それから、どれくらい沈黙していただろう。
 ほんの一分ほどだったかもしれないけど、僕にはとても長く感じられた。

 口を開いたのは、僕だった。

「……僕が本を読む理由、か。
 たまに、自分の見ている世界が、薄っぺらく感じることがあるんだ。
 自分にはもっと熱中できる何かがあるんじゃないかって、でも見つけられなくて。
 そもそも僕、自分の人生をちゃんと生きられてる気がしない。
 そのせいで、どこにも居場所がなくて、どこにも行けない。
 だから“僕は誰なんだろう”って、ふと考えてしまうんだ」

 言葉にしながら、自分の気持ちの正体が少しずつ輪郭を持っていくのを感じた。

「あの夢の中の方が、よっぽど自分の人生を生きてる気がして。
 そのせいか、無意識のうちに他人のことも避けてしまってる」

 そして、ため息まじりに言った。

「……もしかすると、本を読んでるのは、そういう気持ちから目をそらすためなのかもしれない」

「…………そっか」

「でもね、物語の中にいる間だけは、その“もやもや”から逃げられる。
 だから僕は、本を読むんだと思う。……なんか、ごめん。
 読書にちゃんと向き合ってる君に、話すようなことじゃなかったよね」

 本を読む理由。
 それは、彼女のように“何かを取り込もう”とする姿勢じゃなく、“逃げるため”の読書だった。

 僕にとって小説は、楽しみでしかない。
 一時的に心を満たしてくれるエナジードリンクのようなもので、それ以上の何かを求めるつもりなんて、最初はなかった。

 ――それが小説の“役目”だって、誰かが言ってた。

 でも――。

 彼女の読書への向き合い方を見てからというもの、僕の中に疑問が生まれていた。

 もっと別の意味が、どこかにあるんじゃないかって。

 たぶん僕は、もうひとつの“正解”を、探していたんだ。

 結夏は胸に手を当てて少しの間、考えるように目を閉じると、晴れやかな顔で言った。

「……ううん。私は、嬉しいよ」

「嬉しい?」

「うん。たとえ本当にどこにも行けなかったとしても、本を開けばどこにだって行ける。
 それって、すごいことだと思う。
 だから私は、本を読むのが好きなんだろうな」

 ――『私、今年の夏休み、どこか遠いところに行くのが夢なんだ』

 以前の彼女の言葉が、ふと頭をよぎって消えた。

「橋場くんは、私と似てるよ。
 読書の話を君とできて、本当によかった。
 あの日、頑張って声をかけてよかったなって思ってる」

「え?」

 思わず聞き返しそうになったけど、彼女はすぐに続けた。

「……孤独なんだよ、私たち」

 四月も、もうすぐ終わる。
 僕は、今年も誘いを断りつづけて、クラスの中での立ち位置を確立しつつあった。

「ねぇ橋場くん。私、君と友達になった日、ちょっと“ひねくれてる人”だなって思った理由、なんとなくわかった気がする」

「……?」

「君は、自分の居場所がここじゃないんじゃないかって、どこかで思ってる。
 そのせいで少し冷めてて、物事を“ふかん”してるっていうのかな?
 ……だから、ぼっちだったんだよね。的な?」

「ぼっ……。まぁ、自覚はあるけど」

「ほら、そうやってあっさり認めちゃうのが、橋場くんらしい」

 彼女はくすっと笑って、ふいに言った。

「でもね、私も、究極のぼっちみたいなものだから」

「……?」

 なんだか謎かけのような言い方だった。
 でも“孤独”なんて言葉は、彼女にはあまりに似つかわしくない。

 そんなことを考えているうちに、僕の家がある分かれ道にさしかかっていた。