彼女と僕の最後の時間は、異様に殺風景な病室の中で刻まれていく。

春弥(しゅんや)、学校終わりで忙しいのに来てくれてありがとね」

「気にしなくていいよ、千紗(ちさ)と会うことを何より今は優先したいから」

 明日、彼女は一年間入院生活を送ったこの病院を離れ、大きな隣街の病院へ転院する。
その前夜、面会時間が終わる二十一時まで僕は彼女と最後の荷物整理をするために病室を訪れた。

「持っていかないといけないものはまとめてあるから、あとは持っていきたい想い出だけ春弥に一緒に選んでほしかったんだ」

「全部持っていくことはできないの……?」

「生活に必要なもの以外は必要最低限にするように言われてるんだよね、だからすこし寂しいけど選択しないといけないの」

「……そっか」

「これが、私の最期の入院だからね。いつ旅立っても大丈夫なように、本当に必要なものを選ぶんだ」

「最期……それって、本当に最期なのかな」

「もう厳しいと思うよ、私もこんな希望のないこと言いたくないけど……私の身体は手術すらできないんだもん、回復の見込みなんてあるわけないよね」

 三年前の高校入学当初、僕は隣の席の彼女に一目惚れした。
授業中に居眠りをする姿も、窓越しに空をみつめる瞳も、僕にかける澄んだ声も、その全てに惚れてしまった。
そして、僕の拙く、幼すぎる告白に彼女が手をとるという奇跡が起こった。
高校一年の頃、学校行事の全ての初めてを隣で過ごした。
体育祭も文化祭も、部活動はお互い無所属で放課後はふたりだけの数時間が流れる。
高校二年の頃、ある程度学校の仕組みがわかった僕たちはたまに学校を抜け出した。
特別感を(まと)いながら向日葵畑へ駆け、冬には誰もいない砂浜を歩いた。
そして高校三年の春、彼女の病気がみつかった。

「今思うと、自分が病気になるなんて想像もしてなかったよ。なんかどこかで聞いたことがあるようなありきたりな言葉だけどね」

「それは僕も千紗から話を聴いた時は言葉も出なかった……嘘であってほしいって何度も思ったよ」

「私ね、昔から感染症とか風邪とかに全然(かか)らないタイプなんだよね。前後左右の人が流行病に罹っていても元気だったこともあるし」

「近年稀にみる健康人間だね」

「そうだよ、小学校と中学校は皆勤賞だったし。だからきっと病気に気がつくのも遅かったのかもね、私は絶対大丈夫って決めつけてたところもあったし」

 『風邪を引いたかもしれないから放課後は病院に行くね』と彼女から連絡があった日のことは、日を重ねるにつれて鮮明に脳裏に浮かぶ。
確かにその数日前から何度か彼女の様子を疑った瞬間はあった。
関節が痛いと歩く途中に止まったり、立っているだけでふらついたり、こころなしか顔色もどこか悪かったような気がした。

「最初はかかりつけの小児科に行ったんだけどね、検査とか大事(おおごと)になっちゃってさ」

「千紗、可笑しいくらい平気な様子だったよね」

「だってお母さんもお父さんもお医者さんも『この世の終わり』みたいな顔するからさ、私ぐらいは笑っていたいって思ったから」

 それから数週間後、彼女の日常が崩れることが告げられる。
そして、その日常の最終地点すらも医療を根拠に明かされてしまった。

「当時は余命二年って言われたんだよね、私」

「そうだったね、本当に嘘であってほしかった」

「でもまだ一年しか使ってないよ、私の余命」

「まだまだこれから延びるかもしれないよ、千紗はきっと奇跡を起こすよ」

「春弥」

「ん?」

「明日から私がいく場所、どんな場所かわかってるよね」

「それは……」

「私があの場所にいくっていうことは、もう春弥と同じ日常に帰ってくることができないってことなんだよ」

 詳しく話を聴くことはできなかったけれど、彼女が明日から暮らす場所は病を患う人が最期を迎える場所らしい。
痛みや苦しみを取り除き、安らかに余生を送る場所だと彼女から説明を受けた。

