バスの時刻表と観光予定施設の予約時間を改めて確認する。
 ここから、一泊二日の僕と叶愛にとっての初めてが始まるんだ。
 今回の旅行について叶愛にはまだ「誕生日旅行」とは伝えず「デートの延長」という口実で来てもらうことにした。少し無理があるようにも聞こえるけれど「卒業前最後の思い出づくりをしようよ」と提案すると、まっすぐ受け取ってくれた。
 誘った瞬間は少し戸惑ったような様子で相槌を打っていた叶愛の表情は次第に晴れ、最終的には僕と同じ期待を含ませたような笑顔へと変わった。
 その時見せてくれた恥ずかしそうに笑う顔が待ち合わせで緊張している僕の心を和ませた。

「想君! おはよ!」

 数メートル先から、僕の名前を呼んで駆け寄る叶愛の姿が見えた。
 片手に持たれた真新しいキャリーケースの扱いの不慣れさは可愛らしくて、なにより初めて目にする私服姿に僕の目は一瞬で奪われてしまった。
 ワンピースは可愛らしいフリルの付いた白基調のもので、少し底の厚いスニーカーにはアクセントとして控えめな刺繍が施されている。淡いピンクで薄く目元を彩ったメイクと綺麗に整えられた髪が叶愛の雰囲気により一層の光をまとわせていた。。

「制服姿もいいけど、私服姿もすごく素敵だね。可愛いよ」

 僕は夏祭りの日、素直に言えなかった「綺麗」の未練を晴らした。
 本当に可愛いと、素敵だと思えたから伝えられてよかったと自然と口角が上がってしまう。

「想君、その言葉はまっすぐすぎて照れちゃうよ」

 叶愛は照れ隠しに笑った後「ありがとう」とこれまた素敵に笑って告げた。
 柔らかく広がったワンピースの裾を少し掴みながら揺らし、左足を少し浮かせて嬉しそうにそれを眺める。そしてゆっくりと一回転した後に「私もこのワンピース、お気に入りなんだ」と笑う無邪気さとシルエットの儚さに見惚れてしまった。
 ワンピースと靡く髪も相まって、誰もいないバス停は一瞬にして洋画のワンシーンを切り取ったような雰囲気に包まれた。
 早くなった鼓動を抑えられないまま普段乗っている便よりも一つ早い便に乗り、駅へ向かう。隣に座る叶愛に僕の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、僕の中に初めて男子高校生らしい不安が宿った。

 *

 バスを降り、案内板の矢印に促されるまま新幹線乗り場のホームへ足を進めた。
 さすがに早い時間ならある程度空いているだろうと思っていた駅構内は思った以上の人が行き交っていて、叶愛と離れ離れにならないように必死だった。
 キャリーケースを引きずりながら、その音に負けないようにお互いになにかを伝えようと声を張る。それでも聞こえない時には表情で補ったり、キャリーケースを持っていない片方の手でジェスチャーをしたり。僕たちはそうやって、昂る気持ちを交わしていた。
 叶愛の少し小さい歩幅に合わせて、無事、朝の騒がしい新幹線へ乗り込んだ。

「私、新幹線に乗るの人生で初めてかも」

「引っ越して来る時とかに乗ったことあるのかなって思ってた」

「引っ越しの時はずっと電車だったから新幹線ってちょっと憧れだったんだよね。ほら、だって新幹線ってすっごい速いんでしょ? ビューンって一瞬で目的地まで着いちゃうんだよね?」

 魔法でも使っているみたいな言い方で叶愛は新幹線が発車のアナウンスを目を輝かせながら待っていた。
 動き出した。叶愛は捉えることすら難しいほど速く流れていく窓の外を眺めている。
 そして時々、なにかを指さしながら「あれすごくない?」「あの建物すごくない?」と静かにはしゃぐ。青すぎる海も、風に靡く草花も、見上げても終わりが見えないほどの高層ビルも。その度にきっと特別でもなんでもない、どこにでもあるような風景が、叶愛の声や表情、反応で僕の中の特別に変わっていく。
 魔法みたい、そう思った。

「ねぇ想君、終点に着いたら最初はどこに行くの?」

「それは着くまで内緒かな、予想してみてよ」

「予想か……始めて行くところだから余計に難しいね」

「叶愛はどんなところに行きたい?」

「きっとどこに行っても最高に楽しいと思うから二人でたくさん話しながら楽しめるところがいいなぁ」

「それなら期待に添えるかもしれないね」

 そんなことを話している間に、終点を知らせるアナウンスが鳴り響いた。
 荷物をまとめて降車の準備を済ませる。
 僕にとっては懐かしい光景、叶愛にとっては初めての景色。期待された表情からプレッシャーが拭いきれないけれど、それを遥かに超える高揚感で胸が埋め尽くされている。

「建物がいつもみてるものとは全然違う——都会って感じ」

 色鮮やかで奇抜な広告、太陽の光を反射するオフィスビルの窓、呑み込まれてしまいそうな雰囲気を感じながら彼女が呟く。
 確かに、僕たちが住んでいる街のパッとしない風景とは全方向まったく違う雰囲気がある。
 叶愛の表情はどこか怯えているようで、それでもそれに負けない好奇心と興奮を含んでいるようにみえた。

「なんだかすごくキラキラしてみえる……全部見逃さないように私のこの目に焼き付けないとね!」

 僕は右手にキャリーケースを、左手に叶愛の手を取って目的地へ向かう。
 自分でも驚いてしまうほど自然に、手を繋げてしまっている。
 叶愛は初めて目にする景色に気を取られていて目を離したら迷子になってしまいそうな危うさがある。でも、ここまで嬉しそうにしてくれるなら、僕も安心して一緒に楽しめる気がした。

「着いたよ、ここが僕たちの旅行の最初の場所」

「ここ、水族館?」

 違う大きさの白い箱が二つ並んでいるような、不思議な構造の建物。爽やかな青色でペンギンの親子のシルエットが扉に描かれている。
 
「入場ゲートはこちらです、ごゆっくり海の世界へ——」
 
 導かれるまま、神聖さと、非日常感に包まれた暗い館内に足を踏み入れた。
 最初の巣十メートルは洞窟のような暗闇が続いていた、僕はそこでかすかな光を利用して入場券に目をやった。
 そこには今日の日付と時刻、ポップな絵柄のイルカが描かれていた。風で飛んでしまいそうなほどの小ささのその紙すら、きっと僕たちの時間を思い出す欠片になる。僕はそんな特別を鞄の内側にある小さなポケットへしまった。
 暗闇を抜ける、澄んだ青の光が眩しかった、そして僕たちは息を呑む。
 一足洞窟から踏み出しただけで、水槽の中へ引っ張られてしまいそうなほどの壮大な世界観が広がっていた。

