祭り会場を埋め尽くす、見渡す限り広がる人の群れに圧倒される。
視線を移すたびにチカチカと目に映る浴衣の色に酔いそうになる。
「想君!」
背後から、誰かが僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
聞き間違いという可能性が頭を過ったけれど、僕は何故かその声に自然と足を止めてしまっている。
振り向いた先には、人混みを掻き分け僕に手を振り駆け寄る、淡い青色の浴衣に身を包んだ彼女の姿があった。
「……叶愛さん」
「ごめんね、たぶん私のこと探してくれてたでしょ……お待たせしちゃったよね」
「僕も今着いたところだから、気を遣わないで大丈夫だよ」
「お気遣いありがとう、それなら行こっか」
「叶愛さん、ちょっと待って。神楽と白石は……」
「さっき『後から合流しよう!最初は二人で楽しんで!』って寧々ちゃんから連絡があったんだよね」
「……そういうことか」
数日前、バス停での別れ際に神楽の表情から何らかの企みを感じた理由が今わかった。
そしてその神楽の企みに快く了承して加担する白石の表情まで、今の僕には容易く想像できる。
無意識に足を止めてしまっていた。立ち止まっていても仕方がないことに気づき、彼女の手を引き屋台街へ足を進める。
綿菓子、林檎飴、イカ焼き、お面、夏祭りらしいカラフルな暖簾とそれを埋め尽くす人の群れの中へ入っていく。
「叶愛さん、ここの夏祭りは初めてだよね」
「そうだね、この街の夏祭りもだけど……私、お祭り自体が生まれて初めてなんだよね」
「叶愛さんが住んでた街には夏祭り、なかったの?」
「あったんだけど予定が合わなくて毎年行けてなかったんだよね」
「じゃあその浴衣も初めて着たの?」
「そう!着付けはお婆ちゃんがしてくれたんだよね」
「そうだったんだ」
「ねぇ想君」
「ん?」
「綺麗?」
「えっ……?」
彼女の指す『綺麗』の対象が浴衣なのか、それとも彼女自身なのか。究極の二択を前に、返答に詰まる。
僕の答えを待つ彼女の表情はこころなしか何かを期待しているような雰囲気をしていて、それが一層僕の言葉を詰まらせる。
「浴衣の模様、すごく綺麗だと思う。すごく似合ってるよ」
「そっか、嬉しい」
わずかに頬を赤る彼女をみて、勘違いさせてしまったのではないかと数秒前の発言を取り消したくなる。
彼女へ告げた答えに嘘はない。浴衣が綺麗なことも本当で、その青色は彼女の白い肌によく馴染んでいて美しい。
全て本当のことだからこそ、勘違いさせてしまった時の言い逃れができない。
ただ数週間前に出会い、偶然隣の席になった。彼女にとってそれくらいの関係でしかない僕が、彼女の感情を弄ぶようなことは間違ってもしたくない。してはいけないとも思う。
「初めてなら下駄とか履き慣れてないと思うし、痛くなったり休憩したくなったら遠慮しないで教えてね」
「ありがとう、想君優しいね」
「そうかな……そんなことはどうでもいいよ、夏祭りが初めてなら叶愛さんがしたいこと全部しよう」
「私がしたいこと?」
「そう、食べたいものとかやってみたいこととか何かあると思うから」
そう僕が提案して数秒後、屋台の暖簾を見渡す彼女の口角が上がった。
幼い子供のように目を輝かせながら、忙しく動く空間を目で追っていく。
「あれ、やってみたい!」
彼女が指差す方向に構えられていたのは紅白の暖簾が掛かった射的の屋台。
「いいね夏祭りっぽい」
「想君もそう思う?楽しそうだよね!じゃあ行こっか」
彼女が僕の手を引き、屋台へ駆ける。
軽快に下駄を鳴らしながら、華奢な身体が人混みをすり抜けていく。時々振り向いて僕に笑いかけるその顔の無邪気さが僕の記憶のどこかと重なった。
「射的二人分お願いします!」
「可愛いお姉さんとかっこいいお兄さんのカップルだね!弾の数、ちょっと多くしとくよ」
彼女の注文へ、屋台のおじさんが気の良さそうにそう返した。
戸惑う彼女と、その状況に余計混乱する僕、お構いなしに弾の入った器を差し出すおじさん。
怪しまれないように受け取り、彼女に銃を手渡す。
「想君……?」
「多く楽しめるってことだよ、思いっきり楽しも」
彼女の不慣れな銃の構えから飛び出たのは、覇気のない弾だった。
銃から伝った振動に衝撃を受けながら彼女が視線で僕へ助けを求める。正直得意ではないけれど、ここで『頑張って』とただ励ますことも『初めてにしては上手だよ』と褒めることも不正解のような気がした。
