老人の話は長い。
九条はくたくたになりながら、帰りの電車に飛び乗る。
早めに帰って学校に行こうと思っていたが、もう授業が終わる頃だった。
だが、どこか心地いい疲れに九条はほっと息を吐いた。
レコードは4枚ほど買ったが、流すものがないので、先ほどの老人にきいた曲たちを音楽のフォルダに追加していく。
一曲しか入っていなかったものが、満たされていき、はやく祖母にきかせたいと九条は思った。
両耳にイヤホンをつっこみ、祖母の思い出に馳せるようにその曲たちを聴いていく。

そんな中、母から1つの着信があり、電車の中だったためすぐに切る。
そして、「今電車の中」とメッセージを打っている最中だった。母から先にメッセージが送られてきた。

ーーーおばあちゃん施設で倒れたって。
介護士さんは命に別状はないって言ってんだけど、今日は1日入院だから。
お母さん今日仕事抜けられないから明日行くけど、あんたに一応病院の住所送っときます。

心臓がドクリと嫌な音をたてた。
音楽は裏切らない、記憶は一生だというがその人が死んでしまったら何も残らないではないか。と九条は短い息を吸って吐く。
命に別状はないという母のメッセージだけがなんとか気持ちを落ち着かせる薬だった。

はやく電車が進んでほしいと願うが一定の音を刻んで進んでいく電車。
祖母の思い出の曲たちのメドレーはみっともなく子供みたいに泣き叫びそうになるのでイヤホンを外した。
長い1時間をなんとかこらえ、九条は走って改札をでた。

そのまま、母が送ってくれた病院の住所をスマホに打ち込む。
高校の近くの病院であることがわかり、スマホをポケットに入れ走り出した九条。

ーーー大丈夫だ、大丈夫。ばあちゃんは死なない。

呪文のように唱え続けた。
無我夢中で走っていれば、自分と同じ歳ほどの3人の男が正面から歩いてくる。
そして、九条に気づき「あ」と声をもらした。
何時ぞや九条が喧嘩した相手だと気づいたが、そんなことはどうでもよかった。
ーーーお前らに構っている暇ないんだよ!
と、そのまま突っ切ろうとしたがそう簡単にはいかない。

「九条くーん、そんなに慌ててどこ行くのー?」

両腕を掴まれ、そのまま人気の少ない路地裏に引きずりこまれる。
九条は怒りのままに腕を掴んでいる男2人を振り払おうとするが正面の男1人に殴られたことによって抵抗することができない。
日頃のおこないで、こんなことになるとは予想していなかった。
土下座でもしてここを切り抜けられるか、そんなことが脳裏をよぎる。

ここで喧嘩をすれば、祖母がもっと自分のことを忘れてしまう気がした。

「離せ、クソ野郎」

「嫌だね、お前にボコボコにされてからずっと、復讐してやろうって思ってたんだよ」

「それがなんで今なんだよ!」

九条がそう叫べば、正面の男が力一杯九条を殴る。
九条の腕を押さえていた男2人が手を離し、九条の体が地面に転がる。

「うわー、みじめだわー、写真撮ろうぜ写真」

「いや、殴り足りねぇわ」

九条の腹を蹴った男が、満足そうに笑い

「お前それ蹴ってるし〜」

と笑いながらもう1人がまた九条を蹴る。
九条は耳を塞いだ。
祖母の思い出の曲を刻んだ後に、こんな薄汚れたものを聞きたくないと思ったからだ。
防御ができなくなった九条を3人がかりで痛めつける。
九条は後悔とともに暗闇に落ちた。
いや、おちる寸前だった。

「何してる」

ききなれた声がして、耳から手を離した九条。
薄く目を開くと険しい顔して立っている男が1人。

「九条」

「、としろ、せんせ」

絞り出すように声を出せば、音代は九条に駆け寄ろうとする。
だが、先ほどまで九条に暴力を振るっていた男の1人が音代の前に立った。
ーーーだめだ、音代先生、逃げろ。
苦しくて声は出なかった。
残りの2人が再び九条を蹴りだしたからだ。

