「神楽、ちょっと話がある」
「想と、楪さんも? 急にどうしたんだよ」
「神楽君、急でごめんね。それと寧々ちゃんも一緒に来てほしいの」
「私も聴いていいの? そんなに改められるとちょっと怖いけどわかった」
放課後、僕と叶愛さんは神楽と白石を施錠のできる空き教室へ呼び出した。
白石は落ち着かない様子で「なになに怖いよ? 楪ちゃん」と叶愛さんへ聞き慣れない呼び方をして、神楽は「悪い話じゃないだろうな」と圧のある問いかけを僕へした。緊迫感に支配されている中、僕と叶愛さんは目を合わせる。そして——。
「叶愛さんと、付き合うことになったんだよね」
今度は僕から、神楽へ告白した。
さすがにこの報告を叶愛さんにさせてしまうのは少し気が引けたからだ。
「想っ、お前、花火ひとつまともに把握してなかったのに——いや、でも、え、本当に付き合ったのかよ!」
「叶愛ちゃんおめでと〜! 久遠君、叶愛ちゃんのこと絶対に泣かせちゃダメだからね? 私が許さないから!」
僕をからかいながらも「おめでとう」と二人は笑ってくれた。隣には照れた表情を隠しきれずに頬を緩ませている叶愛さんがいる。
本当の恋人じゃないのなら今、叶愛さんはどうしてこんなに心から嬉しそうに笑っていられるのだろう——そんな疑問が頭に浮かんだけれど、喜んでくれたのならいいかとすぐに洗い流した。
「想もやる時はやるんだな、どんな感じで告白したの」
「いや、それは——」
「恥ずかしがらないの! 私たちだって気になっちゃうよ!」
言えない、言えるわけがない。
まさか「彼女の方から告白されたんだよね」なんて、本当のことを言うわけにはいかない。嘘はつきたくないけれど“叶愛さんからの告白された“という事実へ二人が「情けない」と咎めることくらい目に見えている。
「花火を観てる時に、想君が告白してくれたんです!」
叶愛さんはどうしてそうも簡単に嘘がつけてしまうのだろう。
「まじか、想にそんな勇気があったとはな。俺ちょっと想のこと見直したかも」
「失礼なやつだな、本当に」
「それでそれで! 叶愛ちゃんは迷わず頷いた感じ?」
「そうですね、すごく嬉しかったので」
“契約“という設定はおろか、告白した日の配役まで叶愛さんの機転によって逆転してしまった。それも異様なほど自然に、なにを疑われることもなく。
全く嘘と感じられない叶愛さんの口調と表情に言葉が出ない、肯定も否定もし難い状況に僕は情けなく困惑していた。
「夏祭りが始まりならデートとかもまだだよね?」
「そうですね、いつかできたらいいなって——」
「いつかなんて言ってられないでしょ! そういうのは行ける日に行くの! 誘うのはもちろん、わかってるよね?」
「告白する度胸があるくらいだからな! 今の想にできないことなんてないだろ」
いやいやいや、そもそも僕は告白すらしてなくて——そんな言い訳、当然だけどできるわけがない。
神楽からの心なしかいつもより強い圧を受けた、それも表情と声色の二刀流で。
白石の微笑みからも同じものを感じる。入学当初から見てきたけれど日を重ねるごとに、この二人は良くも悪くも双方に似てきている。
「叶愛さん、今から何か予定あったりする? もしなにもなかったら——」
僕は叶愛さんのことを誕生日すら知らないし、それはきっと叶愛さんも僕に対して同じだ。単に遊んで距離を縮める、なんてことはちょっとまだ段階が早い気がする。
時間と周囲の目を気にせずに話ができる場所は——そうだ、そこしかない。
初めてにしては敷居の高い場所かもしれないけど、契約的に付き合ってしまった以上、お互いのことを深く知らないままでは危険な気がする、だから——。
「僕の家に、来ませんか」
叶愛さんはただでさえ丸く大きい瞳をさらに見開いて驚いている、当然の反応だ。
僕も緊張していないわけではない、それが素直に表れてなぜか誘い口調が敬語になってしまったし。
「想、初デートが家は楪さんも緊張するんじゃないか?」
わかる、神楽。
今だけは彼女持ちの中にある常識が理解できる。
さすがに初デートに相手の家はなかなかハードルが高い、話をするだけなら適当にカラオケで何時間か過ごせばいい。だからこれはたぶん「断られたら、それじゃあまた今度、って言ってデートを避けられる」という僕の本能的な逃げから生まれた提案だと思う。ごめん、叶愛さん。こんなデートひとつまともに誘えなくて。いくら契約的と言っても、さすがに僕では叶愛さんの彼氏には相応しくな——。
「嬉しい、誘ってくれてありがとう」
神楽も白石も僕も内心はきっと「嘘だろ」で一致していたと思う。
それに叶愛さんの表情から躊躇う様子が微塵も感じられない、もしかしたらちょっとズレているのかもしれない。それならそれでいいのだけど、まさか僕の方が驚かされるとは思っていなかった。
神楽からは「楪さんのことちゃんと楽しませろよ」と、白石からは「叶愛ちゃんになんかしたら私が許さないからね?」と、重大な警告を受けて僕たちは校舎を出た。
学校の敷地内、僕の噂が出回っていることもあって怪しまれないように恋人としての距離感には気を遣ったけれど、それでもまだ手を繋ぐなんて器用なことはできなかった。なんともぎこちない空気感の中、初めて神楽以外の人と通学路を歩いている。
「ねぇ、どうして家に招いてくれるって言ったの?」
「やっぱり初デートで家に誘われるのは嫌だった?」
「そうじゃないよ。断れない雰囲気だったから想君が無理したんじゃないかなって思って。ほら、家ってプライベートなところだからさ?」
「無理なんてしてないよ。僕はただお互いのこと少しでも知っておきたかったんだ。契約的な恋人関係だけど、今の僕たちは付き合ってる。だから二人でゆっくり話をする時間がほしくてね」
「そういうことだったんだね。想君がちゃんと二人のこと考えてくれてるの嬉しい」
「二人のことだからね。それに叶愛さんの時間を無駄にさせるわけにはいかないから」
***
母は通院とその後のカウンセリング、はが自室で眠っているというタイミングで叶愛さんを誘導することができた。
僕の部屋は普段から整頓していることもあり今のところなに一つ問題はない。
「お茶持ってくるから好きなところに座って待っててね、そんなに緊張しなくて大丈夫だから」
と、言っておきながらきっと僕の方が過剰に緊張してしまっている。
