「葉瀬さん、自殺したって」


 高校二年生、夏の終わり。
 スマホから耳を離した母の第一声が、やけに遠く感じた。グツグツとそのままにされた夏鍋が音を立てている。俺はただ呆然と、その光景を見つめていた。

 俺が誰と関わっているとか。どんな学校生活を送っているとか。



 生まれてこのかた自分の交友関係なんて、母はおろか、父にも、歳の離れた姉にも話したことがなかったから、こうして家族の口から葉瀬の名前が出てくるなんて思わなかった。




「……は?」
「今、病院にいて意識不明の重体だって。発見がかなりはやかったみたいだけど、どうなるか分からないから、って」
「なに……言ってんだよ。母さん」


 脳裏に浮かぶ彼女は、いつも笑っていた。だから、母の言葉のすべてが信じられなくて、夢を見ているのかとすら思う。


 嘘だろ?
 だって、ついこの前まで、一緒に。


「葉瀬さんのご両親から学校を通して連絡が入ったの。あなたには、伝えておきたいからって」
「……俺、行ってくる。病院どこ?」



 この目で見て確かめたかった。
 信じていたかった。



 いつも笑っていた葉瀬は、
 俺の好きなやつは、



ーー今日も同じように、元気で笑っていると。








「葉瀬っ……あの、葉瀬紬ってどこにいますか。俺、面会を」

 気が急いで上手く呂律が回らない。

「申し訳ありませんがただいま関係者の方以外は面会謝絶となっておりまして」
「俺、柴谷っていいます。クラスメイトなんです、会わせてください」


 クラスメイトという響きに胸が痛む。こんなに会いたいのに、会うことを許されない関係。所詮、ただのクラスメイト止まり。それがたまらなく悔しかった。


 苦い顔をしている受付の人が、しだいに険しい顔になっていく。高校生にもなって、自分がどれほどの駄々をこねているのかは分かっていた。けれど、葉瀬に会いたい一心だった。



「無理です」


 決定的な一言を告げられ、言葉を失う。そのままよろよろと外に出て、ポケットからスマホを取り出した。




【紬】


 その文字を見つめる。
 今までに何度かけたか分からない。ことあるごとに、俺たちはよく電話をしていた。

 震える指でタップする。連絡先を持っている、唯一の女性だった。



 細い息が唇の隙間から洩れていくのを、何度か繰り返す。




「っ、葉瀬────!」
「おかけになった電話は、お客様のご都合によりお繋ぎできま────」
「くそっ」


 会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
 どうして。どうして。どうして。



 俺に夢を与えてくれたのはキミだった。
 それなのに、どうして俺から離れていくんだよ。


 行くな。行かないで。
 俺の前から消えないで。



*



 彼女との出会いは、高校の入学式より少し前のこと。
 入学式を間近に控えた、よく晴れた春の日のことだった。

 入学式を迎えるまでに桜は散ってしまうから。このタイミングがベストなんだと、一眼レフを構えて公園でひとり写真を撮っていた。



 写真を撮る、ということは、記憶と心の重ね合わせだと思う。写真を見返すたび、その出来事の色、音、ある時はにおいまで、鮮明に思い起こされる。それと同時に、感情までもが蘇ってくる。
 だから好きだ。

 青空に桜はよく映える。風に揺れる桜が、ひらひらと花びらを舞い落とした。
 思わずカメラを構える。



「……あ」



 突然、ファインダー越しに誰かの姿が見えた。自分のとらえる先に、彼女が乱入してきたのだと気づいた時には、もうシャッターを切っていた。
 桜色をまとった彼女は、長い髪を揺らして振り返った。白い肌が、後ろにある桜と澄み渡る青空に負けないくらい美しかったのを覚えている。


