笹原(ささはら)あゆは人の造形をしている、ただし人間ではない────。
 この事実を知っている人は、この世界中を数えても数人しかいない。自分と、自分の"元"である笹原まゆ、そしてまゆをこの世に産み落とした母親、そしてあゆをつくった数名の実験者たちだけだ。
 人間がAIに頼る時代。医療の進歩や技術革新が進んだ時代。表に出ている情報技術が人間の生活を豊かにする一方で、裏で息を潜めるように幾度も実験された後に誕生した『it(イット)』と呼ばれる存在。核の移植によって"元"の個体と全く同じ形質と遺伝子組成を受け継ぐヒトクローンの製造が禁止されているなか、itは名前を変えて極秘に作り出された、それと同義のものだった。

 笹原あゆは人の造形をしている、ただし人間ではない────。
 それすなわち、笹原あゆはitである。つまりは、そういうことなのだ。




「いってきます」

 ひら、とスカートをはためかせ振り返ったまゆに、私は小さく手を振った。

「いってらっしゃい、まゆ」

 胸元にある真っ赤なリボンを気にしながら、玄関を出るまゆ。パタン、と扉が閉まるとこわばっていた肩の力が徐々に抜けていくような気がした。時計を確認して、リビングへと入る。そこでは母がトーストをかじりながら、まるで暗記でもするかのように熱心に新聞を読んでいた。いつものことだ、と息を吐き、テレビのリモコンを探す。昨日の夜ドラを観なければ。どうやら最近話題のイケメン俳優が主演を務めているらしい。

「あゆ。今度の土曜日、決まったわよ」
「ああ……うん。わかった」

 ふと、背中に声がかかる。母……否、まゆの(・・・)母だ。断じて私の母ではない。


 ーーなぜなら私は、この女性から生まれた人間ではないのだから。


 はぁ、とため息が落ちる。
 視線を移すと、テレビに映し出された俳優が、星空の下で見つめあって泣いていた。



『君が何者でもいい。ただ僕は、君が好きなんだ』
『でも、わたし……』
『たとえ君が人間じゃなくても、僕は────』



 なんとなく耐え難くなって、すぐにブチッと電源を切った。その台詞の後に続く言葉は、もう分かりきっていた。
 itはそもそもなぜつくり出されたのか。メリットは何なのか。その真相は未だ明らかになっていない。
 ただitであることのデメリットだけが多すぎる。その中でも、特に大きなものを挙げてみる。

 まず一つ目、itは学校に行けない。なぜか、と問われると『そういうルールだから』と言うしかなくなる。国単位で動いている策のため、学校に行かなくてもお咎めを食らうことはない。むしろふらふら外を出回ったほうがきつい指導が待っている、と言われている。まぁ、特別な指令がない限り外に出ることはないし、出たいとも思わないので、これは私にはあまり関係ないけれど。
 そして二つ目、月に数回、実験者に身体の調子を見せる日がある。これは人間でいうところの定期検診みたいなものなのだろう。これはたいてい薬によって眠らされ、寝ている間に終わっているので苦ではない。が、定期的にとなると面倒くさい。ちなみに次の検診は今度の土曜日だそうだ。
 最後、三つ目。itは人間と恋をしてはいけない。これはあまりにも人権侵害ではないかと嘆きたくなるのだが、そもそもヒトではないのだから"人"権侵害も何もないと、ものすごい言われようだった。
 そういうわけで、私の身体は私のものであり、私のものではない。何一つ自由のない生活の中で生きている。
 けれど、私にとってはこれが普通だった。知らない世界に羨望することはない。だから、閉ざされた狭い世界の中で、私は今日もまた静かに時が流れるのを待っていた。




「ねえあゆ、きいて! 今日ね、水樹(みずき)くんとツーショ撮ったの! 念願!」
「ええすごい、よかったじゃん」

 スマホを掲げ、長年の想い人とのツーショットを見せてくるまゆ。覗き込むと、そこには爽やかそうな見た目をした男の子がまゆのとなりで笑っていた。まっすぐな黒髪が風になびき、桜がひらひらと舞っている。自然界の演出まで凝っているなと思ってしまう。
 それにしても綺麗な顔だ。涼しげな目元や、スッと通った鼻筋、桜色の薄い唇。太すぎない眉毛も、陶器のような白い肌も、まるでつくりものみたいだ。これはまさしくまゆのタイプだ、と心の中で納得する。

「同じクラスになったの最高すぎる!」

 四月というのは、すべてが変わる時期をいうのだと私は知っている。高二のクラス替えによって一緒になったというまゆは、テニス部の同級生、水樹くんに恋をしている。まゆから魅力を語られるおかげか、私まで彼の名前は覚えてしまった。そして今、顔の認識もできてしまった。

