十八歳、高校最後の夏休みが終わりを告げた。
受験生という理由から、他学年より二週間早く始業式が執り行われた。夏の体育館は蒸し暑く、息苦しい。それに加え視界に入ってくる前の座席に並んだカップルの存在が、より蒸し暑さに拍車をかけているような気がする。

「相変わらず仲良しだな」

「なんだよ(そう)、夏休みを充実できなかった嫉妬か?それとも俺の一途さに驚いてるのか?」

「そんなんじゃない、夏休みは遊ぶ暇なんてなかったよ。それに神楽(かぐら)の異常な一途さにはもう慣れてるよ」

「それは……こんなに可愛い彼女と一緒にいたら目移りする方が難しいだろ?一途でいるなんて当たり前だよ、それくらい可愛いと思わない?」

「それ、僕が頷いたら色々まずいだろ」

 神楽には愛してやまない最愛の彼女がいる。小洒落たかき氷を二人で頬張る姿、砂浜で綺麗な貝殻をみつけて喜ぶ姿、夏休み期間中に神楽は毎日のように二人で一緒に写った写真を僕に送りつけてきた。彼らはそれほど仲が良い。
 そんな二人の交際は二年前の入学式後、神楽からの告白によって幕を開けた。

「そういえば神楽って白石(しらいし)と中学校からずっと一緒なの?」

「全く、寧々(ねね)とは入学式が初めての出逢いだよ」

「ってことは神楽の一目惚れ……?」

「こんな可愛い子がいたら見逃すわけないだろ、想も思わない?」

「だから……それ僕が『うん』って言ったらまずいだろ」

 不純に思える言葉とは結びつかないほど、神楽が彼女をみる瞳は優しい。
言葉を掛ける時の声も、頭を撫でる手も、そこには絵に描いたような愛がある。
今、神楽が僕と話しているのも彼女が別の友人の元へ席を外したからで、常に神楽の優先順位の一番上には彼女の存在がある。

「想ってさ」

「ん?」

「入学してから彼女できたことあったっけ?」

「いや、ないよ」

「なんで?」

「なんでっ……て僕に彼女ができない理由?」

「だって想、普通に顔良くない?スタイルとか声も別に悪くないじゃん?」

「神楽はそう思ってくれてるかもしれないけど女子ウケとか悪いんじゃない?わかんないけどさ」

 僕の曖昧な返答に不服そうな顔をしながら神楽は視線を席に戻った彼女に向けた。少し耳打ちした後に彼女と共に再びこちらに振り向く。
何かを企んだような表情で、僕に何か物申したいと言わんばかりのため息をつきながら、神楽は白石へ問う。

「寧々、なんで想に彼女ができないと思う?貴重な女子の意見が聴きたい」

久遠(くおん)君は……愛想がない、その他は多分完璧。女子ウケも最高」

 『彼氏の隣で躊躇なく他の異性を褒めている彼女』という絵面に驚く、そこまでの信頼関係を築いている二人に圧倒される。

「愛想……」

「そういえば寧々と想って中学校一緒じゃなかったっけ?」

「えっ嘘」

「ほら、そういうところ!愛想とは違うのかもしれないけど……久遠君は『人に興味ないです』っていうオーラが滲み出てるんだよね」

「人に興味ない……か」

 開会の鐘がなり、二人は再び前を向く。
『人に興味がない』その言葉にどこか胸がつかえる感覚を覚えた。人に対して興味を抱いていないというより、興味を抱かないようにしているという言葉の方が僕には正しいのかもしれない。
誰かとの距離を近づけすぎないようにする意識は、僕自身が痛いほど感じている。

「想、何ぼーっとしてんの?」

「ごめん、もう始業式終わった?」

「そうだよ、今から色々忙しいんだから教室早く戻るぞ」

 彼女を先に教室へ帰し、僕を待っていてくれた神楽への罪悪感を覚える。
我に返って周囲を見渡すと、始業式の反省会を行う生徒会役員が体育館の端に集まっているだけで他の生徒はいない。
蒸し暑いだけの体育館に寂しく残っていたパイプ椅子の片付けを手伝い、並んで階段を登り教室へ戻る。