「壁の全部が水槽で海の中にいるみたい——どこをみても綺麗な青だよ」

「海の中、ほんとだね。そんな感覚になれる」

「海の中ってこんな感じの綺麗な世界なのかな、キラキラしてる」

 その水槽のキラキラにも劣らないほど目を輝かせながら叶愛は水槽へ近づく。
 小さな魚に目線を合わせるようにただでさえ背丈の低い叶愛がしゃがむ。そして追いかけていた魚が上の方へ泳いでいくと、追いかけずに少しだけ寂しそうな顔をして水槽越しに手を振るのだ。近くに泳いできた魚を水槽越しに指先で撫でている、微笑んだ横顔は柔らかくて、水槽の中の世界と本当に言葉を交わしているかのような様子だった。

「叶愛、水族館好きなんだね」

「前に住んでいた家の近くにあって学校帰りにほぼ毎日寄り道してたんだよね、生徒手帳を持っていくと入館料も無料でさ」

「それは好条件だったね」

「だから水族館は結構詳しい方だと思うんだけど、それでもずっと気になってることがあってね」

 喜怒哀楽の喜と楽を散りばめたような表情が曇った、小難しそうな顔をしながら「いや、実はね」と、わざとらしく深刻そうなトーンで——。

「でも私が何度その水族館に行っても全然魚たちは近付いてきてくれないんだよね」

 そんな、五歳児が抱く夢のような疑問を言ってみせたのだ。
 笑ってしまいそうになったけれど、やけに真剣に疑問を抱いている姿が面白くて、少しだけ僕も叶愛の話に乗ってみることにした。
 
「叶愛の顔を覚えてない、ってこと?」

「そう、ほぼ毎日みる人の顔だったら意識しなくても覚えちゃいそうだけどなんでなんだろうってずっと気になっててさ」
 
 想君なにか知らない? と、叶愛は本気で答えを尋ねてきた。
 僕は本当に偶然、その答えを知っていた。
 もう少しからかってみようかなと思ったりもしたけれど、僕は叶愛が迷っている表情よりも答えを知った時の驚いた表情を見てみたいと思った。
 
「水族館の水槽の中にいる魚から僕たちのことは見えてないって聞いたことある?」

 えっそうなの!? と、叶愛は僕の期待以上の反応と、想像以上に可愛らしく目を丸くして驚いてくれた。

「魚はすごく神経質な生き物で僕たちの動く様子が気になってそれがストレスになっちゃうんだって。だから水族館内を暗くして、水槽に使われているガラスに水槽内の光を反射させて暗い場所にいる僕たちを魚側から見えないようにしてるらしいよ」

「顔が見えないなら覚えてもらえないのも当然だね。でもなんかなぁ、ちょっとくらい触れ合えたら嬉しいのになぁ」
 
 生真面目な話を叶愛は嫌がることなく、むしろ楽しそうに追求してくれた。
 僕が小学生の頃に水族館で働いていた知り合いからの受け売りだけれど、叶愛を楽しませることができたのならよかったなと思える。 
 誰もが真っ先に水槽を見つめる中、叶愛は水槽横の魚の説明を律儀に読んでいた。
 どうやら叶愛は楽しめるものを隅まで堪能するタイプらしい。
 それから水槽を見て、魚と通じ合うように笑う。
 
「この子、頭が赤くて口元が白いから“サンタさん“って名前にしよう!」
 
 こんなふうにたまに変な名前をつけて、それを僕に教えてくれる。
 不思議で、無邪気で、可愛らしくて、愛らしい。
 一緒にいて、自然と笑顔になってしまう。
 やはり叶愛は、僕が持っていないものを持っている。

「見て! この子たまに来る数学の特別課外の先生に似てない?」

「確かに! この唇の形が特に似てるかも」

「今度会った時に思い出しちゃいそうだね、想君笑っちゃだめだよ?」

「僕が笑ったら叶愛もつられて笑っちゃうだろうね」

 少しふざけながら「一緒に笑えるなら怒られるところまで一緒だね」とおかしそうに笑った。
 気付かされる。その大きな瞳は、笑うと三日月のような形になるんだ。
 水槽の上の方を指差す時に伸びる白く細い腕も、振り向く時に揺れる前髪も、話す時に上がる口角も。
 暗い館内で、僕には叶愛の姿だけがどこか美しく光っているようにみえた。
 数歩後から見つめていると、その光は足を止めた。少し早足で隣に並ぶと寂しそうで、少しだけ悲しそうな横顔が見えた。
 呟くように小さく「ねぇ」と僕を呼ぶ。

「この魚、この大きい水槽にひとりだけだよ」
 
 色鮮やかな尾鰭を持つ一匹の魚を指差しながら、叶愛はそんなことを言った。
 続けて「他の魚と一緒にいられた方が楽しいだろうに」とか「一人で寂しくないのかな」なんて言葉を独り言のように吐いた。
 
「でも綺麗だよね、他の水槽に劣らないくらいの目線を集めちゃうくらい」

 他の水槽を泳ぐ魚とは違う向き合い方で、叶愛はその魚を見つめ続けた。
 なにかを語りかけることも、指先で水槽越しに撫でることもなく、ただなにかを噛み締めるように。その魚が泳ぐ水槽の前から動きたがらなかった。

「きっとこの魚は強いんだよね、臆病さも感じさせないくらい凛と泳いでる。私は一人じゃ何もできないだろうから。私もこの魚みたいに強くなりたい」

 二度目だった。
 不意に感じる寂しさを、影を、叶愛から感じたのは、これが二度目。
 写真の中の笑う僕を見て「憧れる」と言った日と同じ空気感を感じる。これは、勘違いなんかじゃない。

「叶愛」

「ん?」

 僕は振り向いた叶愛の瞳を真っ先に見つめた。
 なにとは言わねいけれど、確認したかったんだ。
 あまりにも悲しそうに思えてしまったから、それが瞳から溢れていないか、僕の目で確かめたかった。
 大丈夫だった、それでも悲しそうな、寂しそうな叶愛に僕はもう一つ、小学生の頃に受けた受け売りを授けたくなった。
 これは、僕のただの自己満足だ。
 
「ちょっと僕についてきて」

 記憶の地図を辿る、途絶えることなく続く水槽の中を一つの目的に向かって進む。
 辿り着いた先で叶愛に見せたい、そして伝えたい、もう一つの強さが泳いでいるから。

(イワシ)——」

 水槽を埋め尽くすほど大きな鰯の大群、銀色の布がなにかを覆い隠すように風を纏っているような、そんな迫力のある姿だった。

「叶愛は鰯を弱いと思う? それとも強いと思う?」

 僕からの唐突な質問に、叶愛は暗闇の中でもわかるほど困った表情をした。
 イワシは漢字で魚に弱いと書くから、その説明を添えてあげれば良かった。これじゃあただ、魚の戦闘力を測っているような趣旨のわからない質問になってしまう。
 そんな掴めない質問を叶愛は真剣に考えてくれた、そして僕に答えを告げる合図として一度頷いた。

