時間が欲しい。

「本当に綺麗な場所だったね」

「いい場所だよね、僕も大好きになった場所なんだ」

「懐かしい感じがするんだよね。きっとこんなに綺麗な場所に来たことはないんだろうけど、記憶を辿ったら瞬間的にはあってもおかしくないような、そんな場所」

「不思議な感覚だけど、僕にもなんとなくわかる気がする」

 手が触れてしまいそうで、無意識に躊躇ってしまう。
本当なら触れていい関係のはずなのに『契約』という二文字が、どうしてもその気持ちにブレーキをかけてしまう。ちょっともどかしい距離感が今の僕達。そしてそれを選んだのも、紛れもない今の僕達。

「曲がるのってこの角?」

「そうそう、曲がって少ししたらみえてくると思うよ」

「あっもしかして……!」

「そう、その神社が今日の最後の目的地だよ」

 縁結びの神様が祀られていると有名な神社。
小さく佇んでいるその神社には毎日たくさんの参拝客が訪れているらしい。その特徴的な小ささには『隣にいる人との距離が近くなるように』という願いが込められているらしく、鳥居はよく目にするものより少し横幅が狭く造られている。

「良縁……縁結びの神社かな」

「そう、街が一望できて景色もすごく綺麗なんだよね」

「本当だ……ありきたりな表現かもしれないけど全てが星みたい、夜空を埋める星」

「ありきたりなんかじゃない、叶愛からの素敵な言葉だよ」

「そう言ってくれて嬉しい、ありがとう」

 ともに鳥居をくぐり、深く礼をする。
手を合わせ、願いを頭で唱える。騒がしい車の音と、人の笑い声がかすかに聞こえるこの場所で、淀みのない願いに想いを馳せる。
思いつくたった一つの願いを唱えた僕が目を開けて隣を向くと、瞑った目から滴を溢しながら手を合わせている彼女がみえた。僕はもう一度、何も知らないふりをして目を瞑った。

「想君は何をお願いしたの?」

「それを言ったら叶わなくなっちゃうかもしれないでしょ、だから内緒だよ」

「お願いしても叶わないくらいなら、自分で頑張って叶えればいいんだよ」

「自分で頑張っても叶わないからお願いするの、これは考え方の違いだと思うけどね」

 危うく口を滑らせてしまうところだった。
僕の力では到底叶えることのできない、神頼みという言葉が相応しい。
僕が手を合わせている間に頭の中で唱えた願い事は、夢をそのまま言葉にしたような願い。


『残された時間、彼女との間で一つでも大切な瞬間が増えますように』


 残された卒業までの数ヶ月間で、僕は彼女に何ができるだろう。
夏祭りのあの瞬間、彼女から告げられた一言から始まった僕達の時間は想像もしていなかったほどに大切が詰まったものだった。
思い出せないほどの笑いと言葉、その全てを切り取って保存してしまいたくなるほど素敵な表情。
隣の席で笑う彼女に、笑うときに僕の目を嬉しそうにみる彼女に、僕にたくさんの大切をくれた彼女に、僕は何ができるだろう。

「想君」

「ん?」

「私ね、神様とか信じたことなかったんだ」

 参拝を終え、敷地内のベンチで彼女がそう呟く。
異様に落ち着いた声のトーンが少し怖かったけれど、続きが聴きたくなってしまうような彼女の口調へ返す言葉に戸惑う。

「そうなの?」

「うん、神様なんているわけないって思ってた。今、ちょっと捻くれた子供みたいって思ったでしょ」

「そんなことないよ、その話詳しく聴かせてほしいなって思った」

「まだたった十八年しかこの世界で生きてないけどさ、それにしては苦しいことが多かったなって思うんだよね」

「……苦しいこと」

「大切な人は奪われるようにいなくなっていくし、嬉しいことがあった次の日には必ず悪いことが起こる。世界が私を生かしてくれないなんて我儘なことを思ったこともあるんだ」

