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「彼氏?」
 玄関のドアを開けると、希沙が待ち構えていた。
 きっと佐神君のことを言っている。
 それはわかったけど、どうして希沙が佐神君を知っているのかがわからなかった。
 さっきは少し離れた場所で解散したから、今見られたとは思えない。
 そんな混乱と、威圧的な態度で、私は声を詰まらせた。
「本当、お気楽で羨ましい」
 希沙はそう言い捨てると、二階に行った。
 ほんの数分前までは大丈夫だと思っていたのに、一瞬で現実を思い知らされた気分だ。
 もう助けを求めたら迷惑だろうか。
 スマホを取り出して、佐神君の連絡先をタップする。
「葉月、こんなところでなにしてるの。ご飯が冷めるでしょ」
 やっぱりやめようと思うよりも先に、お母さんに声をかけられた。
「……ごめんなさい」
 これ以上刺激しないように、急いでスマホをコートのポケットに入れる。
「それ、どうしたの」
 靴を脱いでいると、不機嫌そうな声が聞こえた。
 なにをやらかしたのか、心当たりがない。
「貴方にはそんなものを買うお金はないはずだけど」
 ココアだ。
 取り上げられると思った私は、ココアを背中に隠す。
「学校の友達が、奢ってくれたの」
「あんな学校で友達なんて、やめておきなさい。貴方のためにならない」
 過去に何度か聞いた言葉。
 いつもは聞き流していた。
 なんせ、私には友達と呼べる存在がいなかったから。
 でも今は、できなかった。
 だって佐神君は、私の心を救ってくれた。
「……そんなこと、ないよ」
 震えた声で、初めて反抗的なことを言ってしまった。
 そこからは地獄だった。
 玄関先で聞かされる、耳を塞ぎたくなるような言葉の数々。
 お母さんはこんなことを言うのは、私のためだなんて言う。
 だけど私は、私のために向けられる言葉が、こんなに攻撃的なものではないことを知ってしまった。
 もっと優しくて、泣きたくなるような言葉が、私のために言われた言葉なのだ。
「スマホを出しなさい」
 言いたいことを言い切ったお母さんは、私に手のひらを向けてくる。
 なにをしようとしているのか、わかってしまった。
 だから私は、スマホを出せなかった。
 それが怒りを逆撫でしてしまう行為だとわかっていても、できなかった。
 私はお母さんに奪われる前に自室に逃げ込み、鍵をかける。
 今度こそ迷わず、佐神君の連絡先をタップする。
 佐神君の声が聴きたいところだけど、今電話をすると、お母さんの声まで入ってしまう。
 仕方なくメッセージを打っていく。
『さっきはありがとう』
 そこまでは流れるように打ち込めたのに、その次が定まらない。
 どうしたって、佐神君への感謝の言葉しか出てこない。
 だけど、ここで佐神君との繋がりを切っておかないと、お母さんがなにをするかわからない。
 こんな家族のいざこざに、佐神君を巻き込みたくない。
 そのためには、完全に佐神君との縁を切っておく必要がある。
 それはわかっているのに、上手く言葉を紡げなかった。
『でもやっぱり、私と佐神君は分かり合えないのかなって思ったし、佐神君には頼りたくないから、連絡はこれきりにするね』
 たったこれだけの言葉を打つのに、随分と時間を使ってしまった。
 メッセージを送るには迷惑となる時間だけど、私は震える指先でメッセージを送った。
 そして佐神君から返事が来る前に、佐神君のアカウントをブロック、削除をした。
 もとに戻ってしまった連絡先一覧を見ているうちに、画面が滲む。
 こんなはずではなかった。
 もっと、佐神君と話したかった。
 でもそれはもう叶わない。
 しんどくて仕方ないけど、きっと大丈夫。私には、佐神君の言葉があるから。
「バイバイ、佐神君」
 私の声は、闇に消えていった。