「誰だてめぇ」

「質問をしているのはこっちだ 
何をしている」

「何ってみたら分かるでしょ、話し合い」

「話し合いの定義を考えろ、3人で1人に暴力をふるうことか」

「俺たちはそういう仲なんです」

「九条、そうなのか」

音代の問いかけに、九条は「ち、がう」と声を振り絞った。
音代の冷静さに怒りを覚えたのか音代の正面の男が拳を握ったのが九条の視界にはいる。

「っ、先生、逃げろ」

九条のその声と同時に男が拳を振り上げた瞬間だった。
頭が痛くなるようなモスキート音が響いた。
思わず耳を塞ぐ。
そしてそれは周りの男も同じだった。

ーーー音代を除いて。

「やっぱり若いな、お前ら」

「おい、なんだよこれ!うるせぇ!とめろ!」

男の1人が叫んだ。
頭がおかしくなるほどの音が鳴り響き、それは脳を針で刺されるような感覚である。
九条もその場で耳を塞いだままうずくまった。

「俺には全くきこえん!はは!」

ーーー笑ってる場合か!
と九条は心の中で突っ込んだが、元々音代はひとくせあるやつだと思っていたのでこの状況には大して驚かなかった。九条は唸りながら震える足でなんとか立ち上がり、音代を睨む。
そして地面に伏せていく男たちを素通りし、音代の前に立った。

「も、ういい、頼むから止めろ、先生」

音代はあっさり頷き、自分のスマホをいじって音をとめた。
九条が後ろを振り返ると、頭を軽く振りながら立ち上がりはじめている男ども。

「走るぞ!先生!」

九条と音代は走り出した。
後ろで「待てや!」と声がする。走りながら後ろをみれば3人がしつこくも追いかけてきており九条はスピードをあげた。そして九条の少し後ろを走る音代はちゃんと九条についてきている。
路地を出て大通りを走れば人混みにうまく紛れられた。
それでも九条はスピードを緩めず人にぶつかりそうになりながらも走った。

「九条、どこに向かってるんだ」

「病院!」

「なんでだ お前怪我がそんなにひどいのか」

「ひどかったら走れてねぇだろ!ばあちゃんが倒れたって!」

「そうか、なら急ぐぞ」

先ほどまで九条の少し後ろを走っていた音代が九条の隣に並んだ。

「九条」

「なんだよ」

「焦ってる時こそ、頭の中で歌え」

「はぁ!?」

「なんでもいい、自分の落ち着く曲を思い浮かべろ 安定剤になる」

言われた通り、九条は頭の中で最近聞いたバラード曲を思い浮かべる。
寝る前にきいていた失恋ソングだ。
特に失恋したとかそういうわけではないが、メロディが好きできいていたものだった。

「って、走るの遅くなるわ」

「そうか、ならハードロックで行け」

「あんまきかねぇし」

そんなことを言い合いながらやっと見えてきた病院を見上げる。
2人でそのまま入り口にはいり、九条は受付に前のめりになった。

「九条里美って、どこにいますか 祖母なんですが」

息を切らしながらそういう九条に、受付の女性も素早く面会の記入用紙を机に出し、手続きを済ます。
そして、九条は病室の部屋番号をきいた途端に再び走り出した。
もはや、「走らないでください」という注意は九条の耳には届いていない。
音代も九条より少し遅れて手続きを終わらせ、病室に向かう。
そして部屋の前にいたのは、前に音代が訪れた時に九条に謝っていた介護士である。
九条がきたことに気づき、病室の戸を開けながら、九条に頭を下げた。

「施設で転んでしまって、少し腰を痛めてしまいまして」

「腰?」

九条はあまり介護士の話をきいておらず、祖母に駆け寄っているので、反応したのは音代であった。
音代は、「倒れた」という情報だけきいていたのでひとまず命に別状がないことが分かり安堵の息をはいた。