「叶愛さんはどの景品を狙ってるの?」
「一番上のぬいぐるみ!でもなかなか弾が届きそうになくて……」
「弾の出る部分をぬいぐるみに向けるといいよ、あとは少し前屈みになって、ちょっとだけ力を抜く」
ぬいぐるみの隣の駄菓子を手本に撃つ、運よく的中し綺麗に落下する。
外れていた時のことを想像すると、かなり恥ずかしい。
「想君すごい!もしかして射的得意なの?」
「やったことはないんだけどね、偶然かな。きっと叶愛さんにもできるよ」
彼女の姿勢が前のめりになる。台に手をつき片目を閉じ、最大限に腕を伸ばす。
恋人でも友達でもないけれど、彼女の必死な姿に再び可愛らしさを覚えてしまった。
「当たった!」
狙っていたぬいぐるみの頭部に弾が当たったものの、重さのせいかぬいぐるみは微動だにしない。
その後も残りの弾を撃ち、全て当たったけれど狙っていたぬいぐるみが落ちることはなかった。
「……難しいね」
「なかなかぬいぐるみは重いから落とすには難しいのかもね、でも叶愛さん初めてなのに全部当たっててすごいよ」
「想君の教え方が上手だったんだよ!ありがとう」
「そんなことないよ、叶愛さんの勘がいいんだよ」
唯一の景品である駄菓子をつまみながら人通りの少ない路地を通過する。
人の多い屋台街に戻る前に一度休憩を挟もうと近くにあったベンチへ腰掛けた。
「想君はよかったの?」
「何が?」
「神楽君とか寧々ちゃんと一緒に行かなくてよかったのかなって思って」
「さすがの僕でも夏祭りにカップルの邪魔はできないかな」
「カップル……?神楽君と寧々ちゃんが?」
「そっかまだ叶愛さんにちゃんと話してなかったね、神楽と白石付き合ってるんだよ」
「そうだったんだ」
「なんとなくバレてる部分はあったかなっては思うけどね、あの二人そういうこと隠す気ないし……」
「二人が仲良しなのは雰囲気から伝わってくるよ、でもカップルだとは思わなかったな」
「入学してからずっとなんだよね、お互いに見てて怖いくらい一途でさ」
「ちょっとそういうの憧れるかも」
「え?」
「好きな人に好きって言えること、私は憧れる」
妙に素直な彼女の呟きに少し焦る。
数週間前に知り合った彼女のことを、僕はまだ詳しく知らない。高校三年生という稀な時期に転入してきた経緯も、彼女自身の対人関係も、貴重な初めての夏祭りを過ごす相手にこんな僕を選んだ理由も。彼女に近づくほど、僕の中での彼女は謎に包まれていく。
「そろそろ屋台街に戻ろうか、お腹とか空いてない?」
「そうだね、私そういえば食べてみたいものがあったんだ」
「食べてみたいもの?」
「林檎飴、お祭りに行ったら食べたいって思ってたんだよね」
数秒前の大人びた呟きの帳尻を合わせるように、彼女は子供のような夢を語る。
僕はその温度差への戸惑いを隠すように口角をあげ、口を動かす。
「林檎飴……探そっか、僕とどっちが先に見つけられるか勝負ね」
子供のような夢に応えるように、子供のような勝負を持ちかける。
乗り気な彼女をみながら、暖簾を目で追う。それと同時に数十分前とは比べ物にならない人の波に気づく。
「見つけた!私の勝ちね」
そう無邪気に告げ、射的同様、彼女は屋台へ駆けて行った。
彼女の浴衣の裾と色素の薄い髪が揺れる、そして向けられた掌を追いかけるように僕も小さく手を伸ばす。
「林檎飴二つください!」
店主から手渡されたうちの一つを僕に差し出す。受け取ったのは僕なのに、なぜか『ありがとう』と彼女は言った。
聞きそびれた。容姿の基準はわからないけれど、素直で話し上手でよく笑う彼女に本当に恋人がいないのか。その禁断の質問をするチャンスは、間違いなく神楽と白石の話題の中にあったと林檎飴を頬張る彼女を見た瞬間に思い出した。
こんな僕を夏祭りへ誘っている時点で、いないことは確定と判断していいだろう。ただ僕はその理由が気になる。
「ねぇ叶愛さん」
「ん?」
「やっぱなんでもない、林檎飴ありがとう」
踏みとどまった。デリカシーの欠片もないような質問を喉へ押し込む。
言ってしまっていた未来を想像して鳥肌が立つ。踏みとどまれたのは、僕の意気地なしが報われた唯一の瞬間かもしれない。
「想!楪さん!」
「神楽と……白石?」
「偶然だな、どこかで合流できたらって寧々と話してたところなんだよ」