「水樹くんが彼氏だったら、最高だろうなぁ」

 恍惚と天井を見つめ、ため息を洩らすまゆを微笑ましく思う。

 どうかまゆの恋が叶いますように。

 私は素直に、純粋に、そう思った。




 検診結果、異常なし。
 定期検診の三日後、そんな通知に少しだけ安堵するのはいつものことだ。

 次の検診までに二度、外へ出ること。それが、今回実験者からくだされた指令だった。
 といっても、遊び回って楽しめ、というわけではない。せいぜい外の空気を吸って、気分転換をしてもいい。そういうことなのだろう。

「いってらっしゃい、あゆ」

 母親に背中を押され、眩しすぎる世界へと足を踏み出す。


 あまり遠くには行きたくない。帰り方がわからなくなってしまうから。
 家のそばにある河川敷で、時間を潰す。

 地面に寝そべって、空を見る。青い空、白い雲。家の中から見るより、ずっといい。
 のびやかに流れていく雲。呑気なものだ、と思う。

 小川のせせらぎが心地よい。考えることも、感じることも人間と同じはずなのに、どうして私は別物なのだろう。
 考えれば考えるほど沈んでいく思考。ぶんぶんと頭を振り、追い払う。

 気分転換に少し歩こう。遠くまで行かなければ、きっと大丈夫。

 足に力を込めて、立ち上がった時だった。

「笹原、さん?」

 背筋が、凍る。間違いなく、名前を呼ばれた。たぶん、いや絶対に、まゆの友達に。
 ぶるっと唇が震える。ここで振り返って対面したとして、"ホンモノ"であるまゆを繕ってこの場を乗り切れる自信などまったくなかった。
 けれど無視して走りされば、まゆの立場が危うくなる。私の行動によって、学校で変な噂を立てられてしまうかもしれない。そんなことは避けたい。私は、姉妹のように扱ってくれるまゆのことが、大好きなのだから。ならばここは、まゆのふりをするか、無視して走り去るかの二択。

「……!」

 私が選択したのは、前者だった。だが、どちらを選んでも地獄であることを、その人物を視界に認めてから悟る。

「水樹くん……?」

 それはまさしく、まゆの想い人だった。

「笹原さん……どうして、ここに」
「えっ、あの……えっと、水樹くんも、どうして」

 質問に質問。失礼かなとは思ったけれど、下手に話してニセモノだとバレてしまうよりはましだった。少し息を吐いた水樹くんは、「今日はサボり、かな」と呟く。慌てて「私も」と返した。

「じゃ、じゃあ私はこれで……」
「あの、さ」

 急いで立ち去ろうとした途端、声をかけられて足が止まる。ドクン、と感じたことのない鼓動が血液を押し出す。

「少し……話さない?」

 澄んだ瞳の中に、まゆのニセモノである私がいる。水樹くんが話したがっているのは、私じゃなくてまゆだ。私はまゆを偽って彼と話し、何事もなかったようにふるまえるだろうか。

 そんなの、無理だ。


 頭では分かっているのに、その時の私は小さく首を縦に振っていた。
 後にこの出会いが反対方向の歯車を回すことになるなんて────知らないままで。





「楽しかったな……」

 帰路の途中で、ふと感慨に浸る。探り探りではあったけれど、ちゃんとやり過ごすことができた。違和感なく話すことができた。
 水樹くんと話して一つ思ったことは、水樹くんとまゆは思っていたよりも親密ではないということだ。私に言っていないだけで、てっきりもう付き合っているか、その直前くらいの関係だと思っていたのに、今日話した彼は意外にもよそよそしかったように思えた。

 学校の話、世間話、趣味や好きな食べ物。そんな当たり障りのない話だけれど、ちゃんと目を見て話したり聞いたりしてくれるからか、すごくすごく楽しかったのだ。
 色素の薄い瞳が澄んだ光を宿してこちらを見つめた時、鼓動が速くなっていくのを感じた。

 いつしか、この場をやり過ごすという目的から、もっと話したいという願望に変わっていた。
 ふと帰り際に告げられた言葉がフラッシュバックして、思わず頬が緩みそうになる。

『また、次の火曜日に』

 彼は、私にそう言ったのだ。またここで、彼は私に会うことを望んでいる。

「違う、そうじゃない」

 そこまで考えてハッと我に返った。勘違いも甚だしい。
 彼が望んでいるのは『まゆ』であって、私ではない。

「今日のことはなかったことにしよう……」

 まゆの知らないところでまゆの恋が発展するなんて、そんな意味のわからないことあってはならないから。今日は偶然だったけれど、約束を交わした二回目は必然だ。その必然を手にするのは、私じゃない。

「あゆ! おかえり。ご飯できてるって。一緒に食べよう」
「……うん」

 無邪気に笑うまゆの顔を見ると、自分の胸が罪悪感に押しつぶされてしまうような気がした。