『未完成だから』


 柴谷の言葉を聞いてから、一ヶ月が経った。相変わらず朝と昼食は一緒に過ごしているけれど、写真の話はいっさいしない。

 それと、わたしの過去の話も。


 放課後、わたしは学校に残ることにした。放課後も活動をするらしい柴谷についていく。どうしても知りたいことがあって、いい加減逃げてきたことに向き合おうと思ったから。

 もうすぐ桃色へと変わりそうな空のしたで、目の前で揺れる柴谷の髪を見つめていた。


 乾いた唇を舐めて、深呼吸をひとつ。大丈夫、わたしなら、だいじょうぶ。


「ねえ柴谷」


 ん、と小さな返事を寄越した柴谷は、ぼんやり空を眺めていた。最近、柴谷はカメラを持たなくなった。わたしが来た時には使っているふうな素振りを見せるけれど、構える回数が格段に減った。

 どうして、ときければいいのだけれど、この前踏み込みすぎた前例があるのでなかなか難しい。


「わたしね、もう知ってるの。自分がどうして記憶を失ったのか」


 わたしの言葉をきいた柴谷は、何も言わないで、目を静かに見開いた。


 文化祭のあと、両親にすべてを話した。押し入れを開けたこと、自殺しようとしたと分かったこと、学校で自分の絵を見たこと、柴谷や夕映ちゃんと会っていること。それを踏まえた上で、詳しい説明をしてもらった。


 色々な専門用語が出てきて頭がパンクしそうになったけれど、簡略化すると、人間関係でたまったストレスと自殺における脳への負担によって記憶がとんでしまったのだという。


 その過程で、絵を描く特技についても忘れてしまったと。


「わたし、絵を描くことがストレスだったのかな」


 どうして記憶を失う必要があったのか。絵に関することで大きな衝撃があったのだろうか。その謎がまだ解決していない。


「教えてほしい。あの日、何があったのか。わたしが自殺した日、わたしが生まれたあの日。いったい何があったのか教えて、柴谷」



 詰め寄ると、わざとらしく視線を外した柴谷は小さく首を振った。



「知る必要ねえよ」
「未完成の理由が知りたいの。やっぱり、ずっと未完成なのは嫌だよ。柴谷の力になりたい。だから、未完成の理由を教えてほしい」




 わたしはずっと、逃げてばかりだった。周囲の視線を気にして、息苦しい世界を生きていた。
 だけど、そんな自分から変わりたい。

 過去に向き合う。それは決して簡単なことではないけれど、何も知らないまま、わたしと関わってくれた人たちの想いも記憶から消してしまったままなのは嫌だ。


 目を伏せた柴谷は、ため息を吐いた。
 それから何度か呼吸を整えて、透明な瞳に光を宿す。それは、どこか遠い場所を見つめていた。






「コンテストに出すはずだったんだ。俺と葉瀬の……合作で」



・・





 俺の第一声は、あまりにも腑抜けた声だった。


「盗作……?」


 美術部顧問は、俺と葉瀬の挑戦を心から応援してくれていた。あと少しで完成。ふたりでつくりあげた最高傑作。これなら、自信を持ってコンテストに応募できる。

 そんなふうに思っていた矢先だった。彼女から記憶が抜け落ちてしまったのは。

 あとになって俺はようやく、葉瀬が複数の女子からいじめを受けていたことを知った。


「これを見てほしい」


 美術部顧問から見せられたのは、インターネットの記事。【イラストコンテスト】とシンプルだが大規模なコンテストで、大賞をとっていたのは紛れもなく葉瀬の絵だった。俺との合作というかたちで出すはずの絵だった。色塗りはまだされていない、いわゆる下書きの状態。だが繊細なタッチが魅力的で、才能を放っていた。


 初めは、葉瀬がこっそり自分だけのコンテストに応募したのかと思った。俺と合作にするのではなく、自分の力だけで試してみたかったのだと。けれど受賞者の名前がまったくの別人だと気づいた時、身体から力が抜けていくような感覚がした。



「なんで、これ。まだどこにも出してないのに」


 どうしてこんなにそっくり描けるんだ。偶然なはずがない。


「そう思ってすぐに問い合わせてみたら、受賞した子が吐いたよ。ネットから盗作したって」
「ネットから?」
「なんの拍子か知らないが、たまたま葉瀬の絵を見つけたらしい」



 葉瀬は絵をあげていた?
 どこでどんな扱いをされるか分からないネットに?

