四方から鳴り響く蝉の声を掻き分けて、整備された山道の砂利道を辿る。
 ビニールテープの目印を右に曲がって苔の生えた石段を登った。
 まだ昼前にも関わらず太陽はいつもより高い位置にあるような気がする、そんな状況下でこの傾斜を登るのはなかなかつらい。
 上がった息を整えて、汗で張り付いたシャツの中に風を(あお)いだあと、まっすぐ視線を上げた。

「お兄ちゃん、ひさしぶりだね」

 言葉が返ってこないことなんてわかっているのに、僕は改めてなにも言わない墓石に悲しくなってしまった。音のない兄の居場所を手で触れる。
 墓石は陽に照らされて熱を帯びていて、僕はそれを冷ますように汲んできた水を掛けた。
 兄の体調を気遣うように、丁寧に、暑さと汚れを流す。

「お兄ちゃん、高校最後の夏が終わりそうだよ」
 
 ——
 
「お兄ちゃんの高校生活よりはきっとキラキラしてないけどね、社交的なお兄ちゃんには勝てないよ」
 
 ——
 
「夏はよく体調を崩してたけど、今年は定期検診以外で病院にお世話にならなかったよ。お兄ちゃんのおかげでちょっとは身体も強くなったのかもね」
 
 ——
 
「背も少しだけど伸びてさ、ちょっとは大人になれてるよね」

 当たり前に、兄の声は返ってこなかった。
 兄の身長まで、あと数センチで届く。
 幼い頃は兄の背を越したくて仕方なかったけれど、今はこのまま、僕が小さいままでいたい。
 身長が逆転しても兄は兄のままだけど、なんとなく僕の中でその数センチを越してしまった時、なにかが崩れてしまいそうで怖い。無意識に猫背になっていたことに気づいて背筋を伸ばす。

「あれから十年、早いね」

 兄がこの世を旅立って十回目の夏を迎えた。
 表面上、兄は事故死だった。不慮の事故で、誰にも避けられないことだったと。
 葬儀の後に親戚で集まった時、兄の遺影をみた人は口を揃えて「可哀想」「あんなにいい子だったのに、事故なんてあまりにも悲しい」と(こぼ)した。それを、憔悴しきった父と母に代わって手続きをしてくれた叔母が「誰にも避けられないことだったものね」と、その場を和ませてくれていた。
 ただひとり僕だけが、その言葉に頷くことができなかった。

「ごめんなさい、お兄ちゃん」

 兄を殺したのは僕だ。
 そう、僕は僕自身に後ろ指を指し続けている。
 何度謝っても兄は帰ってこない。泣きたいのは兄なのに、僕が悲しんで泣くなんて許されない、そんな罪悪感を抱えて今日で十年が経つ。

「お兄ちゃんのことがあってから、僕は逃げてばっかりで、なに一つ成長も反省できていないままなんだ。失うことが怖くて、人と関わることを避けてばっかりで。そんな僕がここに来るなんてお兄ちゃんは望んでないと思うけど、それでも少しの間だけ、僕がここにいることを許してほしいんだ」

 冷たかった水は、石に籠った熱を吸収して温かくなっている。
 それが兄の体温のようで、そこに兄がいるようで、胸が苦しくなる。
 先月差し替えた花は、既に色を失い枯れている。それらをビニール袋へ回収した後に鮮やかな花と、菓子を供えた。幼い頃、兄とよく通っていた駄菓子屋で買ったゼリーと金平糖。
 兄はなにも知らない僕にたくさんのことを教えてくれたのに、僕は兄から教えてもらったことでしか返すことができない。
 本当にどこまでも情けなくて頼りない弟だ。

「夏の葉は青くて綺麗だね。この葉の一つずつにも言葉と意味があるって僕に教えてくれたこと、ちゃんと今も覚えてるよ」

 使い古したほうきで、落ちている葉を掃く。柄杓と桶をまとめて、日陰に腰掛ける。
 街が一望できるほどの高さにある墓地から見えたのは、夏祭りの忙しさと昂った人々の表情。立ち並ぶ屋台に、交通規制のカラーコーン、扇子を片手に浴衣を纏い歩く人の姿。
 そんな賑やかな景色と僕を対比して、寂しくなった。
 寂しさに呑み込まれないように、肌身離さずに持っている兄と過ごした最後の誕生日にもらった手紙を広げる。日に焼けて少し茶色がかった封筒の中には、兄の字が眠っている。この手紙を読んでいる時だけは、僕は一人じゃないと感じられる。

 *

 これからの想はたくさんの人に出逢うよ。
 お兄ちゃんが予言してるから、ちゃーんと叶えること。
 そして気が合う人もいれば、苦手な人もいるでしょう。
 想に優しさをくれる人もいれば、意地悪をしてくる人もいるかもね。
 でも、想がまっすぐなままでいれば必ず素敵な人と巡り会えるからね。
 お兄ちゃんも、まっすぐなままでいたらこんなに素敵な弟に巡り会えました!
 だから想もこのまままっすぐに、素直に大きくなっていってね。
 疑うことも時には大切だけど、それよりも信じることを大切にしている人になってほしいな。
 お母さんとお父さんと、そしてお兄ちゃんはなにがあっても想の味方だから。
 お友達とたくさん楽しい思い出を作って。
 好きな人をまっすぐ好きになって、そしてちゃんと大切にしてあげること。
 そしてなにより、想が想のことを大切にすること。
 今はまだ理解するのが難しいかもしれないけど、きっといつかわかる時はくるさ。
 
 改めて今年もお誕生日おめでとう!
 いっぱいいーっぱいお兄ちゃんと遊んで今よりもっと元気になっちゃおう!

