1

 いつも通り。なに一つ事件が起きない、平和な日々。
 そんな中でも、知らない間にストレスというものは溜まっていくようで。
 今日の私は、家に帰る気力がなかった。
 塾からの帰り、途中にあるコンビニに立ち寄る。
 中に入ったところで買いたいものなんてないから、静かに外に出る。
 暖かい飲み物くらい、買えばよかった。
 そんなことを思いながら、お店のそばにある手すりのようなものに腰かける。
 オリオン座だ。
 あれは満月では、ないか。
 ぼんやりと夜空を見上げ、白い息を吐く。
「お姉さん、一人?」
 声が聞こえてきて視線を下ろすと、知らない男性が二人、私を見ていた。
 どうやら私に声をかけてきたらしい。
「え……」
 状況が飲み込めず、困惑した声が出る。
「こんな時間にここに一人でいるなんて危ないよ」
 さっきまではそんなこと、一ミリも考えていなかったけど、今、こうして声をかけられたことで、危険性を感じた。
 どうやって対処しようか考えているうちに、男性が近寄ってくる。
 店内に逃げ込む。
 それが最善だということはわかっている。
 でも、恐怖心のせいで、身体が動かなかった。
「……なにしてんの」
 新たな声が聞こえ、私は声がしたほうを見る。
 私はその顔を知っていた。
 佐神(さがみ)結人(ゆいと)
 うちのクラスの問題児だ。
 佐神君は、呆れたような、軽蔑したような目で、私たちの状況を見ている。
「委員長ともあろう人が……」
「ちがっ……」
 自分でも、こんな助けを求めるような声が出るとは思っていなかった。
 佐神君は小さくため息をつく。
 私たちに近付いてくると、ジャンパーのポケットに入れていた手を出し、私の右手首を掴んだ。
「残念ながら、この人、あんたたちの期待に応えられるような人種じゃないから」
 そして佐神君は私を引っ張る。
 こわばっていた身体は無理やり動かされ、私はこけそうになりながら、足を動かす。
 少しずつ冷静になっていく頭で、私は、助けを求めてはいけない人に助けられたのではないのかと思った。
「適当に歩いてきたけど、問題なかった?」
 無人の公園に着くと、佐神君は足を止めて言った。
 それまで離す気配のなかった手も、離された。
「……大丈夫。あの……ありがとう」
 これ以上は、踏み込んでこないで。
 そんな願いを込めて、お礼を言う。
「家まで送ろうか?」
 予想外の発言に、私は思わず顔を上げた。
 佐神君は心配そうに私を見ている。
「どうして……」
「だって、手。震えてるから」
 言われて見ると、確かに震えている。
 私は慌てて背中に隠す。
「これは……寒くて」
「へえ」
 まったく信じていないような声。
 だけど、佐神君は私に背を向け、私は勝手に安心する。
 そして離れていったと思えば、自販機で飲み物を買い始めた。
「はい」
 戻ってくると、私に缶のココアを差し出した。
「これ持ってれば、少しは寒さも解消されるでしょ」
 受け取ろうとしない私のコートのポケットに缶を突っ込むと、佐神君はそのまま帰って行った。
 少しだけ重くなった、右ポケット。
 手を入れてみると、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
 それは私の冷え切った指先だけでなく、不思議と心にまで沁みた。
 鼻が痛いのは寒いからなのか、泣きたくなったからなのか。
 自分のことなのに、わからなかった。
 だけど、家に帰りたくないという気持ちが薄らいでいるのは、確かだ。
 ホットココアをカイロ替わりにして、私は帰路に着いた。