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愛子は軽音部を辞めた。部員の3人は謝ってきたし、責める気もない。ただ、ベースを弾こうとするとあの日のことがフラッシュバックする。
鼓膜を揺らす音楽。何度も何度も繰り返す音。音は際立つどころか逃げたい、もうききたくない、やめたい。その気持ちが身体中を埋め尽くす。
息があらくなって、覆われている口元の布が何度も何度も揺れる。
逃げ出したい。
足元を掠めた冷たい風。
窓が開いている。
なぜか、足の結束バンドが切られていた。いつも宥め役になっていた凛が戻ってきて結束バンドを切ってくれたんだろうかと思った。
逃げ出せる。

音から解放されたかった。

「お嬢ちゃん、大丈夫?」

「あ、」

「注文、何にしようか」

顔をあげれば、その店のマスターと思われる髭面のお爺さんが愛子に心配そうに声をかけた。
ーーー「自由さを求めてるなら行ってみろ」
音代に渡されたお店の名刺。
名前は「音楽喫茶HASU」である。
自由を求めているなら、と言われたが愛子にはよく分からなかった。確かに趣味ではじめたベースだったが、最近では義務になっていたので「自由」とそれが直結しなかった。

「アップルティお願いします」

「はいよ。君はベースを弾くの?」

「え?」

「さっきからあそこのベースギターずっと見てたから」

「あ、いえ、そんなことは、ないです」

途切れ途切れに言葉を紡いだ愛子に優しく「そうかい」と笑ったマスターに愛子は軽く会釈をする。
あのことがあってから、約3ヶ月ほどが立っていた。骨折していた腕と足はなおり、普通の生活を送っている。
だが、楽器にはずっと触れていない。
休日、音代に渡された名刺を財布の整理をしているときに見つけ、試しに来てみただけだった。
音楽の自由という意味を知りたかったが、とくに正解はみつけられそうになかった。
音楽なんてやらなくたって生きていけると愛子は思った。現状、何も不便はしていないしなんなら音楽にトラウマを植え付けられたといっても過言ではない。
何が、自由だ、と。

ーーだけど、何か、何か足りないような気もする。

「その名刺、君みたいな若い子が持ってるの珍しいね。昔ながらの常連さんしか持ってないよ」

カウンターに座っているからか、マスターはアップルティを作りながら愛子に話しかける。

「音楽の先生から、もらいまして」

「へえ、うちの常連に音楽の先生なんていたかな」

「え、あの、音代、先生って言うんですけど」

カシャン、とマスターの手からスプーンが落ちる。驚いた様子でそれを拾い上げる前に愛子の方に身を近づけたマスター。

「え、音代って、息子の方だよね、親父は死んじゃったから息子しかいないか

あれだよね、こうくん?」

「えーっと、たぶん?」

正直愛子は音代のフルネームなど知らないし、家族構成などもってのほかだった。選択授業を音楽にしていたわけではないし、あの時以前は話したこともなかったのだ。ひとまず首を傾げながら返事をした愛子にマスターは「そうかそうか」と落ちたスプーンを拾い上げ、新しいスプーンを取り出す。

「こうくんが、音楽の先生か。まあ、音楽をやめてないだけよかったなあ」

「音代先生、この店によく来るんですか?」

「来てたんだけどね、最近は全く。よくそこでみんなで楽器弾いてたよ」

行かなくなったというのは嫌いになったわけではないのだろうと愛子は思う。嫌いだったら、愛子にこの店を紹介したりしない。

マスターは懐かしむように目を細めて、楽器たちを眺めたあと、愛子の前にアップルティーとチーズケーキを置いた。

「あの、これ」

「サービス」

美味しそうな匂いが鼻を掠める。綺麗に切られたチーズケーキを視界に入れて愛子の口角は上がった。チーズケーキは大好物だ。
「ありがとうございます」とお礼を言ってまずアップルティを一口飲む。
店内に流れるジャズに少し体を揺らした。
そして、カラン、と店内の戸が音を立てる。

「マスター、楽器空いてる?」

席空いてる?ではなく、楽器空いてる?という言葉に少々違和感を覚えた愛子は声の主の方に顔を向けた。
帽子を被ってメガネをかけた無精髭の目立つ50代くらいのおじさんだ。