 それは少し……いや、かなり無責任じゃないか。自分だけの作品ではないのに。



『ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ』

『この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから』



 すぐに、そんなはずはないと思い直す。俺が知っている葉瀬紬は、決してそんなことしない。



「これが見つかったのは、コンテストに出す二日前。君との合作を本当に楽しみに、本気で取り組んでいたからこそショックが大きかったんだろうな」
「それで葉瀬は……」
「創作者にとって、盗作というのは命を奪われるのと同義だ。自分が魂を込めて生み出した一作を盗られるというのは、それくらい大きな影響を与える。他者が、たとえ軽い気持ちでやったことだとしても」


 顧問は瞑目して天を仰いだ。


「今やネット社会だ。海のように広い。一度広まれば戻ってこない。彼女はきっと、そんな世界に君との宝物が放り出されたことに責任を感じたんだろうな」
「葉瀬は何も悪くないのに」
「彼女の絵は、彼女の心だ。繊細で、傷つきやすくて、儚くて。言葉にできない彼女の想いが、すべて込められているはずだから」



 以前、『きみがずっと言えなかったこと』というテーマのコンテストで受賞した彼女の絵を見たことがある。顧問の言うとおり、本当に繊細な絵だった。その絵を見た瞬間から、俺は改めて彼女の絵の虜になった。


 絵描きなら絵で。物書きなら文字で。写真家なら写真で。

 それぞれの作品には、すべてに作者の想いが込められている。だからこそ、たくさんの人の心を打つのだ。



 望まぬ形で評価されてしまった絵。どうあがいても間に合わない事実に、彼女は絶望したのだろう。



 いじめを受けていながら常に笑っていた彼女が、唯一我慢できなかったこと。彼女を死へと追い詰めた出来事。
 それは、俺と描いた夢をかき消されることだったのだ。



 いったいどこから葉瀬の絵が漏れたのか。俺はその真相を突き止めることにした。

 記憶をなくした葉瀬と迎えた新学期。葉瀬の記憶について担任から知らされたとき、明らかに動揺していた人物がひとりいた。



 葉瀬紬が自殺をはかった。

 そんな珍しき事実は、噂として広まるのにたいした時間はかからなかった。広いようで狭い町だ。同じ高校内だけでなく、他校の高校や中学にまでも噂が流れたのだろう。

 だから表向きに言われている『記憶喪失』という言葉の裏には、『自殺未遂』という意味が隠されていることを、ほとんどの生徒は知っている。



 俺はすぐにそいつを呼び出した。放課後、空っぽになった教室に。



「……お前がやったのか」


 何をという部分がなくとも、察したようにうつむいたところで理解した。間違いない。



 赤坂燈。
 その名を持つ人物が、この泥臭い出来事のすべての黒幕だった。


「こんなに大事になるなんて思わなくて。葉瀬さん、ちょっとムカつくから恥ずかしい思いすればいいなくらいの気持ちだったの」


 赤坂は顔を真っ青にしながら必死に訴えてくる。



「そんなに大事な絵だと思わなくて。たまたまノートに描いてあるのを見つけて、少しだけ恥ずかしい思いをさせようと思って裏垢に写真をあげただけ。まさかこんなことになるなんて知らなかった」