「……」

「神様っていう存在に何回も根拠もなしに頼ってみたけど、手を差し伸べてくれることはなかった」

「それが神様……?」

「わからないよ、私の偏った考えだから正解なんかじゃないと思うけど私にとっての神様はそういう存在だったの」

「そっか……」

「想君はない……?そういうふうに思っちゃうこと」

「僕は……」

 生まれた瞬間から不完全な身体に、大切な人の死、それに連鎖して起こった独りの暮らし。思い返せば少し、彼女の言葉に共感してしまう部分があるのかもしれない。
孤独とも、不幸とも、絶望とも言い難い名前のない苦しみ。そしてそれを誰にも溢すことのできない閉塞感。息を吸うことさえ苦しくなってしまうような感覚を僕はなんとなく理解してしまった。

「ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「笑って誤魔化さなくていいよ。叶愛の言ったこと、完璧じゃないかもしれないけど僕にも少しわかるから」

「えっ……」

「誰にだってきっとあるよ。表情に出していないだけで、言葉に起こしていないだけで、この世界から離脱しようって頭をよぎること」

「……そうなのかな」

「そうだと思う。神様がいるかなんて本当のことはわからないけど僕は無条件に救いの糸を垂らしてくれる架空の善人は、存在しないと思ってる」

「……初めて」

「え……?」

「初めて、私の言葉を形を変えずに受け取ってくれる人に出逢えた」

「……それって僕のこと?」

「想君のこと、曖昧で自分でもよくわかってないけど……今すごく心が動いてる感覚がある」

 そんな彼女は彼女自身の手を強く握りながら、何かに耐えるように下を向いている。
彼女の表情を覗く勇気は出てこなかったけれど、反射的に彼女の背をさすった。それが正しい選択か僕にはわからないけれど彼女が拒まずに身を委ねた瞬間、答え合わせができたような気がした。
『契約的』で期限付きの彼氏ができる最大限の寄り添いか、その肩書きに抗いたい気持ちを抑えきれなかった僕の不正行為か。
どうか、前者であってほしい。

「……」

 彼女の手に握りしめられていた恋みくじには、中吉という何とも言い難い二文字と『目の前の人を信じなさい』というこれまた曖昧な助言が記されていた。
彼女にとっての『目の前の人』は果たしてどこの誰なのだろう。
彼女は助言の通りに、その目の前の人を信じることができるのだろうか。
それとも神様の存在すら信じていない彼女は、神様からの助言を壁の落書きか、それ以下の価値しかない持たないただの文字の羅列と受け取るだろうか。
本当のことは彼女にしかわからないけれど、僕は誰の助言もないまま彼女の頭を撫でている。
思い出したように見返した僕の恋みくじには『慎重に進むこと』という助言が添えられている。受け取るよりも先に反してしまった僕自身を、今はほんの少しだけ誇りに思う。

「……想君」

「どうしたの?」

「今から私が言うこと、まっすぐ受け取ってくれたら嬉しいな」

「……」

「出逢ってくれて、ありがとう」

 少しだけ、次の展開を期待してしまった。
あの日『私を彼女にしてくれませんか』という言葉を聴いた時に感じた鼓動は、今思えば衝撃とそれを上回る嬉しさによるものだったのだと思う。
『大切』を失わないために、誰かに感情の焦点を向けることに怯えていた僕が、気づけなかった本当の僕の気持ち。その後に聴いた『形だけ恋人同士』という言葉は、その言葉に安心したフリをして、やっぱり少し寂しかった。
契約的な関係だったとしたら、その相手に彼女が僕を選んだ本当の意図を僕はまだ知らない。
卒業という期限を過ぎたら全て無かったことになって、きっと僕達はまた『他人』に戻る。それほど薄情な割り切り方ができてしまうのなら今、僕の肩に頭を預けている彼女の言動は設定を全うするためのただの演技なのかもしれない。
そう考えてしまったら少し、せめて恋人いられる間だけでも、強引に彼女を抱きしめたくなった。

「叶愛」

「……ん?」

「僕は好きだからね」

 彼女からの言葉は、返ってこなかった。