「弱いと思う。漢字にも“弱“が使われてるし、強くはないと思うな」

「そう、強くない。でも実は、弱くもないんだよね」

「え、どういう意味?」
 
 今の「どういう意味?」には、「この人なにを言っているんだろう」という不審そうなニュアンスが含まれているような気がした。気のせいかもしれないけど、それは当然の反応だと思う。

「ひとりの力は叶愛が言うように強くない、でも強くなるために鰯は仲間を探すんだ」
 
 これはなんとなく、今の僕が思いついた叶愛の興味を惹くための曖昧な答えだ。
 正直言って、ちょっとくさい。

「鰯って自分自身が食べられる危険性を減らすために大群をつくって泳ぐんだよね。敵がいない水族館の水槽の中でさえも、食べられないように大群をつくって泳いでる」

「それは、自分が雲隠れして、食べられる危険性を減らすため——他の誰かを盾にするためってこと?」
 
 確かに、そうも捉えられる。
 ただ、僕が伝えたいことはそうじゃなくて——。

「誰かを犠牲にすることよりも、お互いに逃げながら、仲間を増やしながら、強くなれるようにしているんだと思う。誰一人失わずに生きていられるように」

 僕らしくない、いい言葉すぎる、綺麗すぎ、だから少し気恥ずかしい。
 伺うように叶愛の表情を確認する。先ほどまであった「この人なにを言っているんだろう」の疑問は晴れていた。その代わりになんとも言えないような、なにかを必死に堪えているような、そんな表情があった。その表情の奥にある気持ちを知りたくて僕は一度だけ叶愛の名前を呼んでみる。ゆっくり、そっか、と一度頷いたあとに僕の名前を呼び返したあと叶愛はこう続けた。
 
「無理に強く在る必要はないって教えてくれる気がして、ちょっとだけ軽くなったみたいな、そんな感じ。ちゃんと言葉にできないけど、安心したのかもしれない」
 
 確かに叶愛の言葉はまとまっていなかった。
 それでもその表情と声色と間からは、言葉以上に気持ちが伝わってきた。それはもう痛いくらいに。
 小難しいことを並べてしまったと反省したけれど、叶愛の姿を見ていたらそんな話も無駄ではなかったのかもしれないと思えた。
 
「鰯の本当の気持ちは僕にはわからないけどね」

 照れ隠しに、僕は最後そんなことを言って話を締めた。
 暗い館内が僕の赤面した顔を隠してくれている。
 この暗さが守っているのは魚の心だけじゃないらしい。
 
「鰯の気持ちはわからないけど、想君の気持ちは伝わったよ。だからありがとう」

 誤魔化したはずの本音が、どうやら叶愛には伝わってしまったらしい。
 僕の手を握る力が少しだけ強くなったような気がした、僕も少しだけ力を加えて握り返した。恋人同士だ、これくらい、許される。
 残った恥ずかしさを抱えながら、それを飛ばすようにイルカショーを観ようと提案した。
 最前列、隣でイルカに手を振る叶愛は、水飛沫で服をぬらしながら手を叩いて笑っている。僕は、それに合わせて手を振った。
 叶愛が笑えば笑うし、不思議そうな顔をすれば同じような表情になっている。それも全て、無意識のうちにだ。
 不意に、去年ここで神楽と白石と同じショーを観たことを思い出した。
 当時はイルカを前に白石ばかりみている神楽の感覚に違和感を覚えていた。イルカショーの時ぐらいイルカを見ればいいのに、なんてことを思っていた。でも今ならわかる、この時間の本命は飛び回るイルカじゃなかった。
 彼女持ちの中にある常識を、僕はまた一つ無意識に理解してしまった。

「想君見て! ほらそこ! ほらほら!」

 そう言って叶愛は目で三日月を作りながらイルカの親子が交わるようにジャンプする瞬間を指差して教えてくれた。
 かすかに窪むえくぼ、ちらっと覗かせる八重歯、今日まで僕が見つけられていない可愛いが詰まった表情だった。
 そしてそれきっとまだ数え切れないほど詰まっている。
 僕はそのうちのどれだけを卒業までにみつけられるだろうか、ショーの雰囲気とは程遠い切ない疑問を抱いてしまった。
 ショーが終わり叶愛はまた、水槽の世界へ駆けて溶け込んでいく。
 せっかくきたならすべてのエリアを制覇したい、と。
 白いフリルが揺れている、束ねられた髪も華奢で白い肌も、叶愛の後ろ姿の美しさが僕は水槽よりも美しくみえた。
 無意識に惹かれてしまう、そして追いかけたくなってしまった。
 だから追いかけてみた、ほんの少し後ろから、叶愛だけを見つめてその背中を追う。
 叶愛が足を止めた、サメの水槽の前。

「サメってさ、周りにたくさん小さい魚がいるのによく食べたりしないよね」

 そんなことを言って、僕の方を振り向いた。
 確かに、言われてみれば海の中では絶対にありえない光景だ。身体が大きいのならお腹さえ空けば食べてしまってもおかしくない。
 サメが空気を読める動物だったとしても、水槽内から僕たちが見えていないなら気にする目もないだろうし。

「ねぇ、なんでサメって他の魚を食べないと思う?」
 
 その叶愛の口調は答えを知っている人の物言いだった。
 残念ながら僕の水族館知識はもう底をついていて自力で答えを考えるしかない。
 十秒程度考えて、僕の頭に浮かんだのは。

「人間に育てられると考え方とかも変わってくるから、とかかな」

 そんなつまらない答えだった。
 叶愛は「確かにそんな理由もありだね!」と返してくれる。返答に違和感を覚えた。
 ありだね、ってなんだ。
 答えを知っているなら「そういう答えもありそうだよね」とか、そういう言葉を選ぶはず、もしかして叶愛も——。

「どうなんだろうねぇ、私も知らないんだけどさぁ」
 
 僕の勘は当たったらしかった。
 へへへ、と笑いながら誤魔化している。
 
「叶愛はどうしてだと思う?」
 
 反射的に、そう聞き返してしまっていた。
 質問を返されるとは思っていなかったのだろう、叶愛は驚いた顔をして水槽の中のサメを凝視している。
 顎に手を添えて“考える人のポーズ“をしている。
 わかんないよぉ、と言った後に「これは私の予想だけど」と言い、答えに続けた。
 
