推しが卒業する。
私の世界に刺すたった一条の光が、消えようとしている。
どうして卒業してしまうの。
推しのいなくなった世界で、私はどう生きていけばいいの。
桜は永遠に咲き続けないという現実が、未熟な私の心をえぐる。
〈世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし〉
**
劇団から公式発表があったのは1時間前のことだった。
まさか推しの名が「退団者のお知らせ」の中に入っているなど、寝耳に水だった。
推しが、次の公演で、桜花少女歌劇団を卒業する。
生来の美貌と長い手足。
欠点だった歌が日を追うごとに改善されていく、努力の痕跡。
「この子の成長を追いたい」
それは恋でも子供への愛情でもない、不思議な感情だった。
私の目の付け所は良かった。
彼女は次第に大きな役を任され、その期待に応えるようになっていった。
彼女のスター街道はまだまだ続く。
近い将来満開の花を見せてくれる。
そう信じていた。
その矢先、桜は散った。
*
手が震えていた。
なぜこのタイミングで退団をする?
全く理由が見当たらなかった。
人気、実力、美貌、人柄。
何も彼女に足りないところなどないはずだ。
なのに彼女は卒業の道を選んだ。
そのことが私の心を締め付けた。
悲しみのあまり夕食もろくに喉を通らない。
まさか、劇団からの肩たたきか。
そんなはずはあるまい。
彼女のグッズはいつだって即完売だった。
ブロマイド、カレンダー、フォトブック。
劇団にとっても彼女の退団は惜しいはず。
タイムラインは春の嵐だった。
公式から卒業の理由が明かされるわけではないから、たかが一ファンが事情を知るはずがないのに、私は自分を納得させてくれる「卒業理由」を探して、タイムラインをスワイプし続けた。
――劇団は同期の実力派をトップにするつもりだ。
――一期下のスターこそ将来のトップ。
――本当のところ実力などなかっただけ。
――彼氏とのデートが何度も目撃されているので寿退団では。
――外部の劇団からスカウトがあったそうだ。
――先輩からのパワハラを受けていた。
――逆に後輩にパワハラをしていたらしい。
真偽不明の「卒業理由」に、吐き気を催しそうだった。
怒りのあまり、目には涙が浮かんでいた。
誰もかも「きっとこうだ」とは本当には思っていなかった。
「こうであったなら面白い」という無責任な人間の欲望が肥溜めを作っていた。
顔の見えない誰かのそれぞれの欲望にまみれた投稿。
推しという聖なる存在を汚す不純な憶測が、じわじわと私の体と心を蝕んでいく。
「推しの卒業」という私にとっての悲劇は、他人にとっての喜劇=娯楽のネタでしかなかった。
タイムラインには仲間しかいないと思っていた。
こんな手のひら返しを受けるなんて、思いもしなかった。
こういう事態を生んだ劇団に、怒りを覚えていた。
だけど、一番腹を立てたのは、そういうことに気づかない愚かな自分にだった。
探しても考えても分からない。
どうして彼女が卒業するのか。
あるいは卒業しなくてはいけないのか。
食事が喉を通らず、学校にも行けない日が続き、私は思った。
もう歌劇団を応援するのをやめよう。
こんな報われない思いをさせる劇団なんて、推す価値がない。
あんなに人気だった彼女が仮に辞めたいと言ったって、引き留めるのが劇団の責任ではないか。
そんなことさえできない劇団など推したって意味がない。
そもそも彼女以外に推しているスターなんて一人たりともいない。
歌劇を見に行くこと自体やめてしまうべきだ。
全部、捨てた。
公演のパンフレット、DVD、フォトブック、ブロマイド、カレンダー……部屋中に飾っていたポスターも全て剥がした。
真っ白になった部屋は、私の心そのものだった。
「リスクを分散していないあなたが悪い」
S美はすっかり痩せて登校した私を笑った。
