「……」

 四方から鳴り響く蝉の声を掻き分け、ところどころ苔の生えた石段を登り辿り着く。
夏の終わりを告げる(ひぐらし)の鳴き声と、それに抗うように照りつける日光が僕を焦がす。
上がった息を鎮めながら、汗で張り付いたシャツの中に風を(あお)ぐ。

「お兄ちゃん、ひさしぶりだね」

 言葉が返ってこないことを知っていながら、僕は兄の居場所を手で触れる。
陽に照らされて帯びた熱を感じ、それを冷ますように水を掛ける。
兄の体調を気遣うように、丁寧に、暑さと汚れを流す。

「お兄ちゃん、僕の高校最後の夏が終わりそうだよ。背も少しだけど伸びてさ、ちょっとは大人になれてるよね」

 兄の身長まで、あと数センチで届く。
幼い頃は兄の背を越したくて仕方なかったけれど、今はこのまま、僕が小さいままでいたい。
その数センチを越してしまった時、僕の中での何かが崩れてしまいそうな気がする。無意識に猫背になっていた背筋を伸ばす。

「あれから十年なんて早いね」

 兄がこの世を旅立って十年。
表面上は事故死。不慮の事故で、誰にも避けられないことだった。
葬儀の後に親戚で集まった時、兄の写真をみた人は口を揃えて『可哀想』『事故は不運だった』と(こぼ)した。
ただひとり僕だけが、その言葉に頷くことができなかった。

「……ごめんなさい、お兄ちゃん」

 僕が、兄を殺した。
兄を殺したのは僕だと、僕は僕自身に後ろ指を指している。
償いきれない罪を背負い、(こぼ)すことの許されない罪悪感を抱えてから今日で十年が経つ。

「お兄ちゃんのことがあってから、僕はお兄ちゃんのことを思い出すことが怖くて仕方ないんだ。逃げてばっかりで、僕は何一つ反省できていないままなのかもしれない。そんな僕がここに来るなんてお兄ちゃんは望んでないと思うけど、それでも少しの間だけ僕がここにいることを許してほしいんだ」

 冷たかった水は、石に籠った熱を吸収して温かくなっている。
それが兄の体温のようで、そこに兄がいるようで、胸が苦しくなる。
先月差し替えた花は、既に色を失い枯れている。それらをビニール袋へ回収した後に鮮やかな花と、菓子を供えた。幼い頃、兄とよく通っていた駄菓子屋で買ったゼリーと金平糖。

「夏の葉は青くて綺麗だね。この葉の一つずつにも言葉と意味があるって僕に教えてくれたこと、ちゃんと今も覚えてるよ」

 使い古した(ほうき)で、落ちている葉を掃く。柄杓と桶をまとめて、日陰に腰掛ける。
街が一望できるほどの高さにある墓地からみえるのは、夏祭りの忙しさと昂った人々の感情。立ち並ぶ屋台に、交通規制のカラーコーン、扇子を片手に浴衣を纏い歩く人の姿。
そんな賑やかな景色と僕を対比して、少しだけ寂しくなった。
寂しさに呑み込まれないように、肌身離さずに持っている兄と過ごした最後の誕生日にもらった手紙を広げる。日に焼けて少し茶色がかった封筒の中には、兄の字が眠っている。



今の想は、友達も知り合いすらも決して多くはないかもしれない。
でも、これから想は確実にたくさんの人に出逢う。気が合う人もいれば、苦手な人もいるでしょう。想に優しさをくれる人もいれば、意地悪をしてくる人もいるかもね。でも、想がまっすぐなままでいれば必ず素敵な人と巡り会えるから。そのまままっすぐに、素直に大きくなっていってね。
疑うことも時には大切だけど、それよりも信じることを大切にしている人になってほしい。
好きな人をまっすぐ好きになって、ちゃんと大切にしてあげてね。
難しいことなのかもしれないけど、それさえできたら想はきっと生きていけると思うから。



 手紙の最後に書かれている言葉が胸に刺さって抜けない。
兄が思い描いていた僕とは、正反対の僕が出来上がっている。ずっと過去を引きずったまま前を向けない僕に、新しく誰かを信じることができる日なんて訪れるはずがない。
仮に好きだと思える人が僕の目の前に現れたとしても、僕はきっとその人を拒んでしまうだろう。
手紙を刻まれた折り目に沿って畳み、封筒へ戻す。
それを握りしめて俯く、兄の声が聴こえるかもしれないと期待した耳へは祭の準備で忙しい車の走行音が入ってきた。