 目に涙をいっぱいためている赤坂には、同情のかけらすら生まれなかった。
 赤坂は首を振りながら、消えそうな声で言葉を紡いだ。


「鍵垢だったし、フォロワーも少ないから本当に身内だけで共有をーー」
「黙れよ」



 赤坂は息を呑んで、ぐっと口を閉じた。


 自分ではない誰かのために怒るというのは、そこに必ず愛があると思う。その「誰か」のことを守りたい。「誰か」のために思いをぶつけたい。

 自分がどう思われたとしても構わないから、自分はこの人のために腹を立てて、怒りたい。怒鳴って、相手に嫌われてでも守ってやりたい。



 葉瀬紬は俺にとって、たったひとりのそんな存在だった。



「お前の軽率な行為で、葉瀬はあんなことになったんだ。この期に及んで許されようとしてんじゃねえよ」
「それは……」
「第一、ムカつくってなんだよ。アイツがお前に何かしたのか? 聞いたよ全部。お前が葉瀬をいじめていたことも」



 なんで言わなかった。
 なぜ、気づけなかった。



 過去の俺は、いったい彼女のとなりで何をみていたんだ。




「私、葉瀬さんがずっと嫌いだったの。憎かった」


 息を吸った赤坂は、覚悟を決めたように俺に向き直った。もう言い訳を並べることはやめたらしい。



「柴谷くん、私には何もしてくれなかったじゃない! 葉瀬さんばかり気にかけて、ちっとも私のほうを向いてくれなかった。私はずっとずっと、柴谷くんのことだけを見ていたのに」



 赤坂の目は俺をまっすぐにとらえていた。こうしてちゃんと目を合わせたのは、これがはじめてだった。



「ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの。葉瀬さんがあんなことになったのは、全部柴谷くんのせいだか────」
「わかった」



 これ以上、話し合っても何も生まれないということも。赤坂に反省の色が浮かぶことなど、この先ないということも。
 俺が、葉瀬より赤坂を選ぶことなどあり得ないということも。


 すべて、わかった。




「俺のせいでいいよ。全部なすりつけていい。そのかわり、今後アイツに近づいたときには俺、容赦しないから。全力でアイツのこと守るから」
「え……?」
「今度は絶対傷つけさせない」




 決意を固める。喉元が熱くなる。
 脳裏に、記憶を失ったあとの葉瀬の顔が浮かんだ。青白く、消えそうで、この世の終わりみたいな顔をしていた。周囲の奴らがみんな初めましての環境にひどく怯えているようだった。




「私……私ね、柴谷くんのことが」



 伝える資格すらない言葉を赤坂が発する前に、スマホを目の前に差し出した。

 黙れ、と。言葉ではなく行動で示す。





『ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの』






 再生中、と表示されている画面を見ながら、赤坂は呆然と立ちすくんでいた。視線は一点に集中している。




「これ、バラされたくなかったらもうアイツには近づくな。本当は同じようにネットにばら撒いてやりたいよ。でも、そんなことをしてもきっとアイツは喜ばないから」



 葉瀬はそんなこと望んでいないはずだから。


「お前が葉瀬にどんなことをしたのか、話せばお前の立場は間違いなく崩れる。この通り、証拠もとった」
「やめて! そんなことされたら私……」
「俺は優しいから。アイツに見えている通りの俺でいたいから。だから葉瀬にいっさい近づかないと約束するなら、これはどこにも晒さない。ただし、何かあったらいつでも晒しあげる準備はできてる」




 赤坂は悔しげに唇を噛んでうつむいた。彼女の長い髪が垂れて、その顔に影をつくる。



「赤坂。嫌われてもいいと、傷つけてもいいは違う」



 赤坂はハッと顔をあげる。その目には大きな涙が浮かんでいた。



「俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない」



 分かりきったことをわざわざ伝えようと思ったのは、自分の意思をはっきりとさせるためだった。そして、このくだらない茶番に終止符を打つためでもあった。


 赤坂は頬を濡らして教室を出ていく。生ぬるい風が髪を揺らした。





 ーー助けて。
 俺は、その言葉が聞きたかった。

 頼ってほしかった。会いにきてほしかった。すべてひとりで決めてしまう前に。



 俺はずっと、決定打を探していた。
 彼女に告白しようと、もっと距離を縮めたいと思える出来事を。

 自分に自信がついて、常に笑っていた彼女にふさわしい自分になれるように。



 ーー助けて。
 言葉をあげて、俺に悩みを打ち明けてくれる。助けを求めてくれる。
 俺のことを、信じてくれる。


 胸の内に秘めた、本当の葉瀬紬。




 俺はいつも、そんなキミを探していた。








・・



「柴谷は……わたしのことが好きだったんだね」


 気付けば頰が濡れていた。これは誰の涙なのか分からない。

 わたしのもの?
 それとも以前の葉瀬紬のもの?