「推しの怪我、卒業、スキャンダル、公演中止に備えて、推しのリスク分散をするのは当然のこと」
S美が無節操な推し活をしている理由が飲み込めた。
それまではただの浮気女だと内心見下していたのだが。
「一緒にやろうよ。ローリスク推し活」
こうして私は安易にローリスク推し活に身を染めた。
歌劇団と推しのことが忘れられるなら、何だって良かった。
男性アイドル、韓国アイドルグループ、アニメ、声優、歌舞伎役者。
グッズ購入、ライブ参戦、聖地巡礼、コラボカフェ巡り。
……無節操に、あらゆるジャンルに手を染めた。
SNSのアカウントも複数を使い分けた。
烏賊の手足も借りたいほどだった。
完全な自暴自棄でしかなかった。
そのいずれも、私の真っ白な部屋の壁を的確に埋めてはくれなかった。
ぽっかり空いた穴は、穴のまま存在していた。
二ヶ月経って、私は全てのSNSアカウントとグッズを消した。
もう無気力だった。
推し活が疲れるものだと思ったことは人生で一度もなかったのに。
虚無感が波のように押し寄せ、私は身動きできなくなっていた。
私は誰も推せない。
たった一人を除いては。
気づけば頬を冷たい露が伝って落ちていた。
私にとっての推しは、彼女だけだった。
彼女は、だらだらと切れ目なく退屈に続く日常に、節目を作ってくれた。
公演期間に観劇日、誕生日、お茶会、グッズ発売日、動画配信日――挙げればきりがないけれど、どの日も全てカレンダーに丁寧な字で書き込んだ。
とても彩りのある節目たち。
そこに新たに加わった節目。
――卒業。
その日をカレンダーに書き加えることが怖くて、まだできていなかった。
私はペンを取り出し、カレンダーにくっきりと丁寧に書き加える。
新たな節目。
旅立ちの日。
その日はひときわ輝いて見えた。
そうか。
推しが輝いて見えた理由がやっとわかった。
卒業という終わりがあるからこそ、推しはいつも輝いていたのだ。
何事も終わりがあるからこそ、美しい。
去り際、散り際は尚のこと。
私はカレンダーに無作為に印を刻んだ。
法則もなく、意味もなく。
それらを私は「私の卒業予定日」と心の中で呼んでみた。
私も、卒業するのだ。
例えば料理のできない私から。
つい空気を読んでしまう私から。
部屋をなかなか片付けない私から。
臆病な私から。
……何だっていい。
卒業すべき私はたくさんある。
そして卒業は同時に、スタートを意味する。
例えば、料理に挑戦する私の始まり。
自分の意志を大事にする私の始まり。
物を大切にする私の始まり。
大胆な私の始まり。
そんな「私」はどれも輝いて見える。
推しが周囲の期待に関わりなく、自分の意志で自分の卒業日を決めたように、私も決める。
私の人生にしかない、誰にも祝われない密やかな「卒業日」。
新たな人生の始まりの日を、私はカレンダーに刻んだ。
私の世界に刺すたった一条の光が、消えようとしている。
どうして卒業してしまうの。
推しのいなくなった世界で、私はどう生きていけばいいの。
桜は永遠に咲き続けないという現実が、未熟な私の心をえぐる。
〈世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし〉
**
劇団から公式発表があったのは1時間前のことだった。
まさか推しの名が「退団者のお知らせ」の中に入っているなど、寝耳に水だった。
推しが、次の公演で、桜花少女歌劇団を卒業する。
生来の美貌と長い手足。
欠点だった歌が日を追うごとに改善されていく、努力の痕跡。
「この子の成長を追いたい」
それは恋でも子供への愛情でもない、不思議な感情だった。
私の目の付け所は良かった。
彼女は次第に大きな役を任され、その期待に応えるようになっていった。
彼女のスター街道はまだまだ続く。
近い将来満開の花を見せてくれる。
そう信じていた。
その矢先、桜は散った。
*
手が震えていた。
なぜこのタイミングで退団をする?
