「おやまあ、おやまあ。ずぶ濡れになって。中に入りなさい」

 薫ばあちゃんと話したのはそれが初めてだった。

 「怖がることないよ。あれだろう。漁師の悟くんちの娘ちゃんだろう。真理子ちゃんからよく話は聞いてるよ」

 父を悟くん、母を真理子ちゃんと呼んだ薫ばあちゃんは、私を中へ招き入れた。どうやらここは薫ばあちゃんのお店らしい。ショーウインドウの中には、大きな赤いお肉とお惣菜が沢山並べられている。
 薫ばあちゃんはつま先立ちで頭上の棚を開けタオルを取り出すと、私の全身を拭いた。
 ふわふわの白い犬のようなタオル。石鹸の香りが鼻を掠める。

 「名前、言ってごらんなさい。言えるかい?」
 「……えっと、あの。な、なぎ……」
 「あ?」
 「凪……」
 「はいはい、凪ちゃんね。わかりましたよ。もう安心なさい」

 薫ばあちゃんはそう言ってタオルを机に置き、よっこらしょ、と言いながらショーウィンドウの中に手を入れた。

 「ここは肉屋だから肉しか置いてないよ。メンチカツ、好きかい?」

 こくりと頷くと、薫ばあちゃんはメンチカツを茶色い袋に包んだ。まだるっこくてすまないねえ、この年になるとねえ、と言いながらゆっくりとこちらに歩いてくる。

 「凪ちゃん、泣き止んだかい」

 しわしわの手でがしがしと私の頭を撫でた。

 「もう、大丈夫だからねえ。雨が止んだら、真理子ちゃんに迎えに来て貰おう」

 そっか。私、泣いていたんだ。びしょ濡れのせいで気が付かなかったけれど、突然の雨が悔しくて、怖くて、心細くて、泣いていたんだ。

 「めそめそして、ごめんなさい」

 気が付いてしまうと今度は、めそめそからわんわんと泣いて、お腹が空いて、手のひらいっぱいの大きなメンチカツを一気に平らげた。

 「泣いて良いのさ。泣ける時は、たくさん泣きなさい」

 メンチカツを食べ終わるころ、薫ばあちゃんがそう言った。

 「あの降り方は、たしかに通り雨よねえ。もう止んだわあ」
 続けて呟いて、お店の外へと歩いて行った。
 後ろに手を組んでゆっくりと歩く背中を、かすかな陽が照らしている。

 「凪ちゃん、こっちへいらっしゃい」

 私が首を傾げると、いいからいいから、と微笑みながら手招きをする。
 口に残った油を袖で拭きつつ薫ばあちゃんの隣へ向かった。