「今の言い方は語弊があるね。正確には、昔のわたしが、好きだったんだね」


 明るくて、前向きで、彼を引っ張って光ある方へと導いてくれるような。絵が得意で、打たれ強くて、繊細な人の気持ちがわかるような。結局はみんな、以前の葉瀬紬が好きなのだ。



 過去を受け止めるつもりで、彼からの言葉を待った。それなのに、思っていたよりも衝撃が大きくて。

 どうして、こんな気持ちになるんだろう。


 彼が好きなのは昔の葉瀬紬。
 その事実を改めて認識するたびに、苦しくて無性に泣きたくなる。



 わたしは本物の葉瀬紬にはなれない。

 わたしはきみにはなれないよ、紬。



 こんなわたしじゃ、彼のとなりにふさわしくない。並べない。
 わたしはやっぱり誰からも求められていない。それが痛いほど分かって、苦しかった。



「教えてくれてありがとう、柴谷」



 これ以上彼の顔を見ていると、涙が止まらなくなってしまうような気がした。


 どうして、どうして。あんなに自分を強く持とうと決めたじゃないか。それなのに、どうして今揺らぐ必要がある。

 悔しい。
 わたしは、わたしに勝てない。

 どんなにあがいても、昔のわたしには勝てやしない。



ーー前はもっと明るかったのにね。
ーーすっかり変わってしまったね。




 変わってしまう前のわたしは、みんなの話を聞く限りとても魅力的で。どうしても今の自分と比べて、落ち込んでしまう。



「美術準備室にカメラ。ずっと不思議だったけど、昔のわたしがよく使ってた部屋だからでしょ」
「……」
「入るね」



 あれだけ頑なにダメだと言っていた柴谷は、今日は何も言わなかった。足を踏み入れると、どこか懐かしい特有のにおいが鼻をつく。

 画材がたくさん並んでいた。完成した作品も、何作か飾られていた。



【葉瀬紬】

 すみのほうにつくられたコーナー。そっと棚から引き出してみると、美術部展示でみたような繊細なタッチだった。わたしはこの絵で、いったい何を伝えたかったのだろう。


ーーわたしには、やっぱりきみの気持ちなんて分からないよ。紬。


「……葉瀬」
「わたしには分からない。ごめんね、約束を果たしてあげられなくて。こんなわたしじゃ何もできないから、柴谷のこと応援する資格すらないんだ」


 ああ、また自己嫌悪。
 彼と出会って変われたはずなのに、変われたと思っていたのに、実際は暗く深い場所を彷徨っているだけ。




「逃げるなよ、葉瀬」



 美術準備室から飛び出そうとした腕を掴まれる。
 逃げるなって、なに。透明な目で見つめられて、途端に逃げ出したくなる。自分の気持ちがぐしゃぐしゃになって、自分自身でもよく分からなくて、涙があふれだした。