「なぁ神楽」

「ん?」

「神楽は白石のどこを好きになったの?」

「だから一目惚れだって言ってるじゃん、恥ずかしいからあんまり言わせるなよ」

「いや、そうじゃなくてさ」

「……ん?」

「二年も付き合ってたら増えていくものじゃないの?内面的なところとか」

「それを言うなら……」

 見たこともないくらい真剣な表情で答えを探している、訊いてはいけないことを訊いてしまったのかもしれないと内心焦る。
それでも今更誤魔化すことはできない、申し訳なさに襲われながら彼の答えを待つ。

「全部かな、寧々の全部」

「……全部?」

「性格とか容姿とかの言葉じゃ言えないかも、とにかく全部が好き」

 思い出した、僕の目の前で青春を謳歌している男子高校生は彼女のことを溺愛しているという大前提を。同じ男子高校生とは思えない。
全てが一目惚れから始まった神楽は、きっと当時以上の愛情を今、白石に対して抱いている。神楽は白石の何を知り、その感情に辿り着いたのだろう。

「想にもいつかわかる日が来るよ」

「僕は予感すら感じないけどね」

 エアコンの冷気が漂う廊下を歩く。夏休み明けということもあり、いつもより高揚した騒がしさが廊下へ漏れている。
それも僕のクラスだけ、他のクラスが憂鬱な表情で夏休み中の課題を回収している中で僕のクラスだけが騒がしい。

「なんかいつもより騒がしくない?教室」

「そりゃそうだろうな、逆に冷静すぎる想が怖いよ」

「……どうして?」

「『どうして?』ってお前転校生が来るんだぞ?なんでそんな冷静なんだよ」

「転校生……?」

「うちのクラスに転校生が来るんだよ、始業式の最後に学年主任が言ってただろ」

 高校最後の夏休み後に転校してくるとは、相当な訳ありなのだろうか。
どんな人が来たとしても僕には関係ない、卒業してしまえば接点すらなくなる相手に興奮できる気持ちに共感できない。
全員が興奮を抑え律儀に席に着きながら、担任教師が転校生を連れてくる瞬間を待つ。耳を潜め廊下からの足音を聞く者、転校生の容姿に期待を馳せる者、そんな中で独り窓の外を見つめる僕がいた。

「珍しくみんな席に着いてるのね」

 学級名簿を片手に扉を開く教師が、扉の外で待っている転校生に目配せをする。
いつも堅物な教師の表情すらどこか緩んでいるような気がした。

「先生!転校生ってどんな子?」

「今から教室に入ってもらうけど、くれぐれも勢いで怖がらせないように。歓迎は大切だけど落ち着いて話は聴くこと!」

 全員の視線が一斉に扉へ向く、これに限っては僕も例外ではない。


(ゆずりは) 叶愛(とあ)です、卒業まで残り短いですが仲良くしてくださると嬉しいです』


 鳴り響く歓迎の音と、祝福の声。
その全てが、緊張からかどこか萎縮して黒板に立っている彼女に向けられている。
胸の上あたりまで伸ばされた艶のある黒髪に、その黒が映えるように白い肌。夏の暑さから血色感のある唇に、緊張で(ほて)っている頬。転校生(ゆえ)初々(ういうい)しさを感じさせる斜めに曲がった制服のリボン。
転校してきた事情はわからないけれど、その雰囲気から『悪い人』という印象は感じ取らなかった。

「想……あの子可愛すぎないか?」

「そういえば神楽と席前後だったな、二学期もよろしく」

 背後から耳へ刺さる(たかぶ)った神楽の声を受け、不意に振り向く。
軽く身体を(ひね)っただけでも、前のめりになっている神楽の興奮具合は伝わってくる。
神楽は彼女に一途だが、容姿が好みの異性には目がない。

「そんなことじゃなくて!あの転校生が可愛すぎるって話だよ」

「いや神楽には彼女いるじゃん、今更転校生に目移りなんて物好きのすることだよ」

「想、本当にわかってないな」

 首を傾げる僕を見て、神楽は眉間に皺を寄せた。
次第に不服そうな表情に変わり、抑えきれなかった声が漏れる。

「想の彼女の話をしてるの!察しろよそのくらい」

「僕の……?」

「久遠君があんな可愛い子に出逢うチャンス、今逃したらもう無いかもしれないよ?」

 数秒前、転校生をベタ褒めする神楽に嫉妬の目線を向けていた白石が気の良さそうに神楽の肩から僕を覗く。
白石の一言に賛同するように頭を撫でる神楽に返す言葉が見つからなかった。

