退屈と怠惰を繰り返して、僕は高校最後の夏休みの終わりを迎えた。
 受験生という理由から、他学年より二週間早い始業式が執り行われている。百数人の生徒と職員が集められた夏の体育館は蒸し暑く、息苦しい。四隅に置かれている業務用の扇風機の風は生徒の座っている席まで届かず、気休めにもなっていない。久しぶりに着た制服のシャツが汗で背中に張り付いて不快感すら覚える、夏が嫌いになってしまいそうだ。
 それに加えてこんな暑さの中、互い今にも肌が触れてしまいそうな距離で話をしている目の前のカップルの存在がより蒸し暑さに拍車をかけている、本当に、呆れてしまうほどに仲がいい。

「相変わらず仲良しでなにより」

「なんだよ(そう)、夏休みを充実できなかった嫉妬か? それとも俺の一途さに驚いてんのか?」

 聞こえないだろうと不満げに呟いてみたけれど、どうやらはっきり聞こえてしまったらしい。
 課題の提出日どころか夏休みの最終日すら聞いていなかったのにこんな時ばかり、とその耳の都合の良さに驚いてしまう。

「そんなんじゃない、夏休みが退屈なことなんてもう慣れたよ。それに神楽(かぐら)の異常な一途さにも今更驚かない」

「こんなに可愛い彼女と一緒にいたら目移りする方が難しいだろ? 一途でいるなんて当たり前だよ、そんくらい可愛いって想も思わない?」

「それ、僕が頷いたら色々まずいから」

 ニヤニヤ、神楽の口角からはそんな効果音が聞こえる。
 今、隣に座って神楽に頭を撫でられているのが神楽の彼女。白石(しらいし)寧々(ねね)、好きなアニメキャラクターと同姓同名だったせいで人に無頓着な僕も入学式の時点で名前を把握してしまっていたが、まさか唯一の友達になる神楽の恋人だとは思ってもいなかった。茶色がかった髪は腰のあたりまで伸びていて毛先はゆるやかに巻かれている、スカートの丈も短くていかにも“女子高校生“という見た目をしている。僕が知る限り、神楽の好みど真ん中の容姿だ。そして僕が最も避けてしまう容姿だ。理由は、なんとなく派手だから、ただそれだけだけど。

「入学式での一目惚れだっけ? 容姿から好きになって、三年も続くなんてすごいよ」

「こんな可愛い子、一回惚れたら目移りできるわけないだろ? 想もそう思わない?」

「だから……それ僕が「うん」って言ったらまずいだろ」

 不純に思える言葉とは結びつかないほど、神楽が白石をみる瞳は優しい。
 言葉を掛ける時の声も、頭を撫でる手も、そこには絵に描いたような暖かさがあって愛を感じる。まぁ、それが余計暑苦しさを感じさせているのかもしれないけど。
 担任教師から呼び出され、白石が席を外した。それを合図に神楽はパイプ椅子の背もたれへ手を回し僕の方を向く。なんとなく、面倒な話をされそうだなと予感している。

「想ってさ」

「ん?」

「彼女できたことあったっけ?」
 
 ほらな、と思った。
 ここまで来たら次の質問あたりまでは簡単に予想できてしまう。

「いや、ないよ」

「なんで?」

 僕はもう一度心の中で「ほらな」と言ってしまった。

「なんでって——」

「だって想、普通に顔良くない? スタイルとか声も別に悪くないじゃん?」

「神楽はそう思ってくれてるかもしれないけど女子ウケとか悪いんじゃない? わかんないけどさ」

 神楽はあまりにも適当な僕の返答へ不服そうな表情を返した後、戻ってきた白石へなにかを耳打ちした。そして今度は二人揃って僕の方へ振り向いた。
 熟年カップルの作戦会議は、ほんの数秒で終わったようだ。
 僕になにか物申したいと言わんばかりに大袈裟な咳払いをして、企んだ表情を崩すことなく最初に口を開いたのは神楽だった。。

「寧々、なんで想に彼女ができないと思う? 貴重な女子の意見をお願いしますっ」

久遠(くおん)君はねぇ、愛想がない! その他はたぶん完璧。女子ウケも最高」
 
 そう、白石は神楽へ自信満々に答えてみせた。
 “彼氏の隣で躊躇なく他の異性を褒めている彼女“という絵面に驚く。そこまでの信頼関係を築いている二人に圧倒されていると「まぁ一番かっこよくて好きなのは律なんだけどねぇ」「そんなこと言ったら俺だって寧々だけだよぉ」なんて、燃え果ててしまいそうな惚気を見せつけられてしまった。

「愛想か……」

「そういえば寧々と想って中学校一緒じゃなかったっけ?」

「えっ、嘘——」

「ほらっそういうとこ! 愛想とは違うのかもしれないけど……なんというか久遠君は「僕は人に興味ないです」ってオーラが滲み出てるんだよね」

 僕は今、なかなか失礼なことを言われている気がする。
 彼女がいないというだけで、勝手に原因を分析されて、きっとよくないイメージを貼り付けられている。いや、でも、否定できない。だって——。

「人に興味ない、か」

 僕にはその心当たりが明確にあるから。
 開会の鐘に急かされるように、神楽と白石が前を向き直す。
 僕の頭には「人に興味がないってオーラが滲み出てるんだよね」の言葉が繰り返し再生されている。胸がつかえる感覚に襲われる。痛いところを突かれてしまったな、と正直に思った。僕は人に対して興味がないというより、興味を抱かないようにしている。人と一定の距離感を保つ意識を持っていることは、僕自身が生きていくためで欠かせないことだ。