叶愛さんは意外にも落ち着いた様子で「ありがと」と笑って返してくれた。
高校生活のほとんどの時間を共にした神楽ですら招いたことがないというのに、契約的に付き合った異性を突然招いて、僕は今、手際よくお茶を差し出している。
どうして僕はこんなことができているのだろう。改めて、異性を自分の部屋へ招いている僕自身の行動に疑いが止まない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「急だけど、私の呼び方、呼び捨てにしてほしいな」
僕が麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた瞬間。
本当に急なお願いだった。
「呼び捨て?」
「いつまでもかしこまった感じだと想君も疲れるでしょ、叶愛さんじゃなくて、叶愛って呼んでほしい」
「お気遣いありがとう、僕の呼び方は特にこだわらないから引き続き呼びやすいように呼んでくれたらいいよ」
それじゃあやっぱり想君が呼びやすいかな、と叶愛さんは少しだけおかしそうに笑ってみせた。
叶愛、か。そう呼び方が変わった。
僕はなにも知らないまま呼び捨てを許可されてしまうほどの距離であることを許されてれてしまった。
それならちゃんと、もっと、叶愛のことを知りたい。
「ねぇ叶愛」
「ん?」
「好きな食べ物、なに?」
「すっごい初歩的な質問だね、好きな食べ物か——この間のお祭りから林檎飴、好きになったよ」
「林檎飴か、確かに、美味しそうに食べてたもんね。いいね」
自分でもなにが「いいね」なのかまったくわかっていない。
ただ返す言葉と、会話を続ける方法がわからなかった。この調子だと、はやいうちに契約的な付き合いすら終わってしまうような気がする。
「想君はなにが好き?」
「僕は——うどんかな、蕎麦よりうどん派」
「私も! っていうより私は蕎麦が苦手なだけなんだけどね」
叶愛の弾けた語尾と、それにつられるように上がった口角に僕の心が和んだ。
よかった、退屈させてるわけじゃない。
それに思っていた以上に緊張感が解れている叶愛をみて、どこか安心感を覚える。
「誕生日、いつ?」
「何月生まれに見える?」
「勘だけど、六月、とか?」
「ザンネーン! 九月でした! 九月十二日!」
「僕は七月十四日」
「私、まだ聞いてないよ?」
「知りたくなかった?」
「そんなこと言ってない! 七月十四日ね? ちゃんと覚えとく!」
覚えとく、か——。僕の誕生日はすでに終わっているし、来年の誕生日は恋人でもなんでもないのに。
その後も身長、得意教科、趣味、当たり障りのない質問をいくつかした。これまでの恋愛経験や家族構成なんて踏み入った話はできなかったけれど、叶愛の一部を知れたことが素直に僕は嬉しかった。
次はなにを教え合う? と楽しげに次の質問を期待している叶愛の表情も、なんだか自然と可愛らしいと思えた。
思いつく質問が尽きて、グラスの麦茶が半分ほど減った頃、叶愛はなにかを探しているような、なにか言おうとしているような素振りをしている。そして振り切った様子で僕へ向かって目を輝かせた。
「想君の写真とかみてみたい! 私は一年生と二年生の想君を知らないから」」
「それなら印刷したものが何枚かあったはず——ほら、これとか」
過去の姿と言っても、自分の姿を晒すというのは恥ずかしいものだ。写真を差し出した後にそんなことを実感する。
叶愛は僕の写真を両手で丁寧に受け取った後、目を輝かせたまま見つめている。それが余計に僕の中に恥ずかしさを掻き立てる。
まだ袖の余っている入学式の立て看板前での写真。神楽の横でぎこちない表情で映っている部活動での集合写真。そして数十枚の多くを占める修学旅行での写真。
学校名が記載された茶封筒から三年分の思い出が映された写真を取り出していく。
三年分にしては少ないような気もするけど、その分すべてちゃんと思い出せる。
「これ修学旅行の写真かな? 隣が神楽君で、その隣が寧々ちゃんだよね」
「そうそう、観光する時の班が一緒でさ。修学旅行の写真は大体この三人で写ってると思うよ」
「本当に三人は仲良いよね、三人とも同じ中学校なの?」
「僕と白石が同じで、神楽は高校から。って言っても、白石とは中学の頃全然話さなかったよ。クラスが三年間一緒だったり、神楽の彼女だからって理由で話すようになったんだよね」
「そうだったんだ——」
「大丈夫だよ、叶愛もわかってると思うけど一緒にいた時間の差なんて感じさせないくらい楽しくて素敵な人たちだから。神楽も白石も面倒見が良くて社交的で、一緒にいると自然と笑えるような人だから」
今まで言葉にしたことはなかったけれど、僕は神楽と白石にそんな思いを抱いていたらしい。一緒にいると自然と笑えるような、なんて言葉が僕の口からなんの躊躇いもなく出てきたことに驚いてしまうと同時に、なんだかそれがすごく嬉しかった。
でも、それと同時に少しだけ怖くなった。
僕にない明るさを持つ二人が、僕の中で大切な存在になってしまっている。そんな知らないフリをしていた事実が胸に突き刺さって抜けない。
「『類は友を呼ぶ』って言うよね、だからきっと想君も楽しくて素敵な人なんだよ」
そうなのかな、僕はそうは思えないけど、もしそうだとしたら嬉しいな。
叶愛は自分の写っていない写真を、一枚ずつ手に取りながら丁寧に眺めていく。
どの写真に対しても楽しげな表情を浮かべて、時々「この写真、私好きだよ」と声をかけてくる。その写真を撮った時の思い出話をすると「いいねぇ楽しそう!」と無邪気に返してくれる。
契約的な告白を受けた時は、正直計算高さと小賢しさがあるのかと警戒したし、神楽と白石に付き合ったことを報告した日は自然に嘘をつく姿に少し内面を疑ってしまった。でもきっと叶愛は素直で、まっすぐな人間なのだと今、確信した。
仮だったとしても、契約的な付き合いだったとしても、惹かれてしまうには十分すぎる理由があるくらい素敵な人だと気づいた。
「自分が映ってる写真ばっかり見るの、寂しくならない?」
考えるより先に、そんな無神経なことを尋ねてしまった。
違う。僕はただ楽しんで笑ってほしかったから。
無理に寂しいことなんてさせたくなかったから、そのための確認だったのに、あまりにも聞き方が不器用すぎた。
「寂しくなんてないよ、だって、恋人が笑顔で映ってる写真だよ? 私まで楽しくなっちゃうよ」