「白石までそんなこと言うなよ」

「だって久遠君悪い人じゃないし、チャンスがあるなら今しかないと思わない?最後の高校生活だよ?」

「そんなこと言われたって……」

「先生!楪さんの席って決まってます?決まってなかったら想の隣がちょうど空いてますよ」

「特には決まってないけど……空いていたならそのまま久遠君の隣にしようか」

 ご丁寧に隣席の椅子を引き、揶揄うような表情を向ける神楽と、黒板の前に立つ転校生を手際よく迎えに行く白石。この二人の団結力には時々頭を抱えさせられる。
ここで困惑したような表情をつくることは転校生の彼女に失礼な気がして、僕は引き攣りそうになる顔をなんとか保つ。

「神楽……何余計なことしてくれてるんだよ」

「仕方ないだろ、想は絶対自分からは関わりにいかないんだから」

「だから僕は恋愛とか興味ないんだって……」

「強がんなって、想も可愛いって少しは思うだろ?」

 心の底から、僕は人に興味がない。興味を持ちたくない。
四十人近く在籍するクラスで頻繁に話をする人は、去年まで同じ部活に所属していた神楽と、席が何度も隣になった白石の二人。
事実、転校生を目にした今も『可愛い』や『好き』といった感情は僕の心のどこにも見当たらない。

「ほら久遠君、せっかく隣なんだから仲良くしなね」

 白石の半ば強引な口調に断る隙はなかった。
抵抗するように白石の目に訴えかけるけれど、器用にはぐらかされてしまった。

「初めまして……名前を教えてもらってもいいかな」

「久遠 想、呼びやすいように呼んでくれたら嬉しい」

「想君、隣の席で困らせちゃうことも多いと思うけど……これからよろしくね」

 僕とは対照的に愛想のいい微笑みを浮かべる彼女と、会話を続ける方法がわからない。
なんとなく会釈をする僕により深く頭を下げる彼女をみて、なんと言葉を掛けることが正解かわからなかった。
そして僕はもう一つ、彼女に対してわからないことがある。
彼女と深い関係になる気は微塵も無いけれど、これだけは知っておかなければ今後の生活に支障が出る。

「あの……」

「どうかしましたか?」

「名前……訊いても大丈夫ですか?」

 そう彼女に尋ねた瞬間、後頭部に何かが勢いよくぶつかった。
慌てて振り向くと目を見開いて、呆れと怒りを込めたような表情をしていた。

「お前そういうところだぞ、名前さっき自己紹介して教えてくれてただろ」

「えっ、僕すごい失礼なことしちゃったじゃん」

「そうだよ……話くらいちゃんと聴いとけ」

 視線を戻すと口元を手で隠しながら笑いを抑える彼女がいる。
僕と神楽のやりとりを漫才でもみているかのように笑う彼女を僕は直視できなかった。

「本当に初対面で失礼なことしちゃってすみません……」

「気にしないで気にしないで!」

「それで名前は……」

「楪 叶愛、呼び方は想君に任せるね」

 肩を小突かれていることに気づき再び慌てて振り向く、何かを企んだような神楽の顔。
何を言いたいのかが露骨に表れている表情に、抵抗の意味を込めて僕は素っ頓狂(すっとんきょう)な表情をつくってみた。
当然だが、効果はない。

「呼び方、ちゃんとわかってるよな?」

「そんなこと言われなくてもわかってるよ」

「想の『わかってる』が一番信用できない、一旦俺に言ってみろ」

「初対面だし楪さんって呼ぼうと思ってる、一番無難でしょ」

「想、お前本当に馬鹿だな」

「え?」

「これからお近づきになろうとしてる異性に対して苗字に『さん』付けはないだろ」

「じゃあ何て呼ぶのが正解なの?」

「下の名前、これは最低条件だから」

 彼女持ちの中にある常識を理解するまでに、僕はどれだけ時間がかかるのだろう。
初対面の異性に下の名前で呼ぶなんて、一歩間違えれば世間で言う『思わせぶりな態度』になってしまう。そこから面倒臭い関係に発展することは極力避けたい。