「想、なにぼーっとしてんの? 熱中症? のぼせた?」

「あっごめん、もう始業式終わったんだ……なにも聞いてなかった」

「まぁそれはいいけど、今から色々忙しいから早く教室戻るぞ」
 
「白石は?」
 
「女子と一緒に先に戻ってる、ほら、いいから行くぞ」

 白石を先に教室へ帰し、僕を待ってくれていた神楽へ罪悪感を覚える。
 我に返って周囲を見渡すと、始業式の反省会を行う生徒会役員が体育館の端に集まっているだけで他の生徒はいない。
 蒸し暑いだけの体育館に寂しく残っていたパイプ椅子の片付けを手伝い、僕と神楽は教室へ戻るための階段を並んで登った。

「なぁ神楽」

「ん?」

「神楽は白石のどこを好きになったの?」

「だから一目惚れだって言ってんじゃん、恥ずかしいからあんまり言わせ——」

「いや、そうじゃなくてさ」

「ん?」

「三年も付き合ってたら増えていくものじゃないの? 内面的なところとか、ずっと容姿だけじゃ続かないだろうから」

「それを言うなら……」

 僕からの問いへ、神楽は見たこともないくらい真剣な表情で答えを探している。訊いてはいけないことを訊いてしまったのかもしれないと内心焦る。
 階段を登り切ってしまって足音が静かになる、沈黙が目立つ。気まずいとはこのことか、と嫌な実感をしてしまう。
 それでも今更誤魔化すことはできなくて、僕は申し訳なさに襲われながら神楽の答えを待った。
 そして少しして告げられた答えは——。

「全部かな、寧々の全部」

 なんだ、迷っていたのはそういうことか。
 そうか、僕が質問をした相手は同じ男子高校生とは思えないほど恋人のことを溺愛しているのだった。僕はそんな大前提を今更になって痛感させられる。
 相変わらずの一途さには良くも悪くも呆れてしまうけれど、いつも通りの神楽でよかった。

「全部?」

「性格とか容姿とかの言葉じゃ言えないかも、とにかく全部が好き」
 
「よくわかんないけど、そっか」

「自分から聞いといてそれかよ!? まぁ、想にもいつかわかる日が来るさ」

「僕は予感すら感じてないけどね」

 なかなか捻くれてますねぇ、と神楽はいつもの調子で僕を茶化した。
 夏休み明けだからか、普段より高揚した騒がしさが、エアコンの冷気と共に廊下へ漏れていた。
 それも、僕のクラスだけ。他のクラスが憂鬱な表情で夏休み中の課題を回収している中で僕のクラスだけが騒がしい。不自然だ、なんというか、ちょっと異様だった。

「なんかいつもより騒がしくない? 教室」

「そりゃそうだろうな、逆に冷静すぎる想が怖いよ」

「どうして?」

「どうして? ってお前、転校生が来るんだぞ? なんでそんな冷静なんだよ」

 転校生? こんな中途半端な時期に?

「うちのクラスに転校生が来るんだよ。始業式の最後に学年主任が言ってたろ?」

 そうだったっけ、と適当な相槌を打つ。
 高校最後の夏休み明けに転校してくるとは、相当な訳ありなのだろうか。
 まぁ、どんな人が来たとしても僕には関係ない。卒業してしまえば接点すらなくなる相手が一人増えるだけのことに、興奮できる気持ちに僕は共感できない。
 ——この時期に転校って普通する? やばい子じゃないといいけど……。
 ——まだ男子か女子かも言われてないよね?
 ——夏休み明けの転校生だろ? 絶対超絶美少女だろ
 ——いいや、まだ超絶美男子の可能性も捨てきれない
 教室内ではそんな会話が飛び交っていた。 
 その騒がしさに反して、まだ予鈴すら鳴っていないのに全員が律儀に席についていた。初対面の転校生にいい顔をしたいのだろうか。
 どんな子かと話を膨らませる者、可愛い転校生と高校最後の青春を——なんて妄想を語る者、耳を潜めて廊下からの足音を聞く者——それぞれ興奮や期待を昂らせながら担任教師が転校生を連れてくるのを待っている。 
 そんな中で独り、窓の外を見つめ続ける僕がいた。

「あら、珍しくみんな席に着いてるのね」

 始業式の見慣れないスーツ姿の担任教師が学級名簿を片手に教室へ入ると「そんなに舞いあがっちゃって」と茶化した。付け加えるように「転校生って言っても今日からクラスメイトなんだから、そんなに特別視しないの!」と。そんな教師の表情すら、いつもより頬の辺りが緩んでいるように見えた。
 新しく誰かに出会ってしまう、僕一人、そんな恐怖に駆られている。
 教室へ入るよう、担任は扉の外で待っている転校生を手招いて呼んだ。その瞬間に、クラスの大半の意識が扉の外側へ集められる。今にも覗きたくてたまらない、という音のない叫び声が聞こえてくる。

「今から教室に入ってもらうけど、くれぐれも勢いで怖がらせないように。歓迎は大切だけど自己紹介は落ち着いて聴くこと!」

 その一声に全員の視線が一斉に扉へ向く。
 これに限っては僕も例外ではない。

(ゆずりは) 叶愛(とあ)です、卒業まで残り短いですが仲良くしてくださると嬉しいです」

 歓迎の音と、祝福の声がただでさえ反響の激しい教室へ響いた。
 その全てが、緊張からかどこか萎縮して黒板に立っている彼女に向けられている。
 
「想、あの子めっちゃ可愛くないか?」
 
 ひとつ後の席の神楽から肩を小突かれた後、そんな呟きを聞かされた。
 胸の上あたりまで伸ばされた黒髪には艶があって、その黒が映えるように肌が白い。夏の暑さから血色感のある唇と緊張から頬は薄く桃色に(ほて)っている。斜めに曲がった制服のリボンからは転校生感あふれる初々《ういうい》しさを感じさせられる。
 まぁ、確かに、容姿は整ってる。
 というよりアニメでよくある“ヒロイン枠の転校生“そのものだ。
 ここまで期待を裏切らないこと、あるんだ、と感心してしまう。