「久遠君と叶愛ちゃんが楽しそうでよかった」
「白石はいいとして……神楽は揶揄いに来ただけだろ」
「彼女持ちの先輩として想にアドバイスしにきたんだよ、有り難く思え」
「アドバイス……?」
「楪さん、ちょっと想のこと借りるね。寧々、少しの間楪さんと待っててくれないか」
そう言い、神楽は僕の手を引きながら屋台街を抜けた。
不思議そうな彼女の肩に手を置きながら、白石が神楽へ頷き手を振る。
「白石と叶愛さん置いてきたら危ないだろ、こんな人混みに女の子二人だけなんて」
「大丈夫、寧々は柔道黒帯だし危機管理能力は人並み以上にあるから」
「だけどさ……」
「それより今は想の方が心配なんだよ」
「僕?」
「初めてだろ、楪さんと二人きりでいること」
「確かに初めてだけど……それなりに上手く進んでると思うよ」
「ならとりあえずは安心だけど……この後はどうする予定?」
「この後は……遅くなる前に返す予定だよ、叶愛さんのご両親も心配するだろうし」
我ながら最適解だと思っていた予定を答えたけれど、神楽の眉間に寄っている皺から僕の回答が不正解であることを察した。
どうしても僕はまだ恋愛的な意味での正解を導き出せない。
「想、まさか花火も観ずに帰らせようとしてないよな」
「花火?」
「まさか……知らない?」
「最後に行った時には花火なんてなかったし、今年もないものかと……」
「馬鹿、そういう大事なことはちゃんと調べてから来いよ」
「それは……ごめん」
「あのビルの屋上が花火を観るのにちょうどいいんだよ」
「そうなんだ、神楽はやっぱり詳しいね」
僕の言葉に呆れたような視線を向ける。
わざとらしく大きな溜め息をついたあと、人差し指で僕を差す。
「想、もちろん行くよな?」
「それ以外の選択肢なんて残されてないんでしょ……?」
「よくわかってるじゃん」
神楽が僕の肩へ喝をいれ、何事もなかったかのように二人の元へ戻っていく。
屋上で花火を観るなんて青春ドラマのワンシーンに覚悟を決めきれないまま、神楽に急かされるままその背についていく。
「寧々、楪さん待たせちゃってごめんね」
「やっと帰ってきた、二人で何話してたの?」
「内緒、俺と想だけの会議だよ」
「まぁいっか、叶愛ちゃんも残りの夏祭り楽しんでね」
肌が触れ合うほどの距離感で手を繋ぎ、二人は人混みに溶けていく。
残された微妙な距離感の僕達の間に流れる沈黙を裂くように、無線放送の声が響いた。
『二十一時より花火の打ち上げを開始します。二年越し、待望の打ち上げ花火。二十一時より打ち上げ開始です』
放送後、反射的に彼女へ視線を向けた。
打ち上げ場所付近へ流れていく人の波に流されないように立つ彼女の手を取る。
「叶愛さん花火は苦手じゃない?」
「実は花火もみたことなくてさ、だから観てみたいな」
「それじゃあ行こうか、あのビルの上が一番よく観えるんだって」
不意に彼女の手に触れてしまった。
気づかれていないことを願うが、きっとそんなことはない。遠慮したように手を繋いだまま、屋上への階段を登る。
彼女の下駄の音が僕の鼓動と重なり、それが無意識に早くなっていることに気づく。
「想君も花火初めて?」
「小さい時に観たことがあるのかもしれないけど、あんまり覚えてはいないかな」
「そうだったんだ、じゃあほぼ初めてみたいなものだね」
行き着いた屋上に人はおらず、野良猫と古びた自販機だけが残されていた。
廃れたビルの屋上、喫煙スペースから離れた場所に唯一汚れの酷くないベンチが置かれている。
打ち上げまで数秒、その一瞬が異様に長く感じてしまい彼女を気遣う余裕すら失いそうになる。
「こっちの方がよく観えるかな、下駄で長時間歩いて疲れただろうから少し座ろうか」
「そうだね、ありがとう」
躊躇いながら隣へ座り、まだ暗いだけの空を見つめる。
彼女の仰ぐ扇子からの風が緊張で熱った身体に心地いい、秒針よりもはやく刻まれる鼓動に耐える。
視線だけ移して覗いた彼女の横顔は涼しげで、打ち上げられる花火への期待の笑みで満たされていた。
「あっ……」
暗い夜空に鮮やかな赤が一輪咲いた。
歓声と共に隙間もなく打ち上げられていく。
隣からの風が止まる。
風が止んだ隣を向くと、夜空を埋め尽くす華に目を奪われている彼女がいた。扇子を仰いでいた手は、静かに膝の上に乗っている。
「綺麗だね」
「綺麗……初めてだよ」