「サメの内なる優しさが開花した、とか?」

 そしてすかさず「そんなわけないかぁ」と笑い飛ばして見せたけれど、僕にはその答えが正解だろうと不正解だろうとどちらでもいいと思った。だから。

「その考え方好き。もし本当の理由が他にあったとしても、僕たちの正解はその答えのままにしよっか」
 
 少しだけ強引に、叶愛の答えを“二人だけの正解“ということにした。
 僕が言った「好き」に照れているのか、水槽から漏れた光に照らされた叶愛の頬が少しだけ赤らんでいるように見えた。
 可愛らしいなと思ったけれど、僕は言葉にするのをやめた。
 臆病だからじゃない。そう言った後に恥ずかしがって叶愛に顔を背けられるのが嫌だったから、せっかくの可愛らしい顔が隠されてしまうのが勿体無いように感じたからだ。
 サメの膵臓から少し歩いた先の雑学掲示板で「水族館で飼育されているサメが他の魚を食べない理由は『餌で満たされている』からなんだよ」と、水族館のオリジナルキャラクターがポップな字体で教えてくれていた。
 サメのうちなる優しさが開花したわけじゃなかった。疑ってしまうほどに単純な理由。真っ当すぎる答えから寂しさすら感じた。
 本当かなぁ、とちょっとだけ信じたくないとも思った。
 インターネットで検索しても、資料を読んでも、きっと叶愛の発した“内なる優しさ“という言葉は出てこないと思う。
 ただ正しさだけの正解よりも僕は、叶愛の心をそのまま表した優しい正解を好んでしまう。
 だから僕はそのまま、叶愛へ本当の正解を告げなかった。

「ねぇ想君、みてみて」

 サメの水槽から歩いた角を曲がった先、洞窟のようなスペースは「クラゲの館」と名付けられていて、無数の円形の水槽に複数種類のクラゲがそれぞれ泳いでいた。
 
「『クラゲ』って、漢字でどう書くか知ってる?」
 
「海に月、じゃなかったっけ。たぶん」
 
「まぁここまではわかるよねぇ、それなら! なんで海に月って書くか、知ってる?」
 
 叶愛は少し得意げにそう尋ねた。
 今度は本当に「私は答えを知ってるよ!」という表情だった。
 わからなかったので僕は水槽の中のクラゲを凝視してみた。そして顎に手を添えて“考える人のポーズ“をしている。そう、数分前の叶愛の真似だ。
 だめだ、つまらない答えすら浮かんでこない。
 だから正直に「ちょっとわからないかも」と答えた。申し訳ない気持ちもあったけれど「それじゃあ私が教えてあげよう!」と胸を張っている叶愛をみて、今の僕の反応は間違いではなかったのかもしれないと思えた。

「クラゲってね、海に浮かぶ姿が反射する月のように美しくみえるから『海月』って書かれるようになったんだって」

 名前まで綺麗だよねぇ、と。叶愛は目の前の海月に心から見惚れているようだった。

「最初に『海月』って書き表した人の感性もすごく綺麗だと僕は思ったよ」
 
 そう呟いてみた。ただ、この言葉はまだ続きがあった。
 本当なら「それを知って綺麗だって思える叶愛も素敵な感性を持ってると思う」に続くはずだし、そこが本題といっても過言ではない。
 ただなんとなくそのセリフは僕らしくなくて、小説の一節みたいなくささがあって、どうしても気恥ずかしくて言えなかった。

「そんな名前だったらさ毒があっても惹かれちゃうよね。それすら魅力に感じちゃうような気がする」
 
 毒があっても惹かれちゃう、どこかの小説にありそうだ。
 でもくさいなんて思わなかった、純粋に、そんな言葉を自然と発せてしまう叶愛を素敵だと思った。

 小窓のような小さな水槽をなぞりながら、叶愛は水中を浮遊する月を追う。
 他の水槽を眺める時とはまた違う、神秘を撫でるような視線。指先で少し触れただけでも消えてしまいそうな存在と、今にも同化してしまいそうな程の儚い横顔がそこにはあった。そして、こんなことを呟く。

「想君の名前にはどんな意味が込められているの?」

 海月の由来の話をしていたら気になった、と。叶愛は水槽の中を見つめたままだ。
 少しだけ、答えるのを躊躇ってしまっている僕がいる。
 その沈黙を不思議に思ったのか、叶愛が僕の方を向いてしまった。これじゃあ僕が「せっかく答えるのだからちゃんと聞いてほしい」と無言で言ったように捉えられてしまう。違う、僕は僕の名前に胸を張れないから、だから、どうしても答えるのに言葉が喉につかえてしまったんだ。

「僕の名前はね、人を思いやれる人になるように、人の想いに気付けるようにっていう願いを込めてお父さんが名付けたんだ」
 
 僕が生まれた頃、父は中学校の教師だった。
 いろんな子どもと向き合う中で一番大切だと感じたことは「人の感情に敏感でいること」だったと、兄が生きている頃の誕生日に教えられた。
 人を思いやれるように、人の想いに気づけるように。人との関わりを避け続けた数年を辿ってきた僕とは程遠い名前だ、そんなこと、僕が一番よくわかって——。
 
「素敵、想君らしい。想君しか、その名前が似合わないくらい、素敵に似合ってる」
 
 初めて、僕の名前を、生き方を、存在を、許してもらえたような気がした。
 たった一ヶ月と少ししか一緒にいない叶愛だけれど、それでも、叶愛にその言葉を言ってもらえたことが今の僕にとっての救いだった。
 だから、僕も知りたくなった。

「叶愛はどんな願いから名付けられたの?」

「私はね、愛する人との約束が叶いますようにってお母さんが名付けてくれたの」
 
 愛する人との約束、か。
 複雑な気持ちを抱えながら、僕は表面で生まれた言葉を返す。

「叶愛ならきっと叶えられると思う」

 その気持ちに嘘なんてなかった。
 僕の言葉で「嬉しい、そうだといいな」と頬を緩ませる叶愛の表情からはいかにも“恋する乙女“という雰囲気が溢れ出ていた。
 でも、本当に複雑だった。
 叶愛は本当は誰を愛しているのだろうか。
 もう既にその“愛する人“に出逢えているのだろうか。
 その表情になるまでの頭には、誰が浮かんでいるのだろうか。
 愛する人と出逢った時、叶愛はどんな約束を交わすのだろうか。
 きっと僕には関係のないことだけれど、妙に気になってしまう。

「叶愛はさ、愛する人ってどんな人だと思う?」
 
 言及しないでおこうと思っていたのに、僕は考えるよりさきにそんなことを聞いてしまっていた。いきなり聞くには壮大すぎることにも叶愛は嫌な顔をせず、そしてそこまで難しそうな顔もせず「私にとっての愛する人はね」と口を開いた。