「なぁ、想、やばいぞあの子。なんかこう、女子高校生の可愛さを全部詰め合わせた感じ……!」

 神楽は彼女に一途だが、容姿の整った異性には目がない。

「いや神楽には白石がいるじゃん、今更転校生に目移りなんて物好きのすることだよ」

「想、本当にわかってないな」

 なにが“わかってない“なのかわからなかった。
 容姿が整っていることは理解できるし、実際僕もそう思う。ただ神楽がここまで白石以外の異性を褒めたところを見たことがなかったからそう言っただけで——そのなにが“わかってない“なんだ。
 首を傾げる僕を見て、神楽は眉間に皺を寄せる。
 次第に不服そうな表情に変わり、抑えきれなかった声が漏れた。

「想の彼女の話をしてるの! そんくらい察しろよな?」

「え、僕の?」

「久遠君があんな可愛い子に出会うチャンス、今逃したらもう無いかもしれないよ?」

 数秒前、転校生をベタ褒めする神楽に嫉妬の目線を向けていた白石が気の良さそうに神楽の肩からひょこっと顔を出すように僕を覗いてきた。
 二人の性格はあんまり似ていないけど、同じなにかを企んでいる時のニヤニヤした表情だけはそっくりだ。

「いや、白石までそんなこと言うなよ」

「だって久遠君悪い人じゃないし! チャンスがあるなら今しかないと思わない? 最後の高校生活だよ? 青春だよ? 夏だよ? 転校生だよ? 可愛いよ?」
 
 理由があからさまに適当になっている。

「そんなこと言われても——」

「先生! 楪さんの席ってもう決まっちゃってます? 決まってなかったら想の隣がちょうど空いてますよー!」

「特には決まってないけど——空いてるならそのまま久遠君の隣にしちゃおうか」

 神楽と担任の会話を受け異様に手際よく、そしてご丁寧に白石は僕の隣席の椅子を引いた。僕へしてやったり顔向ける神楽と、黒板の前に立ち尽くす転校生をこれまた手際よく迎えに行く白石。
 熟年カップルは作戦会議すらせずに意思の疎通ができてしまうらしい、まんまとはめられてしまった。
 ただ、ここで困惑したような表情をつくることは転校生に失礼な気がして、僕は引き攣りそうになる顔をなんとか保とうと決めた。

「神楽、なに余計なことしてくれてるんだよ」

「仕方ないだろ? 想は絶対自分からは関わりにいかないんだから」

「だから僕は恋愛とか興味ないんだっ——」

「強がんなって、想も、あの子のこと可愛いって少しは思うだろ?」

 心の底から、僕は人に興味がない。いや、興味を持ちたくない。
 四十人近く在籍するクラスで頻繁に話をする人は、去年まで同じ部活に所属していて人に対して積極的な神楽と、席が何度も隣になってコミュニケーションに容赦のない白石の二人。
 確かに、転校生に対して“容姿が整っている“とは思う。でも「可愛い」や、ましてや「好き」何て感情は僕の心のどこにも見当たらない。

「ほら久遠君、せっかく隣なんだから仲良くしなね?」

 白石の半ば強引で圧を感じさせる口調に断る隙はなかった。
 抵抗するように白石の目に訴えかけてみるけれど、器用にはぐらかされてしまった。
 逃げられない、転校生が隣の席に座って最初に抱いた気持ちはそれだった。

「初めまして、名前を教えてもらってもいいかな」

「久遠想、呼びやすいように呼んでくれたら、嬉しい」

「想君、隣の席で困らせちゃうことも多いと思うけどこれからよろしくね」

 つられてしまったけれど、最初からタメ口なことに驚いた。まぁ同級生ならそれが普通か——でも初めから下の名前で呼ぶのは馴れ馴れしいような気がする。
 僕とは対照的に愛想のいい微笑みを浮かべる彼女と、会話を続ける方法がわからない。
 なんとなく会釈をする僕により深く頭を下げる彼女をみて、なんと言葉を掛けることが正解かわからなかった。
 このままなにも話さずに黒板の方を向くのも気まずいし、きっと印象としてよくない。人からの印象なんて普段は気にしないけれど、これから先、席が隣で毎日顔を合わせなければいけないとなると好印象とはいかずとも、普通くらいにはなっておきたい。
 それに僕はもう一つ、彼女に対してわからないことがある。
 彼女と深い関係になる気は微塵も無いけれど、これだけは知っておかなければ今後の生活に支障が出てしまう——。

「あの」

「どうかしましたか?」

「名前、教えてもらっても大丈夫ですか?」

 そう彼女に尋ねた瞬間、後頭部に何かが勢いよくぶつかった。たぶん、ちょっと厚みのある教科書の背表紙とかだと思う。
 慌てて振り向くと目を見開いて、呆れと怒りを込めたような表情をした神楽。その横には笑いを堪えるのに必死な白石。

「お前、ほんとそういうとこだぞ? 名前さっき自己紹介で教えてくれてただろ」

「えっ、僕、すごい失礼なことしちゃったじゃん」

「そうだよ——話くらいちゃんと聴いとけ」

 視線を戻すと彼女は口元を手で隠しながら笑いを抑えた。
 僕と神楽のやりとりを漫才でもみているかのように笑う彼女を僕は直視できなかった。本当に心の底から、申し訳ないと思ったからだ。

「初対面で失礼なことしちゃって、ほんとすみません……」

「気にしないで気にしないで!」

「今度はちゃんと覚えるので、もう一回教えてもらってもいいですか」

「楪叶愛、呼び方は想君に任せるね」

 神楽から肩を小突かれていることに気づき再び慌てて振り向く。
 なにを言いたいのかが露骨に表れている表情に、抵抗の意味を込めて僕は素っ頓狂(すっとんきょう)な表情をつくってみた。
 当然だが、効果はない。