「病気がみつかった頃には、いつ命が亡くなってもおかしくないような状態だったみたい。ここまで生きていられたのが既に奇跡だよ。遺される春弥は寂しいと思うけどね」

「寂しいけど……怖くないのかなって思う」

「怖くはないよ、それなりに覚悟はできてるし。でも強いていうなら……もう少し短く余命宣告してほしかったよね」

「え……」

「『余命三ヶ月です』って言われたらさ、余命を超えて生きられる時間が長いように感じるから」

「確かに……千紗が言うなら、そうなのかもね」

 言葉を交わしている間にも、彼女は僕からの手紙を束ねて鞄へ詰めていく手を止めない。
付き合って一年目の頃の旅行先での写真や、海岸で拾った貝殻を壊さぬように包んでいく。
すこしずつ片付いていく彼女の机上をみる度に、その時が迫っていることを感じる。
よくある『この木の葉が全て落ちたら命の終わりを迎える』ことと、同じような感覚に陥る。

「ねぇ、春弥」

「どうしたの?」

「私ね、たまに夜に独りで考え事をするんだ」

「……そうなんだ」

「そこでいつも思うの。もしかしたら春弥は、私が病気になることを知ってたんじゃないかって」

「それは、どうしてか聴いてもいい?」

「春弥が私にくれた手紙、私が春弥の隣からいなくなっても寂しくないようにってくれたものなのかもしれないって都合のいいことを考えちゃうんだよね」

 もし本当に、彼女が僕の隣からいなくなることを知っていたら僕は何ができていただろう。
ある日病気がみつかって、命の終わりを知って、その先で彼女の最期すら手を繋いでいられないことを知っていたとしたら、僕は彼女とどんな日常を過ごしていただろう。

「そうなのかもしれないよ」

「え……」

「千紗が寂しくないように、僕が渡したものっていう意味では重なるんじゃないかな。僕は預言者じゃないから、気の利いた言葉を届けることはあまり得意じゃないけどね」

「春弥にはそれ以上の優しさがあるからだよ、預言者は持ってないものを持ってるの」

 大切なものばかりかと思っていたけれど意外と我楽多(ガラクタ)も残っていたらしく、僕は何度か物の詰まったビニール袋を縛った。
彼女は良くも悪くも素直で、大切なものに触れる指と我楽多を掴む手ではあまりにも優しさに差があった。
変に飾らない、そして気取らない、そういうところも好きだったりする。

「千紗、この箱って何が入ってるの?」

「それはね……教えてもいいけど、ちょっと気味が悪いよ」

「気味が悪い……?」

「そうだよ、見慣れない人だと『何これ、無理』ってなるかも」

「……そうなんだ、虫とか?」

「その物自体は普通なんだけどね、なんというかソレを集めてる私の思考が疑われちゃいそうで」

「千紗を……?」

「何が入ってても引かないって約束してくれるなら、その箱を開けてみてよ」

 無言で、彼女の瞳に誓った。
きっと僕は、この箱の中に彼女の臓器の欠片(カケラ)が詰められていたとしても引くことはないから。

「これ……薬の殻だよね」

「そうだよ、私の病気がみつかってから服用した薬の殻」

「っていうことは、三年でこんなに頑張って飲んでたの……?」

「これでも最低限に抑えるようにしてもらってるんだけどね、身体が良くなることはないから増えていっちゃうんだ」

 クッキー缶の中身を埋めてしまうほどに詰められた錠剤の殻に言葉を失いそうになる。

「これは……次の病院に持っていく?」

「迷ってる、本当は私の病気が治ったら春弥にみせようと思ってたんだよね」

「ごめん……フライングしちゃったね」

「違うよ、もういいんだ。ここで春弥がこれをみつけてくれてよかった」

「え……」

「治療が始まった当初は服用した薬がわかりやすいように、確認できるためにとっておいただけだったんだ」

「その目的が、変わったの?」

「治療を初めてすこし経った頃にね、もしかしたら治るかもしれないって臨時で来た先生に言われたんだ」

「そう……そんなことがあったの?」

「……誤診だったんだけどね」

「……」

「でも、私はその誤診に期待したんだ。もしかしたら、その誤診が本当になるかもって」

「すこしでも可能性があったってこと……?」

「ないよ、なんの根拠もない。そうだとしても、何かに縋ってないと息をすることすら億劫だったから」

「だから……薬の殻を集めたの?」

「たくさん頑張って生きることを選んだんだよって、伝えたかったんだ。でも、それも今日で辞めるよ」

「どうして……」

「もう、頑張ったって無理だって頭がよくない私でもわかっちゃったから」

 彼女はまだ十八歳、自身の死を受け入れるにはあまりにはやすぎる。
それでも希望の薄い生きられる可能性を信じ続けるということは、きっと死を受け入れる以上に辛い。
そんなことは、健康体な僕でも容易くわかる。