「どんなに相手の醜い瞬間を知ったとしても、それすら抱きしめてしまう人だと思う」

 その後に「じゃあ叶愛はその人と、どんな約束をしたい?」と聞いてみたけれど、それには「まだわからないかな」と返された。
 その約束が夢なのか、願い事なのか、自分本位のわがままじゃないか、それがまだ私には幼くてわからない、と。
 わからない理由が、そこまで大人びているとは思ってもいなかった。
 その考えを持てている時点で、叶愛は幼くなんてないと思った。
 むしろもっと幼くなって、夢をみてほしいとも思った。

「夢と願い事を約束にするのは叶愛の中で納得がいかないの?」

「まだよくわからないけど、私とその人の未来を照らせるような約束がいいな。一緒にいられる未来を少しでも永遠に近づけられる約束がいい」

 永遠に近づけられるもの、そんなものがあったら確かに夢のようだと思った。
 十八歳、既に僕たちは生涯を共にする相手と永遠の愛を誓える年齢に達している。
 結婚とか、家庭を持つとか、そういうことができる年齢だ。
 数週間前まで友情も愛情も避けていた僕にとって、その決断はきっと遥か遠くのものだと思う。ただ叶愛にとっては、もしかしたらすぐに手が届いてしまうほど近くにあるものなのかもしれない。
 僕の勝手な想像が事実だったらと思った瞬間、目の前にいる叶愛が知らぬ間に遠くへいってしまうような気がした。それが少し寂しくて、胸が痛む。
「いかないで」と引き留める権利なんて僕には無いけれど、せめてこの瞬間、僕が叶愛の隣にいることを許された時間を噛み締めていたいと思った。
 

「水族館すごく楽しかったなぁ! 連れてきてくれてありがとう!」

 暗い館内に長時間いたせいで、外が異様に眩しく感じた。
 叶愛の手にはお揃いのキーホルダーと半券が包まれている。

「想君、一つ気になったことがあるんだけど訊いてもいい?」

 言っていいのかな? という疑問が含まれた表情で僕へそう言った。
 いいよ、と答えるように首を傾げてみた。
 叶愛の表情はだんだん笑顔に変わっていく。

「もしかしてここの水族館って、想君達が修学旅行で来た場所?」

 驚いた、正直、こんなに早く気づかれてしまうとは思っていなかった。
 正解! とも、なんでわかったの? とも言いづらく、言葉を詰まらせていると叶愛は嬉しそうに閃いた顔をした。

「やっぱりそうだったんだ! この間見せてもらった写真と似た雰囲気の場所がいくつかあったからそうかなって思ったんだよね!」

 無邪気な顔のまま、入り口付近のオブジェの前で写真を撮りたいと叶愛は僕を手招いた。神楽と白石と三人で映っていた写真を再現したいらしい。
 少し照れながらも大きくピースを作る叶愛の隣に、きっと笑いすぎて目がいつも以上に細くなっている僕が映った。
 この写真は、僕たちの初めてのツーショットだ。
 もしかしたら、最初で最後になるかもしれない。
 帰ったら印刷してこの半券と一緒に写真たてに入れておこう。

「少し歩いたところに二つ目の行きたい場所があるんだ、そこでお昼ご飯も食べようと思ってるんだけどどうかな」

「いいねぇ! 今日は想君が考えてくれたコースにお任せしたいな」

 想隊長についていきますっ、と、照りつける日の暑さを取り払うような返事をくれた。
 今日の晴れはあの日、初めて叶愛と出会った時に窓から吹き込んできた風のように爽やかで、心を浄化するような温かい空。そして隣には楽しそうに僕の方を向く叶愛がいる。
 今日は天気がいいね、なんて初対面の常套句のようなことは今更言えないけれど、本当にそう言ってしまいそうになるくらい、綺麗な快晴だった。
 この瞬間がきっと、僕の人生で唯一の青春と呼ぶに相応しい瞬間なのだと思う。
 二十分ほど歩くと、水族館のあった駅周辺とは違う、風情のある古風な建物が並ぶ観光街へ着いた。
 都市開発によって廃れてしまった場所で、その状況を打開しようと和食店は日本食や和菓子の文化体験施設へ、呉服店は着物レンタル店へ町おこしをしたのだと、修学旅行の時にガイドさんから教えてもらったことを思い出した。

「着物、綺麗——」

 タイミングよく、叶愛がそう呟いた。

「綺麗だよね、叶愛も着てみる?」

 僕からの答えが意外だったのだろうか、今日で一番驚いた顔が返ってきた。

「もともと着てきてくれた服も可愛いけど、少しの間だけ着替えてみるのもいい思い出かなって思って。叶愛の着物姿、みてみたい」

 可愛い、とか、着物姿をみてみたい、とか。言うのには少しだけ勇気が必要だった。
 ただ僕は叶愛の恋人なのだと言い聞かせながら、本心をそのまま伝えてみた。

「想君も一緒に着ようよ、それなら着てみたいな」

 柔らかく、それでもどこか緊張した様子で叶愛はそう答えてくれた。
 もちろん、断る理由なんてない。
 律儀なお辞儀と朗らかな「いらっしゃいませ」に歓迎されながら、僕たちは数えきれない種類の着物に圧倒されている。元呉服店というだけあって、着物はもちろん、帯や今風の帯締め、下駄や髪飾りまで。みているだけで心が和に染まるような空間に自然と口角が上がっていく。

「男性はあちら、女性はこちらのスペースからお選びいただけます。なにかご不明な点があればお気軽にお声がけくださいませ」

 綺麗な着物に身を包んだ店内スタッフの案内に沿うように足を進める。
 流行りの色や形、デザインを教えられた後に僕たちは互いに視線を向け合う、それぞれが着物を身に纏った姿を想像しているのだ。
 叶愛は何度か僕と着物を交互にみて首を傾げている。それとは対照的に僕は彼女をずっとみてしまっている、きっとどの着物を選んだとしても彼女は綺麗に着こなしてくれる、そんな確信があったからだ。

「叶愛の着物、一緒に選ぼうか。どれで迷ってる、とかあったりする?」
 
 一緒に、がよかった。
 僕が選ぶ、でも、叶愛が決める、でもなく一緒に「これも似合いそうだね」と考える時間が欲しかった。
 僕の誘いに叶愛は笑顔で頷いてくれた。

「そうだねこの淡い色の着物とか可愛いなって! でも帯がパールになってるの、私にはちょっと大人っぽすぎるかもしれない気がするんだよね——でも可愛い!」

「その着物、確かに綺麗で叶愛に似合うと思う。大人っぽいって思うなら——このアクセサリーを付けてみるとかどうかな? もっと可愛くなると思うよ」

 僕が手に取ったアクセサリーと着物を合わせて、叶愛は舞い上がったように喜んだ。
 この組み合わせ最高! と店内の奥ゆかしい雰囲気に合わせて声は少し控えめだったけれど、そこには確かに無邪気な叶愛があった。
 近くにあった鏡でその着物と身体を合わせた姿を確認し、可愛らしく口角を上げて僕の目を見る。その姿は、すでにとても可愛かった。
 続いて僕の着物を一緒に選んだ後、それぞれ着付け室へ入る。
 誰かに着付けをお願いするということに恥ずかしさと緊張で顔を強張らせながら、楽しみを隠しきれない口角で手を振って互いにカーテンを閉めた。
 カーテンを開けた先で立つ叶愛の姿を想像すると自然と頬が熱くなってしまった。
 