「ひとまず、今日1日は入院になります」

「そうですか くじょ、」

音代はそのことを戸の付近から九条に言ってやろうかと思ったが窓の外をぼうっと眺めている祖母のそばに駆け寄り、安心した顔で手を握った九条を見て言葉を止める。

「僕たちはこっちで待ってましょうか」

介護士が、病室の外の廊下にある椅子を指さしてそう言った。
音代は頷いてその戸をゆっくりと閉める。

静かになった空間の中、九条は祖母の手を甲を指先でとんとんと叩く。

「ばあちゃん」

そう呼びかけたが、祖母はぼうっと窓の外を眺めているだけだ。
祖母の瞳に自分が自分としてうつっていないことはつらい。何度も何度も思い出してほしいと抗い続けてきた九条は、これでダメだったらもうあらがうのはやめて、忘れていくことを受け止めて諦めようと思った。
ポケットからスマホを取り出す。

「今日、ばあちゃんの故郷に行ってきたんだ ばあちゃんこの曲覚えてる?」

ーーー『この曲はね、さとちゃんが大好きな曲で小さい頃から会う度にずっと歌ってた曲なのよ』

レコードショップの老人からきいた話を思い出しながら九条は再生ボタンを押す。
英語の歌声が流れ始め、しばらくそれを2人で聴く。

「“家へおいでよ”ね、そういえば菊ちゃん元気かしら」

祖母がそう言って、九条の方を向いた。
ここ最近ではあまりみなかった祖母の穏やかな表情だった。

「菊ちゃんって、レコードショップのおばあちゃんだよな」

「ええ まだレコードショップやってたのね」

「元気そうだったよ ばあちゃんのことたくさん話してくれた
あとこの曲、2人で歌ったんだろ」

次の曲を流し始めた瞬間祖母の顔が弾んだように明るくなった。

「ザ ピーナッツね!地元の商店街のお祭りで菊ちゃんと歌ったの!後はレコードショップの近くにあるバーで歌わせてもらったり 私たち本当に姉妹みたいだってみんな言ってくれてねえ」

曲にのるように体を揺らしながら楽しそう語る祖母をうんうんと頷きながらきく九条。
レコードショップの老人、菊ちゃんも祖母と同じように音楽とともにある記憶を懐かしみながら楽しそうに九条に話してくれた。

「あとな、これ、電車のホームで流れてる音楽なんだけど」

九条は録音をしていた電車が到着する時の音楽を流す。しばらく聴いていれば、祖母ははっと思い出したように口を開いた。

「あら、これ麻友が地元を離れる時の年から流れ始めたのよね」

麻友、とは九条の母である。

「1人で上京するからって、私は止めたんだけど泣きながら電車に乗ってったの 私もね泣きながら見送って、こんな時にこんな陽気な音楽流してんじゃないわよって思ったりしてね だからよく覚えてるの」

「はは、そうだったんだ」

九条はもう満足だった。
自分は、祖母の役に立っている。恩返しができている。そう思えるだけでもういい、自分のことは置いておこう。祖母の人生の中で自分の存在は一瞬しかなかったのだから、仕方のないことだとさえ思った。

そう思った瞬間だった。病室の戸があく。
しゃらん、と軽快な音が鳴った。

「忘れ物だ、九条」

「音代先生」

タンバリンを持った音代が入ってきて、九条にそれを差し出した。
祖母の顔を見れば、不思議そうにそれをみている。もう2度も試してダメだったんだ。
無理に決まっている。と、九条は首を横に振る。

「ホッピーラッキーシュッキーの曲は、サビで聴いている人に向けて音を鳴らさせるように誘導させるところがあるだろ お前はそこでこの音を鳴らしてたんじゃないのか」

音代のその言葉に、九条は何度も何度もきいていたその曲を思い出した。
そして、聴いていた時の情景も。
ゆっくりとタンバリンを受け取った。

ーーー夜ごはんの匂いが鼻をくすぐる。

“ ポッピーラッキーシュッキー

みんなのにんきもの 
あかいおはなのホッピー
いつもげんきな
きいろいおはなのラッキー
しっかりものの
あおいおはなのシュッキー”