 *

 兄が思い描いていた僕とは、正反対の僕が出来上がっている。
 願ってくれていた未来を、なに一つ叶えられていない。
 ずっと過去を引きずったまま前を向けない僕に、新しく誰かを信じることができる日なんて訪れるはずがない。
 仮に好きだと思える人が僕の目の前に現れたとしても、僕はきっとその人を拒んでしまうだろう。
 お友達とたくさん楽しい思い出を——、好きな人をまっすぐ好きになって——想が想のことを大切に——。ああ、なにもかも、今の僕には遠すぎる。
 手紙を刻まれた折り目に沿って畳み、封筒へ戻す。
 それを握りしめて俯く、兄の声が聴こえるかもしれないと期待した耳へは祭の準備で忙しい車の走行音と——。

「想、久しぶり」

 どこか懐かしい、包み込むような、それでいて凛とした女性の声がした。

夏樹(なつき)さん——お久しぶりです」

「そんなに堅苦しくならなくったっていいのに。お線香とライター、持ってきてくれてる?」

「あ、その袋の中に入ってます」
 
「準備がいいね、ありがと。想もこっちきて一緒に手、合わせよっか」

 夏樹さんは兄の居場所の目の前へ足を進める、そして数分前の僕のように兄の居場所に触れた。
 僕と並んでしゃがみ、束ねられた線香から数本を取り火を灯す。墓から漂う煙の焦げた匂いが鼻を通り、言葉にできない切なさを感じる。兄の匂いはもっと爽やかな、気分が晴れるような匂いだった。 
 律儀なスーツ姿の夏樹さんは目を瞑りながら頷き、少しして口角を上げた。まるでなにかを語りかけているかのように。
 僕は目から溢れてしまいそうななにかを抑えるように、静かに目を瞑った。

 **

 墓参りと掃除を仕上げて、僕と夏樹さんは喫茶店を訪れた。レトロで小洒落た雰囲気に包まれた店内に、二人の会話だけが響く。
 夏樹さんは僕にメニュー表を差し出した後、注がれた水を一口飲んだ。着ているシャツの袖を肘のあたりまで(まく)り、緩やかに巻かれた長髪を一つにまとめた。左手首に付けられたピンクゴールドの腕時計といい、いかにも“大人の女性“感が溢れた人だ。

「僕、これにします」

「気が合うねぇ、私も同じのにしようと思ってた。他に頼むものがないなら店員さん呼んじゃうけどいい?」

 はい、とも、大丈夫です、とも言えずに頷いて返してしまった。
 誰かと顔を合わせて話すことに慣れていない僕はいまだにこの雰囲気に緊張感を抱いているけれど、夏樹さんとはこの夏でもう七年の付き合いになる。
 兄の直属の上司で、勤務中だけでなくプライベートでも時間を共にするほど仲の良い存在だった。恋人という雰囲気はなく、兄にとって純粋な“信頼する人“だった。
 面倒見が良くて、フランクだけど物腰が柔らかい。少し抜けているところもあって、それすらも持ち前の明るさでカバーする愛嬌に満ち溢れた人だ。
 そんな夏樹さんは兄の事故が以降、僕にとって姉のような存在となった。

「想、最近体調はどう?」

「薬と通院頻度を調整しながらどうにか」

「その言い方だとよくはないのね」

「全然生きるのに問題ない程度ですけどね」

「いや、そういう問題じゃないのよ」

 夏樹さんは熱い珈琲を啜り、険しい目でコップの淵から僕を覗く。
 どうやらまだ熱かったらしく水の入っていたグラスから氷を口に入れ必死に冷やしている。普段はしっかりしているけれど、こういうところは抜けているなと思う。

「でもよかった「僕もうすぐ死ぬんです」とか言われちゃうのかと思って焦ったよ。急に話したいって珍しく想から連絡があったから、なにかあったのかと思って気が気じゃなかったから」

「心配かけちゃいましたよね、すみません」

「いーのいーの。なにかあったなら聴くし、なにも無くても話したいことも話すべきことも数えきれないほどあるんだから」

 三年ぶりに合う夏樹さんを前に話したいことは数えきれないほどあるけれど、切り出し方がわからなかった。

「母さんとお父さんの調子はどう?」

「良くも悪くも相変わらずです、最近は特に兄の命日が近かったこともあって」

「相変わらず、か」

「母は調子のいい日に少しずつ外に出られるようになったんですけど、父のアルコール依存の治療が思うように進んでいなくて」

「想の食費はちゃんと確保できてる? 前みたいに給食以外何も食べてないとかはない?」

「高校生になってからはバイトもできるので店からの賄いと、微々たるものですけど僕の収入からどうにか」

「十年経ったって言葉では言えても、時間だけじゃ解決できないこともすごく多いからね。本当に、想には申し訳ない。私がもう少し近くにいられればいいのだけど」

「夏樹さんが気に病むことじゃないですよ。これがきっと、僕のしてしまったことの重さだと思うので」

「そんなことは——」

「そうなんです、僕が兄の命を奪ったも同然なんです。僕が今更になって悲しむ資格なんてあるわけがないんです」

 兄についての話をすると、僕は向けられた優しさを反射的に弾いてしまう。
 そしていつも「そんなつもりじゃなかったのに」と、悔やんでばかり。
 夏樹さんから無意識に目を逸らしてしまう、

「ねぇ。想に一つ、ずっと内緒にしていたことを話してもいい?」

「ずっと内緒にしていたこと、ですか」

「そう、想のお兄さん……(るい)との最後の会話。十年間ずっと言ってこなかったけど、話すなら今だと思うから」

 七年間で初めて、夏樹さんの言葉から鋭さを感じた。
 話すなら今だと思う、が僕には「これ以上は逃げられない」という意味に聞こえてしまう。
 夏樹さんからの言葉を受け入れなければいけないと頭では理解できていても、心が追いつかない。
 喉元に心臓が埋まっていると錯覚させてしまうほど息が苦しい、情けなく脈が速くなる。

「聴かせてください」

「類が事故に遭った日。私のもとに電話がかかってきたのよ」

 どうしようもなく怖い。
 それでも僕には、受け入れる以外の選択肢はない。

「その日はちょうど、想の手術当日だったのよね」

 兄が事故に遭った日は生まれてから入退院を繰り返している僕が、生まれて初めて手術を受けた日だった。
 心臓の悪かった僕の生活の関係上“友達“と呼べる存在は、一人もいなかった。周りが幼稚園に通う歳の頃、僕は病室で身体に負担のかからない生活を送らなければいけなかったこともあり“友達“どころか“知り合い“すらいない。
 自分の足で走ることもできなければ、虫を捕まえて見せ合うこともない。絵本で読んだことのある遊び方のほとんどを僕はできない身体だった。
 そんな僕の唯一の話し相手は、他でもない兄一人。