「彼女さんとデートですか」
 
 女性店員がそう、僕に尋ねた。
 
「そうなんです、今日、誕生日で二人にとって初めての旅行なんですよね」
 
 それは微笑ましいですね、と優しく返してくれた。
 叶愛を彼女かと問われた時、僕の中に迷いは生まれなかった。
 それが僕にとってはすごく嬉しかった。
 着付けられている間、僕は着物を纏ってより一層綺麗になった叶愛をエスコートしなければいけないという緊張感すら無視して、ただ叶愛の笑う顔と楽しそうな声を想像している。
 
「想君、着付け終わった?」
 
 カーテンの向こう側からそんな声が聞こえたのは、ちょうど最後の帯を絞められた時だった。「できたよ、開けるから少し待ってね」と返した後、緊張を鎮めるように
 一度目を瞑り、深く息を吸って吐いてカーテンを開けた。

「似合ってるかな?」

 似合ってる、なんて言葉ではまとめきれなかった。
 淡い紫色の着物は裾に近づくにつれて色が深くなっていき、大人っぽい上品な模様にパールの小物が映えている。
 袖から出た手は小さく、履き慣れない様子の下駄は夏祭りの日の記憶を鮮明に思い出させた。
 美しくて綺麗な叶愛の姿が、そこにはあった。
 
「すごく、すごく綺麗だよ。本当に、似合ってる」
 
 そんな簡単な言葉しか言えなかった。
 可愛いや綺麗と言った言葉たちが無数の意味を含ませて僕の頭の中を駆け巡ったから、うまく整理がつかなかったんだ。

「ありがとう、想君にそう言ってもらえるて嬉しい」
 
 僕の中の感動がどれくらい伝わっているかはわからなかったけれど、叶愛が笑ってくれたからそれでいいと思った。
 店を出る。慣れない着物と下駄に少し歩きづらそうにしている叶愛の歩幅に合わせて、僕たちはまた風情ある街並みの続きを辿っていく。
 次の目的地が見えてきた。
 濃紺ののれんをくぐると、店主の堅物そうなおじいちゃんがカウンターで飴を練っている。僕たちが来たことに気がついたようで、店主の表情は急激に和やかになり、こっちへおいでと手招きまでしてくれた。
 
「ここって——飴細工?」

「そう、飴細工の体験ができるんだ」

 照明は吊るされた三つの電球のみ、店内の奥からの届く雨も焦げた匂いと、目の前にある純粋な甘い匂いに満たされている。どこか懐かしいようで、経験したことのないような非現実的な雰囲気が漂っている。

「はい二人とも! この棒をそこの台に立ててもらって最初に飴を使いやすくなるように練ってください! あっ手袋を忘れないでね、手がベタベタになっちゃうからね〜」
 
 叶愛は初めての体験に戸惑いながらも教えられた通りに棒を立て、手袋を丁寧に合わせたあとに飴を掴んだ。
 最初は指先でつまむようにしていたけれど感覚を掴んできたのか手のひらまで使ってこね始めた。

「どれくらい柔らかくすればいいのかなぁ」

「僕もそんなに詳しくないけど駄菓子屋に売ってる水飴くらいをイメージすればいいんじゃないかな」

「おお! お兄ちゃん詳しいね〜もしかして前にやったことがある子かい? ここは修学旅行生もよく見学に来るからね〜」

「想君、もしかしてここも——」

 目を輝かせた叶愛からの質問に少しだけ恥ずかしくなって僕は言葉を発すことなく頷くことで答えを告げた。
 飴を練りながら、楽しそうに話す叶愛の表情はマスク越しにも伝わってくる。
 叶愛の表情が半分隠されてしまうのは少し寂しいけれど、衛生上の都合には抗えない。
 ある程度飴が柔らかくなった頃を見計らって店主が専用の用具をいくつか手渡してくれた。「飴細工は勘が大事だ!」という大雑把な説明を汲み取って、手探りで使っていく。
 一度体験したことがあることとはいえ、僕も慣れない感覚に苦戦している。その隣には初めての感触と扱いに戸惑いながら不器用に指先を使っていく叶愛。お互いの形を見比べながら慎重に形を変えていく。

「海月の足って八本だっけ? 十本だっけ?」

「たぶんそれタコとイカの話じゃないかな、海月の足の本数は僕もわからないかも」

 
 そんな他愛もない会話を交わしながら順調に作業は進み、最後の作業である色の修正作業に入る。
 器用に道具を操りながら染められていく飴の綺麗さと、苦戦していることがよくわかるような彼女の表情が愛おしくて自然と笑いが溢れてしまう。そんな僕を不思議そうに見る彼女に、また笑ってしまいそうになる。
 しばらくして「わからないことがあったら呼んでくれ」とだけ言い店主は席を外した。他の体験客はおらず、僕と叶愛の二人きりとなる。
 
「ねぇ、叶愛」
 
 僕はひとつ、確かめたいことがあった。
 改まった態度の僕に対して「どうしたの?」と、不思議そうの叶愛は首を傾げる。
 
「僕たち、ちゃんと恋人みたいだよね」
 
 首を傾げていた叶愛の表情はより疑問を含んだものとなっていた。正直な反応だと思う、僕だってこんなことを聞かれたら「急にどうしたんだろう」となってしまう。
 ただ、知りたかったんだ。
 契約上の恋人、初めての旅行、誕生日。
 叶愛はここまでの時間で僕に対してなにを思っているのか知りたくなってしまった。
 本人に聞くなんて違和感があるような気もするけれど、それが一番本当のことが返ってくると思った。
 それでもやっぱりこの質問は変だったかなと僕が聞いたことを少し後悔し始めた頃、叶愛の表情が晴れ始めた。そして「なんだそういうことか」と弾んだ口調で呟いたあと——。
 