3人の個性的なキャラクターたちが画面に出てきて踊りながら歌っている。

ーーー『ばあちゃん、始まった!』

夜ごはんの準備をしていた祖母がエプロンで手を拭きながらこちらに歩いてきて隣に座る。祖母の暖かい手が頭を撫でた。

ーーー「なぎくんは、本当にこの曲が好きね」

九条はゆっくりと目を開いた。

「きょうもたのしくみんなでせーの
ホッピーラッキーシュッキー

みんなでてをたたくよ
たんたんたん

にっこり えがおですてきね
ホッピーラッキーシュッキー」

祖母はしばらくその奏でられた音を聴いていた。
ここは家のリビングではないし、夜ごはんの匂いはせず病院である。
しばらくの沈黙が続き、九条はタンバリンを叩いていた手を静かに下ろした。

恥ずかしさと、虚しさと、なんとも言えない感情が渦巻いてもう帰ろうと思ったその時、

「なぎくんは、本当にその曲が好きね」

九条の頭に手がのった。
つーん、と鼻が痛んで視界がぼやけていく。
ずっと我慢していたものが溢れ出るように頬を伝っていった涙を手の甲でぬぐった九条。

「お腹空いたでしょ、なぎくん」

「ばあちゃん」

子供みたいな泣き声で絞り出すように呼べば祖母は愛おしそうに笑みを浮かべていた。
刹那の奇跡なのかもしれないとは思ったが、九条はそれでもよかった。
自分のことを思い出してくれた。
歌ってよかった。
ーーー自分は、ばあちゃんの孫で、大事にされている。

そう、心の底から思った。



ーーーーー

「そのタンバリン、どこからもってきたんだよ」

「病院に置いてたのを貸してもらったんだ 今絆創膏貼ってんだから喋るな」

音代は九条の口の端にある傷の上に絆創膏を貼りながらそう言う。
病院の廊下の椅子に座り、音代は病院から借りた消毒液と絆創膏で九条の傷の手当てをしていた。
幸い、大きな怪我もなく蹴られた腹や背中は少々痛むがケンカ慣れをしている九条にとっては大したことではなかった。

ただ、九条の顔に傷があることに気づいた祖母が「なぎくん怪我してるじゃない!」と騒いだため、この状況にいたる。
九条の顔に絆創膏を貼り終えた音代は、消毒液の蓋を閉めながら、満足げな表情をしている九条をみる。

「よかったな」

「な、なんだよ別に俺は何もしてねぇし、ばあちゃんの聴いてた音楽が知りたかっただけだし てか、音代先生なんで俺の居場所分かったんだよ」

なぜ居場所が分かったか。路地裏でのことだ。
音代は九条が学校に来ていないことを気にしており、暇さえあれば学校を抜け出し探しに行っていた。とは、言わず「偶然だ」とはぐらかした。

「俺は耳がいいからな 散歩中に偶然路地裏でケンカのような声が聞こえた時すぐにお前がいると分かった」

「へぇ、でもモスキート音はきこえねぇんだな」

「それは仕方ない お前らと年齢が違うからな」

「いっても10歳差とかそこらだろ?そんなに衰えんの?耳って」

その質問は嫌味でもなんでもなくただの疑問であったが音代はむっと眉間に皺を寄せた。

「モスキート音と言われる17キロヘルツあたりの音でも、絶妙に自分の聞こえないヘルツの音にしたんだ、普通の20代後半よりは聴こえるぞ」

「はいはい」

「そもそもモスキート音が聴こえるからといって若者ぶるなよ、俺はイルカと会話できるくらいの耳をもってんだからな」

「すぐに分かる嘘ついてんじゃねぇぞ」

「イルカの超音波は何キロヘルツか知ってるのか、知らないだろ、あいつらは150ヘルツから15万ヘルツの超音波をだす たいして人間は20ヘルツから2万ヘルツくらいの音しか聴こえないイルカは人間の7倍の音が聴こえているんだぞ

よってイルカはすごい 人間は愚か」

「話の着地地点おかしいだろ 薄々感じてたけど音代先生ってなんつーか、面白いよな」

「褒めてないだろ」

「褒めてるよ、音楽バカって言いてぇの」

「よし、もう一回モスキート音流してやる」

「まじで勘弁して」


九条の指先が置いてあるタンバリンに触れた。
しゃらん、と音をたてた。
一瞬だったのにいつもより楽しげに、踊っているような音にきこえた。