全く理由が見当たらなかった。
人気、実力、美貌、人柄。
何も彼女に足りないところなどないはずだ。
なのに彼女は卒業の道を選んだ。
そのことが私の心を締め付けた。
悲しみのあまり夕食もろくに喉を通らない。
まさか、劇団からの肩たたきか。
そんなはずはあるまい。
彼女のグッズはいつだって即完売だった。
ブロマイド、カレンダー、フォトブック。
劇団にとっても彼女の退団は惜しいはず。
タイムラインは春の嵐だった。
公式から卒業の理由が明かされるわけではないから、たかが一ファンが事情を知るはずがないのに、私は自分を納得させてくれる「卒業理由」を探して、タイムラインをスワイプし続けた。
――劇団は同期の実力派をトップにするつもりだ。
――一期下のスターこそ将来のトップ。
――本当のところ実力などなかっただけ。
――彼氏とのデートが何度も目撃されているので寿退団では。
――外部の劇団からスカウトがあったそうだ。
――先輩からのパワハラを受けていた。
――逆に後輩にパワハラをしていたらしい。
真偽不明の「卒業理由」に、吐き気を催しそうだった。
怒りのあまり、目には涙が浮かんでいた。
誰もかも「きっとこうだ」とは本当には思っていなかった。
「こうであったなら面白い」という無責任な人間の欲望が肥溜めを作っていた。
顔の見えない誰かのそれぞれの欲望にまみれた投稿。
推しという聖なる存在を汚す不純な憶測が、じわじわと私の体と心を蝕んでいく。
「推しの卒業」という私にとっての悲劇は、他人にとっての喜劇=娯楽のネタでしかなかった。
タイムラインには仲間しかいないと思っていた。
こんな手のひら返しを受けるなんて、思いもしなかった。
こういう事態を生んだ劇団に、怒りを覚えていた。
だけど、一番腹を立てたのは、そういうことに気づかない愚かな自分にだった。
探しても考えても分からない。
どうして彼女が卒業するのか。
あるいは卒業しなくてはいけないのか。
食事が喉を通らず、学校にも行けない日が続き、私は思った。
もう歌劇団を応援するのをやめよう。
こんな報われない思いをさせる劇団なんて、推す価値がない。
あんなに人気だった彼女が仮に辞めたいと言ったって、引き留めるのが劇団の責任ではないか。
そんなことさえできない劇団など推したって意味がない。
そもそも彼女以外に推しているスターなんて一人たりともいない。
歌劇を見に行くこと自体やめてしまうべきだ。
全部、捨てた。
公演のパンフレット、DVD、フォトブック、ブロマイド、カレンダー……部屋中に飾っていたポスターも全て剥がした。
真っ白になった部屋は、私の心そのものだった。
「リスクを分散していないあなたが悪い」
S美はすっかり痩せて登校した私を笑った。
「推しの怪我、卒業、スキャンダル、公演中止に備えて、推しのリスク分散をするのは当然のこと」
S美が無節操な推し活をしている理由が飲み込めた。
それまではただの浮気女だと内心見下していたのだが。
「一緒にやろうよ。ローリスク推し活」
こうして私は安易にローリスク推し活に身を染めた。
歌劇団と推しのことが忘れられるなら、何だって良かった。
男性アイドル、韓国アイドルグループ、アニメ、声優、歌舞伎役者。
グッズ購入、ライブ参戦、聖地巡礼、コラボカフェ巡り。
……無節操に、あらゆるジャンルに手を染めた。
SNSのアカウントも複数を使い分けた。
烏賊の手足も借りたいほどだった。
完全な自暴自棄でしかなかった。
そのいずれも、私の真っ白な部屋の壁を的確に埋めてはくれなかった。
ぽっかり空いた穴は、穴のまま存在していた。
二ヶ月経って、私は全てのSNSアカウントとグッズを消した。
もう無気力だった。
推し活が疲れるものだと思ったことは人生で一度もなかったのに。
虚無感が波のように押し寄せ、私は身動きできなくなっていた。
私は誰も推せない。
たった一人を除いては。
気づけば頬を冷たい露が伝って落ちていた。
私にとっての推しは、彼女だけだった。
彼女は、だらだらと切れ目なく退屈に続く日常に、節目を作ってくれた。
公演期間に観劇日、誕生日、お茶会、グッズ発売日、動画配信日――挙げればきりがないけれど、どの日も全てカレンダーに丁寧な字で書き込んだ。
とても彩りのある節目たち。
そこに新たに加わった節目。
――卒業。
その日をカレンダーに書き加えることが怖くて、まだできていなかった。
私はペンを取り出し、カレンダーにくっきりと丁寧に書き加える。
新たな節目。
旅立ちの日。
その日はひときわ輝いて見えた。
そうか。
推しが輝いて見えた理由がやっとわかった。
卒業という終わりがあるからこそ、推しはいつも輝いていたのだ。
何事も終わりがあるからこそ、美しい。
去り際、散り際は尚のこと。
私はカレンダーに無作為に印を刻んだ。
法則もなく、意味もなく。
それらを私は「私の卒業予定日」と心の中で呼んでみた。
私も、卒業するのだ。
例えば料理のできない私から。
つい空気を読んでしまう私から。
部屋をなかなか片付けない私から。
臆病な私から。
……何だっていい。
卒業すべき私はたくさんある。
そして卒業は同時に、スタートを意味する。
例えば、料理に挑戦する私の始まり。
自分の意志を大事にする私の始まり。
物を大切にする私の始まり。
大胆な私の始まり。
そんな「私」はどれも輝いて見える。
推しが周囲の期待に関わりなく、自分の意志で自分の卒業日を決めたように、私も決める。
私の人生にしかない、誰にも祝われない密やかな「卒業日」。
新たな人生の始まりの日を、私はカレンダーに刻んだ。