叶愛の言葉が、建前には聞こえなかった。
もうこの際、建前だったとしてもいい。
「叶愛」
僕は、言いたいことがある。理由は、わからないけど。
「叶愛は、素敵な人だね」
なにが? と返されてしまったけれど、叶愛はすぐに「そう感じてくれてありがと」と柔らかく返してくれた。
きっと、そう言うところが素敵なんだ。なんて曖昧すぎて言えなかったけど。
「想君っていつも笑ってるんだね。想君の笑顔こそ、とっても素敵だと思う。写真に映ってる想君、見る限り全部笑ってるんだよね」
指摘されて初めて気づいた僕自身の笑った表情。
写真うつりに自信なんてないし、そもそも写真を改って見返す機会も少ないから気づいていなかったけれど、確かに僕はどの写真でも楽しそうに笑っている。
僕の表情を指差しながら褒める叶愛の言葉に、少し照れ臭くなり顔を背けてしまう。
「そんなに恥ずかしがらなくていいと思うよ? 表情が豊かって素敵なことだと思う私はすごく、羨ましい」
「羨ましい——?」
「あっなんでもない! 変なこと言っちゃってごめんね」
叶愛は分かりやすく焦った口調で訂正して、僕に写真を返した。
和んできた雰囲気に流されて踏み入ってはいけないことを聞き返してしまったのかもしれない。いやでも、これはただの叶愛のひとりごとだったのかもしれない——それならどうして、あんなに焦っていたんだろう。
考えてもわからないし、どうしたの? なんて聞けるわけがないから僕は一旦、その違和感を考えないことにした。
「なにか違う話をしようか。そういえば、叶愛さんは修学旅行どこに行ったの?」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を、質問で強引に打ち砕く。
きっと上がっている口角のぎこちなさは気づかれてしまっているし、無邪気さを含ませた声のトーンを必死に作っていることも叶愛には伝わってしまっている。
どうにか笑ってほしい、楽しんでほしい、という気持ちの表れだからどうか悪くは思わないでほしい。
そんな僕の様子に戸惑いながら、叶愛は唇に当てていたコップを置き、口を開く。
「私、行けてないんだよね。小学校も中学校も高校も修学旅行は誰かの写真を後から見る担当なんだ」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を打ち砕く、どころか、完全に傾いてしまった。
小学校も中学校も高校も、一度も修学旅行に行けていないなんてそんな不自然なこと、なにか理由があるのだろうけど深くは触れない、触れられない。でも——。
「それって、楽しいものなの? 誰かの写真を見るだけって」
なんとなく、叶愛がどんな気持ちなのか気になってしまった。
「案外楽しいよ? みんなが笑ってるから実際に行った気分になれるし、想像するのも悪くないなぁってね」
返ってきたのは、いかにも叶愛らしい答えだった。
「もしかして叶愛、旅行とか遠出が苦手?」
「旅行自体は好きなんだけど、たくさんの人と何日も一緒ってなると少し難しくってね」
「そっか、じゃあ普通の旅行は好きなの?」
「最近は行けてないけど、小さい頃はよくお父さんとお母さんと一緒に家族旅行をしてたよ」
「家族旅行か——楽しそうだね。今まで行った中でどこが一番楽しかった?」
「私、アニメーション映画が大好きなんだけどその映画のテーマパークが期間限定で日本に上陸したことがあってね。そこに連れて行ってもらった時は本当に楽しかったなぁ」
「映画か——僕はあんまり映画に詳しくないからさ、今度一緒に見に行った時に色々教えてくれたら嬉しいな」
「それなら任せて! 映画館は一時期週一で通ってたからベテランだよ?」
ふふふ、と叶愛は可愛らしく僕に自信満々な表情を見せてくれた。
冗談まじりに話をする今の表情に影はない、よかった、けど、それならさっきの不穏な空気感はなんだったのだろう。
数分前、写真を返された時に感じた影は僕の勘違いだったのかもしれない。
「お父さんとお母さんってことは叶愛、一人っ子?」
「そうそう、お母さんもお父さんも兄弟が多い環境で育ったから子供は一人がいいって話になったみたいなんだよね」
「そっかそっか、なんとなく叶愛にはお姉ちゃんがいるのかなって思ってたよ」
「本当になんとなくだね」
「そうだね、本当になんとなくね。強いて言うなら僕の勘かな、当たらなかったけど」
「何それ、想君たまには面白いね」
たまにはは余計だったね、と叶愛は自分で言ったことにおかしそうに笑ってくれた。
なんとなくとは言ったけれど、これには僕なりの考察があった。
知り合ったばかりとは思えないほどの自然な距離感と口調。それとは対照的な神楽への人見知りの仕方、いつまでも敬語が外れないところ。白石への甘え方、よく懐いているのがすぐにわかった。それに愛想のない僕への距離の詰め方、距離感は近いけれど不快感がない不思議さ。その全てからなんとなく、僕は彼女の妹気質を感じていた。
まぁ、結果はかすりもせずに外していたのだけど。
僕は僕なりに、それも無意識のうちに、叶愛のことを知ろうとしていたのかもしれない。
「想君も一人っ子?」
「今は一人だけど、本当は兄がいるんだ」
「お兄さんか——想君が弟っていうイメージないかも」
「そうかな」
「想君はどちらかというと頼り甲斐のあるお兄さんってイメージ」
「頼り甲斐のあるお兄さん、か」
「想君のお兄さんってどんな人?」
「改めて説明するってなると少し難しいけど——」
好奇心に満ちた叶愛の瞳が僕へ答えを急かす。
僕の兄について、改めて“どんな人“かを考えるのはいつぶりだろう。僕の中で“兄“としての存在が大きくて、一人の人間として見たことは今までなかったかもしれない。
一回り以上歳が離れていて、低身長の父と母とは似つかないほどの高身長。容姿は僕の記憶の限りかなり整ってる方だったと思う。騙されやすくて、よく言えば天然で。痛い目を見ることもあるけれど、それ以上にたくさんの人に恵まれそうな——生きている時間のすべてを楽しむことができそうな、そんなタイプの人間。
愛想がよくて、気遣いができて、人に優しい、僕とはまるで正反対の人間。
そして僕が大好きで、大切な人だ。
「僕と一回り近く歳が離れてて、すごく優しい人だよ。すごく簡潔にまとめるとね」