 わたしはもう前のわたしとは違う。

 結局過去を知ったことで自分を苦しめて、あてもなく彷徨いながら後悔して生きていくんだ。昔の自分に謝りながら、周囲の人を跳ね除けて。



 過去の出来事を知るのはこわくない。だけど、過去の自分を知るのはこわかった。過去の自分がすぐれていればすぐれているほど、今の自分の存在価値を見失う。



「わたし……帰るね」



 柴谷はもう何も言ってこなかった。追いかけてくる足音もない。



 今のわたしが、過去のわたしより優れているところはなんだろう。どうやったら、過去の自分を越えられるんだろう。

 過去を知ったその先で、柴谷が支えてくれるだろうと勘違いしていた。彼が支えたいと思っているのは、会いたいと願っているのは、前の葉瀬紬なのだから。

 決してわたしじゃない。








 家に帰って廊下を歩いていると、急に母が現れた。対面して視線が絡んだその瞬間、母はわたしの名前を呼んだ。


「紬」
「え?」
「なにかあったね」


 問いかければ大丈夫だと答えると思ったのか。母は断定するように言葉を発した。



「お母さんね、ずっと紬に渡さなきゃいけないものがあったの」


 母は寝室に姿を消し、それからしばらくしてひとつのキャンバスを抱えて戻ってきた。大切そうに抱えられたそれは、美術部のわたしなら見飽きたほど見てきたであろうもの。


「本当は遺書と一緒にこれも見つかっていてね。最初はお母さんたちから柴谷くんに渡そうと思ったんだけど、それはやっぱり違うんじゃないかって。これは、紬から渡すべきだと思ったの」



 両親が遺書や画材を押し入れに隠していたのは、それらを捨ててしまえば昔のわたしが生きた証が完全に消えてしまうような気がしたからだと言っていた。名残惜しくて捨てられなかった、と。

 遺書、画材、それらが押し入れから見つかったとき、柴谷にあてたものが何もないことに違和感を覚えていた。
 遺書に書かれていた追伸は柴谷に宛てたものだとしても、彼へ残す想いはたった一文だけで割り切れてしまうものなのかと。



『そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね』




 柴谷の記憶の中で、わたしはこんなことを言っていた。
 来年の冬渡したいもの。以前のわたしがずっと準備していたもの。


 だけど渡せなかったもの。




 じっとそのキャンバスを見つめる。

 ずっと考えていた。わたしが生き延びてしまった理由を。

 残された人生で、空っぽになってしまった人生で、わたしは何ができるのかを。





「……実はお母さんが早起きした日の前日に、柴谷くんと偶然会ってね。そのときに言われたの。朝ごはん、一緒に食べないんですかって」
「え」
「だめね、お母さん。紬はお母さんと一緒にいるのが嫌なんじゃないかって思って、距離を詰めようとしなかったの。紬の本当の気持ちを聞かないまま、勝手に決めつけて」



 とある朝の会話が思い起こされる。


『お前はどうしたいわけ?』
『一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい』



 たしかあのとき彼は「ふぅん」と適当な相槌を打っていた。だからてっきり、聞いていないと思っていたのに。

 母とわたしの間にある壁を取り壊すきっかけをくれたのは、彼だったんだ。

 わたしの知らないところで、彼はいつも、わたしを助けてくれていた。
 もう一度、前を向いて進み出せるように。



「ねえ、お母さん」



 毎日自分を嫌いになって、消えたいと願って、以前のわたしに申し訳ないと謝って。
 変わってしまった自分を恨みながら、生きていく意味を探していた。



 だけど彼は。

 ちゃんと今のわたしを見てくれていた。





 ーー好きだ。
 わたしは、柴谷のことが。

 だからこんなにも苦しくて、泣きそうになってしまうんだ。彼がわたしを通して過去の葉瀬紬を見るたびに、胸が締め付けられて息ができなくなる。


 彼の瞳にずっと映っていたい。
 わたしだけを映してほしい。



 この感情を恋と呼ぶのなら。


ーーわたしは君に、恋をしている。





「わたし、今から出かけてきてもいいかな」



 わたしは、以前のわたしが言えなかった気持ちを、伝えられなかった想いを彼に届けるために、この世界に生まれた。十七歳の誕生日、すべてに絶望した日にわたしの人生は始まった。



「気をつけていってらっしゃい。紬」



 過去のわたしは、柴谷のことが好きだった。柴谷も、過去のわたしのことが好きだった。

 ずっと言えなかった過去のわたしの気持ちを、今度は今のわたしが伝えにいく。




 繊細なタッチで描かれた絵の中で、柔らかく笑う柴谷を見つめた。

 突き刺すような部分はいっさいなくて、ただただ優しさが溢れている絵だった。以前の葉瀬紬には、彼がこんなふうに見えていたんだろう。



 キャンバスを持って、家を飛び出す。


 会いたい。柴谷に会いたい。
 この作品を、想いを、彼に届けたい。




 わたしが死ななかった理由。こうして生命を繋いだ理由は、きっと。









「柴谷!」


 もしかしたら、まだ学校に残っているかもしれない。そんな考えで学校に戻る。

 運動部はまだ活動をしている時間で、その可能性はじゅうぶんにあった。
 けれどもう、柴谷はいなかった。美術準備室までくまなく探したけれど、そこに柴谷の姿はなかった。