「想、久しぶり」

夏樹(なつき)さん……お久しぶりです」

「仕事が長引いて伝えてた時間より遅れちゃった、暑い中待たせてごめんね」

「いえ、僕は大丈夫ですよ」

「想はまだ夏休み中?」

「今週から新学期が始まって通常通りに学校です」

「そっか……もう高校三年生だから夏休みも短いんだっけ」

「夏休み中もほとんど学校で補習だったのでなかなかここにも来れなくて……夏樹さんもせっかく来てくださったんですし、暑いですけど兄とお話して行きませんか」

「もちろんそのつもりよ、私もしばらくここに来れていなかったからね」

 そう言って彼女は兄の居場所の目の前へ足を進める、そして数分前の僕のように兄の形に触れる。
手を離した後、少し後に下がって何かを語りかけるように兄の形をみつめた。
律儀なスーツ姿の彼女は目を瞑りながら頷き、少しして口角を上げる。
再び兄の形に触れた後に優しく手を離し、僕に視線を移した。

「想君、お線香とライター持ってきてくれてる?」

「はい、そこにある袋の中に入ってます」

「ありがとう、想もこっちにきて一緒に手を合わせようか」

 蝉の声よりも、ライターの着火音が耳に響いた。
束ねられた線香から数本取り、火を灯す。煙が立ち、その煙が鼻を通り、言葉にできない切なさを感じる。
目から溢れてしまいそうな何かを抑えるように、僕は目を瞑った。

ー*ー*ー*ー*ー

「想が伝えたいこと、伝えられた?」

「はい、今年も上手く言葉にはできなかったですけど」

「それでもいいんだよ、想がこの場に来ることに意味があるんだから」

 クーラーの涼しさが残る車内で、彼女が僕にそう告げた。
気遣いからか彼女は流れていたラジオの音量を下げ、少し息をついて何も言わずに遠くの方をみつめる。
そして僕の様子を確認し、車を走らせる。

「夏樹さんもお忙しいのに、すみません」

「そんなことは気にしなくていいのよ、私も久しぶりに想と話せて嬉しいし」

「そう言ってもらえると安心します」

「場所は前に行った喫茶店でいい?」

「そこがいいです、ありがとうございます」

ー*ー*ー*ー*ー

「想、お昼ご飯はもう食べた?」

「まだです、夏樹さんは……?」

「私もまだなんだよね、好きなもの選んでよ」

 レトロな雰囲気に包まれた店内に、二人の会話だけが響く。
彼女は僕にメニュー表を差し出して注がれた水を一口飲んだ後、着ているシャツの袖を肘のあたりまで(まく)る。
兄のことを思い出して騒つく胸を鎮めるためにメニュー表の文字を目で追う。

「僕、これにします」

「私も同じのにしようかな、他に頼むものがないなら店員さん呼ぶね」

 誰かと顔を合わせて話すことに慣れていない僕はいまだにこの雰囲気に緊張感を抱いているけれど、目の前に座る彼女とはこの夏でもう七年の付き合いになる。
彼女は兄の直属の上司で、勤務中だけでなくプライベートでも時間を共にするほど仲の良い存在だった。
面倒見が良くて、物腰が柔らかい。少し抜けているところもあるけれど、それすらも持ち前の明るさでカバーする愛嬌に満ち溢れた人。
そんな彼女は兄の事故があってから、僕にとって姉のような存在となった。

「想、最近体調は大丈夫なの?」

「薬と通院頻度を調整しながらどうにか」

「……よくはないのね」

「全然生きていられる程度ですけどね」

「そういう問題じゃないのよ」

 熱い珈琲を啜り、コップの淵から僕を覗く。
僕は届いたプリンにカラメルを掛けながら、次の言葉を探す。
三年ぶりに会う彼女を前に話したいことは数えきれないほどあるけれど、切り出し方がわからなかった。

「でもよかった『僕もうすぐ死ぬんです』とか言われちゃうのかと思った。急に話したいなんて珍しく想から連絡があったから、何かあったのかと思って気が気じゃなかったから」