「あの日の手術さえ成功すれば、もっと兄と遊べるようになるって思ってました」

「確かにリスクの高い手術だったけど、成功すれば生活の制限がかなり軽くなる手術だったからね」

「ずっと心配を掛け続けてきたからこそ、元気に走っている姿を見せて兄を安心させたかった——」

 自分の力で病院のベッドから動くことすら難しかった僕を、兄は見舞いに来る度に車椅子で中庭へ連れ出してくれた。季節の風を感じながら、一見名前すらないような雑草にも名前や、授けられた花言葉があることを教えてくれた。
 同い年くらいの子が元気に駆け回っている姿を羨ましそうに見る僕に、兄はいつも「想が元気になったらお兄ちゃんとかけっこしよっか! お兄ちゃん運動も大好きだから想に色々教えられるな!」と笑いかけてくれた。
 運動の得意な兄は、僕に未来の楽しみを授けてくれた。

「想に会いに行く日の類は本当に心の底から楽しそうだったんだよね」

「それは——」

「うまく言葉にできないけど、疑いもなくサンタクロースを待つ子供みたいにね」

 兄は、年齢とは結びつかないほど無邪気で純粋で健気な人だった。
 僕の身長が一ミリ伸びたことを知って「想が生きてる証だ!」と飛んで喜んで看護師に「静かに〜」と言われてしまうこともあったほど。僕の家族が大病を患う子供を持つ家庭とは思えないほどの明るさに包まれていたのは、紛れもなく兄のおかげだったと思う。

「手術当日の朝のこと、聞いてもいいですか」

「配達の前に「想に何かあったらすぐに連絡してください」って私に何度も言い残して行ったの。それと「もうすぐ想が元気になるんです!」って嬉しそうに笑ってた」

「そう、だったんですね」

「その後も数分おきに確認のメールが来てたんだ「想の病院から連絡とかきてませんか?」って。いくら親族だからって、緊急の連絡が保護者より先に兄弟に来るなんてほぼないのにさ、ほんと、まっすぐな人だよね」

 夏樹さんは懐かしむように当時の話をする、その伏目がちな表情は言い表せない切なさを含んでいる。
 その話を当たり前だけど僕は全然知らない。
 でも、わかる。
 兄ならきっとそう言うだろう、そうするだろう、そんなことばかりだったから。夏樹さんから語られる当時の兄の姿が鮮明に頭に映っていく。
 僕が大好きな兄の姿が迫ってくる、会いたい、謝りたい、その全てが叶わないことが潰されてしまうそうなくらい悲しい。

「手術当日の朝、出勤前に想が眠っている病室に行ってきたことを、私に嬉しそうに話してくれたの。早く起きていれば会えたかも、なんて気負いしないでね。想は手術に備えて薬で眠っていた時間帯だから、会えなかったのは仕方のないことだから」

 そしてもう一つわかったことがある。
 夏樹さんは、なかなか本題に入ってくれない。
 僕が当時の兄を知ってしまうことで傷ついてしまわないように、守ろうと時間を引き延ばしてくれているのが伝わる。

「夏樹さん」

 でも、僕はきっと知らないとダメなんだ。
 そうじゃないとずっと、僕はこのまま、どうしようもないままだから——。

「兄との最後の電話の話、聴かせてください。ここまで話を聴いている中で僕なりの覚悟ができました」

「話した後に、想が傷ついてしまうかもしれない。それでも知りたいのなら、私は正直に全てを話したいと思ってる」

「僕はちゃんと受け止めたいです、知らないままは嫌なので」

 数秒の沈黙の後に、夏樹さんの唇が動く。
 動悸を沈めるように彼女は珈琲を流し込み、そして僕の目をまっすぐみつめた。
 僕の言う“覚悟“に訴えかけるような、揺るぎない強い眼差し。

「類が会社を出て二時間と少しした頃、私の電話番号に着信があったの。いつもなら配達先での用件は会社から支給されている携帯に着信が来るんだけど、その時は私個人の携帯へ直接の着信だった」

「……」

「最初は想のことが気になって落ち着かなくなったのかなって思ったんだけど、電話に出て用件を尋ねても全然返事が返ってこなくて——」

「……」

「想、本当にこの話をして大丈夫?」

「大丈夫です、続きをお願いします」

「何度も名前を呼び続けていたら、掠れた声で一言だけ返ってきたの」

 僕は相槌すら打てないまま、続きを目で求めることしかできなかった。
 夏樹さんは躊躇いながら、それでも真っ直ぐに僕の目を見ながら唇を動かす。

「「もし想がダメだったら俺の心臓を想にあげて」って言ったの」

「え」

「電話越しに聞こえるサイレンと誘導の声で類が事故に遭ったことを察して、私は類の会社用携帯電話の位置情報を辿ってそのまま事故現場に向かった」

「夏樹さんが現場についた時には、もう——」

「言葉にすることも辛いけど、既に意識はなかったよ」

「それが、兄の最期の言葉ですか」

「今考えれば大人の心臓を小さな子供に移植することなんてできないし、家族だからと言ってそんなすぐに移植ができるなんて現実的じゃない。でもきっと当時はそんな当たり前のことを考える余裕すらなくなるほどだったのよ」

 無邪気で、純粋で、健気で。
 十年越しに知った兄の最期は、兄らしい言葉で締められていた。

「想」

「はい」

「類の事故は、本当に仕方のないことだった」

「それは違い——」

「想が思い悩むことは、類が一番類が悲しむことだと思う、もちろん、望んでもない」
 
「でも、僕の手術があったから、兄はそれに気を取られて——」

「それは違う」

「——え?」

「類が遭った事故は、逆走車の巻き込み事故だったのよ」

「逆走者の、巻き込み——」

「それに想のことを考えていたからこそ、いつもより安全には気を配っていたはず。類が会社を出る前に私、言ったのよ「必ず安全に帰ってきなさい」って」

「その言葉に兄はなにを返したんですか?」

「「当たり前ですよ! 元気になった想をみる前に死ぬわけにはいかないじゃないですか!」って」

 十年越しに知らされる兄の本当。

「でも僕は——」

「わかってる、こんな話で想が全てを納得できるなんて私は思ってない」

「じゃあ僕は、どう受け入れればいいんですか」

「それでも想が望むなら知ってほしかったの、少しでも想の背負っているものを軽くしたかった——ごめんね、これは私のエゴかもしれない」

「そんなことはないです、僕も知らなければいけないこと——ずっと知りたかったことだったので」

 誰もいない店内に、秒針の音だけが浮いたように響く。
 夏樹さんが冷めきったコーヒーカップの縁を親指の腹でなぞる。
 底の見えたコーヒーカップと、行き場の定まらない視線、治らない動悸。
 兄の声で脳内に再生される、兄の最期の言葉に涙が溢れてしまいそうになる。