 かわりに、いつもあるはずのカメラがなくなっている。ここ最近写真を撮らなくなった彼が、どこかでカメラを構えているのだろうか。




 足早に廊下を歩いていると、角からいきなり現れた人物とぶつかりそうになる。それが誰なのかを認識したとき、思わず息を呑んだ。


「赤坂さん……」



 赤坂燈。記憶を失ってからは一度も関わったことがないけれど、以前のわたしを追い詰めた張本人。事実を知ってからだと、見る目がガラッと変わってしまう。


「その反応、もしかして思い出した?」



 いぶかしげに眉を寄せた赤坂さんに「違います」と首を振った。


「記憶は戻ってないです。でも、以前のわたしが何をされたのか、それはききました」
「……そう」
「正直、怒っています」


 過去の話を聞いたとき、いちばんに浮かんできた感情は怒りだった。彼女は過去のわたしを苦しめた。その事実はこれまでも、これからも変わることはない。



「以前のわたしは、間違いなくあなたのせいで死まで追い詰められた。柴谷との夢を壊されたまま」
「……ええ」
「すごく苦しかった。結果的に生命は助かったとしても、記憶を失うことになるほどの出来事だった」


 そうして、わたしがうまれた。
 赤坂さんのせいで過去のわたしは消えてしまったけれど、赤坂さんのおかげで今のわたしは生まれたのだ。

 息を吸う。
 肺いっぱいに空気が満たされるのを感じる。


「死ぬまでのわたしは、ずっと自分の気持ちを隠したままだった。誰にも助けを求められないまま、笑顔を貼り付けて。でも今のわたしは違うから。以前のわたしが叶えられなかった夢を、今度はわたしが叶えてみせる」



 柴谷と、一緒に。




「それに赤坂さんの気持ち、今なら少しは分かるから。もちろん嫉妬でその対象を傷つけるのは許されちゃいけないことだよ。でも、柴谷は昔の葉瀬紬しか見えてないから。柴谷が好きなのはわたしじゃないから。それが悔しいし、羨ましい」


 好きな人の好きな人。いくら憧れてもまったく手の届かないその場所で笑っている姿を見るのは、当然苦しい。



「だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ」



 人間は完璧じゃない。長所も短所もそれぞれが持っているから、時にぶつかり合いが生じることだってある。

 だけどそのたびに言葉を交わして、行動で示して、一緒に前に進んでいくことができたら。そしたらぶつかり合う前よりも、お互いのことを知ることができる。

 そうやって、わたしたちは生きていくしかない。


 だってわたしたちは、未完成なのだから。




「……やっぱり、あなたには勝てないわ。何も変わっていないもの」
「え?」
「柴谷くんが好きなのは、いつまで経ってもあなたなんだと思う。悔しいけど、ほんとに何も変わってない。以前のあなたも今のあなたも、すごく強くて敵わない」



 泣きそうな顔で笑った赤坂さんは「柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ」と助言を残して去っていった。






 柴谷はどこにいるんだろう。彼の行動範囲など知らない。
 必死に記憶を手繰り寄せる。柴谷が話してくれた過去に、何か手がかりはないのか。


 焦って飛び出したからスマホは持っていない。連絡手段を断たれてしまった今、わたしにできることは勘にかけるよりほかなかった。



 カメラを持ち出した柴谷は、いったい何を撮ろうとしていたんだろう。柴谷の過去とカメラが関係する場所。


 それはーー。





 薄く広がる淡空のした。
 柴谷と葉瀬紬が出会った場所。わたしが何の気なしに訪れていた公園は、実は彼との思い出の場所だったのだ。
 ザイルクライミングが視界の端に見える。