「叶愛さん……って呼ぶね」

 ぎこちない僕の態度に不満そうな神楽とは対照的な笑みで彼女は僕を受け入れた。
きっと気を遣っているのだと思う。ここから彼女と友達になる未来も、恋人という関係を結ぶ未来も全く想像できない。
彼女のことを気にいる異性は少なくともいるだろうし、そのうち僕の名前なんて忘れるほど学校生活も潤ってくる。軽い会釈をして、僕は教卓へ視線を移した。
そして目立った会話もないまま午前授業最後の時間を終え、淡々と校舎を出る。

「なぁ神楽」

「ん?」

「前から思ってたんだけど白石とは一緒に帰らなくていいの?」

「白石はバス通学だから俺と帰ると遠回りさせちゃうことになるんだよね」

「そういうことか」

「方向が一緒だったら毎日でも帰りたいんだけど、さすがに遠回りはさせられないよ。夜道を一人で歩かせるなんて危なくて怖いからさ」

「神楽はやっぱり優しいな」

「優しくしようって意識はしないけど、可愛い彼女がいたら大切にしたいって思うんだよ」

「僕にはわからない感覚だけど……言ってることはなんとなく理解できるかも」

「そういえば今思ったけど想と白石って中学一緒なのに帰る方向違うんだな」

「僕が高校へ入学する時に親が家を建てたんだよ、だから神楽の方が僕の家とが近い」

「そういうことだったのか」

「なんだかんだ三年間登下校は神楽と一緒だよね、放課後遊んだことは数えられるほどしかないけどさ」

「去年まで部活も一緒だったからな、俺も想といる時間が寧々の次に長いかも」

「白石が一番で安心してる、さすがに恋人を越すのは気が引けるよ」

「想の唯一の友達は俺ってことかな」

「そうなるのかもね」

 『友達』も『恋人』も僕にとって避け続けている言葉の一つ。
誰かとの距離を縮めること自体を、僕は酷く恐れている。

「楪さんのこと実際想はどう思ってるの?」

「初めて会ったばっかりだし、特に思ってることはないかな」

「そっか」

「反応が神楽らしくないね」

「俺も少しは反省してるんだよ」

「反省?」

「想の初めての彼女になるかもしれないって舞い上がって、あんな強引な近づけ方してよかったのかなって」

「そんなこと考えてたんだ」

「恋人探しの前に友達のことを考えるのが普通だろ、どれだけ可愛かったとしても相手は会ったばかりの転校生だ」

 情に厚い神楽のもとにいても、僕は薄情なままだった。
クラスメイトの名前は半分以上思い出せないし、街ですれ違って顔をみても同級生だと気付けない。臆病さを拭いきれない弱さのせいで何かを欠落させたまま、今になってしまった。
それを僕自身は少し、本当に少しだけ後悔している。

「叶愛さんに僕が近づくなんて申し訳ないよ、もっと僕より彼氏に相応しい人がいる」

「俺は結構聴いたことあるけどな、想に気があるっていう女子のこと」

「どういう意味……?」

「そのままだよ、想を彼氏にしたいって言ってる女子が結構いるって意味」

「物好きもいるものだね」

「愛想の前に、その捻くれ方だけでも直してくれたらいいんだけど」

 冗談まじりに笑う神楽は一緒にいて不安感がない。
もしかしたら神楽は僕の中で無意識のうちに『大切』な友達になってしまっているのかもしれない。
神楽と別れた道の先で、そんな小難しいことを考える。

ー*ー*ー*ー*ー

 いつもより二時間早く目が覚めた。
いつもの僕なら二度寝に入るところだけれど、今日は上手く寝付けなかった。眠っている間も曖昧な悪夢が繰り返されていたのを覚えている。
仕方なく身体を起こし、シャワーを浴びた。冷水を頭から浴び不規則な動悸を鎮める、異常なほどに目が冴えていく感覚と共に、普段の起床時間を迎えた。
それが今日の僕の朝だった。
制服の袖に腕を通す瞬間も、朝食を口に含んだ感覚も、コンタクトレンズを入れたはずの視界も、全てが歪んだままの朝。
誰もいないリビングに響く秒針に急かされるように扉を開け、靴の踵すら中途半端のまま通学路を辿る。