「心配かけちゃいましたよね……すみません」

「いいの。何かあったなら聴くし、何も無くても話したいことも話すべきことも数えきれないほどあるんだから」

「……本当に、ありがとうございます」

「母さんとお父さんの調子はどう?」

「良くも悪くも相変わらずですかね、最近は特に兄の命日が近かったこともあって」

「相変わらず……」

「母は少しずつ調子のいい日は外に出られるようになって来ているんですけど、父のアルコール依存の治療が思うように進んでいないみたいで……」

「想の食費はちゃんと確保できてる?前みたいに給食以外何も食べてないとかはない?」

「高校生になってからはバイトもできるので店からの賄いと、微々たるものですけど僕の収入からどうにか……」

「十年経ったって言葉では言えても、時間だけじゃ解決できないこともすごく多いからね」

「せめて少しでも以前の父と母に戻ってくれたらって思うんですけど、なかなかそうもいかなくて」

「本当に想には申し訳ないよ、私がもう少し近くにいられれば」

「夏樹さんが気に病むことじゃないですよ。これがきっと、僕のしてしまったことの重さだと思うので」

「そんなことはない……」

「そうなんです、僕が兄の命を奪ったも同然。僕が今更になって嘆く資格なんてあるわけがないんです」

 兄についての話をすると、僕に向けられた優しさを反射的に弾いてしまう。
彼女から無意識に目を逸らしてしまう、今は目の前に座る彼女の表情すら確かめることができない。

「ねぇ想に一つ、ずっと内緒にしていたことを話してもいい?」

「ずっと内緒にしていたこと……ですか」

「そう、想のお兄さん……(るい)との最後の会話。十年間ずっと言ってこなかったけど、話すなら今だと思うから」

 七年間で初めて、彼女の言葉から鋭さを感じた。
彼女からの言葉を受け入れることの必要性を頭で理解できていても、心が追いつかない。
喉元に心臓が埋まっていると錯覚させてしまうほど苦しい、情けなく脈が速くなる。
それでも僕に、受け入れる以外の選択肢はない。

「……聴かせてください」

「類が事故に遭った日。私のもとに電話がかかってきたのよ」

「……電話?」

「その日はちょうど、想の手術当日だったよね」

 兄が事故に遭った日は生まれてから入退院を繰り返している僕が、生まれて初めて手術を受けた日。
心臓の悪かった僕の生活の関係上『友達』と呼べる存在は、一人もいなかった。周りが幼稚園に通う歳の頃、僕は病室で身体に負担のかからない生活を送らなければいけなかったこともあり『友達』どころか『知り合い』すらもいなかった。
自分の足で走ることもできなければ、虫を捕まえて見せ合うこともない。絵本で読んだことのある遊び方のほとんどが僕はできない身体だった。
そんな僕の唯一の話し相手は、他でもない兄一人。

「……あの日の手術さえ成功すれば、もっと兄と遊べるようになるって思ってました」

「確かにリスクの高い手術だったけど……成功すれば生活の制限がかなり軽くなる手術だったからね」

「兄にその姿を見せたかったです」

「元気になった想の姿?」

「ずっと心配を掛け続けてきたからこそ、元気に走っている姿を見せて安心させたかった……」

 僕自身の力で病院のベッドから動くことすら難しかった僕を、兄は見舞いに来る度に車椅子で中庭へ連れ出した。季節の風を感じながら、一見名前すらないような雑草にも名前や、授けられた花言葉があることを教えてくれた。
同い年くらいの子が元気に駆け回っている姿を羨ましそうにみる僕に、兄はいつも『想が元気になったらお兄ちゃんとかけっこしよっか!お兄ちゃん運動も大好きだから想に色々教えられるな』と笑いかけてくれた。
運動の得意な兄は、僕に感性を授けてくれた。

「想に会いに行く日の類は本当に心の底から楽しそうだったんだよね」

「そうだったんですか?」

「そうよ、うまく言葉にできないけど……疑いもなくサンタクロースを待つ子供みたいにね」

 兄は、年齢とは結びつかないほど無邪気で純粋で健気な人だった。
僕の身長が一ミリ伸びたことを知り『想が生きてる証だ』と飛んで喜んだこともあった。僕の家族が大病を患う子供を持つ家庭とは思えないほどの明るさに包まれていたのは、紛れもなく兄のおかげだったと思う。