「どう、よく撮れた?」


 割り込まれたともいえるその行為は、不思議と腹立たしく思わなかった。


「現像したら、やる」
「いいよ、あなたが持ってて。いらなかったら現像せずに消しちゃって」


 彼女は、すでに友達だったのかと錯覚するくらい距離を詰めるのが上手かった。初対面のはずなのに、ちょうどいい距離感で埋めてくる感じが、とても。


「桜、きれいだね。写真撮りたくなる気持ち分かるよ」




 桜を見上げながら、ふう、と息を吐く彼女。


 ーー葉瀬紬。それが、彼女の名前だった。







「あーっ! あなた、この前の!」


 仕組まれたように、クラスが同じになった。入学式で再会を果たしたとき、運命というものは本当にあるんじゃないのかと思ってしまったくらいだ。

 柄にもなく。




「へぇー、柴谷ね! おっけ、あたしのことは葉瀬でも紬でも何でもいいよ」


 彼女は明るく、いつも目立っていた。もともと整った顔立ちをしているが、それに持ち前の愛嬌がプラスされて、正直、クラスでもダントツのモテっぷりだった。



 ただ、彼女は誰に対しても同じ距離感で接していた。特別扱いという言葉は、彼女の辞書にはないようだった。

 だから余計に人気だったのだと思う。特に、男子から。



 それなりに意識はしていた。けれど、このときはまだ、気になるクラスメイトというくらいで。

 決定的な瞬間がおとずれたのは、夏休みに入る一週間前の、とある朝のことだった。





「ここでも撮ってるの? 好きなんだね、写真」



 いつも生活している棟とは違うから、まさかこんな場所に現れるなんて思わず、持っていたカメラを放り出しそうになったのを覚えている。



「コンテスト、出さないの?」
「は?」
「あたしにくれた写真、とってもきれいだったよ」



 桜のやつか、と思い出す。彼女と出会った日の写真だ。


「顔がこわいよ。柴谷、口調が荒いんだからちょっとは顔優しくしたら?」
「うるせぇ」


 ふいと顔を逸らす。こんな雑な返答をしても、葉瀬は怒ることなくニコニコと笑みを浮かべていた。



「どうして出さないの?」


 昔から趣味だった。写真を撮るのが、なにより楽しかった。


「人物の写真も、撮ればいいのに」



 投げやりな口調なのに、どうしてか無責任だと思うことはなかった。不思議と、彼女になら話せるんじゃないか、という気持ちが湧き上がってくる。

 葉瀬は階段に腰掛けて、ぼんやり空を眺めていた。彼女の意識は空に注がれている。

 そう思えたから、話すことが不思議と億劫ではなくなった。




「……俺、過去に写真撮ったことがあって」


 うん、と軽い相槌が返ってきた。


「姉……なんだけど。ずいぶん前に、死んだ」

 うん、と。ここでもまた、同じ相槌。


「歳が結構離れてて。俺が小学生の時に、写真を撮った。その一年後に姉は死んだ。自殺だった」


 事実だけを並べていく。


 俺には椿(つばき)という名の姉がいた。
 俺の姉は、よくできた人だった。それでいて、とてもきれいな人だった。


『お姉ちゃん、こっち向いて』


 そう言うと、いつもとびきりの笑顔を見せてくれた。

 学校に行けば「椿さんの弟くんだよね?」と声がかかり、それがとても誇らしかった。どこを切り取っても、優秀で、完璧な姉だった。



「まさか自殺するなんて、思わねぇじゃん」


 何がきっかけだったのか。上手くいってなかったのか。

 歯車が狂い出したなら、言ってくれればどうにかやりようはあったはずなのに。俺たち家族が気づいたのは、姉が完全に壊れてからだった。



「写真だけが、ずっと遺ったままだ。俺はそれを見るたびに、こわくなる。写真を撮っていたその瞬間に戻りたくなってしまうから」



 だからポートレートは撮らない。


「それなのに、お前、乱入してきたから」
「あっはは、あれは────」
「偶然だろ?」


 だから、何も心配することはない。目の前にいる葉瀬は、消えたりなんかしない。俺の写真に写ったからといって、死んでしまったりしないんだ。



「ううん。わざとだよ」


 葉瀬はまっすぐに俺の目を見つめていた。