僕が過去に読んだことのある恋愛小説では『君のほうが綺麗だよ』というここでの正解が記されていた。神楽は今頃、白石にそんな言葉をかけているのだろうか。
僕の隣には恋人でなければ、友達かも怪しい、分類の難しい関係に在る異性がいる。
この場での立ち回り方に戸惑うけれど、きっと何も言わずに花火を観ていることが妥当な選択だと思う。数分間の勢いに乗せて放たれる華をみつめるだけ。美しいようでどこか寂しい、ただそれ以上の正解が僕の頭の中には見当たらなかった。
「ねぇ想君」
「ん?」
「高校を卒業するまで、私を形だけの彼女にしてくれませんか」
「……え?」
急な告白に戸惑う、ただ彼女の口調に冗談は含まれていないような気がした。
花火に視線を向けたまま言葉を放って数秒、彼女の視線が僕へ移る。僕の動揺とは対照的な落ち着いた表情の彼女が僕の返答を待っている。
「どういう意味……?」
「そのままだよ、形だけ恋人同士になってほしいの」
彼女が何を言っているのか、何が望みなのか理解が追いつかない。
よくある告白ならまだ受け入れることができる、僕は『形だけ』という聞き慣れない言葉に疑問と違和感を抱いている。
そしてその言葉を当然かのように僕へ向ける彼女に困惑している。
「どうして急に……そんな気持ちのない付き合い方なんて叶愛さん自身に失礼だよ」
「私はいいの。私が転入してきたことで想君には大変な思いをさせちゃってるから、そのお詫びをさせて欲しい」
「お詫びなんて……それに僕は、叶愛さんが転入してきて大変だなんて思ったことないよ」
「みててわかるよ、隣の席になってから感じとることもあるし」
「それは神楽とか白石が揶揄ったりしてくること?」
「それも少しはあるけど、それ以外にも想君が噂に巻き込まれてること知っちゃったんだよね」
「えっ……」
話を聴くと、僕が隠していたつもりの事実のほとんどを彼女は既に知っていた。
彼女に気を遣わせないように内緒にしていたことが、彼女の口から淡々と零されていく。
僕は器用に否定することもできずに頷くことしかできなかった。
「想君もいい気持ちはしないでしょ、ありもしないことを言われ続けること」
「それは……」
「それなら全部本当にすれば、収まる話もあると思うんだよね」
少し強引な誘いではあるけれど、彼女の言うことも一理ある。
彼女が恋人という嘘が噂で流れている現状を本当に恋人になることで単なる真実に変えるという単純な話。
頭ではわかっていても、お互いに気持ちのない恋愛という形式にやはりどこか気が引けた。
「叶愛さんはいいの?転校してきてこれから出逢う人の方が多いのに、僕と仮にでも付き合ったらそれを妨げてしまうことになるでしょ」
「私はいい、想君は想君自身のことを考えてほしい」
「どうして僕にそこまで……まだ大したこともしてないのに、叶愛さんのためになるようなこと何もしてあげられてないのに」
「嬉しかったの、なんの偏見もなく転校してきた私と話をしてくれて」
「……え?」
「普通怪しむでしょ、高校三年生の夏休み後に転校なんて……何か事情があるんじゃないかって」
「それは……」
「仮に内心想君がそう思っていたとしても、煙たがらずに接してくれたことが私はすごく嬉しかったんだ」
今の彼女の言葉に、きっと嘘はないと思う。
数秒前には感じられなかった少し震えたような声と、それを隠すための所作からわかる。彼女の抱いている感情が恋愛感情かそれ以外のものなのか、今の僕にはわからないけれど、きっとこの誘いに乗ることは僕にとっても、彼女にとっても間違いではないような気がした。
「じゃあ一つ、僕と約束してほしいことがある」
「何?」
「叶愛さんに本当に好きな人ができたら、僕のことはなかったことにすること」
「それは想君も同じだよ」
「そんなこと、僕には無縁の話だよ」
「それはまだわからないよ、想君にだって出逢いはある」
「そうだね、確かに人との出逢いはあるね」
「先のことは置いといて、今日からよろしくね。形だけだってことは私達だけの秘密で、恋人同士として」
形式上の恋人、卒業までの期限付き、それが僕達の秘密。
きっと数ヶ月後卒業して僕が数えきれない人と出逢ったとしても、誰かを心から好きだと思える日は生涯来ない。
ただ、そんな僕だからこそ承諾できた秘密だと思う。
夏祭り、幻想的な夜空に包まれながら、僕達は誰にも明かすことのできない契約的な恋愛の始まりを交わした。