「兄が事故に遭った日の兄の様子を知りたいです。僕の手術のことをどう思っていたか、僕はもう確かめることができないので……」

「そうね、でも悲しみよりも喜びが先行しているような様子だったかな」

「喜び……」

「類も嬉しかったと思うの、大好きな弟が病気の苦痛から少しでも解放されて元気になれる希望がみえて」

「……兄らしいですね」

「ただ不安もあったみたいよ、当然のことだけどね」

「不安……ですか」

「配達の前に『想に何かあったらすぐに連絡してください』って私に何度も言い残して行ったの」

「……そうだったんですね」

「その後も数分おきに確認のメールが来てたんだ」

「全然知らなかったです……」

「手術当日の朝、出勤前に想が眠っている病室に行ってきたことを、私に嬉しそうに話してくれたの」

「……僕が早く起きていれば会えていたんですかね」

「薬で眠っていたと思うから仕方ないことよ、だから気負いしないで」

「夏樹さん」

「ん?」

「兄との最後の電話の話、聴かせてください。ここまで話を聴いている中で僕なりの覚悟ができました」

「この話は私が話した後に、想が傷ついてしまうかもしれない。それでも知りたいのなら、私は正直に全てを話したいと思ってる」

「僕はちゃんと受け止めたいです、知らないままは嫌なので」

 数秒の間の後に、彼女が口を開く。
動悸を沈めるように彼女は珈琲を流し込み、そして僕の目をみる。

「類が会社を出て二時間と少しした頃、私の電話番号に着信があったの」

「夏樹さんの番号に……?」

「いつもなら配達先での用件は会社から支給されている携帯に着信が来るんだけど、その時は私個人の携帯へ直接の着信だった」

「……はい」

「最初は想のことが気になって落ち着かなくなったのかなって思ったんだけど、電話に出て用件を尋ねても全然返事が返ってこないの」

「……」

「想、本当にこの話をして大丈夫?」

「大丈夫です、続きをお願いします」

「何度も名前を呼び続けていたら、掠れた声で一言だけ返ってきたの」

 僕は相槌すら打てないまま、続きを目で求めることしかできなかった。
彼女は躊躇いながら、それでも真っ直ぐに僕の目を見ながら唇を動かす。

「『もし想がダメだったら俺の心臓を想にあげて』って言ったの」

「えっ」

「電話越しに聞こえるサイレンと誘導の声で類が事故に遭ったことを察して、私は類の会社用携帯電話の位置情報を辿ってそのまま事故現場に向かった」

「夏樹さんが現場についた時にはもう……」

「言葉にすることも辛いけど……既に意識はなかった」

「それが、兄の最期の言葉ですか……」

「今考えれば大人の心臓を小さな子供に移植することなんてできないけど、きっと当時はそんな当たり前のことを考える余裕すらなくなるほどだったのよ」

 無邪気で、純粋で、健気で。
十年越しに知った兄の最期は、兄らしい言葉で締められていた。

「想」

「はい」

「類の事故は、本当に仕方のないことだった」

「……」

「想が思い悩むことが、一番類が悲しむことだと思う」
 
「でも僕の手術があったから、兄はそれに気を取られて……」

「それは違う」

「……え?」

「類が遭った事故は、逆走車の巻き込み事故だったのよ」

「そんな……」

「それに想のことを考えていたからこそ、いつもより安全には気を配っていたと思う」

「そうなんですか……?」

「類が会社を出る前に言ったのよ『必ず安全に帰ってきなさい』って」

「その言葉に兄は何を返したんですか……?」

「『元気になった想をみる前に死ぬわけにはいかない』って」

 十年越しに知らされる兄の本当。

「でも僕は」

「わかってる、こんな話で想が全てを納得できるなんて私は思ってない」

「じゃあ僕はどう受け入れれば……」

「それでも想が望むなら知ってほしかったの、少しでも想の背負っているものを軽くしたかった」

「夏樹さん……」

「ごめんね、これは私のエゴかもしれないね」

「そんなことはないです、僕も知らなければいけないこと……ずっと知りたかったことだったので」

 誰もいない店内に、秒針の音だけが浮いたように響く。
底の見えたコーヒーカップと、行き場の定まらない視線、治らない動悸。
兄の声で脳内に再生される、兄の最期の言葉に涙が溢れてしまいそうになる。