「そんなに歳が離れているなら想君が小さい時はたくさん遊びに行ったりしたんじゃない?」
「遠くに行くことはできなかったけど、よく一緒に遊んでもらってたよ」
「お兄さんと二人で撮った写真とかある?」
「そんなに多くは持ってないけど——これとか、わかりやすいかな」
病室で撮った写真は十数枚残っていたけれど、説明が難しくなりそうで病院の敷地内で撮った兄も僕も私服を着た写真を選んで渡した。
僕が四歳くらいで、兄は確か二十歳だっただろうか。
「確かに目元がそっくりだね、この笑った時の感じが特に似てる」
大半の時間を病院で過ごしていた僕にとって、兄との遊びは院内の中庭を車椅子で散歩することだった。睡眠、食事、運動、生きるための行為すべてに、先の見えない制限が課せられていた僕の生活にとって、兄と言葉を交わす時間は光であり希望そのものだった。
兄がよく笑う人だったから、僕も笑ってみたら兄のようになれるかもしれないと思った。ああ、だからかもしれない、だから僕はどの写真を見ても笑っているのかもしれない。
「叶愛はもし兄弟がいたとしたらなにがしたい?」
「私、お姉ちゃんになってみたいってずっと思ってるんだよね。もしその夢が叶っていたら妹をたくさん可愛がりたい」
「可愛がる?」
「髪を結ってあげたり、お揃いの服で出掛けたり、可愛いスイーツを一緒に食べたり、恋話したり! たくさん甘やかしてあげたいなぁ」
「叶愛はすごくいいお姉さんになりそうだね」
ありもしない空想の話が膨らんでいく「そうかなぁ、甘やかしすぎてすっごくわがままな子に育っちゃいそう」なんてケタケタと笑う叶愛を見て安心した。
必要以上に空気を読んで気を遣う感覚が、今の僕の中にはない。
「ねぇ想君のお兄さん、今はどこにいるの? 歳も離れてるし、違うところに住んでるのかなって思って」
「お兄ちゃんは今——」
わかってる、叶愛の質問に悪気がないことなんてよくわかっている。
でもどこかで「なんとなく察してほしい」とわがままに思ってしまう僕がいた。
真実を告げるべきか、それとも嘘で誤魔化すべきか。知らないとしらを切るべきか、無理矢理にでも話を逸らすべきか。
数秒間で無数の選択肢が脳を駆け巡る、きっと兄の本当のことなど叶愛には関係のないことで聞き流せる程度のこと。契約的に付き合った異性の親族のことなんて数ヶ月すれば忘れる、そうであってほしい。それならもう——。
「事故で亡くなったんだよね」
すべてを言ってしまってもいいのかなと、思ってしまった。
「事故——」
「ちょうど十年前の夏にね、交通事故で亡くなっちゃて」
「想君」
このタイミングで名前を呼ばれた、正直嫌な予感しかしない。
つらかったよね、なんて慰めか。触れられたくないことを聞いちゃってごめんね、なんて謝罪か。
それらは兄の葬儀の時に親戚から数えきれないほど言われてきたことで、僕はそれ以来その言葉たちが嫌いになった。なにを言われても「大丈夫」と言うしかないからだ。だから叶愛には、そのどちらも言わないでほしい、僕はただそう願っていた。
「答えたくなかったら、答えなくて大丈夫なんだけどね」
叶愛の顔色が曇る、言いづらそうに口篭っているのが伝わる。
その沈黙は数分続いた。叶愛は酷く動揺していて、こころなしか少し顔色もよくないような気がする。それでも躊躇いながら深く息を吸い、僕の目をまっすぐ見ながら口を開いてくれた。
「その事故が起きた場所って、どこ?」
予想もしていなかった。
だって事故について話した時により深い質問を返されたことは、初めてだったから。
「ここからすぐの大学病院前の大通りだよ」
「そっか——ごめんね。突然変なこと聞いちゃってごめん」
「僕は全然大丈夫だけど、その事故がどうかしたの?」
「なんでもないよ。ただ最近に起きた事故だったら、余計に思い出させちゃってないかなってちょっと心配になっただけ——最近もこの辺りで事故があったみたいだからさ」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ、最初にも言ったけどもう十年も前の話だからね」
「そうだよね、最初に話してくれていたのに言葉の衝撃が強くて頭から抜けちゃってた」
なんとなく今、あからさまになにかを誤魔化されたような気がした。
“もう十年も前のこと“なんて、僕自身が言葉にしてしまった。
何年経っても、あの日の、あの瞬間を引きずっている僕が、その場を逃げるためにそんな言葉を発している。きっと今日は上手く眠れない、目を瞑ることすら億劫な夜になってしまうかもしれない。
今でもたまに目を瞑った暗さの中に、記憶の中の兄の影が映ってしまう夜が来る。
それは大抵、兄に対する罪悪感に襲われる夜だったりする。
「そろそろ外も暗くなってきたし帰ろうか、叶愛が嫌じゃなければ駅まで送るよ」
「長居しちゃってごめんね。でも色々話せて良かった、ありがとう」
兄の話の後の様子が心配だったけれど、最後には「今日、とっても楽しかったよ」といつもの叶愛の笑顔を見せてくれた。
母が帰ってくる前に、父が目を覚ます前に、叶愛を家へ返さなければいけない。安全のためになるべく街頭の多い通りを選んで駅へ向かった。
家までの道を聞くと、あの大学病院の大通りを通るのが一番の近道だった。でも僕は知らないフリをして、わざと遠回りの道を一緒に歩こうと提案した。
電車が到着するまで待ち、車窓越しに手を振る彼女に手を振り返して見えなくなるまで見届ける。
「今日は突然だったのにありがとう。また明日、学校で会おうね」
送り出した後、僕は原因のわからない寂しさに襲われて初めて叶愛にメッセージを送った。夏祭りの帰り道に連絡先を交換したときは使わないだろうと思っていたけれど今になって交換していてよかったと思った。
「こちらこそありがとう! 想君のこと知れて素敵な時間になったと思う。また明日ね!」
返信はすぐに来た、僕もすぐにそれに気づいた。
でも、すぐに返そうとはしなかった。
これ以上会話を続ける方法が分からなかったからだ。ここで「そうだね、また明日」なんてつまらない返しをしてしまったらきっとスタンプひとつで会話が終わってしまう。
兄のことを思い出したからか異様な寂しさを感じている僕は、今、誰かと繋がっていたい気持ちが強い。
また後で、どうしても誰かの存在を欲してしまった時になにか返そう。