「春弥」

「……何」

「私、ここまで頑張ったよ」

「……」

「聴きたくないかもしれないこと、言ってもいい?」

「聴きたくないことなんてきっとないよ」

「私、今ならいつ死んでも後悔なんてしないと思う」

 聴きたくないことだった。
身勝手な希望を添えて『聴きたくないことなんてない』と言ったけれど、これほど簡単にその言葉はみつかってしまった。
僕は彼女の命の終わりの解像度が高くなるような言葉を、聴きたくないのだ。

「千紗……」

「ごめん、先生から電話が来ちゃった……ちょっとで終わると思うからさ、帰ってきたら話の続きを聴いてもいい?」

「急がなくて大丈夫だよ、転ばないようにね」

「ありがとう、それなら私が帰ってくるまでの間で『コレ』を読んでてよ」

「これ……何?」

「私の『日記』、病気がみつかってから書くようになったんだよね」

「……読んでいいの?」

「私のみえてるところで読まれるのは恥ずかしいから、読むのはこの数分間限定ね」

 手渡されたノートは四隅がすこしずつ廃れていて、哀愁の漂ったものだった。
躊躇いながらも、彼女の想いを受け取るため表紙を(めく)る。

ー*ー*ー*ー*ー

『三月二十八日』
 信じられないことだけど、私の身体は健康じゃなかった。
私が病人になるなんて思ってもいなかったし、思いたくもない、認めてくもない。
お母さんとお父さんが泣いているところを初めてみた、それを(なだ)めている主治医の先生の姿を私はみることができなかった。
私の部屋にはぬいぐるみがいっぱいあって、ひとりでいても寂しいなんて思わなかったけど病室はただ白かった。
ベッドも壁もカーテンも、全てが白くて空っぽで、寂しいよりも恐怖が大きくなった。
それでも私は頑張って、ちゃんと健康に戻ろうと思う。
明日は春弥にこのことを伝えて、また想い出をつくれるように元気な私に戻ることを約束する。

『五月十五日』
 「治るかもしれない」って言われて、馬鹿みたいに信じ込んだ。
舞い上がって、初めて廊下を走った、息が苦しかった。前まで、運動は得意だったのに。
でも違った、夜に看護師さんと主治医の先生が病室に来て「臨時の先生の診察は誤診だった、手違いだった」と告げられた。
理解したくなかったのに「わかりました」って言っちゃった、悔しかった。
治ることすら希望として持てない瞬間の連続は思った以上に苦痛だった。

『六月二十八日』
 最近、音楽の趣味が変わった。
音楽は春弥と仲良くなったきっかけの一つなのに、変わっちゃうことが寂しい。
前は少女漫画を描き起こしたような曲が好きで仕方がなかったのに、今は暗い曲しか耳が受け付けない。
でも、春弥とつくった共同プレイリストは一日も欠かさずに眺めてる。
聴くことは、今はどうしても胸が締め付けられるようで難しい。

『七月十二日』
 私が笑うことを忘れずにいられるのは春弥の存在があるからだと思う。
春弥が病室の扉を叩く音、私はなんとなくわかるから。
その音で、私が最高に元気で幸せそうな姿をみせようって笑えるから。
だから本当に、私は素敵な人と結ばれたって思ってる。
病気がみつかった時、私は不運な人間だって思ったけど、春弥と出逢えている時点で私はかなり強運の持ち主だと思う。

『七月二十五日』
 この数ヶ月で私の容姿はかなり変わったと思う、もちろん悪い意味で。
顔色は常に青白くなっていくし、薬の副作用で浮腫むことも多いし、それでも奇妙に痩せ細っていくし、髪が傷んで春弥好きだって言ってくれた髪は想像もしていなかったほど短くなった。
きっと春弥の周りには可愛い子で溢れているのに、それでも私の隣にいることを選んでくれている。
本当に、心の底から優しい人だと思う。
いつか私の命に時間が来て、私から春弥の隣を離れないといけないことは今の私にとって治療より辛い。

『九月十四日』
 私は将来の夢がない。
就きたい職業も、行きたい大学もなかった。
だから私は長生きすることが唯一の夢だった。
たくさん生きて、数えきれない人と出逢って、美味しいものを食べて、美しい景色を感じる、退屈だと思えるほどに日常を歩いていたかった。
でも最近は、それと真逆のことを願っている。
どれだけ薬を身体に入れても、体調がいい日は無いし、美味しいものは食べられない。
途方もない延命治療にどうしても希望が持てなくて、眠ったまま、二度と目を覚まさなければいいと毎晩思ってしまう。
そう思ってしまうことが本当に申し訳なくて、余計目覚めないことを願ってしまう。