「空いてるけど、お客さんいるからあんまり自由にしすぎないでね」

そう言ってマスターが店内の音楽を切った。
おじさんが戸の外に「空いてるってよ!」と声をかけるとぞろぞろと3人ほどの同世代のおじさんたちが入ってきた。
先頭をあるいていく無精髭のおじさんにマスターが声をかけた。

「今日は、えらいお忍びスタイルだな、メガネなんかして」

「昨日まで張り込みよ、コンタクトなんかできやしねえ」

「刑事は大変だね」

「しっ!あんま言うなって、誰が聞いてるか」

と周りを見渡したおじさんが愛子を視界に入れた。

「えらい若いのがきてるな。って、あれ、どっかでみたことある顔だな」

愛子の方をみてそう言ったおじさんがメガネのフレームをかちゃりと揺らし愛子をみつめる。愛子は「こ、こんにちは」とぎこちなく会釈をする。どっかでみたことがあると言われたが、愛子にしてみればそのおじさんをみたことは一度もなかった。
はやくチーズケーキを食べたいのになんだか居心地が悪くなって両手でフォークを握る。

「もういいから、あまり絡まないで。はやくピアノでもなんでも弾きなさい」

愛子の居心地の悪さを察してマスターが、おじさんを楽器の方に追いやる。

「ごめんね、騒がしくなるかもしれないけどゆっくり食べてね」

「はい」

愛子は返事をして、楽器の準備をはじめるおじさんたちを眺める。
口の中に入れたチーズケーキが甘く溶けていった。
ピアノ、ドラム、アコースティックギターの準備が始まるが、ベースギターはいないようだ。少し胸のあたりが疼く。
それぞれに準備をしつつ、音が自由に流れ始めた。
愛子に話しかけた無精髭のおじさんが数回同じフレーズをピアノで弾き始める。
おそらくルールなんてないのだろう。
ピアノに応答するように、ドラムが入ってくる。
そしてアコースティックギターがパラパラと音を奏でる。

「会話みたい」

愛子の言葉に、マスターがくすりと笑う

「そうだね、彼らはここに音楽で会話をするためにきてるのかもしれないね」

そういう心の繋げ方があるのかと愛子は奏でられる楽器たちを見つめながら思う。
ただ正解を追い求めて、期待に応えられるように一音一音を完璧に、忠実に再現しないといけない。
誰かの理想に近づけないと、自分の奏でる音に意味をなさないと思っていた。
ーーー自由、か。

「おい、そこでぽけっと見てないで、何か弾けるなら弾いたらどうだ」

無精髭のおじさんが愛子にそう声をかける。
戸惑ったように愛子はマスターをみた。マスターは何も言わずに微笑んでいるだけだ。
本当は、弾けるようになったら、自分の思う通りやってみたかった。
誰かのためにではなく、自分のために。

愛子は立ち上がる。
愛子が近づけば、奏でられる音が歓迎するかのように明るく彩られた。
愛子はベースギターを肩にかけた。
今まで地面にめり込みそうなほど重かったそれは、なぜか久しぶりにかけてみると軽く感じた。
線を繋いで、音が出るようにゆっくりとボリュームをあげる。
愛子は深呼吸をした。
指先は震えた。
試しに流れている音楽の一音を感覚で鳴らした。
それに返事をするようにピアノが愛子の音に反応する。

「正解なんてないんだから、自由にやれよ」

無精髭のおじさんがそう言うと、ドラムが愛子を迎え入れるように音を奏でる。
顔を上げた愛子に、ドラマを叩いているおじさんがニコリと笑った。アコースティックギターを弾いているおじさんも愛子に笑いかける。

いつでも来い。受け止めてやる。

そう言っているように思えた。

愛子は弦に指を添え、音を立て続けに鳴らし始める。
何度も何度も鳴らしても、誰も愛子をとめなかった。それどころか楽しげに愛子の音に音を添えるのだ。大丈夫だ、楽しめ、そう言っているようだった。
つーん、と鼻が痛んで、視界が涙で滲む。

ーーー楽しい。

その日愛子は、音楽の自由を知った。