そう思い、僕はスマートフォンをポケットにしまって一人、大学病院前の大通りを辿って家へ向かった。
「想と、楪さんも? 急にどうしたんだよ」
「神楽君、急でごめんね。それと寧々ちゃんも一緒に来てほしいの」
「私も聴いていいの? そんなに改められるとちょっと怖いけどわかった」
放課後、僕と叶愛さんは神楽と白石を施錠のできる空き教室へ呼び出した。
白石は落ち着かない様子で「なになに怖いよ? 楪ちゃん」と叶愛さんへ聞き慣れない呼び方をして、神楽は「悪い話じゃないだろうな」と圧のある問いかけを僕へした。緊迫感に支配されている中、僕と叶愛さんは目を合わせる。そして——。
「叶愛さんと、付き合うことになったんだよね」
今度は僕から、神楽へ告白した。
さすがにこの報告を叶愛さんにさせてしまうのは少し気が引けたからだ。
「想っ、お前、花火ひとつまともに把握してなかったのに——いや、でも、え、本当に付き合ったのかよ!」
「叶愛ちゃんおめでと〜! 久遠君、叶愛ちゃんのこと絶対に泣かせちゃダメだからね? 私が許さないから!」
僕をからかいながらも「おめでとう」と二人は笑ってくれた。隣には照れた表情を隠しきれずに頬を緩ませている叶愛さんがいる。
本当の恋人じゃないのなら今、叶愛さんはどうしてこんなに心から嬉しそうに笑っていられるのだろう——そんな疑問が頭に浮かんだけれど、喜んでくれたのならいいかとすぐに洗い流した。
「想もやる時はやるんだな、どんな感じで告白したの」
「いや、それは——」
「恥ずかしがらないの! 私たちだって気になっちゃうよ!」
言えない、言えるわけがない。
まさか「彼女の方から告白されたんだよね」なんて、本当のことを言うわけにはいかない。嘘はつきたくないけれど“叶愛さんからの告白された“という事実へ二人が「情けない」と咎めることくらい目に見えている。
「花火を観てる時に、想君が告白してくれたんです!」
叶愛さんはどうしてそうも簡単に嘘がつけてしまうのだろう。
「まじか、想にそんな勇気があったとはな。俺ちょっと想のこと見直したかも」
「失礼なやつだな、本当に」
「それでそれで! 叶愛ちゃんは迷わず頷いた感じ?」
「そうですね、すごく嬉しかったので」
“契約“という設定はおろか、告白した日の配役まで叶愛さんの機転によって逆転してしまった。それも異様なほど自然に、なにを疑われることもなく。
全く嘘と感じられない叶愛さんの口調と表情に言葉が出ない、肯定も否定もし難い状況に僕は情けなく困惑していた。
「夏祭りが始まりならデートとかもまだだよね?」
「そうですね、いつかできたらいいなって——」
「いつかなんて言ってられないでしょ! そういうのは行ける日に行くの! 誘うのはもちろん、わかってるよね?」
「告白する度胸があるくらいだからな! 今の想にできないことなんてないだろ」
いやいやいや、そもそも僕は告白すらしてなくて——そんな言い訳、当然だけどできるわけがない。
神楽からの心なしかいつもより強い圧を受けた、それも表情と声色の二刀流で。
白石の微笑みからも同じものを感じる。入学当初から見てきたけれど日を重ねるごとに、この二人は良くも悪くも双方に似てきている。
「叶愛さん、今から何か予定あったりする? もしなにもなかったら——」
僕は叶愛さんのことを誕生日すら知らないし、それはきっと叶愛さんも僕に対して同じだ。単に遊んで距離を縮める、なんてことはちょっとまだ段階が早い気がする。
時間と周囲の目を気にせずに話ができる場所は——そうだ、そこしかない。
初めてにしては敷居の高い場所かもしれないけど、契約的に付き合ってしまった以上、お互いのことを深く知らないままでは危険な気がする、だから——。
「僕の家に、来ませんか」
叶愛さんはただでさえ丸く大きい瞳をさらに見開いて驚いている、当然の反応だ。
僕も緊張していないわけではない、それが素直に表れてなぜか誘い口調が敬語になってしまったし。
「想、初デートが家は楪さんも緊張するんじゃないか?」
わかる、神楽。
今だけは彼女持ちの中にある常識が理解できる。
さすがに初デートに相手の家はなかなかハードルが高い、話をするだけなら適当にカラオケで何時間か過ごせばいい。だからこれはたぶん「断られたら、それじゃあまた今度、って言ってデートを避けられる」という僕の本能的な逃げから生まれた提案だと思う。ごめん、叶愛さん。こんなデートひとつまともに誘えなくて。いくら契約的と言っても、さすがに僕では叶愛さんの彼氏には相応しくな——。
「嬉しい、誘ってくれてありがとう」
神楽も白石も僕も内心はきっと「嘘だろ」で一致していたと思う。
それに叶愛さんの表情から躊躇う様子が微塵も感じられない、もしかしたらちょっとズレているのかもしれない。それならそれでいいのだけど、まさか僕の方が驚かされるとは思っていなかった。
神楽からは「楪さんのことちゃんと楽しませろよ」と、白石からは「叶愛ちゃんになんかしたら私が許さないからね?」と、重大な警告を受けて僕たちは校舎を出た。
学校の敷地内、僕の噂が出回っていることもあって怪しまれないように恋人としての距離感には気を遣ったけれど、それでもまだ手を繋ぐなんて器用なことはできなかった。なんともぎこちない空気感の中、初めて神楽以外の人と通学路を歩いている。
「ねぇ、どうして家に招いてくれるって言ったの?」
「やっぱり初デートで家に誘われるのは嫌だった?」
「そうじゃないよ。断れない雰囲気だったから想君が無理したんじゃないかなって思って。ほら、家ってプライベートなところだからさ?」
「無理なんてしてないよ。僕はただお互いのこと少しでも知っておきたかったんだ。契約的な恋人関係だけど、今の僕たちは付き合ってる。だから二人でゆっくり話をする時間がほしくてね」
「そういうことだったんだね。想君がちゃんと二人のこと考えてくれてるの嬉しい」
「二人のことだからね。それに叶愛さんの時間を無駄にさせるわけにはいかないから」
***
母は通院とその後のカウンセリング、はが自室で眠っているというタイミングで叶愛さんを誘導することができた。
僕の部屋は普段から整頓していることもあり今のところなに一つ問題はない。
「お茶持ってくるから好きなところに座って待っててね、そんなに緊張しなくて大丈夫だから」