「神楽おはよう」

「想から挨拶してくるなんて珍しいな」

「そう?」

「まぁいいや、何かあったの?」

「……なんでわかったの?」

「今日の想、いつもと違うから気づきたくなくても気づく」

「昨日の夜から色々考えてたんだけどさ」

「それは楪さんのこと?」

 頷く。その名前を聴くと奇妙なほどに動悸がするけれど、言葉を噛み砕きながら正直な気持ちを神楽にだけは伝えたい。

「僕はやっぱりまだよくわかってないんだよね、付き合うとか恋人とか」

「うん」

「……だからあまり期待しないでいてほしいなって思って」

「わかった、俺も昨日はテンション上がっててさ。傷つけてたらごめんな」

「それは大丈夫、あの雰囲気は僕も嫌いじゃないから。それに、転校生が来るなんて喜ばしいことだって理解できるから」

「それなら俺は昨日と同じように接するからな、その代わり何かあったらすぐ言えよ」

 真っ直ぐな優しさで僕に接する神楽に、僕はまた嘘をついた。
本当は『わからない』なんてことではない、ただ『怖い』それだけ。
重くなりかけた雰囲気を調整しようと普段通りの話を神楽が持ち出す。白石との惚気話、隣のクラス担任の噂、迫ってくる期末テストの話題、今の僕は上手に口角を上げられているだろうか。
止まりそうになる足を動かすことに必死で、器用な相槌すら打てていないような気がする。

「想君おはよう」

「叶愛さん、朝来るの早いんだね」

 教室の扉を開けると誰もいないような静かな空間に一人、彼女の姿があった。
ドラマのワンシーンを切り取ったような教室と彼女の雰囲気。

「前にいた学校と教科書が違くて、授業が始まる前に目を通しておこうと思って」

「そうなんだ、熱心だね」

「楪さん、勉強なら想が得意だよ」

 気を遣って反対の扉から入室した神楽が、気遣いの意義を抹消するかのように顔を覗かせた。

「想君、勉強得意なんだね」

「俺は全然駄目だから邪魔しないように席外すね」

 そう言い残し足軽に教室を去る、何もない空間に取り残された僕と彼女。
気まずそうに教科書に目を移した彼女の席の横を通り過ぎる。ロッカーの取手に手をかけた瞬間、彼女が僕の名前を呼んだ。

「想君」

「ん?」

「ここ教えてほしいな」

 緊張しているのは、僕だけなのかもしれない。
取り乱さないように冷静さを保ちながら、彼女が指差す数式を目で追う。窓から入り込む風が鬱陶しいと感じなかったのは、これが初めてかもしれない。

「ここは前のページの公式の変形を使うといいよ、そこの数式に代入して……」

「想君の教え方すごくわかりやすい」

「大袈裟だよ、偶然得意な範囲だっただけ」

 授業開始に向けて人が集まり出した教室に、白石を連れて戻ってくる神楽の姿。
どうやら席を外したのは僕への気遣いではなく、白石を迎えに行くための口実だったよう。

「おはよう!久遠君と叶愛ちゃんは朝から二人で勉強会?」

「おはようございます白石さん!勉強会というか……想君が親切に教えてくれて」

「そうだったんだ!あと呼び方『寧々』でいいよ、なんか苗字で呼ばれると違和感あるし」

「じゃあお言葉に甘えて……ありがとう寧々ちゃん」

 呑気に雑談をしているところに担任が慌てた様子で入室する。
黒板に乱雑にチョークを当て、乱れた文字が並んでいく。

「ギリギリで申し訳ないんだけど一時間目の授業が体育に変わって、男子がプールで女子がグラウンド競技!なるべく遅れないように移動と準備お願いね」

 そう言い残し、再び早足で職員会議に戻っていく。
どうやら出勤講師の関係で全クラス急遽授業変更を行ったらしい。

「プールか……朝からはきついけど涼しいうちに済ませられるなら悪くもないな」

「神楽、ジャージ持って来てない?」

「あるけど……そっか想は入れないのか」

「うん、今日体育あると思ってなくて……貸してくれると助かる」

「了解、ちょっと大きいけど大丈夫?」

「問題ない、ありがとう」

 授業開始まで十分間、急いで着替えを済ませプールサイドへ移動する。
夏の体育の半分はテントの下で退屈な時間を過ごす。タイム計測と記録を繰り返す、少しだけ神経質な退屈。

「先生、今日のタイム計測は何時頃の予定ですか?」

「今日は急遽授業が入っただけだから計測はしない予定でいたよ、いつもありがとう。久遠君も今日はゆっくりしてて、気温が高いから水分補給は忘れずにね」

 湿ったプールサイドを意味もなく一周した後、テントに戻る。
水面を腕が叩く音と、フェンスを挟んだ後方のグラウンドからの女子の甲高い掛け声が耳に響く。頭を空にして風に当たっていると、僕の名前を呼ぶ声がフェンスのすぐ(そば)あたりから聞こえたような気がした。