『九月二十九日』
 私が健康だった頃、病に侵されたら『死ぬまでにやりたいことリスト』なんてものをつくるのかなって思ってた。
実際にその状況になったら、そんなことを書き出す気力すら湧かないことに気づいた。
私が映画やドラマでみていたヒロインは、儚いだけじゃない、芯の強さを持っている。
それを私は、その欠片すら持っていない。

『十一月三日』
 入院して半年以上が経って気づいた、私がみないふりをしていたこと。
春弥はきっと、私以上に辛いのかもしれないということ。
恋人が弱って、死へ近づいていく姿を隣でみていることが辛くないわけがない。
そんなことにすら気づけないでいた。
そう思ったら、私はその辛さから一刻も早く解放させてあげたい。
ずっと死を迎えることが怖かったけれど、今の私は怖くない。
たったひとりの春弥という存在のためなら、命すらも終わらせてしまえる。
 皮肉なことに、明日は私にとって最後の手術らしい。
私はどうしても、生きたいと思えない。

ー*ー*ー*ー*ー

 彼女の日記はその日を最後に途切れている。
彩度の濃いものばかりが、僕の脳を五月蝿(うるさ)く駆け巡るけれど彼女の日記は毎日、欠かすことなく紡がれていた。
どこか震えたような字で、彼女の本当が並べられている。
僕の知らない『千紗』が、そこにはいた。

「ごめんね、ちょっと電話が長引いちゃって……」

「大丈夫だよ、先生とちゃんと話できた?」

「できたよ、明日の転院後の食事とか服用時間の最終確認だったからすこし長くなっちゃっただけ」

「そっか……これ、渡してくれた日記、読んだよ」

「あ……本当に読んでくれるって思わなかった、嫌な気分にさせちゃってたらごめんね」

「嫌な気分にはなってないけど、不思議な気持ちにはなってるかも」

「不思議な気持ち……?」

「僕、笑ってる千紗しか知らないからさ」

「それは……だって、せっかくふたりでいられるなら笑っていた方がいいでしょ?」

「きっと笑ってない千紗をみても、僕は変わらないと思うよ」

「違うよ、笑わないままだと誰も近くに来てくれないって私は知ってるんだ」

「え……どういう意味?」

「高校生になってから春弥とは出逢ったから中学までの私のことを知らないと思うけど……私、本当に友達が一人もいなかったんだよね」

「千紗に……?」

「そうだよ。本当に一言も喋らないような子で、とにかく無愛想だったと思う」

「それはどうして?」

「誰かと一緒にいたり話したりすることが得意じゃなかったんだ、だから学校も嫌いだった」

「そんなふうにはみえないけどね」

「春弥には気づかれてるって思ってた」

「どうして?」

「だって、私が春弥以外の誰かと話をしてるところみたことないでしょ?」

「確かに、振り返ってみると千紗が教室で騒がしくしているイメージはないかも」

「春弥は特別だったんだ、なんとなく隣にいても怖くなかったの」

「だから、話してくれたんだね」

「そうだよ、でも今になって思うんだ」

「え?」

「私に友達がいなくてよかったって」

「……それは諦め?それとも違う意味?」

「大切を抱えたまま離れることなんて寂しさが増えるだけだと思うから、だから私の隣が春弥だけでよかったって思える。たったひとりに全ての寂しいを重ねられるから」

 彼女から溢れる言葉は、あまりにも鋭い。
僕が知っている三年間の彼女の奥に、知るはずもなかった彼女の存在があった。
僕の中での彼女は陽気で、常に周囲に人が集まっているような光の像だったけれど、本当の彼女を心の正面からみた時、その光とは対照的なものがあった。

「千紗が命の終わりに抵抗がない理由は、今言ってくれこと?」

「え……」

「治療に対して何かを言うことはあったけど、千紗から『死ぬのが怖い』って聴いたことはなかったからさ」

「春弥は勘が鋭いね」

「……」

「私ね、春弥にずっと申し訳なさがあったんだ」

「僕に……?」

「こんな将来のない身体の私の隣にいて、春弥の時間がもったいないような気がして。友達もいないし、私の残りを惜しむ人なんていないんだよね」

「……そんなことはないよ」

「そう思ってくれるのが春弥だけなんだよ。それは、春弥が『彼女の残りが短くなっていく辛さ』を分かり合える人もいないってことなの」

「……それでも死ぬのは怖いでしょ」

「前まですこし怖かったけど、今は怖くないよ。私が死んで、春弥が新しい幸せと手を繋いで、何も抱えるものがなく笑っていられる日が来たなら……そこに私の存在はなくてもいいって心から思えるから」