と、言っておきながらきっと僕の方が過剰に緊張してしまっている。
叶愛さんは意外にも落ち着いた様子で「ありがと」と笑って返してくれた。
高校生活のほとんどの時間を共にした神楽ですら招いたことがないというのに、契約的に付き合った異性を突然招いて、僕は今、手際よくお茶を差し出している。
どうして僕はこんなことができているのだろう。改めて、異性を自分の部屋へ招いている僕自身の行動に疑いが止まない。
「ねぇ想君」
「ん?」
「急だけど、私の呼び方、呼び捨てにしてほしいな」
僕が麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた瞬間。
本当に急なお願いだった。
「呼び捨て?」
「いつまでもかしこまった感じだと想君も疲れるでしょ、叶愛さんじゃなくて、叶愛って呼んでほしい」
「お気遣いありがとう、僕の呼び方は特にこだわらないから引き続き呼びやすいように呼んでくれたらいいよ」
それじゃあやっぱり想君が呼びやすいかな、と叶愛さんは少しだけおかしそうに笑ってみせた。
叶愛、か。そう呼び方が変わった。
僕はなにも知らないまま呼び捨てを許可されてしまうほどの距離であることを許されてれてしまった。
それならちゃんと、もっと、叶愛のことを知りたい。
「ねぇ叶愛」
「ん?」
「好きな食べ物、なに?」
「すっごい初歩的な質問だね、好きな食べ物か——この間のお祭りから林檎飴、好きになったよ」
「林檎飴か、確かに、美味しそうに食べてたもんね。いいね」
自分でもなにが「いいね」なのかまったくわかっていない。
ただ返す言葉と、会話を続ける方法がわからなかった。この調子だと、はやいうちに契約的な付き合いすら終わってしまうような気がする。
「想君はなにが好き?」
「僕は——うどんかな、蕎麦よりうどん派」
「私も! っていうより私は蕎麦が苦手なだけなんだけどね」
叶愛の弾けた語尾と、それにつられるように上がった口角に僕の心が和んだ。
よかった、退屈させてるわけじゃない。
それに思っていた以上に緊張感が解れている叶愛をみて、どこか安心感を覚える。
「誕生日、いつ?」
「何月生まれに見える?」
「勘だけど、六月、とか?」
「ザンネーン! 九月でした! 九月十二日!」
「僕は七月十四日」
「私、まだ聞いてないよ?」
「知りたくなかった?」
「そんなこと言ってない! 七月十四日ね? ちゃんと覚えとく!」
覚えとく、か——。僕の誕生日はすでに終わっているし、来年の誕生日は恋人でもなんでもないのに。
その後も身長、得意教科、趣味、当たり障りのない質問をいくつかした。これまでの恋愛経験や家族構成なんて踏み入った話はできなかったけれど、叶愛の一部を知れたことが素直に僕は嬉しかった。
次はなにを教え合う? と楽しげに次の質問を期待している叶愛の表情も、なんだか自然と可愛らしいと思えた。
思いつく質問が尽きて、グラスの麦茶が半分ほど減った頃、叶愛はなにかを探しているような、なにか言おうとしているような素振りをしている。そして振り切った様子で僕へ向かって目を輝かせた。
「想君の写真とかみてみたい! 私は一年生と二年生の想君を知らないから」」
「それなら印刷したものが何枚かあったはず——ほら、これとか」
過去の姿と言っても、自分の姿を晒すというのは恥ずかしいものだ。写真を差し出した後にそんなことを実感する。
叶愛は僕の写真を両手で丁寧に受け取った後、目を輝かせたまま見つめている。それが余計に僕の中に恥ずかしさを掻き立てる。
まだ袖の余っている入学式の立て看板前での写真。神楽の横でぎこちない表情で映っている部活動での集合写真。そして数十枚の多くを占める修学旅行での写真。
学校名が記載された茶封筒から三年分の思い出が映された写真を取り出していく。
三年分にしては少ないような気もするけど、その分すべてちゃんと思い出せる。
「これ修学旅行の写真かな? 隣が神楽君で、その隣が寧々ちゃんだよね」
「そうそう、観光する時の班が一緒でさ。修学旅行の写真は大体この三人で写ってると思うよ」
「本当に三人は仲良いよね、三人とも同じ中学校なの?」
「僕と白石が同じで、神楽は高校から。って言っても、白石とは中学の頃全然話さなかったよ。クラスが三年間一緒だったり、神楽の彼女だからって理由で話すようになったんだよね」
「そうだったんだ——」
「大丈夫だよ、叶愛もわかってると思うけど一緒にいた時間の差なんて感じさせないくらい楽しくて素敵な人たちだから。神楽も白石も面倒見が良くて社交的で、一緒にいると自然と笑えるような人だから」
今まで言葉にしたことはなかったけれど、僕は神楽と白石にそんな思いを抱いていたらしい。一緒にいると自然と笑えるような、なんて言葉が僕の口からなんの躊躇いもなく出てきたことに驚いてしまうと同時に、なんだかそれがすごく嬉しかった。
でも、それと同時に少しだけ怖くなった。
僕にない明るさを持つ二人が、僕の中で大切な存在になってしまっている。そんな知らないフリをしていた事実が胸に突き刺さって抜けない。
「『類は友を呼ぶ』って言うよね、だからきっと想君も楽しくて素敵な人なんだよ」
そうなのかな、僕はそうは思えないけど、もしそうだとしたら嬉しいな。
叶愛は自分の写っていない写真を、一枚ずつ手に取りながら丁寧に眺めていく。
どの写真に対しても楽しげな表情を浮かべて、時々「この写真、私好きだよ」と声をかけてくる。その写真を撮った時の思い出話をすると「いいねぇ楽しそう!」と無邪気に返してくれる。
契約的な告白を受けた時は、正直計算高さと小賢しさがあるのかと警戒したし、神楽と白石に付き合ったことを報告した日は自然に嘘をつく姿に少し内面を疑ってしまった。でもきっと叶愛は素直で、まっすぐな人間なのだと今、確信した。
仮だったとしても、契約的な付き合いだったとしても、惹かれてしまうには十分すぎる理由があるくらい素敵な人だと気づいた。
「自分が映ってる写真ばっかり見るの、寂しくならない?」
考えるより先に、そんな無神経なことを尋ねてしまった。
違う。僕はただ楽しんで笑ってほしかったから。
無理に寂しいことなんてさせたくなかったから、そのための確認だったのに、あまりにも聞き方が不器用すぎた。
「寂しくなんてないよ、だって、恋人が笑顔で映ってる写真だよ? 私まで楽しくなっちゃうよ」
叶愛の言葉が、建前には聞こえなかった。
もうこの際、建前だったとしてもいい。
「叶愛」
僕は、言いたいことがある。理由は、わからないけど。
「叶愛は、素敵な人だね」
なにが? と返されてしまったけれど、叶愛はすぐに「そう感じてくれてありがと」と柔らかく返してくれた。
きっと、そう言うところが素敵なんだ。なんて曖昧すぎて言えなかったけど。
「想君っていつも笑ってるんだね。想君の笑顔こそ、とっても素敵だと思う。写真に映ってる想君、見る限り全部笑ってるんだよね」
指摘されて初めて気づいた僕自身の笑った表情。
写真うつりに自信なんてないし、そもそも写真を改って見返す機会も少ないから気づいていなかったけれど、確かに僕はどの写真でも楽しそうに笑っている。
僕の表情を指差しながら褒める叶愛の言葉に、少し照れ臭くなり顔を背けてしまう。
「そんなに恥ずかしがらなくていいと思うよ? 表情が豊かって素敵なことだと思う私はすごく、羨ましい」
「羨ましい——?」
「あっなんでもない! 変なこと言っちゃってごめんね」
叶愛は分かりやすく焦った口調で訂正して、僕に写真を返した。
和んできた雰囲気に流されて踏み入ってはいけないことを聞き返してしまったのかもしれない。いやでも、これはただの叶愛のひとりごとだったのかもしれない——それならどうして、あんなに焦っていたんだろう。
考えてもわからないし、どうしたの? なんて聞けるわけがないから僕は一旦、その違和感を考えないことにした。
「なにか違う話をしようか。そういえば、叶愛さんは修学旅行どこに行ったの?」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を、質問で強引に打ち砕く。
きっと上がっている口角のぎこちなさは気づかれてしまっているし、無邪気さを含ませた声のトーンを必死に作っていることも叶愛には伝わってしまっている。
どうにか笑ってほしい、楽しんでほしい、という気持ちの表れだからどうか悪くは思わないでほしい。
そんな僕の様子に戸惑いながら、叶愛は唇に当てていたコップを置き、口を開く。
「私、行けてないんだよね。小学校も中学校も高校も修学旅行は誰かの写真を後から見る担当なんだ」
重さで傾いてしまいそうな雰囲気を打ち砕く、どころか、完全に傾いてしまった。
小学校も中学校も高校も、一度も修学旅行に行けていないなんてそんな不自然なこと、なにか理由があるのだろうけど深くは触れない、触れられない。でも——。
「それって、楽しいものなの? 誰かの写真を見るだけって」
なんとなく、叶愛がどんな気持ちなのか気になってしまった。
「案外楽しいよ? みんなが笑ってるから実際に行った気分になれるし、想像するのも悪くないなぁってね」
返ってきたのは、いかにも叶愛らしい答えだった。
「もしかして叶愛、旅行とか遠出が苦手?」
「旅行自体は好きなんだけど、たくさんの人と何日も一緒ってなると少し難しくってね」
「そっか、じゃあ普通の旅行は好きなの?」
「最近は行けてないけど、小さい頃はよくお父さんとお母さんと一緒に家族旅行をしてたよ」
「家族旅行か——楽しそうだね。今まで行った中でどこが一番楽しかった?」
「私、アニメーション映画が大好きなんだけどその映画のテーマパークが期間限定で日本に上陸したことがあってね。そこに連れて行ってもらった時は本当に楽しかったなぁ」
「映画か——僕はあんまり映画に詳しくないからさ、今度一緒に見に行った時に色々教えてくれたら嬉しいな」
「それなら任せて! 映画館は一時期週一で通ってたからベテランだよ?」
ふふふ、と叶愛は可愛らしく僕に自信満々な表情を見せてくれた。
冗談まじりに話をする今の表情に影はない、よかった、けど、それならさっきの不穏な空気感はなんだったのだろう。
数分前、写真を返された時に感じた影は僕の勘違いだったのかもしれない。
「お父さんとお母さんってことは叶愛、一人っ子?」
「そうそう、お母さんもお父さんも兄弟が多い環境で育ったから子供は一人がいいって話になったみたいなんだよね」
「そっかそっか、なんとなく叶愛にはお姉ちゃんがいるのかなって思ってたよ」
「本当になんとなくだね」
「そうだね、本当になんとなくね。強いて言うなら僕の勘かな、当たらなかったけど」
「何それ、想君たまには面白いね」
たまにはは余計だったね、と叶愛は自分で言ったことにおかしそうに笑ってくれた。
なんとなくとは言ったけれど、これには僕なりの考察があった。
知り合ったばかりとは思えないほどの自然な距離感と口調。それとは対照的な神楽への人見知りの仕方、いつまでも敬語が外れないところ。白石への甘え方、よく懐いているのがすぐにわかった。それに愛想のない僕への距離の詰め方、距離感は近いけれど不快感がない不思議さ。その全てからなんとなく、僕は彼女の妹気質を感じていた。
まぁ、結果はかすりもせずに外していたのだけど。
僕は僕なりに、それも無意識のうちに、叶愛のことを知ろうとしていたのかもしれない。
「想君も一人っ子?」
「今は一人だけど、本当は兄がいるんだ」
「お兄さんか——想君が弟っていうイメージないかも」
「そうかな」
「想君はどちらかというと頼り甲斐のあるお兄さんってイメージ」
「頼り甲斐のあるお兄さん、か」
「想君のお兄さんってどんな人?」
「改めて説明するってなると少し難しいけど——」
好奇心に満ちた叶愛の瞳が僕へ答えを急かす。
僕の兄について、改めて“どんな人“かを考えるのはいつぶりだろう。僕の中で“兄“としての存在が大きくて、一人の人間として見たことは今までなかったかもしれない。
一回り以上歳が離れていて、低身長の父と母とは似つかないほどの高身長。容姿は僕の記憶の限りかなり整ってる方だったと思う。騙されやすくて、よく言えば天然で。痛い目を見ることもあるけれど、それ以上にたくさんの人に恵まれそうな——生きている時間のすべてを楽しむことができそうな、そんなタイプの人間。
愛想がよくて、気遣いができて、人に優しい、僕とはまるで正反対の人間。
そして僕が大好きで、大切な人だ。
「僕と一回り近く歳が離れてて、すごく優しい人だよ。すごく簡潔にまとめるとね」
「そんなに歳が離れているなら想君が小さい時はたくさん遊びに行ったりしたんじゃない?」
「遠くに行くことはできなかったけど、よく一緒に遊んでもらってたよ」
「お兄さんと二人で撮った写真とかある?」
「そんなに多くは持ってないけど——これとか、わかりやすいかな」
病室で撮った写真は十数枚残っていたけれど、説明が難しくなりそうで病院の敷地内で撮った兄も僕も私服を着た写真を選んで渡した。
僕が四歳くらいで、兄は確か二十歳だっただろうか。
「確かに目元がそっくりだね、この笑った時の感じが特に似てる」
大半の時間を病院で過ごしていた僕にとって、兄との遊びは院内の中庭を車椅子で散歩することだった。睡眠、食事、運動、生きるための行為すべてに、先の見えない制限が課せられていた僕の生活にとって、兄と言葉を交わす時間は光であり希望そのものだった。
兄がよく笑う人だったから、僕も笑ってみたら兄のようになれるかもしれないと思った。ああ、だからかもしれない、だから僕はどの写真を見ても笑っているのかもしれない。
「叶愛はもし兄弟がいたとしたらなにがしたい?」
「私、お姉ちゃんになってみたいってずっと思ってるんだよね。もしその夢が叶っていたら妹をたくさん可愛がりたい」
「可愛がる?」
「髪を結ってあげたり、お揃いの服で出掛けたり、可愛いスイーツを一緒に食べたり、恋話したり! たくさん甘やかしてあげたいなぁ」
「叶愛はすごくいいお姉さんになりそうだね」
ありもしない空想の話が膨らんでいく「そうかなぁ、甘やかしすぎてすっごくわがままな子に育っちゃいそう」なんてケタケタと笑う叶愛を見て安心した。
必要以上に空気を読んで気を遣う感覚が、今の僕の中にはない。
「ねぇ想君のお兄さん、今はどこにいるの? 歳も離れてるし、違うところに住んでるのかなって思って」
「お兄ちゃんは今——」
わかってる、叶愛の質問に悪気がないことなんてよくわかっている。
でもどこかで「なんとなく察してほしい」とわがままに思ってしまう僕がいた。
真実を告げるべきか、それとも嘘で誤魔化すべきか。知らないとしらを切るべきか、無理矢理にでも話を逸らすべきか。
数秒間で無数の選択肢が脳を駆け巡る、きっと兄の本当のことなど叶愛には関係のないことで聞き流せる程度のこと。契約的に付き合った異性の親族のことなんて数ヶ月すれば忘れる、そうであってほしい。それならもう——。
「事故で亡くなったんだよね」
すべてを言ってしまってもいいのかなと、思ってしまった。
「事故——」
「ちょうど十年前の夏にね、交通事故で亡くなっちゃて」
「想君」
このタイミングで名前を呼ばれた、正直嫌な予感しかしない。
つらかったよね、なんて慰めか。触れられたくないことを聞いちゃってごめんね、なんて謝罪か。
それらは兄の葬儀の時に親戚から数えきれないほど言われてきたことで、僕はそれ以来その言葉たちが嫌いになった。なにを言われても「大丈夫」と言うしかないからだ。だから叶愛には、そのどちらも言わないでほしい、僕はただそう願っていた。
「答えたくなかったら、答えなくて大丈夫なんだけどね」
叶愛の顔色が曇る、言いづらそうに口篭っているのが伝わる。
その沈黙は数分続いた。叶愛は酷く動揺していて、こころなしか少し顔色もよくないような気がする。それでも躊躇いながら深く息を吸い、僕の目をまっすぐ見ながら口を開いてくれた。
「その事故が起きた場所って、どこ?」
予想もしていなかった。
だって事故について話した時により深い質問を返されたことは、初めてだったから。
「ここからすぐの大学病院前の大通りだよ」
「そっか——ごめんね。突然変なこと聞いちゃってごめん」
「僕は全然大丈夫だけど、その事故がどうかしたの?」
「なんでもないよ。ただ最近に起きた事故だったら、余計に思い出させちゃってないかなってちょっと心配になっただけ——最近もこの辺りで事故があったみたいだからさ」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ、最初にも言ったけどもう十年も前の話だからね」
「そうだよね、最初に話してくれていたのに言葉の衝撃が強くて頭から抜けちゃってた」
なんとなく今、あからさまになにかを誤魔化されたような気がした。
“もう十年も前のこと“なんて、僕自身が言葉にしてしまった。
何年経っても、あの日の、あの瞬間を引きずっている僕が、その場を逃げるためにそんな言葉を発している。きっと今日は上手く眠れない、目を瞑ることすら億劫な夜になってしまうかもしれない。
今でもたまに目を瞑った暗さの中に、記憶の中の兄の影が映ってしまう夜が来る。
それは大抵、兄に対する罪悪感に襲われる夜だったりする。
「そろそろ外も暗くなってきたし帰ろうか、叶愛が嫌じゃなければ駅まで送るよ」
「長居しちゃってごめんね。でも色々話せて良かった、ありがとう」
兄の話の後の様子が心配だったけれど、最後には「今日、とっても楽しかったよ」といつもの叶愛の笑顔を見せてくれた。
母が帰ってくる前に、父が目を覚ます前に、叶愛を家へ返さなければいけない。安全のためになるべく街頭の多い通りを選んで駅へ向かった。
家までの道を聞くと、あの大学病院の大通りを通るのが一番の近道だった。でも僕は知らないフリをして、わざと遠回りの道を一緒に歩こうと提案した。
電車が到着するまで待ち、車窓越しに手を振る彼女に手を振り返して見えなくなるまで見届ける。
「今日は突然だったのにありがとう。また明日、学校で会おうね」
送り出した後、僕は原因のわからない寂しさに襲われて初めて叶愛にメッセージを送った。夏祭りの帰り道に連絡先を交換したときは使わないだろうと思っていたけれど今になって交換していてよかったと思った。
「こちらこそありがとう! 想君のこと知れて素敵な時間になったと思う。また明日ね!」
返信はすぐに来た、僕もすぐにそれに気づいた。
でも、すぐに返そうとはしなかった。
これ以上会話を続ける方法が分からなかったからだ。ここで「そうだね、また明日」なんてつまらない返しをしてしまったらきっとスタンプひとつで会話が終わってしまう。
兄のことを思い出したからか異様な寂しさを感じている僕は、今、誰かと繋がっていたい気持ちが強い。
また後で、どうしても誰かの存在を欲してしまった時になにか返そう。
そう思い、僕はスマートフォンをポケットにしまって一人、大学病院前の大通りを辿って家へ向かった。