 花びらも葉もない桜のそばでたたずんでいる柴谷に駆け寄ると、彼は驚いたようにこちらを向いた。その手にはしっかりとカメラが抱えられている。



「これを、柴谷に渡したくて。ごめんね、途中で逃げ出したりして」


 切れそうな息のまま、柴谷に絵を差し出す。その絵を静かに見つめた彼は、そっと瞳の奥を緩ませた。



「約束、ちゃんと果たしてくれたんだな」


 その言葉は、わたしへの言葉ではなかった。

 来年の冬、と交わされた約束を。守れなくてごめんね、と記された約束を。
 ちゃんと果たし抜いた、ここにはいない葉瀬紬へと贈られた言葉だった。



「ありがとう、葉瀬」
「きっとね。昔のわたしは、柴谷のことが好きだったんだよ。この絵を見たら分かると思うけど、本当に、好きだった」



 やっと、言えた。
 ーーきみが直接言えなかったこと、伝えてあげられたよ。


 ねぇ、過去のわたし。

 きみがずっと言えなかったこと。
 ちゃんと彼に届いてるよ。


 柴谷は目を細めた。彼の透明な瞳に、もっと透明なものが光っている。柴谷は空を見上げて、そっと目を閉じた。

 それから小さく息を吸って、もう一度その瞳にわたしを……否、あたし(・・・)を映す。


「俺も……好き、だった」


 気づけば頬が濡れていた。
 柴谷から紡がれる繊細な言葉と、そこに込められた想いに、心が震えて涙が止まらなかった。




 昔のわたしと柴谷の想いが通じ合った。今はそれだけでよかった。

 今のわたしの気持ちなんて、伝えるべきじゃない。




 だから、わたしが言えることは。
 今、彼に言いたいことは。



「でも、過去のわたしはもういないから。ここにいるのはまったく違うわたし」


 ぎゅっと拳を握り締める。まっすぐに柴谷の目を見つめた。
 柴谷は呼吸を合わせて、わたしの言葉を待ってくれている。




「だからもう一度、挑戦しよう。柴谷」




 その瞬間、柴谷の目が見開かれた。
 優しい風がわたしたちの髪を静かに揺らす。トンッと誰かに背中を押されたような気がした。



「以前のわたしとの作品は未完成のままかもしれない。だけど今度は、新しいわたしと一緒に頑張ってくれないかな」



 わたしたちは何度だってやり直せる。
 生きてさえいれば。


 こんなところで立ち止まってはいられない。夢を描いたその先で、わたしたちはとなりに並んでいるはずだから。


 彼と描く未完成な世界を、わたしはこれからも見ていたい。



「前みたいに素敵な絵は描けないかもしれない。筆を握っても失望させるだけかもしれない。それでもわたしは頑張るから、だからもう一回挑戦してみようよ。わたしたちならきっとできるよ」



 柴谷。


 空っぽのわたしに息の仕方を教えてくれた人。

 学校に行く理由になってくれた人。

 もう一度、前を向くきっかけをくれた人。


 わたしは何度記憶を失っても、そのたびに彼を好きになるんだろう。


 導かれるように。息をするように。
 未完成な世界に、徐々に色を付けていくように。


 ーーそんなふうに、君のことを好きになった。






「言っただろ。俺にとっては過去の葉瀬も、今の葉瀬も、どっちも本物の葉瀬なんだって」
「え?」



 キャンバスとカメラを丁寧に抱きしめて、柴谷は凛とした光をたたえたままこちらを見た。



「紬」



 名前を呼ばれた瞬間、全神経が彼に注がれる感覚がした。彼の瞳から目が離せなくなる。



「俺ともう一度、コンテスト目指してほしい」






 ふたりで挑戦すればこわくない。
 もう一度、一緒に同じところを目指そう。


 ーーわたしと君なら、きっとできるよ。




 わたしたちはこうやって支え合って、与え合って、未完成な世界を生きていく。