「夏祭り、想は行くの?」

 声色が明るい、重苦しい雰囲気を振り払おうと夏樹さんはクリームソーダを追加で頼んだ。少ししてテーブルに並べられた二つの鮮やかな緑色と爽やかな炭酸に、夏樹さんと目を合わせて会話を再開する勇気を授けられた。

「行く予定でいます」

「一緒に行く御相手は彼女?」

「そんな存在、僕にできると思いますか? 友達すら、まだよくわからないままなのに」

「想」

「はい」

「まだ怖いでしょ、きっと」

「失う瞬間が怖くて、大切な存在をつくることが怖くて仕方ないです」

「大切な存在、ね」

「もうこれ以上、誰かを失って悲しみたくないんです」

「それは——」

「無理なことだってわかってます、ただこれ以上は耐えられない気がして。それにきっと僕はまた、大切な誰かを僕のせいで失ってしまうから——」

「想」

「はい」

「想は、想の人生を歩んでいいんだよ」

「僕の人生」

「もう、想の気持ちに素直に生きていいの。もう、って言うか、想は最初から悪いことなんてしてないんだから」

「でも僕は——」

「一度大切な人を失うとね、その怖さを知ってしまうから難しいとは思うんだけど素直に生きてほしいと私は思ってる」

「そうなれたら、いいんですけどね」

「友達も恋人も終わりが来ちゃう。ずっと一緒、なんてあるわけない。だからそれを、その感覚を、実感したくないんだよね」

「どうしてそんなにわかるんですか」

「私も五歳の頃に交通事故で家族を亡くしててね。家族旅行の帰り道だったんだけど、私だけ生き残っちゃった。父も母も姉も、その場で即死——だから私が想に寄り添いたいって思うのは、全部私のエゴかもしれない」

「無神経なこと訊いてしまって、すみません」

「いいのよ。私は想にだから教えたの。私も立ち直るまですごく時間がかかった——今でも、なんで私だけ生きてるんだろうって、私が疫病神なのかもしれないって思うこともある。でも生きていくために、家族のことはいい意味で割り切れてきたからさ」

「僕も兄のこと、割り切ったつもりではいるんですけどね」

「極端に割り切れなくてもいいんだよ、大切な人を亡くしたんだもん。そう簡単に割り切れるようなことじゃない、ただ想の命も有限だから」

「僕の人生に、僕の命、ですか」

「ただでさえ想は身体も強くないんだから、思いのままに生きてほしい」

「兄が生きていたら、僕にそう言いますかね」

「きっとそう言うと思うわ、今も空から見て言ってるんじゃないかな」

「兄らしい優しさですね」

「それくらい愛らしい弟だったのよ。歳もかなり離れていたし、想が可愛くてしかたなかったんだと思う」

 そう笑いながら夏樹さんはメロンソーダに浮かんだアイスを突く。
 自分以外の家族全員を目の前で亡くした、比べるものじゃないけど僕より遥かにつらかっただろうに——。なのに僕より遥かに前を向いていて、ちゃんと今を生きていて、僕もいつかこんなふうになにもなかったように生きていくことができるのだろうか。そんな強い人に、なれるのだろうか。
 途方もない自問自答の隙間に、微かに聞こえた祭囃子が時間の経過を知らせた。

「お祭り、何時に集合の予定?」

「六時なので、もう少しですね」

「送ってくよ」

「本当にすみません、いつかお礼をさせてください」

「だからいーの、今は「ありがとう」って言って甘えることも大事。その分、想が少しでも心から笑える時間が増えればそれで私は嬉しいから」

「甘える——」

「家とか学校では辛くても大人にならなきゃいけないだろうから、私といる時ぐらい気を休めてほしいの。血は繋がってないけど、私は想のこと、家族くらい大事に思ってる」

 そう言って夏樹さんは手際よく(から)になった食器とグラスをまとめ、軽くテーブルを拭く。僕も思う、血は繋がってないけど、家族のように温かい人だと。
 店主に礼を言い、夏特有の蒸し暑さを含んだ車へ乗り込む。
 僕が人に僕自身の話をしたことは、夏樹さん以外ない。
 兄のことも、家庭環境も。いつも核心を誤魔化しながら、当たり障りのないような立ち回りの僕に、夏樹さんは心から向き合おうとしてくれている。
 全てを知ってしまったからこそ、僕へ十分すぎるほどの優しさ注いでくれる。
 いつもより車内の音楽が大きいことも、意図して無言でいることも、きっと全て夏樹さんの優しさだ。直接的な言葉にしなくても、僕は夏樹さんに甘えすぎていると助手席に座りながら不意に感じた。それがまた、情けなくも感じた。

「会場には着いたけど行けそう?」

「最後まで心配かけちゃってすみません」

「いーのいーの。またなにかあったらいつでも呼んでね、なにもなくても話し相手に欲しくなったら呼んでみて。連絡、いつでもしてくれて大丈夫だからね」

「ありがとうございます、本当にいつも」

「そうそう、そうやって素直に「ありがとう」って言ってくれた方が私も嬉しい。それじゃあ、お祭り楽しんできてね」

「夏樹さんも帰り道、気をつけてくださいね」

 窓越しにも口角を上げている朗らかな表情がわかる、夏樹さんは手を振ってハンドルをきり人混みとは反対方向の角を曲がった。
 降車して、身体に当たった風は生ぬるく、騒がしい空気に呑み込まれそうになる。ただ同時に、僕だけがこの場所に取り残されているような疎外感も感じた。
 カップル、家族連れ、老夫婦、祭り関係者、警備員——祭り会場を埋め尽くす見渡す限り広がる人の群れに圧倒される。
 視線を移すたびにチカチカと目に映る浴衣の色と金魚や花の柄に酔いそうになる。