「気になったの、柴谷のことが。あんな公園で一人写真撮ってるんだもん。話しかけたくなった」
「だからって乱入するか普通」
「するする。あたしを誰だと思ってんの」


 ドン、と胸を張る葉瀬。ぜったいに自信を持つ状況を間違えている。




「安心して、柴谷。あたしは消えない。ずっと柴谷のそばにいるから」


 透き通った声が、耳を抜けていく。



「コンテスト、こわい?」


 肯定のかわりにうつむく。
 情けない話だ。趣味、趣味、と今までまわりに言ってきたのは、保険だった。

 俺の写真には価値がないと、そう判断されるのがこわかったからだ。

 顔で、態度で、声で、口調で。今まで舐められないように、強さを示してきたはずだった。

 けれど本当の俺は、こうしていつも怯えて、逃げ場を探しているような人間。




「じゃあ……一緒に頑張ろうよ。コンテスト、出そう。来年のやつ」
「は?」
「よし、きまりっ。来年の夏までなら準備期間はじゅうぶんあるね。柴谷クン、あたしは何が得意かご存じ?」



 躊躇なく美術準備室へと足を踏み入れた葉瀬は、しばらくして何やら細長いものを持って出てくる。




「ふふん。共同制作だね」
「おい、葉瀬。待てよ」
「こわがらないで、チャレンジしてみようよ。柴谷の写真に、あたしの絵が加わるの。これ、最強だと思わない?」



────それは筆だった。

 葉瀬は(くう)に色をのせるように、サラサラと筆を動かしてゆく。



「受かる時も、落ちる時も一緒だから。一緒に喜んだり落ち込んだりしようよ。大丈夫、二人ならきっとできるよ」



 気づいたら、シャッターを切っていた。パシャっという音に、彼女は少し驚いた顔をした。



「撮った?」
「撮った。すげぇ、きれいだったから」
「……なにそれ、照れるじゃーん」





 彼女はきっと、いなくならない。俺の前から、消えたりしない。



「絶対消えたりしない。約束するね」


 絡めた小指は、とても細くて。力を入れたらすぐに折れてしまうんじゃないかと心配になるほど、繊細で。



 きっと、生まれて初めて、恋に落ちた瞬間だった。









「おはよ、葉瀬」
「おはよう。柴谷」


 彼女と過ごす日々は、目まぐるしく過ぎていった。

 高校一年生、冬。
 彼女と出会って半年以上が経っていた。

 花が開くように、ゆっくりと笑顔をつくった彼女は、風になびく髪をおさえながら俺のもとへとやってきた。


「写真、見せて!」


 ニコニコ。彼女にオノマトペをつけるとしたら、これしかない。

 断られるなんてこと、1ミリも考えていないみたいだ。無論、断るはずもないけれど。



「うわぁ、これもまたきれいだねぇ。うーん、クジラにしようかな……ネコとか、あ、こっちはトナカイとか?」


 俺の写真を見ながらぶつぶつ呟く彼女は、しばらく目を通してから顔をあげた。


「そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね」
「……おー」


 興味なさそうな相槌を打ってしまったけれど、内心ではなんだろうと期待が膨らんでいた。はやくも来年の冬が待ち遠しくて、はやく今年の冬なんか終わってしまえばいいのにと思う始末だった。


「その絵にはね、あたしの全部が込めてあるの。だからどうか、受け取ってね」
「わーったから。ほら、描き始めろよ」
「もう! あたしは真剣に話してるのに」


 空気が変わる予感みたいなものが、ぞわりと背筋をなぞったから。きいてはいけないような声が、彼女の口から出てしまうような気がしたから。
 話を逸らして、逃げようとした。否、俺は逃げた。


「……たとえあたしがいなくなっても」


 ぼそりと呟かれた言葉を、きかないままで。





*



「柴谷くん?」


 声がかかって、ふと顔を上げる。そこには、四十代半ばの男性が立っていた。

 顔立ちが葉瀬によく似ている。いや、葉瀬がこの人に似ているのか。



「紬の父です。柴谷くん、かな。さっき、受付のところでちょうど見かけて」
「っ、葉瀬は今、どんな状況なんですか」
「ついさっき、目を覚ましたところだよ。発見がはやかったみたいで、助かった」