「夏祭り、想は行くの?」

 声色が明るい、重苦しい雰囲気を振り払おうと彼女はクリームソーダを頼んだ。
少ししてテーブルに並べられた二つの鮮やかな緑色と爽やかな炭酸に、彼女と目を合わせる勇気を授けられた。

「……行く予定でいます」

「一緒に行く御相手は彼女?」

「そんな存在、僕にできると思いますか?友達すら、まだよくわからないままなのに」

「想」

「はい」

「まだ怖いでしょ、きっと」

「失う瞬間が怖くて、大切な存在をつくることが怖くて仕方ないです」

「大切な存在か……」

「もうこれ以上、誰かを失って悲しみたくないんです」

「それは……」

「無理なことだってわかってます、ただこれ以上は耐えられない気がして……。それにきっと僕はまた、大切な誰かを僕のせいで失ってしまうから……」

「想」

「……はい」

「想は、想の人生を歩んでいいんだよ」

「僕の人生……」

「もう、想の気持ちに素直に生きていいの」

「僕の気持ち……ですか」

「一度大切な人を失うとね、その怖さを知ってしまうから難しいとは思うんだけど素直に生きてほしいと私は思ってる」

「……そうなれたらいいんですけどね」

「友達も恋人も終わりが来ちゃうってわかってるからこそ、もうその感覚を味わいたくないんだよね」

「どうしてそんなにわかるんですか、僕の気持ち」

「実は私も五歳の頃に交通事故で姉を亡くしてるの、一緒に旅行に行ったんだけど私だけ生き残っちゃって」

「無神経なこと訊いてしまって……すみません」

「いいの、私は想にだから教えたの。私も立ち直るまですごく時間がかかったけど……ある程度、姉のことはいい意味で割り切れてきたからさ」

「僕も兄のこと、割り切ったつもりではいるんですけどね」

「極端に割り切れなくてもいいんだよ、大切な人を亡くしたんだもん。そう簡単に割り切れるようなことじゃない、ただ想の命も有限だから」

「僕の人生に、僕の命……」

「ただでさえ想は身体も強くないんだから、思いのままに生きてほしい」

「兄が生きていたら、僕にそう言いますかね」

「きっとそう言うと思うわ、今も空から見て言ってるんじゃないかな」

「兄らしい優しさですね」

「それくらい愛らしい弟だったのよ。歳もかなり離れていたし、想が可愛くてしかたなかったんだと思う」

 そう笑いながら彼女はメロンソーダに浮かんだアイスを突く。
微かに聞こえる祭囃子が時間の経過を知らせた。

「何時に集合の予定なの?」

「六時なので、もう少しですね」

「送っていくよ」

「本当にすみません、いつかお礼をさせてください」

「いいの、今は『ありがとう』って言って甘えることも大事。その分、想が少しでも心から笑える時間が増えればそれで私は嬉しいから」

「甘える……」

「家とか学校では辛くても大人にならなきゃいけないだろうから、私といる時ぐらい気を休めてほしいの」

 手際よく(から)になった食器とグラスをまとめ、軽くテーブルを拭く。
店主に礼を言い、夏特有の蒸し暑さを含んだ車へ乗り込む。
 僕が人に僕自身の話をしたことは、夏樹さん以外ない。
兄のことも、家庭環境も、隠している本心も、全て。いつも核心を誤魔化しながら、当たり障りのないような立ち回りの僕に、彼女は心から向き合おうとしてくれている。
全てを知ってしまったからこそ、僕へ充分すぎるほどの優しさ注いでくれる。
 いつもより車内の音楽が大きいことも、意図して無言でいることも、きっと全て彼女の優しさなのだと助手席に座りながら不意に感じた。

「想、会場には着いたけど行けそう?」

「最後まで心配かけちゃってすみません」

「いいの、また何かあったらいつでも呼んでね。連絡もいつでもしてくれて大丈夫だから」

「ありがとうございます、本当にいつも」

「こちらこそ。それじゃあ、お祭り楽しんできてね」

「夏樹さんも帰り道、気をつけて」

 窓越しにも口角を上げている朗らかな表情がわかる、彼女は手を振ってハンドルをきり人混みとは反対方向へ角を曲がった。
降車して、身体に当たった風は生ぬるく、そして騒がしい。
この色鮮やかな人混みの中から僕は、顔すらうろ覚えの彼女を見つけ出さなければいけない。