「想君!」

 背後(うしろ)から、誰かに名前を呼ばれた気がした。
 聞き間違いという可能性が頭を過ったけれど、僕は何故かその声に自然と足を止めてしまっている。ここで僕の名前を呼ぶ人なんて、きっと彼女しかいないから。
 振り向いた先には、人混みを掻き分けながら僕に手を振り駆け寄る、淡い青色の浴衣に身を包んだ叶愛さんの姿があった。

「私のこと探してくれてたよね? お待たせしちゃってごめんね」

「僕も今着いたところだから大丈夫だよ」

「お気遣いありがとう、それなら行こっか」

「叶愛さん、待って。神楽と白石は——」

「さっき「後から合流しよう! 最初は二人で楽しんで!」って寧々ちゃんから連絡があったんだよね」

 なにも言えずに頷いている僕を叶愛さんは不思議そうな顔で見ている。
 油断していた、そういうことか。
 数日前、バス停での別れ際に神楽の表情からなんらかの企みを感じた理由が今わかった。気のせいかなと思っていたけれど、どうやら勘が当たってしまったらしい。
 そしてその神楽の企みを快く了承して加担する白石の表情まで、今の僕には容易く想像できる。またニヤニヤとそっくりな表情を浮かべていたのだろうな、と。

「ねぇ想君」

 そんなことを考えていると、叶愛さんがどこか恥ずかしそうな表情で僕を呼んだ。
 合流して数分しか経っていないから恥ずかしがる要素がなにも見当たらない、なにを言い出したいのか全く見当がつかない。だからなんの相槌を打つこともせず僕はただ少しだけ首を傾げてみた。

「綺麗?」

 叶愛さんは浴衣の裾を軽くつまみながら、どこか甘えたような声でそして再び頬を赤ながら、僕にそんなことを言った。
 
「えっ——」
 
 正直、とても困惑した。
 叶愛さんの指す「綺麗」の対象が浴衣なのか、それとも叶愛さん自身なのか。究極の二択を前に、返答に詰まる。異性と二人きりでの夏祭り、普通の女子高校生ならどちらの答えを待っていても不思議じゃない。
 僕の答えを待つ彼女の表情はこころなしかなにかを期待しているような雰囲気をしていて、それが一層僕の言葉を詰まらせた。

「浴衣の模様、すごく綺麗だと思う。すごく似合ってるよ」

「そっか、嬉しい」

 叶愛さんは自然と上がってしまった口角を覆い隠す。その姿になにかよからぬ勘違いさせてしまったのではないかと数秒前の発言を取り消したくなる。
 綺麗だと思う、だけでよかった。似合ってるよ、なんて言わなければ誤解は防げたのかもしれない。
 ただ叶愛さんへ告げた答えに嘘はない。淡い色で形どられた椿の柄が綺麗なことも本当で、その澄んだ青色の浴衣が彼女の白い肌によく馴染んでいて美しいのも本当だ。
 全て本当のことだからこそ、勘違いさせてしまった時の言い逃れができない。なにを言っても言い訳苦しくなってしまいそうだ。

「下駄とか履き慣れてないと思うし、痛くなったり休憩したくなったら遠慮しないで言ってね」

「ありがと。想君、優しいね」

「そうかな——まぁ、そんなことはどうでもいいよ。夏祭り、初めてって言ってたよね。それなら叶愛さんがしたいこと全部しよう」

「私がしたいこと?」

「食べたいものとかやってみたいこととか、とにかく全部し尽くそうよ」

 そう僕が提案すると、叶愛さんの口角がわかりやすく上がった。
 目線の先にはカラフルなのれんが立ち並んでいる。りんご飴、焼きそば、たこ焼き、ヨーヨー釣り、綿菓子——。
 なにを考えているのだろうと僕は叶愛さんの笑って細くなった目を見つめている。幼い子供のようにその瞳は輝いていた。

「あれ! やってみたい!」

 叶愛さんが指差す方向に構えられていたのは紅白ののれんが掛かった射的の屋台。
 屋台の射的に対する高校三年生のリアクションにしては大きすぎるけれど、それでも叶愛さんが心から楽しんでくれている表情に僕自身安心した。

「いいね夏祭りっぽい」

「想君もそう思う? 楽しそうだよね! じゃあ行こっか!」

 転校初日からどこか大人っぽい雰囲気を感じていたけれど、今の叶愛さんは子どもより子どものように感じられた。こんな一面もあるんだ、となんだか少し心の深い部分を刺激されたような感覚になった。
 叶愛さんは軽快に下駄を鳴らしながら、その華奢な身体で人混みをすり抜けていく。時々振り向いて僕に笑いかけるその表情の無邪気さが僕の記憶のどこかと重なった。
 こんなふうに僕に無邪気に笑いかけて一緒に楽しもうとしてくれる人——ああ、そうだ。よくない、思い出して、また怖くなってしまう。
 僕はそっと記憶に蓋をして、叶愛さんを追いかけるように屋台へ駆けた。

「射的二人分お願いします!」

「可愛いお姉さんとかっこいいお兄さんのカップルだね? 弾の数、ちょっと多くしとくよ! サービスだ!」

 叶愛さんの注文へ、屋台のおじさんは気の良さそうにそう返した。
 戸惑う叶愛さんと、その状況に余計混乱する僕、お構いなしに弾の入った器を差し出すおじさん。差し出された器には“ちょっと“どころではない量の弾が追加されて入っていた。
 せっかくの店主の気遣いに失礼がないように笑顔で受け取り、叶愛さんに銃を手渡した。

「想君?」

「多く楽しめるってことだよ、思いっきり楽しも」

 思いっきり楽しも、なんて僕らしくないなと思った。それでも「いいねぇ楽しも!」と笑ってくれた叶愛さんを見て、そんなセリフも言ってみるものだなと思った。
 張り切ってぬいぐるみを倒すと宣言した叶愛さんの不慣れな銃の構えから飛び出たのは、覇気のない弾だった。飛び出た瞬間に落下した。
 銃から伝った振動に衝撃を受けながら叶愛さんは視線で僕へ助けを求める。正直得意ではないけれど、ここで「頑張って」とただ励ますことも「初めてにしては上手だよ」と無理のあるお世辞を言うことも不正解のような気がした。

「弾の出る部分をぬいぐるみに向けるといいよ、あとは少し前屈みになって、ちょっとだけ力を抜く——」

 ぬいぐるみの隣の駄菓子を手本に撃ってみる、運よく的中しそのまま綺麗に落下した。軽く説明した後に実践で教えようとするなんて、外れていた時のことを想像すると、かなり恥ずかしい。本当に運が良くてよかった。

「想君すごい! もしかして射的得意?」

「やったことはないんだけどね、偶然かな。だから叶愛さんにもできるよ」

 彼女の姿勢が前のめりになる。台に手をつき片目を閉じ、最大限に腕を伸ばす。
 恋人でも友達でもないけれど彼女の必死な姿に少し、可愛らしさを覚えてしまった。

「当たった!」

 確かに当たった、でも、本当に当たっただけだった。
 狙っていたぬいぐるみの頭部に弾が当たったものの、重さのせいかぬいぐるみは微動だにしない。
 その後も残りの弾を撃ち、全て見事に当たったけれど狙っていたぬいぐるみが落ちることはなかった。叶愛さんは「難しいねぇ」と肩を落としながらも、すぐに「でも楽しめたから大成功!」と綺麗な開き直り方をしてくれた。
 唯一の景品である駄菓子をつまみながら人通りの少ない路地を通過する。
 叶愛さんの足のことも考慮して人の多い屋台街に戻る前に一度、休憩を挟もうと近くにあったベンチへ腰掛けた。

「想君、よかったの?」

「なにが?」

「神楽君とか寧々ちゃんと一緒に行かなくてよかったのかなって思って」

「さすがの僕でも夏祭りにカップルの邪魔はできないかな」

「カップル——えっ、神楽君と寧々ちゃんが?」

「そっか叶愛さんにはまだ言ってなかったもんね。まぁあの二人そういうこと隠す気ないしなんとなくバレてるかなって思ってたけど」

「でも確かに言われてみれば二人すっごく仲良いよね」

「入学してからずっとあんな感じだよ、お互いに見てるこっちが怖いくらい一途でさ」

「そういうの憧れる」

「え」

「好きな人に好きって言えること、私は憧れる」

 妙に素直な叶愛さんの呟きに少し焦る。
 憧れる、という言葉の素直さと切なさを超えた寂しさすら感じられる表情の素直さに僕の鼓動は速くなっている。
 そっか、そんな表情もできちゃうんだ。
 数週間前に知り合った叶愛さんのことを、僕はまだ詳しく知らない。
 高校三年生という珍しい時期に転入してきた経緯も、叶愛さん自身の対人関係も、貴重な初めての夏祭りを過ごす相手にこんな僕を選んだ理由も。もっと言うなら誕生日も血液型も、基本的なこともほとんどなにも知らない。叶愛さんに近づくほど、僕の中での叶愛さんに対する謎が生まれてくる。
 でも、今はただ——。

「そろそろ屋台街に戻ろうか、お腹とか空いてない?」
 
 質問攻めにしてしまいそうな衝動を抑え込むようにそう言うしかできなかった。

「そういえば私ね、食べてみたいものがあったんだ」

「食べてみたいもの?」

「林檎飴! お祭りに行ったら食べたいって思ってたんだよね」

 数秒前の大人びた呟きの帳尻を合わせるように、彼女は子供のような夢を語る。
 よく考えればこの年齢になって生まれて初めての夏祭りなんてちょっと不思議だ。射的や林檎飴への反応から叶愛さんが嘘をついていないことはわかる。だからより、違和感が拭いきれない。
 僕は戸惑いを隠すように口角をあげて、口を動かす。
 
「林檎飴探そっか、僕とどっちが先に見つけられるか勝負ね」

 僕はまた、僕らしくないセリフを言ってみせた。
 子どものような叶愛さんの夢に応えるように、子どものような勝負を持ちかける。
 乗り気な叶愛さんを見ながら、のれんを目で追う。それと同時に数十分前とは比べ物にならない勢いで増えていく人の波に再び圧倒された。

「見つけた! 私の勝ちね」

 そう無邪気に告げ、射的同様、叶愛さんは屋台へ駆けて行った。
 見つけた時に向けられたニコッとした表情を不意に可愛いと感じてしまった。目元に乗せられた肌馴染みのいいラメや、楽しんだ証として少しだけ乱れている前髪、ふわっと香ったシトラスの爽やかな匂いも、なんというかすごく異性として意識してしまいそうになる。
 叶愛さんの浴衣の裾と色素の薄い髪が揺れる、下駄を鳴らす音はこれまた子どものように無邪気で可愛らしかった

「林檎飴二つください!」

 店主から手渡されたうちの一つを叶愛さんは僕に差し出す。
 受け取ったのは僕なのに、なぜか「ありがとう!」と彼女は笑った。
 気になる、僕の中の違和感が騒がしくなっていく。
 容姿の基準はわからないけれど、素直で話し上手でよく笑う彼女に本当に恋人がいないのか。神楽と白石の話題の間に軽く「叶愛さんは恋人いるの?」と、聞いてみればよかった。だって今唐突に聞くなんて不自然だし、それこそ明らかに下心があると思われてしまう。
 まぁこんな僕を夏祭りへ誘っている時点で、いないことは確定と判断していいだろう。それなら、どうして叶愛さんは僕を誘ってくれたんだ——。

「ねぇ叶愛さん」

「ん?」

「ごめん、やっぱなんでもない。林檎飴ありがと」

 踏みとどまった、よかった。
 不思議そうに首を傾げながらも叶愛さんは「そっかそっか!」と受け流してくれた。
 言ってしまっていた未来を想像して鳥肌が立つ。踏みとどまれたのは、僕の意気地なしが報われた唯一の瞬間かもしれない。

「想! 楪さん!」

「神楽と——白石?」

「偶然だな、どこかで合流できたらって寧々と話してたところなんだよ」

「久遠君と叶愛ちゃんが楽しそうでよかった!」
 
 白基調の大人っぽい浴衣を纏った白石と、それとは対象に濃紺の浴衣を羽織った神楽。カップル両方が浴衣を着ているのはなんだか珍しいような気がした。
 雰囲気がそこらのカップルとは違う、四捨五入したら夫婦のようなそんな安定感が二人にはあった。