「呼び方、ちゃんとわかってるよな?」

「そんなこと言われなくてもわかってるよ」

「想の「わかってる」が一番信用できない、一旦俺に言ってみろ」

「初対面だし楪さんって呼ぼうと思ってる、一番無難でしょ?」

「想、お前本当に馬鹿だな」

 これは我ながら模範解答だと思ったのに。

「これからお近づきになろうとしてる異性に対して苗字に“さん“付けはないだろ」

「じゃあ何て呼ぶのが正解?」

「下の名前、これは最低条件だから」

 彼女持ちの中にある常識を理解するまでに、僕はどれだけ時間がかかるのだろう。そもそもわかる日が来るかすら怪しい。
 初対面の異性を下の名前で呼ぶなんて、一歩間違えれば世間で言う“思わせぶりな態度“になってしまう。そこから面倒臭い関係に発展することは極力避けたい。

「叶愛さん、って呼ぶね」

 ぎこちない僕の態度に不満そうな神楽とは対照的な笑みで彼女は僕を受け入れた。
 きっと気を遣っているのだと思う、いい人だなと思った。
 あれだけ緊張して乗り切った自己紹介をまるで聞いていない相手に起こる気配もなく、柔らかく受け入れてくれる、社交辞令だったとしてもいい人だ。
 ただ、彼女と友達になる未来も、恋人という関係を結ぶ未来も僕には全く想像できない。
 彼女のことを気にいる異性は確実いるだろうし、そのうち僕の名前なんて忘れるほど学校生活も潤ってくるだろう。最初の数日だけ僕は“隣の席のあの子“でいるだけだ。そう思って軽い会釈をし、僕は教卓へ視線を移した。
 そして目立った会話もないまま午前授業最後の時間を終え、淡々と校舎を出る。

「なぁ神楽」

「ん?」

「前から思ってたんだけど白石とは一緒に帰らなくていいの?」

「方向が一緒だったら毎日でも帰りたいんだけど、さすがに遠回りはさせられないよ。長い道を一人で歩かせるなんて危なくて怖いからさ」

「神楽、やっぱり優しいな」

「優しくしようって意識はしないけど、可愛い彼女がいたら大切にしたいって思うんだよ」

 僕にはわからない感覚だけど、神楽の言っていることへの理解はできる。
 可愛い彼女、それはきっと大切な人だから。
 危険なことはさせたくないし、それを自分の行動によって防ぐことができるなら迷わずそうする。それがきっと、守るということだ。
 それをただ恋愛に当てはめるだけ、きっとそうだろう。

「そういえば想と白石って中学一緒なのに帰る方向違うんだな」

「僕が高校へ入学する時に親が家を建てたんだよ、だから神楽の方が僕の家とが近い」

 ああ、そういうことか、と間抜けた相槌を打たれる。

「なんだかんだ三年間登下校は神楽と一緒だよね、放課後遊んだことは数えられるほどしかないけどさ」

「去年まで部活も一緒だったからな、俺も想といる時間が寧々の次に長いかも」

「白石が一番で安心してる、さすがに恋人を越すのは気が引けるよ」

「想の唯一の友達は俺ってことかな」

「まぁ、そうなるのかもね」

 友達も恋人も僕にとって避け続けている言葉の一つ。
 なんというかそう、僕は“どうでもよかった誰かが“特別な存在“になってしまうのが怖いのだ。
 だから人との距離を縮めること自体を、僕は酷く恐れている。

「楪さんのこと実際想はどう思ってるの?」

「初めて会ったばっかりだし、特になにも」

「そっか」

「反応が神楽らしくないね」

「俺も少しは反省してるから」

「反省?」

「想に初めての彼女ができるかもしれないって舞い上がって、あんな強引な近づけ方してよかったのかなって」

「そんなこと考えてくれてたんだ」

「恋人探しの前に友達のことを考えるのが普通だろ。どれだけ可愛かったとしても相手は会ったばかりの転校生だ、どんな人かなんてわかんない、まぁ、悪い人じゃないだろうけどさ」

 情に厚い神楽のもとにいても、僕は薄情なままだった。
 クラスメイトの名前は半分以上思い出せないし、フルネームで言えるのなんてほんの数人。街ですれ違って顔をみても同級生だとは気付けない。払いきれない臆病さのせいで何かを欠落させたまま、今になってしまった。
 それを僕自身は少し、本当に少しだけ後悔している。
 神楽や白石が誰かと楽しそうに笑う姿を見て「もしかしたら僕も」と、期待してしまう心がある。

「叶愛さんに僕が近づくなんて申し訳ないよ、もっと僕より彼氏に相応しい人がいる」

「俺は結構聞いたことあるけどな、想に気があるって女子のこと」

「どういう意味?」

「そのままだよ、想を彼氏にしたいって言ってる女子が結構いるって意味」

「物好きもいるものだね」

「愛想もそうだけど、その捻くれ方だけでも直してくれたらいいんだけど」

 じゃあな、と手を振られたので、また明日、と返した。
 冗談まじりに笑う神楽は一緒にいて不安感がない。
 明日も明後日も、変わらず隣にいてくれるんだろうなと無意識に思わせてくれる。それじゃあ明日もしなにかが起きていなくなったら——ダメだ、意識するとすぐにそういうことを考えてしまって、足がすくみそうになる。
 意識しないようにしていたけれど、神楽は僕の中で無意識のうちに“大切“な友達になってしまっているのかもしれない。
 神楽と別れた道の先で、そんな小難しいことを考えている。

 ***

 目覚ましより二時間早く目が覚めた。
 いつもの僕なら二度寝に入るところだけれど、今日は上手く寝付けなかった。眠っている間も曖昧な悪夢が繰り返されていて眠れている感覚はなかった。
 仕方なく身体を起こし、シャワーを浴びることにした。冷水を頭から浴びて不規則な動悸を鎮める、異常なほどに目が冴えていく感覚と共に、普段の起床時間を迎えた。
 それが今日の僕の朝だった。
 制服の袖に腕を通す瞬間も、朝食を口に含んだ感覚も、コンタクトレンズを入れたはずの視界も、全てが歪んだままの朝。
 気持ち悪い、そんな感覚。
 誰もいないリビングに響く秒針に急かされるように扉を開け、靴のかかとすら中途半端のまま通学路を辿る。