「想君……?」

「叶愛さん?どうしてここに」

「投げたソフトボールがフェンスの穴からプールサイドに入っちゃったから取ってもらいたくて」

「ごめん気づかなくて、この一つだけで大丈夫?」

「大丈夫!ありがとう」

 炎天下の中、冬用の長袖と長ズボンを着用した彼女に違和感を覚える。

「ねぇ叶愛さん」

「ん?」

「そんな格好で暑くないの?熱中症とか怖いからその格好での運動は控えた方がいいと思うけど……」

「体育見学だから暑さは大丈夫、想君もプール見学?」

「まぁ……そうだね」

「水着忘れたの?」

 揶揄うように笑う彼女に、少しだけ緊張が解ける。
それでも彼女に解れた表情をみせることへの抵抗が残ったままで、不意に俯いてしまった。

「違うよ、持病で入れないんだ」

「失礼なこと言っちゃってごめんね」

「大丈夫、そう言う叶愛さんは?」

「夏の体育は女子にとって天敵なんだよ」

 茶化したように彼女は言った。そして小さな手でボールを握って子供のような足取りで再びグラウンドへ駆けていく。
テント下に独り取り残された僕は、ただ水面の不規則な動きを目で追う。必要最低限の対人関係で生きてきた僕にとって、予想もしていなかったイレギュラーが襲った数日間のこと。
交友関係を築くことすら避けていた僕が、初対面の『異性』と当たり前のように言葉を交わしているという現状には僕自身が一番戸惑っている。

「想君!」

「びっくりした……わざわざ戻ってきてどうしたの?」

「驚かせちゃってごめん!朝の教科書の続き、また後で教えてほしいな」

「僕は全然いいよ、叶愛さんが都合いい時間さえ教えてくれればいつでも」

「ありがとう!じゃあ私はグランドに戻るね」

 神楽も、白石も、クラスメイトも皆、当たり前のように恋におち、誰かを愛している。短期間で相手が変わる者もいれば、長い月日の中で相手の魅力深さに惚れ込んでいく者もいる。
その中で『好き』や『愛してる』といった言葉を紡ぎ、キスやハグで温度を交わす。『高校生』という枠組みの中で育まれる純粋な感情の形。
その眩しさへの憧れを抱かないわけではない、ただ僕はその後に待ち受ける残酷がどうしようもなく怖い。

「想!」

「神楽……もう着替えたの?」

「想に何回声を掛けても反応がないから先に着替えてきたんだよ」

「あっ……ごめん考え事してて」

「別に俺は大丈夫だけどさ、あんまり抱え込みすぎんなよ」

「え……?」

「楪さんのこととか、想が苦しくなってまで考える必要はないから」

「うん、ありがと」

 その後数時間の授業はいつもより時間の流れが速く感じた。
教師の声など耳に入らず、プリントの空白は埋まらないまま授業終了の鐘が鳴っていく。食べた昼食は味がしない、粘土細工を噛み砕いているような感覚がずっと口に残っている。言葉にもならない言葉が脳を埋め尽くす。
何に思考を巡らせているのかは、僕自身も正直よくわからなかった。