「白石はいいとして、神楽はからかいに来ただけだろ」

「彼女持ちの先輩として想にアドバイスしにきたんだよ、有り難く思えっ」

「アドバイス?」

「楪さん、ちょっと想のこと借りるね〜。寧々、少しの間楪さんと待っててもらってもいいかな」

 不思議そうな叶愛さんの肩に手を置きながら、白石が神楽へ頷き手を振って送り出した。神楽は僕の手を引きながら少し強引に屋台街を抜けた。

「白石と叶愛さん置いてきたら危ないだろ、こんな人混みに女の子二人だけなんて」

「大丈夫、寧々は柔道黒帯だし危機管理能力は人並み以上にあるから」

「だけどさ——」

「それより今は想の方が心配なんだよ、初めてだろ? 楪さんと二人きりでいること。というより、女子との夏祭りも初めてだよな?」

「確かに初めてだけど、それなりに上手く進んでると思うよ」

「ならとりあえずは安心だな。で、この後はどうする予定?」

「この後は遅くなる前に返す予定だよ、叶愛さんのご両親も心配するだろうし」

 あ、これは彼女持ちの先輩からしたらどうやらハズレみたいだ。
 我ながら最適解だと思っていた予定を答えたけれど、神楽の眉間に寄っている皺から僕の回答が不正解であることを察した。
 どうしても僕はまだ恋愛的な意味での正解を導き出しかたがわからない。あまりにも経験値が少なすぎる。

「想、まさか花火も観ずに帰らせようとしてないよな?」

「花火? 最後に行った時には花火なんてなかったし、今年もないものかと——」

「馬鹿、そういう大事なことはちゃんと調べてから来いよな」

「それは、ごめん。僕の確認不足」

「あのビルの屋上が花火を観るのにちょうどいいんだよ」

「神楽、やっぱり詳しいね」

 僕の言葉に神楽は呆れたような視線を向ける、でも少しだけ満足そうな表情にも見えた。やっぱり詳しいね、が効いたのかもしれない。

「想、もちろん行くよな?」

「それ以外の選択肢なんて残されてないんでしょ?」

「ん、よくわかってるじゃん」

 神楽が僕の肩へ喝をいれ、何事もなかったかのように二人の元へ戻っていく。
 夏祭りまではまだいい、でも、高校生の異性同士が二人きりで花火を観るなんて——僕の人生では全く予感すらしていなかった。
 そんな青春ドラマのようなワンシーンが迫っていることに覚悟を決めきれないまま、僕は神楽に急かされるままその背についていく。

「寧々、楪さん待たせちゃってごめんね」

「やっと帰ってきた! 二人で何話してたの?」

「内緒、俺と想だけの会議だよ」

「まぁいっか、叶愛ちゃんも残りの夏祭り楽しんでね」

 肌が触れ合うほどの距離感で手を繋ぎ、二人は人混みに溶けていった。
 どうやら合流するのはほんの一瞬で、神楽と白石の計画ではこの祭りのほとんどの時間を僕と叶愛さん二人きりにするというものだったらしい。
 残された微妙な距離感の僕たちの間に流れる沈黙を裂くように、無線放送の声が響いた。

『二十一時より——花火の打ち上げを開始します——二年越し——二年越し、待望の打ち上げ花火——。三千発の花火が——夏の夜空を彩ります——。この後、二十一時より——打ち上げ開始です』

 放送後、反射的に叶愛さんへ視線を向けた。
 打ち上げ場所付近へ流れていく人の波に流されないように立つ叶愛さんの手を取る。

「叶愛さん花火は苦手じゃない?」

「実は花火も観たことなくてさ、だから観てみたいな」

「それじゃあ行こうか、あのビルの上が一番よく観えるんだって」

 不意に叶愛さんの手に触れてしまった、それも結構な秒数。
 気づかれていないことを願うが、きっとそんなことはない。だって——。
 
「想君、手」
 
 そう、尋ねられてしまったから。だから僕は——。
 
「人に流されちゃったら危ないよ」
 
 そんな不器用で無理のある言い訳を貼り付けてみた。
 遠慮したように手を繋いだまま、二人で屋上への階段を登る。いくら地方の夏祭りと言っても普段では感じないほどの人が集まる。普段はどこに身を潜めているのだろうと思ってしまうほどの数の人で埋め尽くされていく。
 騒がしい空間の中でも叶愛さんの下駄の音が僕の鼓動と重なるように耳に響いた。そして下駄と鼓動が少しずつずれて、僕は鼓動が無意識のうちに早くなっていることに気づいた。

「想君も花火初めて?」

「小さい時に観たことがあるのかもしれないけど、あんまり覚えてはいないかな」

「そうだったんだ、じゃあほぼ初めてみたいなものだね」

 行き着いた屋上は先ほどより空いていて、少し奥の方へ足を進めると野良猫と古びた自販機だけが残されている空間があった。
 廃れたビルの屋上、喫煙スペースから離れた場所に唯一汚れの酷くないベンチが置かれている。打ち上がるまで数秒、その一瞬が異様に長く感じてしまい彼女を気遣う余裕すら失いそうになる。

「こっちの方がよく観えるかな、下駄で長時間歩いて疲れただろうから少し座ろうか」

「そうだね、ありがとう」

 躊躇いながら隣へ座り、まだ暗いだけの空を見つめる。
 言葉にはしないものの、二人とも緊張に胸を掴まれているのが伝わってくる。
 叶愛さんの仰ぐ扇子の風が緊張で熱った身体に心地いい、秒針よりもはやく刻まれる鼓動に耐える。
 視線だけ移して覗いた叶愛さんの横顔からはすでに緊張が消えていて涼しげで、その代わりに打ち上げられる花火への期待の笑みで満たされていた。

「あっ——」

 暗い夜空に鮮やかな赤い花が一輪咲いた。
 下から聞こえる歓声と共に、隙間もなく打ち上げられて暗闇が明かされていく。
 隣からの風が止まった。
 風が止んだ隣を向くと、夜空を埋め尽くす華に目を奪われている叶愛さんの笑顔があった。扇子を仰いでいた手は、静かに膝の上に乗っている。