視線を移すたびにチカチカと目に映る浴衣の色に酔いそうになる。
「想君!」
背後から、誰かが僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
聞き間違いという可能性が頭を過ったけれど、僕は何故かその声に自然と足を止めてしまっている。
振り向いた先には、人混みを掻き分け僕に手を振り駆け寄る、淡い青色の浴衣に身を包んだ彼女の姿があった。
「……叶愛さん」
「ごめんね、たぶん私のこと探してくれてたでしょ……お待たせしちゃったよね」
「僕も今着いたところだから、気を遣わないで大丈夫だよ」
「お気遣いありがとう、それなら行こっか」
「叶愛さん、ちょっと待って。神楽と白石は……」
「さっき『後から合流しよう!最初は二人で楽しんで!』って寧々ちゃんから連絡があったんだよね」
「……そういうことか」
数日前、バス停での別れ際に神楽の表情から何らかの企みを感じた理由が今わかった。
そしてその神楽の企みに快く了承して加担する白石の表情まで、今の僕には容易く想像できる。
無意識に足を止めてしまっていた。立ち止まっていても仕方がないことに気づき、彼女の手を引き屋台街へ足を進める。
綿菓子、林檎飴、イカ焼き、お面、夏祭りらしいカラフルな暖簾とそれを埋め尽くす人の群れの中へ入っていく。
「叶愛さん、ここの夏祭りは初めてだよね」
「そうだね、この街の夏祭りもだけど……私、お祭り自体が生まれて初めてなんだよね」
「叶愛さんが住んでた街には夏祭り、なかったの?」
「あったんだけど予定が合わなくて毎年行けてなかったんだよね」
「じゃあその浴衣も初めて着たの?」
「そう!着付けはお婆ちゃんがしてくれたんだよね」
「そうだったんだ」
「ねぇ想君」
「ん?」
「綺麗?」
「えっ……?」
彼女の指す『綺麗』の対象が浴衣なのか、それとも彼女自身なのか。究極の二択を前に、返答に詰まる。
僕の答えを待つ彼女の表情はこころなしか何かを期待しているような雰囲気をしていて、それが一層僕の言葉を詰まらせる。
「浴衣の模様、すごく綺麗だと思う。すごく似合ってるよ」
「そっか、嬉しい」
わずかに頬を赤る彼女をみて、勘違いさせてしまったのではないかと数秒前の発言を取り消したくなる。
彼女へ告げた答えに嘘はない。浴衣が綺麗なことも本当で、その青色は彼女の白い肌によく馴染んでいて美しい。
全て本当のことだからこそ、勘違いさせてしまった時の言い逃れができない。
ただ数週間前に出会い、偶然隣の席になった。彼女にとってそれくらいの関係でしかない僕が、彼女の感情を弄ぶようなことは間違ってもしたくない。してはいけないとも思う。
「初めてなら下駄とか履き慣れてないと思うし、痛くなったり休憩したくなったら遠慮しないで教えてね」
「ありがとう、想君優しいね」
「そうかな……そんなことはどうでもいいよ、夏祭りが初めてなら叶愛さんがしたいこと全部しよう」
「私がしたいこと?」
「そう、食べたいものとかやってみたいこととか何かあると思うから」
そう僕が提案して数秒後、屋台の暖簾を見渡す彼女の口角が上がった。
幼い子供のように目を輝かせながら、忙しく動く空間を目で追っていく。
「あれ、やってみたい!」
彼女が指差す方向に構えられていたのは紅白の暖簾が掛かった射的の屋台。
「いいね夏祭りっぽい」
「想君もそう思う?楽しそうだよね!じゃあ行こっか」
彼女が僕の手を引き、屋台へ駆ける。
軽快に下駄を鳴らしながら、華奢な身体が人混みをすり抜けていく。時々振り向いて僕に笑いかけるその顔の無邪気さが僕の記憶のどこかと重なった。
「射的二人分お願いします!」
「可愛いお姉さんとかっこいいお兄さんのカップルだね!弾の数、ちょっと多くしとくよ」
彼女の注文へ、屋台のおじさんが気の良さそうにそう返した。
戸惑う彼女と、その状況に余計混乱する僕、お構いなしに弾の入った器を差し出すおじさん。
怪しまれないように受け取り、彼女に銃を手渡す。
「想君……?」
「多く楽しめるってことだよ、思いっきり楽しも」
彼女の不慣れな銃の構えから飛び出たのは、覇気のない弾だった。
銃から伝った振動に衝撃を受けながら彼女が視線で僕へ助けを求める。正直得意ではないけれど、ここで『頑張って』とただ励ますことも『初めてにしては上手だよ』と褒めることも不正解のような気がした。
