きっかけはささいなものであった。
ピアノの講師から「音で人を殺す気で弾け」と小さい頃から教え込まれてきていた橋田。
ーーー音で人を殺す。
講師なりの強い比喩を用いた伝え方なのだろうと橋田は理解していた。
理解はしていたが、小さいながらにそれができたら世界は変わるかもしれないと思った。
そんな、単純な理由だった。
音代洸という人間を知ったのは、橋田がその秘めた思いをさらけだすことなく、感情と音楽が結びつかないことに悩んでいた時であった。
音楽業界の中で、その男は有名になりつつあったのを橋田も知っていた。
クラシックのみならず映画音楽なども手掛け音楽のあらゆるものに名を馳せはじめていたその男。
偉大な父を追いかけ、音楽家になった音代という男は
輝かしい中に、黒い噂も絶えなかった。
『父の後を追いかければ追いかけるほど、父が霞んでいっている。
父は、音楽での死をむかえつつある』
そんな噂を橋田も耳にしていた。
音代洸という人物に興味が湧いた。
橋田が音代のピアノを聴きにいったその日、音代は新曲を携えてお披露目会のようなものをひらいていた。
だが、彼の新曲を聴くことはなかった。
新曲披露の前に弾いたベートーヴェン、ピアノソナタ作品のハンマークラヴィーア第3楽章。
その男が公の場で弾いた最後の曲であった。
会場が男を見守るが、男は、死神のような顔でステージにあらわれた。
弾き始めたと同時に、会場が張り詰めた空気になるのを感じる。すべての感情をぶつけるような凄まじい演奏だったからだ。
そして、子供が部屋の隅っこで人知れず泣いているような弱々しい音に変わっていっていた男の演奏がぴたりと止む。
そして手のひらで顔を覆った。
何が起きたのか分からなかったが、ただただその男を見つめる。
男に何が起きていたのか、どんな感情でピアノを弾けばこんな心が締め付けられるような演奏ができるのか、橋田はすべてが知りたかった。
「どうしたのかしら」
「今日、お父様が亡くなったみたいよ」
隣のえらく着飾ったおばさんたちがこそこそとそんな話をしているのが耳にはいる橋田。
父という目標をなくして絶望をしているのか、と橋田は思った。
「お父様、自殺らしいわよ」
橋田はそんな隣の声をききながら、ステージから今にも倒れそうな男が去っていくのをみつめる。
追いかけたくなる衝動をおさえて橋田はただその姿を目に焼き付けた。
「新曲を披露の日にお父様が自殺なんてね、やっぱり噂は本当なんだわ、彼の音楽でお父様は追い詰められて死んだのよ」
好奇心に似た抑えられない感情が橋田の中に芽生えていく。
小さい頃から思っていた。
救う音楽があるなら、殺す音楽があってもいいじゃないか。
ーーー音代は、どんな曲をつくったのだろうか。
橋田の芽生えたそれとは反対に、天才は父が死んだその日に表舞台から姿を消した。
あっけなく、脆いものだと橋田は思った。
だが、その脆さにあの爆発的な音楽性が生まれる。
自分がそうなりたいわけではなかった。なれるほどの絶望を感じたことがない。そしてそんな人間になりたいとは思わないが、自分のつくりあげた世界観で人が動くのは面白いのではないかと思った。音楽で人を操る、そんな夢のようなことができるんじゃないかと。
男の絶望が自分に伝わったように。
今までただ言われるがまま楽譜通りに弾きこなすだけの存在だった音楽がある男の演奏がきっかけで橋田を音楽という光と闇の両極端な世界に引き摺り込んだのだ。
人を救ってくれるのが音楽なら、その逆が起きていてもおかしくない。
死ぬことのきっかけなんて、ささいなことだったりする。音楽が人の感情を動かすことも些細なきっかけであり、罪には問われない。
一昔前、その曲を聴いたら自殺してしまうという曲が有名になった。何人もの自殺者がでたため、公共で流すのは禁止となった。
後から戦争などの世界情勢が原因だったと言われているが、少なからずきっかけになったのは音楽だ。
橋田はこれだと思った。
このきっかけを自分が作ることにより、自分にとって義務でしかなかった音楽に尊さがうまれるのではないかと。
ゆっくりと着実に、きっかけをつくった音代洸という人間のこと、そして音楽のことを勉強した。
橋田は高校生になり、ピアノコンクールでは優秀な成績をおさめるようになっていた。
そしてついに実行にうつしたのだ。
それは決して意図的ではなかった。音楽室の前を通った時、偶然聞こえたその歌声に足を止める。
『誰か わたしを 希望に染めて』
居場所をもとめてなげているような、訴えかけるような歌声だった。あの時橋田がきいた音代の演奏を彷彿させた。
ある程度の影響力をもたせるためには、言葉と事実と、それに見合った実力が必要だった。
橋田は音楽室の戸をあける。
女が歌うのをやめ、橋田の方をみた。
「いい歌声だね」
橋田はゆっくりとその女に近づいた。少し警戒したようにギターをぎゅっと握りしめた女。
「それにいい曲、君が作ったの?」
「そうだけど」
自信がなさそうに瞳をおとした女。
女もきっかけを探しているようだった。誰かにみつけてほしい、自分の叫びを、気持ちを、音楽で誰かにぶつけたい。
「僕が、この曲を有名にしてあげる」
橋田は、全ての準備が整った、とシニカルな笑みを浮かべた。