夢を見ていた。
一人で夕日を眺めている、そんな夢を。
これが夢だとすぐに分かったのは、腕に深く刻み込まれた傷がなかったから。
記憶を失う前の、もっと昔のころの夢を見ているのだと。瞬間的にそう悟った。
焦がすような太陽の光が、顔に容赦なく差し込む。わたしはそれを、一心に浴びていた。溶け込んでいくように、そのまばゆさに身体を委ねる。
ぼうっと地平線の彼方を眺めては、息を吐く。そして酸素を取り込んだとき、これは夢だと確信した。
息がしやすかったから。
澄んだ空気で、肺がすべて満たされていく感覚。
現実の世界にはない、切ない感覚がした。
もう一度腕に視線を落とす。
すると、じわじわと赤茶色の傷が浮き上がって、ずくんずくんと傷口が痛み出す。
「っあ……はあっ……や、だ」
擦っても、押さえても、どう頑張っても消えない。どんどん濃くなって、忘れられないものとして深く深く刻まれる。
決して消えない傷痕。
刃物で切り付けたようなものだ。
どうしてついた傷なのか、わからない。こんなに深いもの、どうして。
「……思い、出せない」
思い出そうとすれば、ザザッと砂あらしのように記憶が遮られる。思い出そうと何度も集中すると、だんだん頭が痛くなって、最終的には意識が飛びそうになるくらいの激痛に襲われる。
思い出したくないと、身体が拒絶反応を起こしていた。
憂愁を秘めた淡さが、刻々と濃いものへと変わってゆく。
ああ、まって。いかないで。
わたしを置いていかないで。まだ終わらないで。
夢中で沈みゆく太陽に手を伸ばす。
わたしのむなしい叫びをきくことなく、空は紺碧を瞳に映し、静かに夜の帳が下りる。
───…そこで目が醒めた。
傷のある手を伸ばしたままで。
わたしが必死に掴もうとしていたのは、こげ茶色の天井だった。趣も何もない、殺風景なわたしの部屋。
ゆるゆると手をおろして、枕元に置いたスマホを手に取る。
A.M.4:30。
今日もまた、はやすぎる目覚めだった。
*
季節は秋へと移り変わり、それと同時に制服も衣替えとなった。
紺色のブレザーに袖を通す。胸元でリボンが揺れていた。
ブレザーの上から傷のある右腕をそっとなぞると、ズクズクした痛みが和らいだ……気がした。スカートと靴下では庇いきれずにむき出しになった足に、朝の冷えた空気がまとわりつく。
部屋にある全身鏡の前に立つ。
「……変なの」
鏡に映ったわたしは、たとえるなら、幽霊のような顔をしていた。このまま役者としてホラー映画に出演できそうだ。
スカートは校則に準じた膝丈。
白い靴下、髪型は後ろでひとつ結び。もちろんノーメイクだけれど、まるでファンデーションを塗ったかのように顔が白い。いや、不健康の表すような青白さだった。
可愛げも何もない。むしろ恐怖すら与えかねない外見だった。
ふと、赤坂さんの姿が浮かぶ。【JKブランド】という青春の具現化のような称号を得るにふさわしい格好をしていて、とにかく目立つ人。毎日高く縛り上げられたポニーテールも、ゆるく巻かれたおくれ毛も、バッチリ決まったメイクも、すれ違ったときの甘い香水の匂いも、膝よりはるか上のスカート丈も。
絵に描いたような女子高生の姿をしているのが赤坂燈という人物だ。
わたしには無理だ。
毎日完璧に自分を着飾るなんて、そんな努力できない。だからわたしは、ひそかに彼女のことを尊敬しているのだ。
机の上に置いてあったヘアゴムで、高い位置で髪を括ってみる。結果は言うまでもなかった。がっくりと肩を落とす。
ポニーテールとも呼べないその髪型のままリビングに行き、朝イチで作っておいたお弁当をとりにいこうとしたときだった。
急に廊下の先から物音がして、びくりと肩が跳ねる。どうやら寝ているはずの両親のどちらかが起きたらしい。完全な油断だった。