「恋人みたい、じゃなくて、恋人だよ? 一緒に過ごしてる時間が楽しいって二人で感じられてたら、それはもう恋人大成功だよ」

 その素直すぎる言葉で一気に靄が晴れた気がした。そんな僕自身を単純すぎると思ったけれど、それでいいと思った。
 僕が叶愛にとってどんな存在か、叶愛からどうみえているのか、そして僕が叶愛のことを心の底からどう思っているのか。
 今日が来るまでの二週間、ずっとそんな不安が情けなく僕の中にあった。
 それを叶愛はたったの一言で、跡すら残さずに消し飛ばした。

「私はとっても楽しいし幸せって思ってる、あとは、想君がどう思ってるかだよ?」

 そうか、それでいいんだ。
 お詫びという口実つきの告白も、神楽と白石に報告する時の自然すぎる嘘も、全部全部、奥底にあったのは叶愛の本当だったんだ。
 こうしたい、こう思ってる、それを詰め込んだ結果の口実で、嘘だった。
 だから今日の笑った顔も声も、移りゆく表情も全部、紛れもない叶愛の本当だったんだ。それなら僕だって、僕だって今日を——。
 
「心の底から楽しいと思ってるよ、叶愛と一緒にいる時間がもっと好きになった」
 
 そう、純粋に思っている。
 僕の言葉に叶愛は「そんなこと言われたら照れちゃうよぉ」と照れ隠しに笑いながら誤魔化しているけれど、すぐに大人びた口調で「でもありがとう、私もだよ」と返してくれた。
 両思いだった。
 今日が楽しくて幸せだという思いへの、両思い。
 それがなんとも言い表せないくらい嬉しかった。
 すこしして、お互いに飴が完成した。叶愛は紫色の、僕は青色の海月を右手に持ちながら工房をあとにする。
 風が夕方の涼しさを含んだ空気に近づく時間帯。あたりはまた観光客で埋め尽くされてきた。
 このあとは着物を返したあと、本日最後の場所へ向かう。

「最後に着物のまま二人で写真撮ろうよ、水族館では想君が撮ってくれたから今度は私が撮るね」

 画面に収まるように無意識に身体が近づく、必然的に肌が触れ合う。
 手を繋ぐのとはまた違う、叶愛の体温を直に感じる距離だった。
 シャッターと切る、一枚目は叶愛が目を瞑ってしまった、二枚目は僕が目を瞑った、わざとだ。
 
「一枚目と二枚目目瞑ってるねぇ、ちゃんと撮れた三枚目だけ送る——」
 
「いいよ、撮れた写真、全部もらえたら嬉しい」
 
 学校行事以外、人との写真を積極的に取ってこなかった僕が叶愛との写真を重ねていきたいと思ってしまった。
 写真が苦手なのは、兄の影響だ。
 幼い頃兄と撮ったツーショットは見る度に胸が痛んでしまう。
 ——あの頃は楽しかった。
 ——もう一度会いたい。
 ——この写真を撮ったときはあんなことをしてた。
 残っていく思い出を見るたびに、傷が抉られていく感覚だ。
 兄を失っていこう、僕は誰かが生きていた形を残していくものを避けるようになった。
 それでも、叶愛は違った。
 最近は、教室で隣の席に座る何気ない日常を、神楽や白石と笑い合う楽しげな姿を、二人でどこかへ出掛けた時に叶愛が振り向いた瞬間の表情を、そして僕たちの最後である卒業式でのツーショットを。
 数ヶ月後、僕は恋人としての叶愛を失うのに、それなのに、残していと思ってしまう。
 幸せな今を切り取っていたいと、思わせられてしまった。
 ブレていても、ピントが合っていなくても、逆光でも、半目でも、なんでもいい。
 僕と叶愛が隣にいた時間があった事実が僕はなにより嬉しいのだ。
 
「そう? わかった、それじゃあせっかくだしもう一枚撮ろ! あとで四枚まとめて送るねぇ」
 
 頬を赤ながら微笑む叶愛と、いつもの通り写真の中で笑う僕。
 これが初めてだ、無意識に、自然な笑顔が写真に映ったのは記憶の中で初めて——いや、兄と撮ったツーショット以降か。そんな特別を叶愛はいとも簡単に起こさせてしまう。
 着物を返し、再びワンピース姿に戻った叶愛は、やはり綺麗だった。
 日が沈みかすかに残っている夕陽が僕たちの方へ向く。
 その一筋が、叶愛の輪郭を照らしている。白い肌に神秘的な光が差して、丸い瞳が僕へ向いて、目が合うと笑って細くなる。
 
「また次に着物デートするときもあのお店に行こ!」
 
 そうだね、とだけ返した。
 また次、は僕たちにあるのだろうか。
 未来の約束が寂しくてしかたない。 
 契約的な関係、形だけの恋人。
 それでも僕たちは確かに巡り合って、その巡り合いの中のなにかを手繰り寄せて縁を結んだ。
 それならせめて残された時間を、大切に刻んでいきたい。
 
「綺麗な街だから春に来てみてもいいよね、大人になったら一緒にお酒でも飲みながらさ」
 
「ふふふ、確かに! 夢が広がるねぇ、私と想君お酒が強いのはどっちかなぁ」
 
 守れない約束だっていくらでもしよう。
 そうやって笑ってくれるなら、嘘でもいい、空想でもいい。僕はただ心の奥底にある、こうしたい、こう思ってる、をそのまま言葉にしていく。
 これは叶愛から教えてもらった方法だ。
 
「最後の場所、この坂をまっすぐ登った先にあるんだ」

 完全に日が沈み、すこしずつ店の明かりが消え始める。代わりに暗くなる観光街には提灯の光が上品に灯り始めた。
 坂道の途中、僕たちは振り返りながら歩いてきた道を見下ろしてみた。息を切らしながら「綺麗だね」と呟き合うのは、なんだかとても気持ちが良かった。
 
「叶愛、下の景色も綺麗だけどこっち見てみて。見える?」
 
「鳥居——でも、見間違いかな、なんとなくちょっと狭い気がする」
 
 本日最後の場所は、縁結びの神様が祀られている有名な神社だ。
 叶愛の言う通り、この神社の鳥居は狭い。その特徴的な小ささには“隣にいる人との距離が近くなるように“という願いが込められているらしいと去年のバスガイドが話していた。

「街が一望できて景色もすごく綺麗——ねぇ、ここから見えるカップルの何組かもすこし前にここでお祈りしたのかな」

「したのかもね、それじゃあ僕たちも行こうか」
 
 カップル、それも契約的な関係で縁結びの神社なんて不自然だけれど、どうしても連れてきたかった。理由は二つ。
 一つは、僕たちが離れても、どこか隣でいられるように。
 そして、叶愛が素敵な人と巡り会えるように。
 どちらも僕の手では叶えられそうになかったので、神頼みすることにした。
 ともに鳥居をくぐり、深く礼をする。
 手を合わせ、願い事を頭で唱える。騒がしい車の音と、人の笑い声がかすかに聞こえるこの場所で、淀みのない願いに想いを馳せた。
 理由は二つあったけれど、僕の純粋な願い事は一つだけだった。
 思いつくたった一つを唱えた僕が目を開けて隣を向くと、叶愛が瞑った目から滴を溢しながら手を合わせていた。僕はもう一度、なにも知らないふりをして目を瞑りなおした。