「僕は辛いなんて思ってないよ、すこしも」

「それは嘘だよ」

「嘘じゃないよ」

「私だって辛かったもん、隣の病室の名前も知らない誰かが消えていっちゃうこと。他人ですら辛いって思うのに、大切な人が消えちゃうかもしれないって思ったら辛くないわけないじゃん」

「それはそうだけど……」

「だからね、一つだけ覚えていてほしいんだ」

「え……」

「私は、この命に後悔はしてない。そして『帰ってきたい』なんて我儘(わがまま)なことは望んでないよ」

「僕からしたら、その言葉は寂しすぎるよ」

「知ってる、寂しいだろうなって私にもわかるよ。でも悔いを残して離れたところへいったって、思ってほしくないんだよね」

「……」

「確かに離れることは私も寂しいけど、私が離れたとこへいくことが春弥の未来(いつか)の幸せに繋がるって考えたら……この選択も苦じゃないからさ」

 知らぬ間に、机上の荷物は一つも無くなっていた。
ただ白い板が、僕と彼女の間を隔てているだけ。
時間は、残酷なほどに規則正しく刻まれていく。
あと数センチ、この時計の針が進めば僕と彼女は手を振って最後を迎える。彼女は眠りにつき、離れたところへいく心を決める。
僕は彼女を惜しみながら、夜道を歩くしかない。
僕に、彼女を引き留める力はない。そもそもそんな力を彼女は望んでいない。

「こうやって話ができることも、あとすこしだね」

「そうだね……明日の朝は会えないもんね」

「四時にここを出るから朝に会うのは厳しいよ、だから夜に来てもらったんだし」

「……」

「春弥」

「何?」

「そんなに悲しそうな顔しないでよ。私、別に明日すぐに死ぬわけじゃないし」

「じゃあ……もうすこしここにいることはできないのかな」

「いつ死んでも大丈夫なように、私はここを出るんだよ」

「……」

「そうは言っても寂しいよね、私も実際寂しくないって言ったら嘘になっちゃうし」

「その言葉が千紗から聴けただけで、僕は独りじゃないってすこしだけ思えたよ」

「そっか、それなら春弥にはこれをあげるよ」

「え……」

「『何これ、初めてみた』みたいな顔しないでよ、さっき中までちゃんとみたでしょ?」

 照れ隠しからか、彼女は揶揄(からか)ったように笑いながら僕に日記を手渡した。
ただ僕の手に乗せるだけじゃない、受け取ること以外の選択肢を与えていないように強く、僕に押し付けた。
その目は下の方が潤んでいて、唇にはすこしだけ力が入っているようにみえた。

「その日記の中には、春弥の知らない私がいると思う」

「そうだね、きっとたくさんいるだろうね」

「私に残された余命は一年、でもきっとそれより短いと思う」

「……」

「この日記には今日まで、二年とちょっとの間の私の心が書いてある。一日ずつ読んでいったら、二年間は読み飽きないでいられると思うんだ」

「読み飽きることなんて、あるわけないよ」

「春弥は優しいね、その優しさを最後に再確認させてくれてありがとう」

 時計に目を向ける。
二十時五十九分、僕は彼女をみることができない。
最後の言葉が、僕の稚拙な頭ではみつけることができない。

「千紗、出逢えて幸せだったよ。生まれてきてくれて、十八年間生きていてくれて本当にありがとう」

 返答を待つなんて度胸は、きっと前世に忘れてきた。

「春弥」

 病室の扉の手摺(てすり)に手を掛けた瞬間、彼女から呼び止められた。

「……どうしたの、千紗」

「最後にひとつだけ、これは日記に書かないから忘れないように聴いててね」

「……」

『私……春弥と一秒でも永く生きていたいって、今になって願ってるんだ』

 彼女の言葉へ、僕は言葉を返さなかった。
その空間を崩してしまいたくなかったから。
ただ彼女の目をみて頷き、扉が閉まる直前まで手を振った。

 病室を出て、僕は鞄から付箋を一枚取り出す。
僕は今日のことを、忘れたくはない。


『十二月二十四日 彼女は生きたがっていた、きっとその願いは叶うと思う』


 そう書いた付箋を、彼女の日記の最後のページに挟む。
きっと忘れることは生涯ないだろうけれど、僕はこの瞬間を形にしたかった。
生きることを望んだ『千紗』という僕の愛する人のために。