大急ぎで部屋に戻って、リュックを掴む。鏡の前でポニーテールをほどいていつものひとつ結びに直した。
いってきます、と焦り気味に呟いて今日も朝食をとらずに家を出た。挨拶は相手に聞こえなければ意味がないとどこかで聞いたことがあるので、きっと毎朝わたしが発しているのは挨拶ではなく単なる独り言なのかもしれない。
どちらにせよ、形だけの挨拶に意味など存在しなかった。
朝の教室は、まっさらな状態でわたしを出迎えてくれた。
色づき始めた葉が窓の外に見える。登校時間には程遠いので、まだ人は少ない。
ふうっと息を吐く。やはり深呼吸をすると落ち着く。
まだ、以前のように気持ちよく息は吸えないけれど。
そのとき、カバンの中でスマホが振動した。取り出して、通知を確認する。
母からのメールだった。
乾いた指先でタップして開く。
液晶画面に表示された文字に、わたしはつい呼吸を止めてしまった。黙ったまま、何度も文字を目で追う。
『紬、お弁当忘れてるよ。届けようか』
ドキリと嫌な感覚がした。
焦った時に心臓が縮み上がるようなこの感覚は、何度経験しても慣れることはない。スマホを持つ手が震えた。
このメールをみてはじめて、お弁当を家に置いてきたことに気づいた。
どうして今日は忘れてしまったのだろう。
その理由を考えて、はたと思い出す。
髪の毛で遊んだせいで、焦って家を飛び出したんだった。まさか親が起きてくるとは思わなかったから。
しまった、うっかりしていた。
慌てて返信画面を開く。スマホのキーボードの上に指を乗せる。
けれど、書いては決して、書いては消しての繰り返し。
『大丈夫。買って食べます』
結局、たったそれだけのメッセージを送るのに五分もかかった。
返信にはいつも気力を使う。
思わず敬語を使いそうになってしまうのを直したり、文章が変じゃないかを何度も見直したりする。
そうして、親しすぎるような気がして気持ちの悪い文章を送らなきゃいけないから。
結局、タメ口と敬語を同時に使った。
しばらく送信したメールを見直していると、急に扉が音を立てた。誰かが教室に入ってきたことがわかる。
乱雑な具合で予想はつくのに、つい名前が呼ばれるのを待ってしまう。
「葉瀬」
「……柴谷」
「ん」
ん、だけで彼の意図がわかってしまうのがなんだか悔しい。それほどまでに習慣化された、二人だけの朝の時間。
くいっと顎で合図をする柴谷。
どうやら、ついてこい、ということらしい。
「今日遅くね?」
「あー……お弁当、忘れちゃって。メールしてたの。その……お母さんに」
「そんな時間かかるのかよ」
「なんていうか……距離が掴めなくて。気まずいんだよね、色々と。ううん、気まずくしちゃってるんだよね、わたしが。顔を合わせるのがこわくて」
言葉に詰まりながら、事情を説明する。
「お前はどうしたいわけ?」
「一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい」
自分が思い描く親子のかたちをなんとか説明すると、ふうん、と柴谷は曖昧な相槌を打った。色々と質問したくせに、たいして興味がなさそうだ。
もはや話をきいているかすら怪しい。
一緒に朝食をとって、いってきます、いってらっしゃいの挨拶をして学校に向かいたい。
そんな願望はあるのに、わたしには勇気がないから逃げるように家を出るしかない。夢物語は到底叶いそうになかったから、「いつか、ね」と付け足す。こういうふうに保険をかける自分も嫌いだ。
「お前昼どうすんの」
「購買でなにか買おうかなって」
「残念だけど、今日は購買休み。食堂のおばさんが体調不良だって昨日お知らせされただろ」
柴谷に言われてハッとする。たしかに昨日、そんな放送が流れていたような気がする。
ということは、わたしは今日昼食抜きだ。朝食も昼食も抜くとなると、間違いなく午後の授業はお陀仏。
がっくりと肩を落とす。
朝食も昼食も自業自得だ。
いくら嘆いてもどうしようもないので、仕方ないと割り切るよりほかないだろう。
キュッと口を引き結んで決意を固めていると、突然、いぶかしげに眉を寄せた柴谷がわたしの顔をのぞきこんだ。
「お前、もしかして食わないつもり?」
「仕方がないかなって。購買休みならどうしようもないし」
正直、お弁当抜きは結構きつい。
肉体的にもきついし、午後の授業でお腹が鳴るときの恐怖に耐えないといけないというのなら、精神的にもかなりきつい。
……というより今は、彼の視線の近さに驚く。ものさし、用意したほうがいいんじゃないか。
顔をあげたすぐそばに柴谷の顔があって、途端に心臓が暴れ出す。ヒュ、と息が止まった。
三十センチものさしでは、明らかに長すぎる。
至近距離もいいところだ。
「近く、ない?」
付き合っているわけではないと言ったくせに、その距離はどう考えてもおかしい。少し身を乗り出せば鼻先が触れ合うくらいの距離に、彼はいた。
「……嫌?」
は、と息が洩れる。伏し目がちな彼の目がわたしを見ていた。いつも聞いているよりも低い声に耳が痺れる。
わたしは嫌なのだろうか。近い距離に彼がいることが。
自分に問いかけてみても、なかなか答えは見つからなかった。
黙り込んだわたしから目を逸らした柴谷は、ふ、と小さく息を洩らした。それは今まで一度も見たことがないほど、消えてしまいそうな微笑だった。
心臓を鷲掴みにされたような感覚になる。それは、彼の写真を初めて見たときの感覚と似ていた。
世界から音が消えて、時間が止まる。
わたしたちの呼吸音だけが、この世界の言葉だった。
しばらく動きを止めていた柴谷は、悪い、と言葉を落として後ろにさがる。
その瞬間、勢いよく空気が肺に流れ込んでくる。無意識のうちに息を止めていたみたいだ。
さっきは儚く微笑んでいたはずなのに、もうすでに彼は何も意識していないみたいに、平然としている。頬が赤くなることも、必死に息をしているようすも見せない。わたしに「近い」と指摘された気まずささえ感じさせないようだった。
わたしばかりが気にしているみたいで、なんだかくやしい。
柴谷にとって、わたしの存在ってなんなのだろう。
柴谷の顔を見るのがなんだか無性に恥ずかしい。目を合わせたら、さっき至近距離で見たときの熱が蘇ってくるような気がした。
会話をしないまま、黙って空を眺める。柴谷は相変わらず真剣なまなざしで写真を撮っていた。
いつかこの青空を窓ガラス越しではなくて、直接見てみたい。
柴谷のとなりで。
予鈴がなって、わたしたちはおもむろに立ち上がった。美術準備室にカメラを片付けにいく柴谷。
わたしが先に帰ろうとすると、柴谷はめずらしく「待て」と言った。
何か特別な用事でもあるのかと思ったけれど、そうではないらしい。完全に彼の気まぐれだった。
カメラを返してきた柴谷の少し後ろを歩いて教室に戻る。
教室に入る直前、戸に手をかけた柴谷は振り返った。
「しょうがねえな」
廊下の窓から差し込む明かりが、彼を静かに照らす。
「昼、集合な」
────あの場所で。
彼の唇の動きが、そう言っていた。
秘密の場所で、秘密の待ち合わせをとりつけた彼の背中が教室に溶けていく。
わたしは声を出せないまま、その背中を見つめていた。
柴谷はいったい何を考えているんだろう。どうして今日の昼、わたしに集合だと言ったのだろう。
そんなの、行ってみればわかることか。いや、でも。
教室の前でぐるぐると考えてばかりだ。行きたい、行きたくない、行かなきゃいけない。
行く? 行かない? 行ってもいい?
自分の中でさまざまな意見がぶつかり合い、最終的に出た答えは。
「……行こう」
堂々巡りに終止符を打とうと、無理やりにでも自分を納得させる。
教室に入ると、もう柴谷は男子に囲まれていた。さっきまでわたしと一緒にいたのに、目すら合わない。
無意識にこぼれ落ちたため息が、教室の空気に溶けていく。
「おはよう、葉瀬さん」
「山井さんおはようございます」
ひかえめに手を振る山井さんに挨拶を返し、わたしも自分の席につく。彼女は少し前のグループ活動のとき以来、こうして朝の挨拶をしてくるようになった。
横目で柴谷を盗み見る。柴谷は無表情かと思いきや、そばにいた男子の発言で急に笑ってみたり、おどけたようすの男子にツッコミを入れたり、呆れたように目を伏せたりと何度も表情を変えていた。
いつもの柴谷だ、と思う。
男子に囲まれているときに見せるめいっぱいの笑顔。女子と話しているときに見せる気だるげな顔。
そして、わたしと一緒にいるときに見せる優しい顔。
すべてが違うから、どれが本当の柴谷なのかが分からなくなる。
ーーああ、本当に。君は、わたしを困らせるのが上手だ。
*
「わたし、食べるもの何もないよ」
「ばーか。だから呼んだんだろうが」
昼休み。約束の場所に行けば、もう柴谷はそこで待っていた。
近くの階段のすみに二人並んで座る。
……狭い。柴谷の肩が触れている。
ざわざわっとなぜか胸騒ぎがして妙に落ち着かなくなる。
落ち着け、わたし。動揺することなんて何もない。
思いの外騒ぎだす心のうちを悟られないように、必死に言葉を探した。咄嗟に浮かんだ質問をそのまま口にする。
「柴谷はいつもここで食べてるの?」
「そうだよ」
端的な回答だった。
いつも教室に彼がいないのは、ここで一人過ごしていたからなんだ。
少し前から疑問に思っていたことの答え合わせ。
「鮭と梅、どっち」
「うめ」
何がなんだか分からないまま答える。袋からあらわれたのは、コンビニのおにぎりだった。
梅と書かれた包装のほうを手渡される。どうやらさっきのはおにぎりの具を訊いていたらしい。
「もしかして毎日コンビニ食品なの?」
「違えよ。今日はたまたま。葉瀬が弁当忘れるの見越して、神様が仕組んでくれたんじゃね?」
「へぇー、『神様』って。柴谷もそんなこと言うんだ、意外」
はいこれ没収な、とおにぎりが取られそうになったので慌てて死守する。
彼の口から「神様」という言葉が出てきたことがなんだかおかしくて、つい言葉に出してしまった。案の定怒りポイントに触れたらしい。怒りといっても、軽く咎められる程度のものだけれど。
「美味しくいただきます」
「感謝しろ」
感謝してるってば、と心の中で思う。
横柄な性格はどうにかしたほうがいいよ、といらぬことを思いつつも、昼食を分けてもらったので柴谷には頭が上がらない。素直に合掌をした。
コンビニ食品を食べる機会は多い。
できるだけ母の手を煩わせないためと、あとは自分で作るのが面倒くさいという理由から、休日の昼食はだいたいコンビニで済ませているから。
当然この梅おにぎりにはいつもお世話になっている。
それなのに、このおにぎりはまるで魔法でもかかったみたいだ。いつもよりも美味しく感じる。
わたしの横で、柴谷は静かに笑っていた。
普段の堅苦しい顔がふっと崩れて、柔らかい印象が前面に押し出される。不覚にも、きれいだと思った。
ふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「いつも一人なの?」
「悪いかよ」
ぶっきらぼうな口調はいつもと変わらない。
それなのに、彼の横顔は少しだけ寂しそうに見えた。
「悪いとかじゃないけど、その。さみしく……ない?」
まっすぐ先に空が見える。青く透き通った空。
溶けていきそうなほど澄んでいるから、そんな疑問が口をついたのかもしれない。
「お前は?」
え、と声が洩れる。
質問に質問返しはよくないと、過去に誰かが言っていた。
記憶が定かではないけれど、たしか中学時代の国語の先生だったような気がする。
「お前は寂しくないの?」
柴谷と、ようやく目が合った。
────わたしは、さみしいのだろうか。
なぞらえるように自分に問いかけてみる。
毎日息苦しいのは、わたしが寂しいから?
死にたい、消えたいとマイナスなことを思ってしまうのは、わたしが独りぼっちだから?
「……さみしい、のかな。わたし」
自分のことなのにわかんねえのかよ、と笑った柴谷は、わたしの頭をぐしゃっと撫でた。頭に触れられるのは初めてだったから、びっくりして固まる。彼の手が離れたあとも、手の感触がまだ頭に残っていた。
寂しいって、どういうことだろう。大切なものがなくなったとき、会いたいと願う人に会えないとき、自分の周りに人がいないとき。
それを寂しいというのなら、わたしは。
「そっか。わたし……さみしいんだ」
ずっと考えていた、息苦しさの理由。
わたしは、寂しがっている。無意識のうちに、心が勝手にぬくもりを求めていたんだ。
柴谷、と呼ぼうとした唇が震える。たった四文字を発音することさえも、今のわたしには難しかった。
強がっていたつもりはなかった。記憶を失ってしまったのは変えようもない事実で、避けられない運命だと、必死に自分に言い聞かせて生きていた。大人になるうえで、わたしに課せられた試練だと。
だけど、やっぱりわたしだけでは耐えられなかった。
ひとりはしんどい。一緒に支えてくれる人がいないと、わたしだけでは苦しい。
手足の動かし方、感情の出し方、息の仕方すら分からなくなってしまう。
きっとあの日、柴谷がわたしの前に現れてくれなかったら。こうして一緒に過ごす時間をつくってくれなかったら。
ーーわたしはとっくに息苦しさに溺れて死んでいたのだと思う。
食べ終えたおにぎりの包装をぎゅっと手のひらで包み込む。
そのままぎゅうぎゅうと握っていると、ふと、あたたかいものが頬を伝った。
となりから伸びてきた彼の指先が、ゆっくりとそれを拭う。
透明な涙だった。
どうして彼はわたしに執着するのか。
ここまでわたしにつきまとってくるメリットは何なのか。
彼と出会ったあの日から、ずっとその答えを探していた。
「安心しろ。俺が一緒にいてやるよ」
ああ、だから、彼は。
彼がしつこくわたしにつきまとってくる理由が、ひとつ分かった気がした。
彼はわたしの心を早々に見抜いていて、わたし自身でさえ気がつかなかった理由にも気づいたうえで、何も言わずにとなりにいてくれたのだ。
彼は優しいから。
自分が寂しいことにすら気づけない可哀想なわたしのそばにいて、わたしを支えてくれていた。
『俺は優しいから、ひとりぼっちで可哀想なお前のとなりにいてやるって言ってんだ』
彼は何も嘘なんて言っていなかった。
何か裏があるかもしれないとわたしが勝手に疑って、彼のことを信じていなかっただけで、彼の言葉には『本当』しかなかったのだ。
ふたりで、真っ青な空を眺める。雲ひとつない、いっさいの濁りもない。一色で描かれた空だった。
「青空ってさ」
「うん」
「すげえ広いじゃん。快晴って気分よくなるし、雨が降る心配もないし。雲が一個もなくて、一面の青じゃん」
「……うん」
「だけど、俺はそれが少しこわい。ずっと見つめてると、寂しい気持ちになる」
ふ、と柴谷は肩を揺らす。
見つめると、彼の透明な瞳がまっすぐにわたしを向いた。艶やかな双眸にとらわれた瞬間、心が小さく締め付けられる。
「……だからお前もかなって、思った」
その瞬間、また涙が頬を濡らした。なぜなのかは分からない。
「わたし」として、『葉瀬紬』の人生を歩みはじめてから、一滴も出なかったはずの涙。苦しい痛いと嘆いても、一向に流れるはずのなかったものを。
彼はこんなにも簡単に流させてしまった。
わたしの心は、あっさり彼に絆されてしまったのだ。
「なんで……分かったの」
さみしくないの?なんて。
澄んだ青を見て、そんな質問をしてしまった。それはきっと、彼と同じように空がさみしいと感じてしまったから。
「なんとなく」
「それって理由になるの?」
なるよ、と断言される。なんとなく、って曖昧な言葉だから、矛盾しているような気がするけれど。
「葉瀬にもいつか分かるよ」
「……ふぅん」
いつか、だなんて。
まるでわたしよりも先に進んでいるかのような物言いに、なんだかもやもやする。
わたしだけが子供で。
柴谷はわたしよりも大人に近づいていて。
わたしだけがいつまでも止まったまま。
それがほんの少し悔しい。
顔を背けていると、ふいに柴谷が「あ」と声を上げた。
「葉瀬」
「なに」
「そんな拗ねるなって。いいモンやるから」
「拗ねてないよ」
拗ねてないと言ったのに、それすらお見通しだと柴谷は笑っていた。彼は悪戯っぽく口角を上げて、何かを袋から取り出す。
これやるよ、と半ば強引に手渡されたのは一粒のキャラメルだった。
「食べてみ」
「……ありがと」
茶色い直方体を口の中に放ると、砂糖の甘さがひろがる。これくらいしつこい甘さは嫌いじゃない。
甘いものは好きだ。卵焼き同様。
「美味いだろ」
「うん。ありがとう」
わたしの反応に満足したのか、柴谷はククッと笑っていた。あくまでわたしが食べたのであって、柴谷自身が食べたわけでもないのに、なんだか嬉しそうだった。
それにしてもミルクキャラメルか。
甘いもの好きなのは意外だった。
少しだけ可愛いな、と思う。可愛いというのはあれだ。
見た目も言動も男性らしさが目立つから、ギャップが可愛いというだけの話だ。
ひとりでよく分からない訂正を挟みながら、ひっそりと脳内の柴谷図鑑に【甘いもの好き】と書いておく。もしかしたらこの先役に立つかもしれないし。
「……いや、役立つわけないか」
「は?」
おかしくなってひとりぼやくと、柴谷は眉をひそめた。その顔がおかしくてプッと吹き出すと、つられたように柴谷も笑う。
その表情があどけなくて、いつもとは違う彼をみられたような気がして、どこか懐かしい気持ちになる。
今日の空は快晴。
明日はどんな空なんだろうか。彼と見る雨は、どんな色をしているのだろうか。
彼と見る雪は、いったいどれほど美しく思えるのだろう。
「ありがとう、柴谷」
おう、と返事をした柴谷は、ふいっと顔を逸らした。
どこか素っ気ないように見える所作も、今なら気にしないでいられる。
彼はちょっと不器用なだけで、本当はとても優しい人だと気づいたから。
「……ねえ、柴谷」
「ん?」
「明日からも、ここで一緒に食べてもいい?」
「当たり前」
期待していた回答に、思わず頬がゆるんだ。
朝だけじゃなくて、昼も彼に会いたい。もっと彼のことを知りたい。
ふとそんなことを思っている自分にびっくりするけれど、本心だから訂正する必要なんてない。
毎日彼の声でわたしは目醒める。
一日の始まりには、必ず彼がいる。
その事実が、たまらなく嬉しい。
「ダメだったら誘ってねーよ」
彼が笑うたび揺れる黒髪が、陽光を浴びて銀色に輝いていた。
「スマホ、新しいのに変えておいたからね」
母からそう告げられたのは、記憶を失った退院後すぐのことだった。
あ、はい。と短い反応しかできなかったことをよく覚えている。
「もちろん紬が使いたかったら、前のほうを使ってもいいよ。まだ契約したままだから」
恵まれていると思う。
申し訳なくなるくらいに。
結局、前のスマホはまだ一度も使えていない。
前の自分が、否────本当の葉瀬紬が誰とどんな会話をしていたのか、見るのがとてもこわかった。
まったくの別人のスマホを覗きみているような感じがして、気持ち悪くて仕方がなくなりそうだった。
だからスマホは押し入れに閉まってある。購入時に貰う箱に入れたままで。
新しいスマホの通話履歴を開く。
【母】という文字だけが連続している。日付を見るとだいたい三日おきくらいだ。
スクロールしていくと、一番最初の履歴に【父】という表示があった。
試しにかけてみたときだと思う。
けれど、父との通話履歴はそれが最初で最後だった。とくに用事がないので、電話をすることはおろか話すことすらあまりない。何かあれば、話すのは母ばかりだ。
友達との履歴はまったくない。今のところ、わたしのスマホの履歴を埋めているのは両親だけだ。
『連絡先』をタップすると、一番上に表示された文字にドキリとする。
【柴谷】
ただただシンプルだった。
意地でも名前を使いたくないのか。
そう聞いたとき、彼は少し考えてから、
「敢えてだよ」
と笑っていた。
もうすっかり耳に馴染んだ苗字。
柴谷、しばたに、と。
最近のわたしはもう彼の苗字しか呼んでいないような気がする。
彼とお昼を共にするようになってから、はやくも二週間。
『葉瀬スマホ出して。連絡先』
アドレスの交換はあっさりしていた。
言葉足らずの彼が差し出すスマホのQRコードを読み込む。
たった、それだけ。
正直なところ、連絡することがないから意味があるのかは分からない。
けれど心の持ちよう的に、少し違うような気がする。
彼の名前があるだけで、不思議と支えられているような気持ちになるのだ。
その時ピロンとメールの着信。フォルダを開くと、母からだった。
『ごめん。今日遅くなるから冷蔵庫のご飯食べておいてね』
共働きの両親。わたしがこうなってしまってから、余計に働きに出ているような気がする。
間違いなく大きな負担になっているのが申し訳ない。
だからわたしができることといえば、自分でご飯を食べてできるだけ手間を取らないように片付けておくだけ。
料理するよと言えば、それは大丈夫だと断られた。毎日自分のお弁当をつくるだけでじゅうぶんだと。
「いただきます」
チッチッと時計の秒針が時を刻むだけ。
さみしい……と言われれば、そうなのだと思う。
決して口には出せないけれど、寂しい気持ちに変わりはない。
テレビをつけることすら面倒で、音のない部屋のまま、夕飯を口に運んでは咀嚼する。
わたしが唯一誰かと摂る食事は、昼食だけ。
食器を洗って二階に上がる途中、ふいに目に留まった押し入れ。
今まで気になったことなどなかったのに、無性に開けたくてたまらなくなった。
無意識のうちに手を伸ばしていたらしい。冷たい金具に指が触れる。
「……っ!!」
タイミングを見計らったかのように、キィィンと耳鳴りがして、次の瞬間にはとっさに手を離していた。ドクドクとものすごい速さで鼓動が波打っている。目がまわって、呼吸が浅くなって、歯を食いしばっていないと今にも倒れそうな頭痛におそわれる。
嘘でしょ?
「無理だ……」
後ずさって、金具をじっと見つめる。
何か大切なものがこの中にあるはずなのに、それは痛いくらいにわかっているのに、どうしても身体が動かなかった。
視線が一点を見つめる。身体だけじゃなく、視線までもが動かなくなることがあるんだと。
くるりと背を向けて、逃げるようにその場を去る。
秋だというのに、べっとりと全身に汗をかいていた。
自分の部屋に入ってもなお、身体から汗が噴き出してくる。
電気をつける余裕などない。窓から差す夕日が、家具の影をつくる。
呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しても、わたしの足は震えたままだった。
*
「柴谷みて! 今日はたまご焼き二個入ってまーす」
「よかったな」
「反応薄っ! てか、まーたコンビニ食品じゃん」
「悪いかよ」
「身体にはあんまりよくないじゃん。仕方ないなぁ、そんなかわいそうな柴谷にはこのミルクキャラメルをあげよう」
「甘いの苦手って言ってんだろ」
「あはっ、知ってる!」