「綺麗だね」

「綺麗——初めてだよ」

 僕が過去に読んだことのある恋愛小説では「君のほうが綺麗だよ」というここでの正解が記されていた。神楽は今頃、白石にそんな言葉をかけているのだろうか。そのセリフはあまりに僕らしくないし、そうでなくてもさすがに言えないなと思った。
 僕の隣には恋人でなければ、友達かも怪しい、分類の難しい関係の異性がいる。
 この場での立ち回り方に戸惑うけれど、きっとなにも言わずに花火を観ていることが妥当な選択だと思う。数分間の勢いに乗せて放たれる華をみつめるだけ。美しいようでどこか寂しい、ただそれ以上の正解が僕の頭の中には見当たらなかった。
 ただここでは、叶愛さんが楽しんでくれたら、終わった後に「綺麗だったね」と笑ってくれたら、僕はそれだけで大成功な気がした。射的後の叶愛さんのように、そう開き直ってみた。

「ねぇ想君」

「ん?」


 ——「高校を卒業するまで、私を形だけの彼女にしてくれませんか」
 

 これは、告白か——いや、それなら高校を卒業するまでってなんだ。
 急な告白に戸惑う、ただ叶愛さんの口調に冗談は含まれていないことだけがはっきりとわかっている。
 花火に視線を向けたまま言葉を放たれて数秒、叶愛さんの視線が僕へ移る。僕の動揺とは対照的な落ち着いた表情で僕の返答を待っている。

「どういう、意味?」

「そのままだよ、形だけの恋人同士になってほしいの」

 彼女がなにを言っているのか、なにが望みなのか理解が追いつかない。
 よくある告白ならまだ受け入れることができる。転校してきてよく関わるようになった異性を意識してしまって好きになった、だから付き合ってほしい、それならまだ、理解できる。でも、叶愛さんのそれは違うだろう。
 “形だけ“という聞き慣れない言葉に疑問と違和感を抱いている。
 そしてその言葉を当然かのように僕へ向ける叶愛さんに困惑している。
 花火が打ち上がる轟音も、ヒートアップする歓声も背景になってしまう。僕の意識は全て、なにも言わない叶愛さんにまとめられてしまっている。

「どうして急に——そんな気持ちのない付き合い方なんて叶愛さん自身に失礼だよ」

「私はいいの。私が転入してきたことで想君には大変な思いをさせちゃってるから、そのお詫びをさせて欲しい」

 お詫び? それが僕と付き合う理由?
 それに「私はいいの」なんて、そんな自己犠牲的なセリフ、おかしい。
 叶愛さんが僕に対して恩を抱くことなんてなにもしていないのに、どうしてそこまで、揺るぎない口調と視線で意味のわからない告白ができるんだ——。

「みててわかるよ、隣の席になってから感じとることもあるし」

「それは神楽とか白石がからかったりしてくること? それなら気にしなくていいよ、あの二人はただ言ってるだけだから」

「それも少しはあるけど、それ以外にも想君が噂に巻き込まれてること知っちゃったんだよね」

 話を聴くと、僕が隠していたつもりの事実のほとんどを彼女は既に知っていた。
 普段から人との関わりを過剰に避けている僕が転校生の、それも容姿の整った異性の転校生と日常的に接触していることが最近一部で騒がれていることを。
 彼女に気を遣わせないように内緒にしていたことが、彼女の口から淡々と零されていく。
 僕は器用に否定することもできずに頷くことしかできなかった。

「想君もいい気持ちはしないでしょ、ありもしないことを言われ続けること」

「それは——」

「それなら全部本当にすれば、収まる話もあると思うんだよね」

 とんでもないことを言っているのに、その口調は淡々としていた。
 少し強引な誘いではあるけれど、確かに叶愛さんの言うことも一理ある。
 叶愛さんと僕が付き合っているという嘘が噂で流れている現状を本当に恋人になることで真実に変えるという単純な話。いや、わかるけど、でもそれはなんか違くないか。
 頭ではわかっていても、お互いに気持ちのない恋愛という形式にやはりどこか気が引けた。

「叶愛さんはいいの? 転校してきてこれから出会う人の方が多いのに、僕と仮にでも付き合ったらそれができなくなっちゃう」

「だから、私はいいの。想君は想君自身のことを考えてほしい」
 
 それなら叶愛さんは、叶愛さん自身のことを考えてほしい。

「どうして僕にそこまで——まだ大したこともしてないのに、叶愛さんのためになるようなことなにもしてあげられてないのに」

「嬉しかったの、なんの偏見もなく転校してきた私と話をしてくれて」

「え?」

「普通怪しむでしょ? 高校三年生の夏休み後に転校なんて、なにか事情があるんじゃないかって」

 それは、僕も内心思ったけど——。

「仮に内心想君がそう思っていたとしても、煙たがらずに接してくれたことが私はすごく嬉しかったんだ」

 今の叶愛さんの言葉に、きっと嘘はないと思う。
 数秒前には感じられなかった少し震えたような声と、それを隠すための所作からわかる。叶愛さんの抱いている感情が恋愛感情かそれ以外のものなのか、今の僕にはわからないけれど、それで叶愛さんの中でなにか納得がいくのなら悪い話ではない。
 それに、きっとこれは僕にとっても都合がいい。
 友達でも恋人でもない曖昧な関係性那から、距離が縮まってしまいそうという怖さがあった。形だけでも恋人になってしまえば、ある程度割り切って叶愛さんに接することができるはず。僕の中の恐怖も取り除かれることになる。
 だからこの誘いに乗ることは僕にとっても、彼女にとっても間違いではないような気がした。
 
「じゃあ一つ、僕と約束してほしいことがある」

「なに?」

「叶愛さんに本当に好きな人ができたら、僕のことはなかったことにすること」

「それは想君も同じだよ」

「そんなこと、僕には無縁の話だよ」

「それはまだわからないよ、想君にだって出会いはある」

「そうだね、確かに人との出会いはあるね」

「先のことは置いといて、今日からよろしくね。形だけだってことは私たちだけの秘密で、恋人同士として」

 形式上の恋人、卒業までの期限付き、それが僕たちの秘密。 
 きっと数ヶ月後卒業して僕が数えきれない人と出会ったとしても、誰かを心から好きだと思える日は生涯来ない。こんなよくわからない恋愛経験が人生の一部にあったとしても、未来の誰かを傷つけることはないだろう。これは僕だからこそ承諾できた秘密だと思う。
 夏祭り、幻想的な夜空に包まれながら、僕たちは誰にも明かすことのできない契約的な恋愛の始まりを交わした。
 全てが嘘、誰にも明かすことはできない。
 三千発の最後に打ち上がったのはそんな嘘とは対照的な夜空の暗闇を全て打ち明かすような純白の一輪だった。