(みず)()くんとカフェひよりに行ってから、今日で五日。
 金曜日の放課後、わたしは一人で演劇部の部室に詰めていた。次の公演の準備に入る前に、古い台本を読んでおこうと思っている。

 次の公演は、八月と九月のワンセットだ。
 九月のほうは文化祭で、夏休み明けの九月半ばにおこなわれる。
 その前の八月中に、同じ演目をやらせてもらう機会がある。市内にある大学の演劇部が主催する「演劇まつり」に、わたしたちや市民劇団も招待されるんだ。

 というわけで、部長と副部長が今日いないのは、大学の人たちと打ち合わせをしているからだ。ほかの部員は自由にどうぞと言われてある。わたし以外はみんな帰ってしまったのかな。
 わたしはざっとストレッチをして、それからずっと、古い台本と向き合っている。
 一度演じられた後めったに取り出されることのない台本は、三年も経つと、古本のにおいをまとうようになる。このにおいの正体って、何なんだろう? 少し鼻がむずむずするけれど、落ち着くにおいだ。

 ふと。
 廊下のほうから軽快な足音が聞こえた。顔を上げると、窓越しに、見知った顔がにこっと笑った。

「瑞己くん……」

 入っていいですか、とジェスチャーで訊かれる。わたしは思わずうなずいてしまった。
 カラリと引き戸が開かれる。瑞己くんは遠慮がちに入ってきた。

「失礼します。あれ? そよ先輩ひとりなんですか?」
「うん、そうなの。次の公演で何をやるか決まってない時期だから、部活は参加自由なんだ。誰かに用事だった?」

 瑞己くんは、ちょっと頬を掻いた。
「何となく来ただけ、です。用事っていうか、そよ先輩と話せないかなと思って」
 ドキッと、わたしの心臓が音を立てた。
「わ、わたし? 何で?」
「この間あまり話せなかったからです。あんなに落ち込ませてしまって、かえって申し訳なかったなって」
「あれは、本当にわたしが悪かったから……カップを壊しちゃったり、いろいろ、ごめんなさい」

 目を合わせられなくて、机に視線を落とす。
 瑞己くんが少し硬い声で言った。

「カップのことは、いいんです。あれは直せます。僕が言いたいのは、そよ先輩とちゃんと話せなかったのが残念って、それだけ。そよ先輩は、違いますか? 僕とは別に話せなくてもよかったんですか?」
「そんなことない。瑞己くんとゆっくり話したいと思ってた。それを台無しにしちゃったことが、わたしも悲しくて……」

 そっか。瑞己くんが言葉にしてくれたから、気づけた。
 わたしが壊してしまったものは、カップだけじゃなかったんだ。せっかく瑞己くんが素敵なカフェに連れていってくれたのに、その大事な時間をダメにしてしまった。
 思い切って、わたしは顔を上げた。瑞己くんが、強張った顔で、わたしを見つめていた。

「そよ先輩がしゃべってくれなかったら、僕は逆戻りしてしまうかもしれないんです。人と話すことにビクビクしてばかりの、情けない自分に。四月に、そよ先輩と話せたのがきっかけで、僕は少しずつ自信が持てたんですよ。高校ではうまくやれそうだって思えたんです」
「うん。ごめんね。瑞己くんが悩みを打ち明けてくれたとき、ほんの少し背中を押してあげることができるかもしれないと思った。応援したいと思ったのに、わたしがめちゃくちゃにしたんじゃ、ほんとダメだよね。ごめん」

 瑞己くんは、痛みをこらえるような顔で微笑んだ。
「僕のほうこそ、すみません。そよ先輩に無理やり謝らせたみたいになって」
「無理やりじゃないよ」

 瑞己くんは、椅子に掛けたわたしと目の高さを揃えるように、片膝をついた。いや、その体勢になると、瑞己くんのほうが少し低い。ひざまずいて、軽く見上げるようにして、瑞己くんは言った。

「僕が考えていること、知ってもらいたかったんです。そよ先輩がカップの件で気まずく感じるのは、もちろん僕にもわかりますよ。でも、それは忘れてください。修理してるところですから。修理が完了したらカップの件はおしまいって約束してください」

 真剣なまなざしの前で、ノーとは言えなかった。
「約束します」

 瑞己くんは、脱力するように笑った。
「ああ、よかった。登志くんや真くんにも相談できなくて、毎日、気が気じゃなかったんです」
「あの二人にも言えなかったんだ?」
「言えませんよ。真くんはめちゃくちゃ叱ってくるだろうし、登志くんはその場でそよ先輩に電話をかけるだろうし。怖くて相談できませんでした」

 叱る真次郎くんも、電話をかける登志也くんも、ありありと頭に思い描けた。登志也くんからの電話に出たら、わたしも瑞己くんと一緒に、真次郎くんから叱られることになっただろう。