 息を吐くと同時に、目頭が熱くなる。必死に押さえても、到底止められるはずがなかった。



「よかった……」
「ただ───」



 助かったというのに、葉瀬の父親はなぜか泣きそうな顔をしていた。唇を噛んで、悔しそうにうつむいている。それは間違いなく、安堵からくるものではなかった。


「記憶が……」





 初めは、信じられなかった。葉瀬が助かったことで、不安やら安堵やらがぐちゃぐちゃになってしまい、そんなふうに思い込んでしまっただけだと。

 葉瀬の父親を疑っていたし、俺も、俺自身のことを疑っていた。


 また一緒に過ごせるに決まってる。あの元気で明るくて、俺を光へと導いてくれた葉瀬に、会えるんだって。


 けれど病室で対面した時、俺は、自分の考えが甘かったことを痛感した。


「誰……ですか」




 大切なひとに忘れられる痛みを。

 苦しさを。むなしさを、切なさを。
 やるせなさを、しんどさを。



 そのときになってようやく、俺は実感したのだ。




「紬には、自殺のことはいっさい話さないでほしい。思い出すのもつらいだろうし、もし思い出したとして、もう一度自殺を試みるようなことがあったら耐えられないから」


 葉瀬の両親からは、そんな感じのことを言われた。ぼんやりとしていて、とても曖昧だけど。


「わかりました。でも俺はこれまでどおり、葉瀬と話します」


 もちろん、彼女を苦しめない範囲で。

 また、話したい。目を合わせたい。


 会いたい。いつもどおりの葉瀬に。



 もう一度出会いからやり直そう。明るい彼女なら、きっと俺を受け入れてくれるはず。



 それなのに、いざ学校に来た彼女は、常に下を向いて、表情を隠すようになっていた。



 友達の名前はおろか、自分の名前も、絵を描くのが得意だったことも、何もかも覚えていない。もちろん、コンテストのことなんて覚えているはずがなかった。


 ほとんど別人。昔の、好きだった頃の葉瀬紬は、この世に存在していなかった。


 ぐしゃっ、と持っていたプリントに力がこもった。



 夢を描いたその先で、俺たちは一緒に並んでいるはずだった。


 けれどその夢は未完成のまま、バラバラと崩れ落ちていったのだ。




 昔の葉瀬はもういない。

 俺を救ってくれたころの葉瀬は、俺の前から消えてしまった。




 だから今度は俺が、今の葉瀬を救ってやる。葉瀬が俺にとっての光だったように、次は俺が、葉瀬にとっての光になる。



 昔の葉瀬に、俺がずっと言えなかったこと。

 常にそばにいることに安心しきって、伝えることができなかった想いを。




 今度は、絶対に無駄にしない。



 そう心に誓った夜は、いつもよりも空気が澄み、月がひどくきれいだった。









「柴谷は優しいね。あたしのこと絶対傷つけたりしないから」

「それって普通だろ。なんのために傷つける必要があるんだよ」

「んーん。普通じゃないよ。相手のことを思うって、誰にでもできることじゃない。柴谷がいてくれるから、あたしは毎日生きていけるんだよ」

「大袈裟だな」





「葉瀬って相槌適当だよな。ほんとにきいてんのかいつも不安になる」

「内容が重たければ重たいほど、相槌は軽い方がいいじゃん。構えられると話せるものも話せないでしょ?」

「……たしかに」

「それに、適当だけど雑ってわけじゃないよ。ちゃんと話はきいてるし、感情も共有してる。ただ、重く受け止められすぎない方が相談しやすいかなと思ってね」


「……ふぅん」






「ねえこの記事見て。ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ」

「今の社会的に難しくね?」

「そうなんだけど。ネットの扱い方を学んだ方がいいよって話」

「葉瀬は自信あるの? ネット」

「ううん、まったく。だから触らないことにしてるの」





「ねえ、柴谷」

「ん?」

「この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから」