【全国高校生フォトコンテスト】
図書室に行ったときのことだ。
少しでも記憶喪失の手がかりがほしくて、その類の本を抱えて貸し出しカウンターに向かう途中。
ふと、棚に置かれた冊子のタイトルに目を惹かれた。
特別写真に興味があるわけではない。
けれど、【フォト】という字に足が止まってしまったのは、同時に柴谷の顔が思い浮かんだからだ。
「気になるの?」
囁く声に振り向くと、『矢崎』というネームプレートを首から下げた女性が立っていた。
司書さんか、と理解する。
「気になるっていうか、その」
「ん?」
「とも……知り合いの写真が載ってるのかなって、思って」
気になっている以外の何でもないのに、すぐに否定してしまって後悔した。柴谷のことを友達と呼ぶのもなんだか憚られて、言葉に詰まってから答える。
けれど矢崎さんはとくに気にしたようすもなく、「そうなのね」と穏やかに笑った。
「見ていってもいいわよ」
矢崎さんは、わたしが持っていた本を受け取り、手続きを始める。手持ち無沙汰になったわたしは、まるで吸い寄せられるように、フォトコンテストの冊子を開いていた。
フォトコンテストとやらは、毎年開催されているらしい。この冊子は今年のもので、ついこの間結果が出たのだという。応募されている写真はすべてポートレート──人物の写真──だった。
この学校の生徒もちらほら受賞しているようだった。
受賞した写真の横に、高校名と名前が載っている。
そこに柴谷の写真はなかった。
何度も最初から最後までくまなく目を通して、目次も見返した。けれど、何度見ても彼の名前はそこには載っていなかった。
「あった?」
貸し出し手続きを終えた矢崎さんの声に、力なく首を振る。
信じられない。
てっきり受賞しているものだと思っていた。
わたしに写真の才能なんてない。
どの写真が優れているかの判断なんてできやしない。
それでも、彼の写真は評価されるべきだ。
初めて見たとき本当に衝撃を受けた。彼が切りとる世界は繊細で、美しくて。
素人のわたしでも、心惹かれるものが彼の写真にはあるのだから。
「ちなみに、その人のお名前は?」
正直ためらった。
柴谷の写真を探していると伝えるのが、どこか気恥ずかしかったからだ。
しばらく逡巡したのち、顔をあげる。
彼の名前を伝えてでも、彼の写真が載っているのを見たかった。
「柴谷です」
そう告げた瞬間、矢崎さんの顔がスッと曇る。ほとんど一瞬の表情の変化を、わたしは見逃さなかった。
ーー見逃せなかった。
「柴谷のこと、知ってるんですか」
「え?」
これ、訊いてもいいのかな、とか。
気づかなかったふりをしたほうが幸せなんじゃないか、とか。
普段なら嫌というほど考えるはずのそれを、今はまったく気にしていなかった。
困惑したように苦笑する矢崎さんは、今にも逃げたそうに顔を歪めていたけれど、やがて観念したように「写真撮るのが上手い子よね」と言葉を落とした。
写真部顧問はともかく、司書さんでもそんなふうに認識をしているなんて。やっぱり彼はこの学校内で知名度が高いんだ、と理解する。だったらなおさら、彼のことを知りたい。
どうして冊子に名前が載っていないのか。
「何か、理由があるんですか」
「え?」
「柴谷は、どうして載ってないんですか。受賞しなかったんですか」
矢崎さんの言い方だと、彼には間違いなく才能があるみたいだ。
受賞しないなどあり得ない、と。
ーー写真撮るのが上手い子よね。
矢崎さんは柴谷の写真を見たことがあるんだ。もしかしたら、わたしが知らない過去で、彼はコンテストに応募していたのかも知れない。そして、彼の写真は評価されてきたのだろうか。わたしが、知らないだけで。
矢継ぎ早に質問するわたしを一瞥した矢崎さんは、窓の外に視線を移した。
薄暗い曇で覆われた空から、ポツポツと小雨が落ちてくる。
矢崎さんの口から告げられる真実を聞くのが怖い。それなのに、わたしは夢中になって矢崎さんを見つめていた。
フォトコンテストの冊子を持つ手に力がこもる。