「神楽おはよう」

「想から挨拶してくるなんて珍しいな」

「そう?」

「まぁいいや、何かあったの?」

「——なんでわかったの?」

「今日の想、いつもと違うから気づきたくなくても気づく」

「昨日の夜から色々考えてたんだけどさ——」

「それは楪さんのこと?」

 頷く。
 なんとなく、嫌な予感がしているんだ。
 友達にも恋人にもなる予定もないし、ただ席が隣になっただけなのに。長らく初対面の人と関わっていなかったことの弊害だ、初めましての相手は僕の心に鋭く刺さった久しぶりの衝撃だった。
 だからその名前を聞くと奇妙なほどに動悸がする。

「僕はやっぱりまだよくわかってないんだよね、付き合うとか恋人とか」

 言葉を噛み砕きながら、正直な気持ちを神楽にだけは伝えておきたい。

「——だから、あまり期待しないでいてほしいなって、思って」

「わかった、俺も昨日はテンション上がっててさ。傷つけてたらごめんな」

「それは大丈夫、あの雰囲気は僕も嫌いじゃないから。それに、転校生が来るなんて喜ばしいことだって理解はできるから」

「それなら俺は昨日と同じように接するからな、その代わり何かあったらすぐ言えよ?」

 真っ直ぐな優しさで僕に接する神楽に、僕はまた嘘をついた。
 本当は“わからない“なんてことではない、ただ“怖い“それだけ。
 重くなりかけた雰囲気を調整しようと普段通りの話を神楽が持ち出してくれる。白石との惚気話、隣のクラス担任の噂、迫ってくる期末テストの範囲、今の僕は上手に口角を上げられているだろうか。
 止まりそうになる足を動かすことに必死で、器用な相槌すら打てていないような気がする。
 教室の扉を開けると誰もいない静かな空間に一人、叶愛さんの姿だけがあった。
 その景色にはまるで、ドラマのワンシーンを切り取ったような雰囲気があった。

「想君おはよう」

「叶愛さん、朝来るの早いんだね」

 そう不器用に返した僕へ、優しく微笑み返してくれた。
 朝の教室の窓から差し込む光が、柔らかく彼女の輪郭を照らす。

「前にいた学校と教科書が違くて、授業が始まる前に目を通しておこうと思ったんだ」

「そっか、熱心だね」

「楪さん、勉強なら想が得意だよ」

 叶愛さんがいることに気づいて、わざわざ気を遣って反対側の扉から入室した神楽が、その気遣いの意義を抹消するかのように顔を覗かせてそう告げた。
 通学中に言ってくれた「俺も少しは反省してるから」とは結びつかないからかいようだ。その代わりに「それなら俺は昨日と同じように接するからな」の部分だけが忠実に守られている。

「想君、勉強得意なんだね」

「俺は全然駄目だから邪魔しないように席外すね〜それじゃあ、あとは想と楪さんでごゆっくりっ」

 そう言い残して神楽は足軽に教室を出て行った。去り際にポンっと右肩を叩かれた「うまくやれよ?」という圧を感じた。
 何もない空間に、二人きりで、取り残されてしまった。。
 僕は反射的に机の上に開かれている教科書に目を向けてしまい、気まずくなって叶愛さんのいる席の横の通路を通り過ぎる。そのまま荷物の整理をしようとロッカーの取手に手をかけた瞬間、叶愛さんは僕の名前を呼んだ。

「なに?」

「ここ、教えてもらってもいいかな」

 緊張しているのは、僕だけなのかもしれない。
 そう考えると少し馬鹿馬鹿しい。関わりたくないのに、避けていたはずなのに、無意識に意識しているのは僕の方だった。
 取り乱さないように冷静な態度を保ちながら僕は再び教科書へ目をやる、叶愛さんが指差す数式を目で追った。
 開かれたページが浅かったこともあり、吹き込んでくる風で紙がめくれてしまう。
 なんとなく心地いい風、そう感じた。
 理由はわからないけれど、窓から入り込む風を鬱陶しいと感じなかったのはこれが初めてかもしれない。

「ここは前のページの公式の変形を使うといいよ、そこの数式に代入して——」

「想君の教え方すっごくわかりやすい」

「大袈裟だよ、偶然得意な範囲だっただけ」

 授業開始に向けて人が集まり出した教室に、白石を連れて戻ってくる神楽の姿が見えた。どうやら席を外したのは僕への気遣いではなく、白石を迎えに行くための口実だったよう。

「おはよう! 久遠君と叶愛ちゃんは朝から二人で勉強会?」

「おはようございます白石さん! 勉強会というか……想君が親切に教えてくれて」

「なるほど! あと呼び方「寧々」でいいよ? いきなり呼び捨ては抵抗あるかもしれないけど——とにかくなんか苗字で呼ばれるのは違和感ある!」

「じゃあお言葉に甘えて、ありがとう寧々ちゃん」

 そんな呑気な雑談をしているところに担任が慌てた様子で駆けてきた。
 黒板に乱雑にチョークを当て、乱れた文字が並んでいく。上がった息を整えながらなにか指示を出すという合図として右手をまっすぐ挙げた。

「ギリギリで申し訳ないんだけど一時間目の授業が体育に変わって、男子がプールで女子がグラウンド競技になります! 着替えとか準備とかあるだろうけどなるべく遅れないように! 移動と窓の施錠お願いね!」

 そう言い残し「じゃあまた!」と再び早足で職員会議に戻って行った。
 どうやら出勤講師の関係で全クラス急遽授業変更を行ったらしい。

「プールか、朝からはだるいけど涼しいうちに済ませられるなら悪くないな」

「神楽、ジャージ持って来てない?」

「あるけど——そっか想は入れないのか」

「今日体育の予定もなくてジャージ持ってきてなくてさ、貸してくれると助かる」

「了解っ、ちょっと大きいけど大丈夫?」

「問題ない、ありがとう」

 授業開始まで残り十分、急いで着替えを済ませてプールサイドへ移動する。
 まだ午前中なのに、足を素早く動かしてしまうほど地面が熱い。
 僕の夏の体育は、半分をテントの下で退屈に過ごす。そして担当教員から頼まれ次第、タイム計測と記録を繰り返す。ただぼーっとしているわけにもいかない、少しだけ神経質な退屈だ。

「先生、タイム計測は何時頃の予定ですか?」

「今日は急遽授業が入っただけだから計測はしない予定でいたよ、いつもありがとね。久遠君も今日はゆっくりしてて、気温が高いから水分補給は忘れずにね」

 湿ったプールサイドを意味もなく一周した後、テントに戻った。
 今日は本当の意味で退屈な時間になりそうだ。
 水面を腕が叩く音と、フェンスを挟んだ後方のグラウンドにいる女子の甲高い掛け声だけが耳に響く。頭を空にして風に当たっていると、僕の名前を呼ぶ声がフェンスのすぐ(そば)あたりから聞こえたような気がして——。

「想君?」

「叶愛さん? どうしてここに——」

「ごめんね、投げたソフトボールがフェンスの穴からプールサイドに入っちゃったから取ってもらいたくて」

「ごめん、気づけなかった。この一つだけで大丈夫?」

「大丈夫! ありがと!」

 手のひらで握るには少し大きいソフトボールを持って、叶愛さんは再びグラウンドへ駆け出そうとする。
 でも、なにかがおかしい。
 いや、別にこのやり取りの中におかしいことなんてなかったけど、なんというか季節感、服装——あっ、これだ。
 僕は炎天下の中、冬用の長袖と長ズボンを着用した叶愛さんに違和感を覚えていた。

「ねぇ」

「ん?」

「暑くないの? 熱中症とか怖いし、その格好での運動は控えた方がいいと思うけど——」

「体育見学だから暑さは大丈夫だよ、想君もプール見学?」

「まぁ、そうだね」

「もしかして水着忘れたの?」

 からかうように笑う彼女に、少しだけ緊張が解ける。
 フェンス越しに、プールサイドとグラウンドの高低差の中、僕と叶愛さんだけの会話が広がっている。なんというか、不思議な感覚だ。
 それでも叶愛さんに対して解れた表情をみせることは距離が縮まってしまうきっかけになるような気がして、不意に俯いてしまった。
 そして——。

「違うよ、持病で入れないんだ」

 そんなぶっきらぼうに返してしまった、さすがに良くない。
 そんな急に持病だなんて、空気を重くしてしまう。

「それは——失礼なこと言っちゃって、ごめんね」

「大丈夫だよ、そう言う叶愛さんは?」

「夏の体育は女子にとって天敵なんだよ?」

 茶化したように叶愛さんは言ってみせた。
 小さな手でボールを握って、子供のような足取りで今度こそ再びグラウンドへ駆けていく。
 テント下に取り残された僕のやることは、ただ水面の不規則な動きを目で追うことだけだった。その揺れ動き方が僕の心の中を引っ掻きまわす。
 必要最低限の対人関係で生きてきた僕にとって、予想もしていなかったイレギュラーが襲ったこと。
 大丈夫だ、叶愛さんはただのクラスメイトで、席を隣に仕向けられただけ。異性と話すことなんて一般的にはよくあるし、なにに発展するわけでもない。
 ただ、理由もわからなくなってしまうほど、怖いと思ってしまうんだ。
 交友関係を築くことすら避けていた僕が初対面の異性と当たり前のように言葉を交わしているという現状は、僕にとってそれほど困惑してしまうことらしかった。

「——想君!」

「びっくりした……、わざわざ戻ってきてどうしたの?」

「驚かせちゃってごめん! 言い忘れちゃったことがあってさ。朝の教科書の続き、また後で教えてほしいの」

「僕は全然いいよ、叶愛さんが都合いい時間さえ教えてくれればいつでも」

「ありがと! じゃあ、今度こそ私はちゃんとグランドに戻るね!」

 神楽も、白石も、クラスメイトも、当たり前のように恋におちて、誰かを愛している。短期間で相手が変わる人もいれば、長い月日の中で相手の魅力深さに惚れ込んでいく人もいる。器用な人は何人かと同じ期間に関係を持つ人も——愛かどうかは怪しいけど、なんらかの理由を持って好きになっていることに変わりはない。
 その中で「好き」や「愛してる」といった言葉を紡いで、キスやハグで温度を交わす。“高校生“という枠組みの中で育まれる純粋な感情の形が僕には遠く感じる。
 中には「ずっと一緒にいようね」なんて、呪いを伝え合う人もいる。僕には到底理解できない、人はある日突然、独りになるんだ。
 と言っても僕だって、その眩しさへ憧れを抱かないわけではない。ただ僕はその後に待ち受ける残酷がどうしようもなく怖くて踏み出しきれない。

「想!」

「神楽——もう着替えたの?」

「何回声を掛けても反応ないから、先に着替えてきたんだよ」

「あっ——ごめん考え事してて」

「別に俺は大丈夫だけどさ、あんまり考え込みすぎんなよ」

「え」

「楪さんのこと、想が苦しくなってまで考える必要はないから」

「ん、ありがと」

 その後数時間の授業は、いつもより時間の流れが速く感じた。
 教師の声など耳に入らず、プリントの空白は埋まらないまま授業終了の鐘が鳴っていく。別になにをしているわけではない、ただ頭の中の騒がしさを鎮めようとしていると勝手に時間が経っている。食べた昼食は味がしなくて粘土細工を噛み砕いているような感覚がずっと口に残っている。その間もずっと、言葉にもならない言葉が脳を埋め尽くしていく。
 なにに思考を巡らせているのかは、僕自身もやっぱりよくわからなかった。

「想、体調悪い?」

「大丈夫、そっかもう放課後なんだ」

「それならいいけど。放課後、なんか用事ある?」

「特にはないよ、神楽は?」

「俺も。バス、十分後に来るのあるし一緒に乗るか」
 
 僕を気遣うように、神楽は目を合わせてこなかった。
 なにも言わないまま荷物をまとめ、席を立つ。
 誰もいない教室の窓を閉め、蛍光灯を消す。

「想君!」

「叶愛さん?」

「ごめんね急に、今から忙しかったりする?」

「いや、帰るだけで特にはないけど——どうかした?」

「今朝の続きを教えてほしくて」

 視線を背後へ移す、気遣いのつもりかスマートフォンに視線を向ける神楽の前で“断る“という選択肢は許されていないような気がした。
 勉強を教えるだけなら感覚的にはほぼ作業に近いだろうし、教科書を辿って説明するだけならそれこそ雑談ほど砕けた雰囲気にもならないだろう。
 大丈夫だ、なにも起こったりしない。

「いいよ、ただ疲れると集中力も続かなくなるから無理しない程度にしようか」

 僕の提案に叶愛さんは素直に頷き、廊下にある教材用ロッカーへ教科書を取りに駆ける。その姿とすれ違いに入室する人の影が目に入る。
 極端に短いスカート丈と気怠けな声から、その正体はすぐにわかった。

「律〜、急に呼び出してどうしたの——って、久遠君もいるじゃん! 珍しっ」

「白石、どうして」

「俺が呼んだんだよ、図書室で自習してるって聞いてたから一緒にどうかなって思って」

「神楽か、そういえば神楽の下の名前久しぶりに聞いたかも」

「忘れてたとか言うなよ?」

「ごめん、忘れかけてた」

 そんな冗談に雰囲気が和んでいく、四人だけの教室が心地いい騒がしさで満たされていく。

「遅くなってごめんね——寧々ちゃんと神楽さんも一緒に教えてくださるんですか?」

「いやいや〜私と律は教えられるほど頭良くないから、みんなで想先生に教えてもらうの!」

「そんなこと言われると余計に緊張するだろ、時間も限られてるし始めるよ」

 叶愛さんの真新しい教科書に数字が埋められていく。
 僕の隣に神楽が、叶愛さんの隣には白石が座ってくれた。二人のフォローのおかげで詰まることなく会話を続けることができている。
 叶愛さんが一ページ問題を解き終わると、白石は大きな花丸をつけ「天才!」と声をかけている。その姿に純粋な優しさを感じた。
 そして少しだけ、羨ましいと思ってしまった。
 叶愛さんは物覚えが良くて一度行った公式の使い方はすぐに理解してくれる、見る限りメモの取り方も的確だ。僕だって淡々と教えるだけじゃなくて、素直に褒めることができたらいいのに。

「とりあえずここまで解き終わったら今日の分は終わりにしようか」

「想、楪さんがこの問題を解いている間ちょっといい?」

「別にいいけど——白石、叶愛さんに少しの間教えるのお願いしても大丈夫?」

「私は全然大丈夫! むしろ叶愛ちゃんとお話できて嬉しいしっ」

「ありがと、でも喋ってばっかりで邪魔しないようにな」

 そう言うと白石は不貞腐れたように「そんなこと言われなくてもわかってるよー」言って背伸びをしたあと大袈裟に手を振って僕と神楽を廊下へ送り出した。

「想ってさ」

 廊下に出てすぐ、たぶん一秒の間もなかったと思う。神楽がみょうに真剣な表情と声で僕へなにかを言おうとしている。
 僕の教え方が悪かったか、気づいていないだけで叶愛さんを威圧するような態度をとってしまっていたか、それとも他になにか良くないことをしてしまったか——。

「どういう子がタイプなの」

「は?」

「いや純粋に、どんな女の子がタイプなのかなって思ってさ」
 
 僕の脳内反省会は、そんな突拍子のない質問によって幕を閉じた。

「そんなこと、急に言われたって困るんだけど。神楽みたいに女子のことよくみてるわけじゃないし」

「その言い方だと俺がめっちゃ目移りしてるみたいじゃん」

「目移りはしてないけどすぐ可愛いって言うのは事実だろ」

「それは本当に可愛いって思った時にしか言わないし——それに寧々は別格だから」

「まぁ別にいいんだけどさ、僕にそんなこと聞かれても困るよ」

「じゃあ髪は? ロング派かショート派か」

「その人に似合ってればそれが一番いいんじゃない?」

「背は高い方がいい? やっぱ低い方が好き?」

「別にどっちでもいいよ、身長で何かが決まるわけじゃないし」

「声はどんな声がいい? アニメっぽい声とか、セクシーな色っぽい声とか」

「どんな声だっていいよ、人の声なんて聞き取れれば十分程度にしか意識したことない」

「想、本当に俺と同じ男子高校生だよな」

「一応そのつもりではいるけど」

「じゃあ何でそんなに冷めていられんだよ——タイプの一つくらいあれよ」

 僕も“あんなこと“がなければ、好きなタイプの一つくらい言えたのかもしれない。
 目の前の人間がどんな見た目であろうと、周囲に危害を加えない立ち振る舞いをしていればそれでいい。そうやって無関心に人と付き合うことは、僕が生きていくために身につけたただの術だ。

「それなら単刀直入に」

 昨日からの雰囲気と話の流れで次に聞かれることはなんとなくわかる。

「楪さんのこと、見た目だけだったらどう思う?」
 
 まぁ、やっぱりそうなるよね。

「だから、どうも思わないって。そもそも異性にも同性にも容姿にこれといった興味はないから」

「じゃあ想は完璧に内面派ってことか——すごいな、なかなかいないタイプだぞ」

「そういう意味でもないよ、単に興味がないだけ。そろそろ叶愛さんも問題を解き終わった頃だと思うから戻るよ」

 神楽は感心したように僕の肩を強く叩き扉に手を掛ける。
 扉を開けようとする神楽の手が止まる、そして「内面重視で選ばれた想の彼女、一生大切に愛してもらえそうだよな。だって内面って変わんないじゃん?」と呟いた。僕は今なんだかとんでもなく都合のいい勘違いをされている。
 めんどくさくなるので否定も肯定もしないまま、僕は教室へ入って行った。慌てて神楽も着いてくる。

「叶愛さん、問題解けた?」

「さっきのメモ見ながら解いてみたんだけど——どうかな」

「全問正解だね、疲れてる中お疲れ様」

「ありがとう! これ一人だったら終わってなかったよ」

「叶愛ちゃんよく頑張ったね〜! 勉強もひと段落したことだしお菓子でも食べながらお話ししない?」

「えっいいんですか? 嬉しいありがとう!」

 社交的な白石のおかげで、叶愛さんの緊張感も徐々に解れ始めている気がする。
 白石の明るさや親切さには嫌らしさがない、心の底から相手と向き合っていることが改めて伝わってくる。神楽が惚れ込む理由もよくわかる。
 教科書から開放された叶愛さんは子供のような背伸びとあくびの後、白石から受け取ったチョコレートを無邪気に頬張っていた。
 窓の外から差し込んでいる夏の真昼の光が異様に心地よく感じた。

「勉強なんてなくなっちゃえばいいのにね、もう辞めちゃおっかなぁ」

「気持ちはわかるけど白石、卒業後の進路は大学進学だよな?」

「親が学歴とか厳しくてさ、まぁ通って損はないだろうし」

「そっか、そいえば神楽は?」

「俺は就職する予定、弟と妹が年子だから学費とか母さんだけじゃ大変なんだよ」

「色々あるんだな」

「そう言う想は?」

「僕も進学かな、今年から新設された学科志望だから手探りでよくわかってないけど」

「進路希望変わったって言ってたもんな」

 入学したばかりの頃は周りのクラスメイトも含めて大半が進学を希望していたのに。急に三年の時間が流れた実感が心に刺さって、なんとも言えない気持ちになった。

「叶愛さんは進路決まってる?」

「私は——まだぼんやり進学としか決まってないかな、どこに行くかは迷い中で」

「転校してきたばっかりで叶愛ちゃんも大変だよね」

「私も中途半端な時期に転入しちゃったから色々頑張らないとって思ってるんだけどね」

「専門学校と大学のことだったら私にいつでも相談して! 一時期専門学校志望だったから力になれることあると思う」

 数ヶ月前まで、卒業後についてここまで鮮明に語り合ったことはなかった。
 神楽も白石も、迫り来る将来のために懸命に今を生きている。なんとなくずっと“高校生“なんて肩書きに守られているような気がしていたけれど、僕が思っているほど、時間は余っていないみたいだった。

「高校生最後の夏も終わったよな」

「夏休み自体も短かったし、思い出とかあんまりないかも」

「ねぇ二人して大事なこと忘れてない?」

「「大事なこと?」」
 
 珍しく、僕と神楽の声が揃った。
 おかしそうに白石が笑いを堪えながら視線を叶愛さんへ向けた。

「叶愛ちゃん、夏祭りは好き?」

「テレビでしか見たことがなくて——でも雰囲気とか好きです!」

「じゃあこれはもう行くしかないねっ、律も久遠君も行くよね?」

 向けられたスマートフォンの画面に映し出されたのは、毎年恒例の夏祭りの広告。
 鮮やかな花火が打ち上がっている空に、熱気を感じるフォントで『祭』と記されている。僕が最後に行ったのは小学生か、中学生か——あまりよく覚えていないけれどいかにも“地方の夏祭り“という感じのものだった気がする。

「小規模だけど結構楽しいよな、みんなで行くか!」

「夏祭りなら神楽と白石でいけよ、二人に入り込むのも気が引けるし」

「え? 久遠君には誘うべき人がいるはずだよ?」

 やってしまった、僕は無意識に失礼で申し訳ないことをしてしまった。
 白石の視線の先には、困惑気味の叶愛さんがいる。
 ニヤニヤとした笑みを浮かべる白石と、選択肢を一つしか与えてくれない神楽の視線。そして構図的にも会話的にも板挟みになっている叶愛さん。
 言葉を間違えないように、怪しい方向へ発展しないように、僕は今、最善の選択を考えて——。

「想君」

 よくない、先に言われてしまう。

「一緒に、夏祭り行きたいな。寧々ちゃんと神楽君の二人も一緒に」

 僕が最善の選択を出す前に、正解が告げられてしまった。
 天性なのか、素直さ故の偶然なのか、叶愛さんの誘いに心理戦で張り詰めた空気が夏の爽やかさに染まり直したように感じた。

「白石、夏祭りって何時から?」

「お祭り自体は午前中からやってるけど、露店とか祭囃子とかは夕方から!」

「叶愛さん」

「ん?」

「僕午前中は外せない用事があって、夕方からなら一緒に行けるんだけど、どうかな」

「ありがとう、想君。夕方からたくさん楽しめたらいいね」

 夏祭りひとつ誘えない情けなさを叶愛さんは優しく受け入れてくれた、名前をもう一度聞いてしまったあの時のように。
 神楽と白石は「よくやった!」と満足げに頷いている。
 ただ、目の前で微笑む彼女を見ても心が揺れ動く感覚はなかった。
 僕の中にはまだ“好き“という感情は生まれていない、それでいい、このままであってほしい。
 一週間後の土曜日、夏祭りが終わった後も僕の心はなにも変わらないでいてほしい。