「想、体調悪い?」

「大丈夫、そっかもう放課後なんだ」

「それならいいけど、想は放課後用事ある?」

「特にはないかな、神楽は?」

「俺も。バス丁度いい時間に来る便があるから一緒に乗るか」
 
 僕を気遣うように、神楽は僕の目をみない。そして何もいわないまま荷物をまとめ、席を立つ。
誰もいない教室の窓を閉め、蛍光灯を消す。

「想君!」

「叶愛さん……?」

「ごめんね急に、今から忙しかったりする?」

「いや、帰るだけで特にはないけど……どうかした?」

「……今朝の続きを教えてほしくて」

 視線を背後へ移す、気遣いのつもりかスマートフォンに視線を向ける神楽の前で『断る』という選択肢は許されていないような気がした。

「いいよ、疲れると集中力も続かなくなるから無理しない程度に頑張ろうか」

 素直に頷きロッカーへ教科書を取りに駆ける彼女とすれ違いに入室する人の影が目に入った。
特徴的な足の動かしからから、その正体は容易にわかった。

「律、急に呼び出してどうしたの……って久遠君もいるじゃん」

「白石、どうして」

「俺が呼んだんだよ、丁度図書室で自習してるって聞いたから」

「神楽か……そういえば神楽の下の名前久しぶりに聞いたかも」

「忘れてたとか言うなよ?」

「ごめん、忘れかけてた」

 冗談に塗れた会話に雰囲気が和む、机を四つ合わせて教科書を広げる。

「遅くなってごめんね……寧々ちゃんと神楽さんも一緒に教えてくださるんですか?」

「私と律は教えられるほど頭良くないから……今日はみんなで想先生に教えてもらう!」

「そんなこと言われると余計に緊張するだろ……時間も限られてるし始めるよ」

 真新しい教科書に数字が埋められていく、二人のフォローに頼りながら会話を続ける。
彼女の隣には白石が、神楽の隣には僕が座っている。彼女が一ページ問題を解き終わるたびに大きな花丸をつけ『天才!』と気負いしない程度の声をかける白石には純粋な優しさを感じた。
少しだけ、羨ましさを感じてしまった。

「とりあえずここまで解き終わったら今日の分は終わりにしようか」

「想、楪さんがこの問題を解いている間ちょっと廊下に出て話せない?」

「別にいいけど……白石、叶愛さんのこと少しの間お願いしてもいい?」

「私は全然大丈夫よ、むしろ叶愛ちゃんとお話できて嬉しいし」

「ありがとうでも喋ってばっかりで邪魔しないようにな、じゃあお願いする」

ー*ー*ー*ー*ー

「話って何だよ、いきなり……」

「想ってさ」

「うん」

「どういう子がタイプなの」

「は?」

「いや純粋に、どんな女の子がタイプなのかなって思ってさ」

「そんなこと急に言われたって困るんだけど……神楽みたいに女子のことよくみてるわけじゃないし」

「その言い方だと俺がよく目移りしてるみたいじゃん」

「目移りはしてないけどすぐ可愛いって言うことは事実だろ」

「それは本当に可愛いって思った時にしか言わないし……それに寧々は別格だから」

「それは別にいいんだけどさ、僕にそんなこと訊かれても困るよ」

「じゃあ髪は?ロング派かショート派か」

「その人に似合ってればそれが一番いいんじゃない?」

「背は高い方がいい?低い方が好き?」

「別にどっちでもいいよ、身長で何かが決まるわけじゃないし」

「声はどんな声がいい?アニメっぽい声か……セクシーな色っぽい声か」

「どんな声だっていいよ、人の声なんて聞き取れれば十分程度にしか意識したことない」

「想……本当に俺と同じ男子高校生だよな」

「一応そのつもりではいるけど」

「じゃあ何でそんなに冷めていられるんだよ……」

 どんな質問をされても、選択肢を与えられても拘りなど生まれない。
目の前の人間がどんな見た目であろうと、周囲に危害を加えない立ち振る舞いをしていればそれでいい。そうやって無関心に人と付き合うことは、僕が生きていくために身につけた術。

「それなら単刀直入に訊く」

「うん」

「楪さんのこと、見た目だけだったらどう思う?」

「だから……どうも思わないって、そもそも異性にも同性にも容姿にこれといった興味はないから」

「じゃあ想は完璧に内面派ってことか……すごいな」

「そういう意味でもないよ、単に興味がないだけ。そろそろ叶愛さんも問題を解き終わった頃だと思うから戻るよ」

 神楽は何かに感心したように、強く肩を叩き扉に手を掛ける。
少し後で戸惑う僕に微笑んで頷く、僕はそれを受けて頷き返した。

ー*ー*ー*ー*ー

「叶愛さん、問題解けた?」

「さっき想君からもらったメモを見ながら解いてみたんだけど……どうかな」

「全問正解だね、疲れてる中お疲れ様」

「ありがとう……これ一人だったら終わってなかったと思う」

「俺もちょうどわかんなかったところだから想に教えてもらって助かった……ありがと!」

「叶愛ちゃん!勉強も無事ひと段落したことだし……お菓子でも食べながらお話ししない?」

「えっいいんですか?嬉しいありがとう!」

 社交的な白石のおかげで、彼女の緊張感も徐々に解れていっている気がする。
白石の明るさや親切さには嫌らしさがない、心の底から相手と向き合っていることが改めて伝わってくる。神楽が惚れ込む理由もよくわかる。
窓の外から差している夏の真昼の光の明るさが心地よかった。

「最後にここだけ解いてみてもいいかな……今ならできるような気がして」

「じゃあ私も一緒に解こうかな」

 再び教科書に視線を移し、熱心にペンを動かす。
素直で熱心な彼女は、やはりこんな僕にはもったいない。

「想君、どうかな?」

「正解だよ、公式の変換もよくできてると思う」

「よかった無事終わった……最後の問題は答えまでに過程が多くて難しかったよ……」

「叶愛ちゃん改めてお疲れ様……よく頑張ったね」

「ありがとう……寧々ちゃんも神楽君もお疲れ様、想君も教えてくれてありがとう」

「叶愛さんの理解が早くてすごく助かった、こちらこそありがとう」

 教科書から開放された彼女は子供のような背伸びと欠伸の後、白石から受け取ったチョコレートを無邪気に頬張る。

「……勉強なんてなくなればいいのにね」

「気持ちはわかるけど白石、卒業後の進路は大学進学だよな?」

「親が学歴のこと厳しくてさ、自分的にも通って損はないだろうし」

「そっか……神楽は?」

「俺は就職する予定、弟と妹が年子だから学費とか……お母さんだけじゃ大変なんだよ」

「色々あるんだな」

「想は?」

「僕も進学かな、今年から新設された学科志望だから手探りでよくわかってないけど」

「進路希望変わったって言ってたもんな」

「入学したての頃は周りも含めてみんな進学って言ってたけど、三年も経てば変わるよな」

「叶愛さんは進路とか決まってる?」

「私は……まだぼんやりとしか決まってないかな」

「転校してきたばっかりで叶愛ちゃんも大変だよね」

「私も中途半端な時期に転入しちゃったから色々頑張らないとって思ってるんだけどね」

「専門学校と大学のことだったら私に言ってよ、一時期専門学校志望だったから少しは力になれると思うし」

 数ヶ月前まで、卒業後の話をここまで鮮明に明かしたことはなかった。
神楽も白石も、迫り来る将来のために懸命に今を生きている。きっと僕が思っているほど、時間は余っていない。

「高校生最後の夏も終わったよな」

「夏休み自体も短かったし、思い出とかあんまりないかも」

「ねぇ二人して大事なこと忘れてない?」

「大事なこと……?」

「叶愛ちゃん、夏祭りは好き?」

「テレビや小説でしかみたことがなくて……でも好きです!」

「これはもう行くしかないね、律も久遠君も行くよね?」

 向けられたスマートフォンの画面に映し出されたのは、毎年恒例の夏祭りの広告。
鮮やかな花火が打ち上がっている空に、熱気を感じるフォントで『祭』と記されている。

「最後に行ったの中学生の時かも……懐かしい」

「俺も想と行ったのが最後かな、寧々は?」

「私も……最後に行ったのは小学生とかかも」

「小規模だけど結構楽しいよな、みんなで行くか!」

「夏祭りなら神楽と白石でいけよ、カップルに僕が入るのも気が引けるし」

「久遠君には誘うべき人がいるでしょ?」

 白石の視線の先には、困惑気味の彼女がいる。
ニヤニヤとした笑みを浮かべる白石の横の彼女をみながら、選択肢を一つしか与えてくれない厳しい神楽の視線に耐えながら、僕は最善の選択を考えている。

「……想君」

「ん?」

「一緒に夏祭り行きたいな、寧々ちゃんと神楽君の二人も一緒に」

 僕が答えを出す前に告げられてしまう正解。
天性なのか、素直さ故の偶然なのか、彼女の誘いにその場の空気が夏に染まり直したような気がした。

「神楽、夏祭りって何時から?」

「夕方からだった気がする、寧々と俺は午前中に合流する予定だけど」

「叶愛さん」

「ん?」

「僕午前中は外せない用事があって、夕方からなら一緒に行けるんだけど……どうかな」

「ありがとう、想君。夕方からたくさん楽しめたらいいね」

 好きという感情は、未だ僕の中にない。
目の前で微笑む彼女をみても、心が揺れ動く感覚はなかった。
ただ断ると痛む良心はある。もし僕が素直になれれば、彼女のことを違う関係としてみることができたのかもしれない。