しばらく逡巡したように黙っていた矢崎さんは、小さく息を吐いて、そっと目を伏せた。
「応募しなかったのよ、彼」
─────
───
いつもの場所で、同じようにカメラを構える柴谷の背中を見つめていた。早朝の空気が日に日に冷たくなっているのが分かる。
「ねえ、柴谷」
「ん?」
最近、時の流れがはやい。なんて、大人みたいなことを思うようになったものだ、と思ったけれど、あと一年も経たずしてわたしは成人するらしい。すっかり大人の仲間入りだ。
漠然としていてこわい。やっていけるのか、ちゃんと生きていけるのか、こわい。
それでも、柴谷がとなりにいてくれるのなら、そんな日がずっと続いていくのなら、なんだかやっていけそうな気がする。最近はとくにそんなおかしなことを思ってしまうのだ。
彼の瞳がスッとわたしに流れる。世界を切り取っていた硝子玉のような瞳は、わたしだけを捉えていた。
「写真、コンテストには出さないの?」
彼はコンテストに応募しなかった。その事実を知ったのは、先週の水曜日のこと。
本当はもっとはやく理由を聞きたかったのだけれど、彼にとって触れてはいけない部分のような気がして、なかなか踏み出せなかった。
誰だって、触れられたくない部分がある。わたしは、わたしの記憶に関してあまり触れられたくない。
嫌だ、というより、どう説明したらいいかわからなくなるから。今のわたしの状況を説明しろと言われても、できないと首をふるしかない。
思えば、彼は一度もわたしの記憶について訊いてきいたことがなかった。周りの憐れむ視線を取り払ってくれることはあっても、彼から話題に出したことは一度だってない。彼は最初から、まるでわたしがフツウであるかのように接してくれていた。
写真を撮る彼のとなりで、ずっと思っていた。部活として活動しているのならば当然コンテストに応募しなければならないだろうし、彼の実力なら何かすごいことが起こるに違いないと思ったから。
それなのに、どうして応募しないのか。深刻な悩みを聞くためじゃなかった。
ただ単に、このときのわたしは自制心よりも興味が勝ってしまった。
「俺、写真部じゃねえし」
カメラを構えながら、柴谷が答える。
聞き捨てならない言葉に目を丸くすると、柴谷は「知らなかったのか」とあきれたようにつぶやいた。
「じゃあどうして柴谷は写真撮ってるの? 部活は?」
「写真部だとお題が決まってるせいで好きなもの撮れないから。だから部活入ってない」
たしかに、校内に飾ってある写真は建物や校内のとある場所の場合が多い。どうも、顧問がやる気に満ち溢れた人で、写真部なのに活動量が多すぎると噂を耳にしたことがある。写真部なのに、とか言ったら怒られてしまうだろうけれど。
一方、柴谷はもっぱら空や景色の写真だけだ。これといったメインの被写体がない。
そうか、と納得する。彼に写真部は自由が効かないのだ。
「人物の写真は撮らないの?」
「ポートレート?」
「うん。いつも景色ばっかりじゃん」
先週見たコンテストは、ポートレートであることが条件だった。もしかすると柴谷はポートレートが得意ではないのかもしれない。そう思ってその他のコンテスト結果も見てみたけれど、そのどれにも柴谷の名前はなかった。
少し視線を遠くへ向けた柴谷は、「過去に」と続ける。
「過去に二人だけ、撮ったことがある」
「え、誰のこと撮ったの?」
「そんなの教えるわけないだろ」
ぶっきらぼうに突き放された。
「もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから」
「だれ?」
「好きなやつ」
あまりにもまっすぐ告げられたから、聞き間違えたかと思った。
目を見開いて聞き返そうとすると、
「それに俺のは趣味だから。撮りたいって思った時に好きなもの撮んの」
誤魔化すように柴谷が言う。これ以上は何も教えてくれなさそうだったから、諦めることにした。本題は、彼がどうしてコンテストに応募しなかったかだ。
「でも部活に入っていなくても、コンテストに出すことはできるでしょ」
カメラから顔を上げて、まぁ、と柴谷は曖昧にうなずく。
どうして何のコンテストにも応募しないのか。才能が評価されるせっかくの機会なのに、出品しないのはもったいないと思ってしまう。
「柴谷、写真撮るの上手なんだから。コンテスト出してみればいいじゃん」
「いや、いい」
「もったいないよ。何か賞をもらえるかもしれないのに」
頑なにうなずかない彼は、いったい何を思っているのか。さっぱり分からない。
何か好きなことがあって、実力も持っているのなら、チャレンジしてみるのは悪いことではないと思った。
挑戦するのは素敵なことだし、もし結果が伴わなかったとしてもわたしはきっと彼を讃える。そして、何度だって背中を押し続ける。
だから勧めたつもりだった。たとえそれが多少のおせっかいだったとしても。
「どうして? もし結果が出なかったとしても、それって無駄なことじゃないでしょ。チャレンジしてみたらいいじゃない」
「お前」
気づけば、わたしを見る彼の瞳は、険しいものへと変わっていた。
ぐっと言葉に詰まる。苛立ったように眉を寄せた柴谷は、しばらく気を鎮めるように目を閉じていたけれど、やがてゆっくりと開いた。
そこには、さっきまでのあたたかさも、柔らかさも、何ひとつなかった。
ただあるのは、たしかな拒絶だけ。
「お前は俺の何なんだよ。自惚れてんじゃねえよ」
途端に身体が固まって動かなくなる。口の中が乾燥していくのが分かった。
耳は言葉を拾っているのに、脳へと届くことはない。
柴谷はわたしを拒絶している。
柴谷はわたしに怒っている。
それだけが、事実として存在しているだけだった。
柴谷はわたしをきつく睨みつけて、さらに言葉を続けた。
「無責任なこと言ってんじゃねえよ。お前、何も知らないくせに」
ーー何も知らないくせに。
言葉にされて、はじめて気がつく。わたしは彼のことを何も知らない。
彼がわたしのそばにいてくれる理由。彼がひとりで昼食を食べていた理由。そして、彼がコンテストに挑戦しない理由。すべて、人間の行動には理由がある。
それなのにわたしは彼の心の声を聞かないで、勝手に責めるようなことを言ってしまった。
踏み込みすぎた。傷つけてしまった。
彼が心を開いてくれているような気がしたから。距離が近くなったような気がしたから。
つい調子に乗って訊き過ぎてしまった。自惚れていると言われて当然だ。
「ごめんなさい」
嫌われてしまったかもしれない。もう、こうして朝の時間を過ごすことも、一緒に昼食をとることも、たまにスマホでやり取りすることも、すべてなくなってしまうかもしれない。
柴谷がいなくなってしまったら、わたしは。
涙がこぼれそうになる。うつむいたわたしの耳に、柴谷の声が飛んできた。
「────未完成だから」
思わず顔をあげた。
視界のすみで柴谷の横顔を捉える。彼がどんな表情をしているのか、わたしにはわからなかった。
ーー未完成。
いまだ、かんせいしていない。
よく澄んだ声だった。その言葉が耳に届いたとき、気づいたら震える声で問いかけていた。
「……完成、させないの?」
『未』ってことは、『まだ』今はないだけで、これからがあるってことだから。未来と同じように、まだ先があるってことだから。
じゃあ、柴谷の写真が完成するのはいつなのだろう。そもそも、一瞬を切り取るはずの写真が未完成ってどういうことなのか。
「しないよ」
まっすぐに目が合う。いつのまにか、彼の瞳はわたしのほうへと向いていた。
透明な瞳だった。そこに何を映しているのか、わたしは読み取ることができない。
「完成しないよ、一生」
そう言った彼は、どこか泣きそうな顔をしていた。
*
「コンテスト、間に合うかな」
「分かんねえけど、でもきっとできるよ。俺たちなら」
「そうだよね! よしっ、目指せ最優秀賞!」
「ついてきて、葉瀬」
「もちろん! 一緒に頑張るためにあたしはここにいるからね!」
「なぁ葉瀬」
「ん?」
「もしこの作品が完成したら……そしたら────」