「想君は何をお願いしたの?」
 
 隣から、そんな声が聞こえた。
 慌てて目を開けると泣いていた素振りなんて一切感じさせない無邪気な表情をした、いつもの叶愛だった。

「それを言ったら叶わなくなっちゃうかもしれないでしょ、だから内緒だよ」

「お願いしても叶わないくらいなら、自分で頑張って叶えればいいんだよ」

「自分で頑張っても叶わないからお願いするの、これは考え方の違いだと思うけどね」

 危うく口を滑らせてしまうところだった。
 僕の力では到底叶えることのできない、神頼みという言葉が相応しい。
 僕が手を合わせている間に頭の中で唱えた願い事は、夢をそのまま言葉にしたような願い。
 頭で唱えても聞こえなそうなので、もういっそのこと声に出してしまおうかと思ったほど叶ってほしいこと。
 

 ——『残された時間、叶愛との間で一つでも大切な瞬間が増えますように』


 大切を恐れていた僕は、大切な人との大切を心の底から願うようになっていた。
 残された卒業までの数ヶ月間で、僕は叶愛になにができるだろう。
 参拝を終え、敷地内のベンチで僕はそんなことを考える。

「私ね、神様とか信じたことなかったんだ」

 僕の意識は一瞬で叶愛に奪われた。
 異様に落ち着いた声のトーンがすこし怖い。

「そうなの?」

 動揺のあまり、そんな返事しかできなかった。

「神様なんているわけないって思ってた」
 
 突然の告白に戸惑って、返事すらできずにいる。
 
「今、ちょっと捻くれた子供みたいって思ったでしょ」

 そんなことないよ、と首を横に振りながら僕は続きを待った。
 なんとなく今は、僕からの応答なんていらないと思った。

「まだたったの十八年しかこの世界で生きてないけどさ、それにしては苦しいことが多かったなぁってたまに思うんだよね。まぁ、苦しいばっかりではないんだけどさ」

「苦しいことって——」

「大切な人は奪われるように私の周りからいなくなっていくし、嬉しいことがあった次の日には必ず悪いことが起こる。幸せだって感じた瞬間、理解すら難しいくらいの不幸が降ってくる。世界が私を生かしてくれないなんてわがままなことを思ったこともあったりね」

「……」

「誰か助けてって言った時に、手を差し伸べてくれる人なんていなかった。巡り合わせてくれなかった、のかな。だからちょっと、神様が嫌い」

「神様が嫌い、か」

「想君はない? そういうふうに思っちゃうこと」

「僕は——」

 生まれた瞬間から不完全な身体に、そのせいで大切な兄を失った、それに連鎖して起こった独りの暮らし。思い返せばすこし、叶愛の言葉に共感してしまう部分があるのかもしれない。この話においての共感、は失礼なのかもしれないけれど。
 孤独とも、不幸とも、絶望とも言い難い名前のない苦しみ。そしてそれを誰にも溢すことのできない閉塞感。息を吸うことさえ苦しくなってしまうような感覚を僕はなんとなく理解できてしまう。

「叶愛が言ったこと、全部じゃないけど僕にも少しわかる」

「え——」

 叶愛は手を強く握りながら、なにかに耐えるように下を向いている。
 不安か、怖さか、辛い記憶か、息苦しさか、涙か、なにに耐えているのかまではわからなかった。
 叶愛の表情を覗く勇気はなかった。
 だからその代わりになにも言わずに背中をさすった。
 それが正しい選択か僕にはわからないけれど叶愛の頭が僕の肩に乗った瞬間、間違いではなかったのかなと安心した。
 時計なんて見ていなかったから正しい時間はわからないけれど、その後も数分間、時々震える背中に手を添え続けていた。
 これは契約的な彼氏ができる最大限の寄り添いか、それともその肩書きに抗いたい気持ちを抑えきれなかった僕の不正行為か。
 どうか、前者であってほしい。

「……」

 彼女の手に握りしめられていた恋みくじには、中吉という何とも言い難い二文字と“目の前の人を信じなさい“というこれまた曖昧な助言が記されていた。
 そんなの、恋みくじに書くなよ、と率直に思ってしまった。
 叶愛は助言の通りに、その目の前の人を信じることができるのだろうか。
 それとも神様の存在すら信じていない叶愛は、神様からの助言を壁の落書きか、それ以下の価値しかない持たないただの文字の羅列と受け取るだろうか。
 本当のことはわからないけれど、僕は誰の助言もないまま叶愛の頭を撫で始めた。
 思い出したように見返した僕の恋みくじには“慎重に進むこと“という助言が添えられている。受け取るよりも先に反してしまった僕自身を、今はほんの少しだけ誇りに思う。

「想君、今から私が言うこと、まっすぐ受け取って」

 必然的に耳元に僕の口があったことから、返事の代わりに手をポンっと一度だけ優しく動かした。

「出逢ってくれて、ありがとう」

 少しだけ、次の展開を期待してしまった。
 あの日「私を彼女にしてくれませんか」という言葉を聴いた時に感じた鼓動は、今思えば衝撃とそれを上回る嬉しさによるものだったのかもしれない。
 “大切“を失わないために、誰かに感情の焦点を向けることに怯えていた僕が、気づけなかった本当の僕の気持ち。その後に聴いた「形だけ恋人同士」という言葉は、その言葉に安心したフリをして、やっぱり少し寂しかった。
 転校してきたばかりの叶愛に恋愛感情を抱いていなかったことは本当だし、一目惚れなんてなかったけれど、これは直感的に、僕は叶愛がいいと感じていたのかもしれない。
 これは、完全に僕の後出し論だ。
 契約的な関係、その相手に叶愛が僕を選んだ本当の意図を僕はまだ知らない。
 なんとなく、ただのお詫びではないことは気づいている。
 卒業という期限を過ぎたらすべて無かったことになって、きっと僕たちはまた他人に戻る。それほど薄情な割り切り方ができてしまうのなら今、僕の肩に頭を預けている叶愛の言動は設定をまっとうするための演技とも思えてしまう。
 思いたくない、そんなのあまりにも寂しすぎる。
 そう考えてしまったら少し、せめて恋人いられる間だけでも、強引に彼女を抱きしめたくなった。

「叶愛」

「どうしたの——」

「僕は好きだからね」

 衝動的な告白だった。
 彼女からの言葉は、返ってこなかった。