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 塾帰り、私はまたコンビニに立ち寄った。
 この前と同じようにして夜空をみあげる。
 今日はオリオン座は見つからない。
 そういえば明日天気が悪かったな。
 流れ、月を隠す雲を見つめながら思い出す。
「……なにしてんの」
 この呆れたような声に、私は驚かない。
 むしろ、待ち望んでいた。
「こんばんは、佐神君」
 佐神君はため息をつく。
 彼の呆れたような顔だけは、不思議と大丈夫だった。
「依田、この間のこと忘れたの? 夜はそんな治安よくないんだからさ、さっさと帰りなよ」
「佐神君のほうこそ忘れたの? 家は居心地が悪いの」
「……不良少女にでもなるつもり?」
「それも悪くないかもね」
 私らしくない返答だったと思う。
 佐神君は数回瞬きをした。
「……冗談だよ」
 半分は。
 佐神君はじっと私を見つめ、様子を伺っている。
 そしてなにかを諦めた。
「家どこ? 今日は送るよ」
 まだゆっくり話したいのに。
 そう思ったけど、さすがにわがままがすぎるので、ただ言葉に甘えることにした。
 存在することを許されるような、一人でいることが気にならない夜。
 佐神君と歩いていると、もの寂しい思いより、楽しさを感じた。
 これほど心が踊るのは、いつぶりだろう。
 本当、佐神君は不思議な人だ。
 うちの問題児かと思えば優しいし、私に欲しい言葉をくれたし。
 そして自然と、佐神君のことが知りたいと思った。
「佐神君って、どうしていつも授業寝てるの?」
「眠いから」
 その言い方は壁を感じた。
 さすがにまだ心を開くような距離ではないか。
 私が勝手に寄っていっただけ。
 この突き放し方に不満を抱くのは、子供すぎる。
 そうわかっているのに、寂しかった。
「うち、父親しかいないんだよ」
 十分な間のあと、佐神君は独り言のように言った。
「この前話した、頑張りすぎて倒れたのは、父さんの話。中学のころ、俺を育てるために働きすぎて、倒れて入院した」
 ただ知りたいという好奇心のようなもので触れてしまったことに、後悔した。
 家庭事情に触れてほしくない気持ちはわかるはずなのに。
「……ごめん」
「なんで依田が謝るんだよ。てか、普通に今は元気だし」
 佐神君の笑い声が聞こえてくるけど、私からは背中しか見えなくて、なにを感じているのか、察することもできなかった。
「俺としては、これ以上父さんに無理をさせたくなかったから、特待生制度がある今の高校に進学して、バイトしてて。まあ、だから昼間は眠いってわけ」
「特待生……?」
 つい、意外そうな声を出してしまった。
 佐神君は振り向くと、得意そうに口角を上げた。
「これでも学年三位」
 ああ、やっぱり。
 私より頑張ってる人は、たくさんいるんだ。
 私は急に、佐神君のそばにいることが恥ずかしくなった。
「……佐神君は凄いね」
「俺からしてみれば、依田のほうがすごいけど。学年一位をキープし続けて、クラスのことだったり行事だったり、積極的に参加してて」
「そんな当たり前なこと……」
「少なくとも、俺にとっては後者は当たり前じゃないからね」
 たしかに。
「依田からしてみれば、俺が成績残してバイトしてるのが凄いんでしょ? でもそれが、俺にとっての当たり前。どれもこれも、人それぞれなんだよ。みんな頑張ってる。で、俺も頑張ってる。だから互いに尊敬し合える」
 そんな絵空事を言える佐神君が、羨ましかった。
 私は、そう感じられる環境に恵まれなかったから。
 言葉が出てこなくて、再び沈黙が訪れる。
 すると、自販機でなにかを購入する音がした。
 視線を上げると、佐神君が自販機の前にいる。
「はい」
 差し出されたのは、ホットココア。
「……甘いの、苦手って言わなかったっけ」
「そうだっけ。でもこういうときは、意外と甘いものがよくない?」
 佐神君の言う“こういうとき”がわからなかった。
 佐神君は右手の人差し指で、自分の頬を叩く。
 なにかついているのかと思って自分の右頬を撫でるけど、なにもない。
「つらくてしんどいって顔してる」
 そう言われて、思わず顔を背けた。
 視界の端で、佐神君の足が見えなくなる。
 特に突っ込まれなかったことに安堵しながら、また佐神君の背中を追う。
 ときどき道案内をしつつ、歩を進めた。
 手の中にあるホットココアは、この前よりも温かい気がした。
「じゃあ、もう夜にコンビニには立ち寄らないように」
 もう少しで家に着くところで足を止めたと思えば、保護者がするような注意をしてきた。
 子供扱いをされたことはもちろん不服だったし、なにより、この時間が奪われてしまうのは嫌だった。
「依田、スマホ出して」
 佐神君に言われるがまま、スマホをカバンから取り出す。
 佐神君はメッセージアプリの連絡先を表示している。
「どうしてもしんどくなったら、連絡して。これで依田がなんかの事件に巻き込まれでもしたら、寝覚め悪いから」
「……そんなに子供じゃないよ」
 私はそう返しながら、佐神君の連絡先を登録した。
「どうだか」
 佐神君は意地悪く微笑んで、帰って行った。