「カップの修理、進んでるんだね?」
「少しずつ進めてます。見ます?」
 瑞己くんはポケットからスマホを出すと、ディスプレイに表示させた写真をわたしに向けた。

「継ぎ目の線が金色になってる」
「金箔と銀箔の粉末に(うるし)を混ぜたものを、継ぎ目の上に塗っていくんです。竹ひごの先で、ちょんちょんと載せていく感じで。ちょっと時間かかるんで、まだ外側しか塗れてないんですけど」
「なるほど。一気にバーッと作業できないんだ。根気がいるんだね。大変そう」
「大変で手間がかかるんですけど、僕、こういう作業がすごく好きなんですよ。頭を空っぽにして手先に集中して作業を進めていくのが、何だか楽しくて」

 ジェスチャーつきで説明してくれる瑞己くんは、生き生きとしている。楽しいという言葉に嘘はないようだ。
 瑞己くんの笑顔を見ていると、不思議。肩の力が抜けていく。ほっとして、胸がじんわり温かくなっていく。でも、その温かい胸の中で、鼓動はドキドキと速いリズムで鳴り続けている。

「すごいね、瑞己くん。演劇部は大ざっぱな人が多いから、舞台で使う小道具の出来も粗くて、近くではお見せできないものばっかりなんだよ」
「そよ先輩も小道具を作ったりするんですか?」
「うん。人手が足りてなくて、工作が得意とか苦手とか関係なく、総出でどうにか頑張る感じ。瑞己くん、次の公演で小道具作りをお願いしてもいい?」

 瑞己くんがパッと目を輝かせる。ぶんぶんと尻尾を振るのが見えるような、かわいい子犬みたいな笑顔。

「やりたいです!」
「じゃあ、本当に、台本書きの最初の段階から相談するからね。六月には動き出すよ。忙しくなるから覚悟してね」
「はい、楽しみです! あ、それじゃあ、そよ先輩は今日、次の公演のための調べ物をしてるってことですか?」
 瑞己くんは、わたしが机の上に詰んだ古い台本を指差した。
「そんな感じだね。公演に向けて本格的に動きだしたら、別の台本を読む余裕もなくなっちゃうから」

「次も、そよ先輩が台本を書くんですか?」
「どうかなぁ……完全新作っていうのは難しいから、古い台本をベースにしてアレンジするとか、そういう方向性になりそう。わたしのオリジナルのネタを使うと、わかば公演の『儚き君と、あの日の続きを』と似たようなテイストになっちゃうし」
「そよ先輩の『儚き君と』のテイスト、僕は好きですよ。続きや関連作も観てみたいです」

 サラッと「好き」なんて言われて、わたしは内心あせった。

「あ、ありがとう。でも、あれはちょっと、自分にとって特別な話で……」
「そよ先輩が書いた小説をもとにしてるんですよね? 明治時代編だけじゃなくて、ほかにもあるって聞きました」

 え、待って!

「聞いたって、だ、誰からっ?」
「登志くんからですけど」
「やだもうー! 恥ずかしいからペラペラしゃべらないでって口止めしたのに! デリカシーがないっ!」
 わたしは叫びながら机に突っ伏してしまった。

「え? 恥ずかしいって、何がですか? どうしてなんです?」
「小説は恥ずかしいの! 台本はみんなで手を加えていくから、そのたびにクオリティが上がってくのがわかるでしょ。土台を組むのはわたしでも、つくり上げるのはみんなの仕事だから、さらけ出すのはわたしひとりじゃないんだもん」
「な、なるほど」
「でもっ、小説は完全にわたしひとりの内面なの! 座組全体で形を整えてく前提で書く台本とは、感覚が全然違うんだよ! だ、だいたい、登志也くんたちには明治時代編しか読ませてないし! ほかの時代のを知らないのに、何言ってくれてるのー!」

 顔が熱い。わたしは頭を抱えている。
 瑞己くんがクスッと笑った。わたしが机に伏せたままそちらを見ると、目が合った。

「それでも僕は、そよ先輩の小説も台本も、両方読んでみたいですよ」
 わたしは顔の熱が引かなくて困っている。
「うぅ……ありがと。だけど、わたし、小説らしい形にできたあのシリーズも、自分で思いついた物語じゃないから、胸を張れないところがあって……」
「誰かとの共作なんですか?」
「そうじゃないんだけど。あのね、ちょっと変な話をするんだけど、いい?」
「あ、はい」
「壊れものの予知夢以上に変な話だよ?」
「大丈夫です。笑ったりはしないつもりです」

 わたしは、突っ伏していた体を起こすと、そっと深呼吸して、言った。
「あれは、夢で見たストーリーなの。子供の頃からくり返し、何度も見ている夢」

***