「叶愛さんはどの景品を狙ってるの?」
「一番上のぬいぐるみ!でもなかなか弾が届きそうになくて……」
「弾の出る部分をぬいぐるみに向けるといいよ、あとは少し前屈みになって、ちょっとだけ力を抜く」
ぬいぐるみの隣の駄菓子を手本に撃つ、運よく的中し綺麗に落下する。
外れていた時のことを想像すると、かなり恥ずかしい。
「想君すごい!もしかして射的得意なの?」
「やったことはないんだけどね、偶然かな。きっと叶愛さんにもできるよ」
彼女の姿勢が前のめりになる。台に手をつき片目を閉じ、最大限に腕を伸ばす。
恋人でも友達でもないけれど、彼女の必死な姿に再び可愛らしさを覚えてしまった。
「当たった!」
狙っていたぬいぐるみの頭部に弾が当たったものの、重さのせいかぬいぐるみは微動だにしない。
その後も残りの弾を撃ち、全て当たったけれど狙っていたぬいぐるみが落ちることはなかった。
「……難しいね」
「なかなかぬいぐるみは重いから落とすには難しいのかもね、でも叶愛さん初めてなのに全部当たっててすごいよ」
「想君の教え方が上手だったんだよ!ありがとう」
「そんなことないよ、叶愛さんの勘がいいんだよ」
唯一の景品である駄菓子をつまみながら人通りの少ない路地を通過する。
人の多い屋台街に戻る前に一度休憩を挟もうと近くにあったベンチへ腰掛けた。
「想君はよかったの?」
「何が?」
「神楽君とか寧々ちゃんと一緒に行かなくてよかったのかなって思って」
「さすがの僕でも夏祭りにカップルの邪魔はできないかな」
「カップル……?神楽君と寧々ちゃんが?」
「そっかまだ叶愛さんにちゃんと話してなかったね、神楽と白石付き合ってるんだよ」
「そうだったんだ」
「なんとなくバレてる部分はあったかなっては思うけどね、あの二人そういうこと隠す気ないし……」
「二人が仲良しなのは雰囲気から伝わってくるよ、でもカップルだとは思わなかったな」
「入学してからずっとなんだよね、お互いに見てて怖いくらい一途でさ」
「ちょっとそういうの憧れるかも」
「え?」
「好きな人に好きって言えること、私は憧れる」
妙に素直な彼女の呟きに少し焦る。
数週間前に知り合った彼女のことを、僕はまだ詳しく知らない。高校三年生という稀な時期に転入してきた経緯も、彼女自身の対人関係も、貴重な初めての夏祭りを過ごす相手にこんな僕を選んだ理由も。彼女に近づくほど、僕の中での彼女は謎に包まれていく。
「そろそろ屋台街に戻ろうか、お腹とか空いてない?」
「そうだね、私そういえば食べてみたいものがあったんだ」
「食べてみたいもの?」
「林檎飴、お祭りに行ったら食べたいって思ってたんだよね」
数秒前の大人びた呟きの帳尻を合わせるように、彼女は子供のような夢を語る。
僕はその温度差への戸惑いを隠すように口角をあげ、口を動かす。
「林檎飴……探そっか、僕とどっちが先に見つけられるか勝負ね」
子供のような夢に応えるように、子供のような勝負を持ちかける。
乗り気な彼女をみながら、暖簾を目で追う。それと同時に数十分前とは比べ物にならない人の波に気づく。
「見つけた!私の勝ちね」
そう無邪気に告げ、射的同様、彼女は屋台へ駆けて行った。
彼女の浴衣の裾と色素の薄い髪が揺れる、そして向けられた掌を追いかけるように僕も小さく手を伸ばす。
「林檎飴二つください!」
店主から手渡されたうちの一つを僕に差し出す。受け取ったのは僕なのに、なぜか『ありがとう』と彼女は言った。
聞きそびれた。容姿の基準はわからないけれど、素直で話し上手でよく笑う彼女に本当に恋人がいないのか。その禁断の質問をするチャンスは、間違いなく神楽と白石の話題の中にあったと林檎飴を頬張る彼女を見た瞬間に思い出した。
こんな僕を夏祭りへ誘っている時点で、いないことは確定と判断していいだろう。ただ僕はその理由が気になる。
「ねぇ叶愛さん」
「ん?」
「やっぱなんでもない、林檎飴ありがとう」
踏みとどまった。デリカシーの欠片もないような質問を喉へ押し込む。
言ってしまっていた未来を想像して鳥肌が立つ。踏みとどまれたのは、僕の意気地なしが報われた唯一の瞬間かもしれない。
「想!楪さん!」
「神楽と……白石?」
「偶然だな、どこかで合流できたらって寧々と話してたところなんだよ」
「久遠君と叶愛ちゃんが楽しそうでよかった」
「白石はいいとして……神楽は揶揄いに来ただけだろ」
「彼女持ちの先輩として想にアドバイスしにきたんだよ、有り難く思え」
「アドバイス……?」
「楪さん、ちょっと想のこと借りるね。寧々、少しの間楪さんと待っててくれないか」
そう言い、神楽は僕の手を引きながら屋台街を抜けた。
不思議そうな彼女の肩に手を置きながら、白石が神楽へ頷き手を振る。
「白石と叶愛さん置いてきたら危ないだろ、こんな人混みに女の子二人だけなんて」
「大丈夫、寧々は柔道黒帯だし危機管理能力は人並み以上にあるから」
「だけどさ……」
「それより今は想の方が心配なんだよ」
「僕?」
「初めてだろ、楪さんと二人きりでいること」
「確かに初めてだけど……それなりに上手く進んでると思うよ」
「ならとりあえずは安心だけど……この後はどうする予定?」
「この後は……遅くなる前に返す予定だよ、叶愛さんのご両親も心配するだろうし」
我ながら最適解だと思っていた予定を答えたけれど、神楽の眉間に寄っている皺から僕の回答が不正解であることを察した。
どうしても僕はまだ恋愛的な意味での正解を導き出せない。
「想、まさか花火も観ずに帰らせようとしてないよな」
「花火?」
「まさか……知らない?」
「最後に行った時には花火なんてなかったし、今年もないものかと……」
「馬鹿、そういう大事なことはちゃんと調べてから来いよ」
「それは……ごめん」
「あのビルの屋上が花火を観るのにちょうどいいんだよ」
「そうなんだ、神楽はやっぱり詳しいね」
僕の言葉に呆れたような視線を向ける。
わざとらしく大きな溜め息をついたあと、人差し指で僕を差す。
「想、もちろん行くよな?」
「それ以外の選択肢なんて残されてないんでしょ……?」
「よくわかってるじゃん」
神楽が僕の肩へ喝をいれ、何事もなかったかのように二人の元へ戻っていく。
屋上で花火を観るなんて青春ドラマのワンシーンに覚悟を決めきれないまま、神楽に急かされるままその背についていく。
「寧々、楪さん待たせちゃってごめんね」
「やっと帰ってきた、二人で何話してたの?」
「内緒、俺と想だけの会議だよ」
「まぁいっか、叶愛ちゃんも残りの夏祭り楽しんでね」
肌が触れ合うほどの距離感で手を繋ぎ、二人は人混みに溶けていく。
残された微妙な距離感の僕達の間に流れる沈黙を裂くように、無線放送の声が響いた。
『二十一時より花火の打ち上げを開始します。二年越し、待望の打ち上げ花火。二十一時より打ち上げ開始です』
放送後、反射的に彼女へ視線を向けた。
打ち上げ場所付近へ流れていく人の波に流されないように立つ彼女の手を取る。
「叶愛さん花火は苦手じゃない?」
「実は花火もみたことなくてさ、だから観てみたいな」
「それじゃあ行こうか、あのビルの上が一番よく観えるんだって」
不意に彼女の手に触れてしまった。
気づかれていないことを願うが、きっとそんなことはない。遠慮したように手を繋いだまま、屋上への階段を登る。
彼女の下駄の音が僕の鼓動と重なり、それが無意識に早くなっていることに気づく。
「想君も花火初めて?」
「小さい時に観たことがあるのかもしれないけど、あんまり覚えてはいないかな」
「そうだったんだ、じゃあほぼ初めてみたいなものだね」
行き着いた屋上に人はおらず、野良猫と古びた自販機だけが残されていた。
廃れたビルの屋上、喫煙スペースから離れた場所に唯一汚れの酷くないベンチが置かれている。
打ち上げまで数秒、その一瞬が異様に長く感じてしまい彼女を気遣う余裕すら失いそうになる。
「こっちの方がよく観えるかな、下駄で長時間歩いて疲れただろうから少し座ろうか」
「そうだね、ありがとう」
躊躇いながら隣へ座り、まだ暗いだけの空を見つめる。
彼女の仰ぐ扇子からの風が緊張で熱った身体に心地いい、秒針よりもはやく刻まれる鼓動に耐える。
視線だけ移して覗いた彼女の横顔は涼しげで、打ち上げられる花火への期待の笑みで満たされていた。
「あっ……」
暗い夜空に鮮やかな赤が一輪咲いた。
歓声と共に隙間もなく打ち上げられていく。
隣からの風が止まる。
風が止んだ隣を向くと、夜空を埋め尽くす華に目を奪われている彼女がいた。扇子を仰いでいた手は、静かに膝の上に乗っている。
「綺麗だね」
「綺麗……初めてだよ」
僕が過去に読んだことのある恋愛小説では『君のほうが綺麗だよ』というここでの正解が記されていた。神楽は今頃、白石にそんな言葉をかけているのだろうか。
僕の隣には恋人でなければ、友達かも怪しい、分類の難しい関係に在る異性がいる。
この場での立ち回り方に戸惑うけれど、きっと何も言わずに花火を観ていることが妥当な選択だと思う。数分間の勢いに乗せて放たれる華をみつめるだけ。美しいようでどこか寂しい、ただそれ以上の正解が僕の頭の中には見当たらなかった。
「ねぇ想君」
「ん?」
「高校を卒業するまで、私を形だけの彼女にしてくれませんか」
「……え?」
急な告白に戸惑う、ただ彼女の口調に冗談は含まれていないような気がした。
花火に視線を向けたまま言葉を放って数秒、彼女の視線が僕へ移る。僕の動揺とは対照的な落ち着いた表情の彼女が僕の返答を待っている。
「どういう意味……?」
「そのままだよ、形だけ恋人同士になってほしいの」
彼女が何を言っているのか、何が望みなのか理解が追いつかない。
よくある告白ならまだ受け入れることができる、僕は『形だけ』という聞き慣れない言葉に疑問と違和感を抱いている。
そしてその言葉を当然かのように僕へ向ける彼女に困惑している。
「どうして急に……そんな気持ちのない付き合い方なんて叶愛さん自身に失礼だよ」
「私はいいの。私が転入してきたことで想君には大変な思いをさせちゃってるから、そのお詫びをさせて欲しい」
「お詫びなんて……それに僕は、叶愛さんが転入してきて大変だなんて思ったことないよ」
「みててわかるよ、隣の席になってから感じとることもあるし」
「それは神楽とか白石が揶揄ったりしてくること?」
「それも少しはあるけど、それ以外にも想君が噂に巻き込まれてること知っちゃったんだよね」
「えっ……」
話を聴くと、僕が隠していたつもりの事実のほとんどを彼女は既に知っていた。
彼女に気を遣わせないように内緒にしていたことが、彼女の口から淡々と零されていく。
僕は器用に否定することもできずに頷くことしかできなかった。
「想君もいい気持ちはしないでしょ、ありもしないことを言われ続けること」
「それは……」
「それなら全部本当にすれば、収まる話もあると思うんだよね」
少し強引な誘いではあるけれど、彼女の言うことも一理ある。
彼女が恋人という嘘が噂で流れている現状を本当に恋人になることで単なる真実に変えるという単純な話。
頭ではわかっていても、お互いに気持ちのない恋愛という形式にやはりどこか気が引けた。
「叶愛さんはいいの?転校してきてこれから出逢う人の方が多いのに、僕と仮にでも付き合ったらそれを妨げてしまうことになるでしょ」
「私はいい、想君は想君自身のことを考えてほしい」
「どうして僕にそこまで……まだ大したこともしてないのに、叶愛さんのためになるようなこと何もしてあげられてないのに」
「嬉しかったの、なんの偏見もなく転校してきた私と話をしてくれて」
「……え?」
「普通怪しむでしょ、高校三年生の夏休み後に転校なんて……何か事情があるんじゃないかって」
「それは……」
「仮に内心想君がそう思っていたとしても、煙たがらずに接してくれたことが私はすごく嬉しかったんだ」
今の彼女の言葉に、きっと嘘はないと思う。
数秒前には感じられなかった少し震えたような声と、それを隠すための所作からわかる。彼女の抱いている感情が恋愛感情かそれ以外のものなのか、今の僕にはわからないけれど、きっとこの誘いに乗ることは僕にとっても、彼女にとっても間違いではないような気がした。
「じゃあ一つ、僕と約束してほしいことがある」
「何?」
「叶愛さんに本当に好きな人ができたら、僕のことはなかったことにすること」
「それは想君も同じだよ」
「そんなこと、僕には無縁の話だよ」
「それはまだわからないよ、想君にだって出逢いはある」
「そうだね、確かに人との出逢いはあるね」
「先のことは置いといて、今日からよろしくね。形だけだってことは私達だけの秘密で、恋人同士として」
形式上の恋人、卒業までの期限付き、それが僕達の秘密。
きっと数ヶ月後卒業して僕が数えきれない人と出逢ったとしても、誰かを心から好きだと思える日は生涯来ない。
ただ、そんな僕だからこそ承諾できた秘密だと思う。
夏祭り、幻想的な夜空に包まれながら、僕達は誰にも明かすことのできない契約的な恋愛の始まりを交わした。